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迅雷の日霊  作者: イヲ
Merry Christmas!
27/54

danse lente

 昨日のこと。

 学校で、直接ではなく。

 わざわざ昼休み、夜凪からラインが来ていた。


 「明日17時に、駅前で待っている。」


 いつものように、そっけない文章が送られてきた。


「明日?」


 スマートフォンを見ながら、ひとりつぶやく。

 明日、なにかあっただろうか。

 本部からは任務の連絡もないし、アラミタマ関連ではないだろう。


 前の席の女子が、「明日のクリスマスイブ、彼氏とイルミネーション見に行くんだぁ」とうれしそうに話していた。

 そういえば、今日は23日だった。

 毎年、クリスマスは家族と過ごしていたけれど、そういえば、そういう習慣も日本にはあったということを、すっかり忘れていた。


「……クリスマスイブ、ねえ……」


 プレゼントでも買おうか、と思うが、男子高校生が欲しがりそうなものは、分からない。

 兄の錦秋に聞いてもいいが、誰にプレゼントするんだ、とうるさそうだ。

 夜凪へと言ったら、錦秋ならば別になにも言わないだろうけれど。


「うーん……」


 いつものように、授業がはじまるまで机に肘をついて、外を見つめた。



 放課後になって夜凪の席をみると、すでにいない。

 わかりやすい、と思うも、くちびるが緩むだけで、何も言うことはなかった。


 帰り道、目抜き通りを通り抜け、「キッチン・木の鶏」がある、シャッターが閉まっている店が目立つ通りを歩く。

 冷たい風がほおを叩いた。

 マフラーに顔をうずめて、ふう、と息をつく。


「こんにちは、槇田さん」

「ああ、いらっしゃい。躑躅ちゃん。外、寒いねえ。コーヒー、飲むかい?」

「うん、いただきます。あのね、槇田さん。相談があるんだけど」

 

 槇田という壮年の男性は、豆が入ったボトルを選びながら、「珍しいねえ」と笑った。

 

「男のひとってプレゼント、何がよろこぶかな?」


 槇田は、まるい眼鏡の奥の目を軽く見開いてから、深く微笑んでみせた。


「躑躅ちゃんも、そんな年頃になって……。そうだねぇ、何がいいかなぁ」


 彼は考えながらも、豆を挽いてくれている。

 コーヒーのいいかおりが漂ってきたころ、槇田はなにかを思いついたかのように、こう言った。


「無難だけど、キーホルダーはどうかな。革とか、シルバーのもので、長持ちしそうなやつ」

「なるほど。いいですね、それ。じゃあ、そういうのにしようかな。あ、コーヒーいただきます」

「どうぞ」


 やわらかい湯気が出ているコーヒーを、そっと飲む。

 槇田のいれるコーヒーは、いつもおいしい。


「そうだ、槇田さん。ここって、たしか粉末のコーヒーの量り売りもしてるわよね?」

「ああ、コーヒーのプレゼントか。それもいいかもしれないね。任せて。いい豆用意するから」

「うん」


 槇田がコーヒーを選んでいる最中、躑躅は無意味にスマートフォンを見ていた。

 ネットを見るとか、ゲームをするとか、そういったことはしない。

 ただ、スマートフォンの壁紙を見つめた。

 誰かにプレゼントを贈るなんて、久しぶりだ。


「はい、お待たせ。こんな感じでどう?」

「槇田さん、ありがとう。ごちそうさま! お代、おいとくね!」

「はい、ありがとう。気をつけてね」

 

 手のひらに乗るくらいの大きさの紙袋は、すこし味気ないから、あとで飾りつけをしようと思う。


「あ」


 シャッターが閉まっている店が多い中、新しくできた店をみつけた。

 ショーウインドウを見ると、どうやら雑貨屋のようだ。

 店の装飾はアンティーク調でまとめられていて、めずらしい、とおもう。

 店内に入ってみると、やわらかな木のにおいが漂っている。

 水晶のようにきらめいている、小ぶりなアクセサリーや、古書を模したアクセサリーボックスが並んでいる。


「いらっしゃいませ」


 奥にいた店主は、黒髪の女性だった。

 愛想よくほほえまれて、思わず頭を軽くさげる。

 店はそれほど広くはなく、商品もそれほど多くはないが、どれも洗練されているもののような気がした。


「贈り物ですか?」

「あ、はい」

「男性に?」

「えっと……はい。キーホルダーみたいなの、ありますか?」

 

 長い髪を横で結んでいる店主は、にこり、とほほえんで、店の奥へ入っていった。


「ふう」


 こういうのは、慣れない。

 洋服を買うにも、動きやすさ重視で、デザインとか、そういったものは二の次だ。


「お待たせしました。こちらなど、いかがでしょう。シルバー925のキーホルダーです。シンプルなものですので、どなたにもおすすめできるのですが」


 店主が持ってきたものは、濃い青の箱に入った、キーホルダーだった。

 シルバーの、長細いプレートのキーホルダー。

 チェーンがついているところに、ちいさな青い水晶のようなものが埋め込まれている。


「こちら、どこにも出ていないものなんですよ」

「出ていない?」

「はい。ハンドメイドなんです」

「へえ、いいですね。じゃあ、これ、ください」

「ありがとうございます。ラッピングいたしますので、お待ちください」


 メッセージカードをおつけしますか、と聞かれたので、思わずうなずいてしまった。

 なにを書こう、と思うも、何も思いつかない。

 まあ、ペンを持てばなにか思いつくだろう。


「ありがとうございました」


 ちいさな紙袋に入れられたキーホルダーは、きれいにラッピングされ、白いベルベットのリボンで飾られていた。


「……よし」


 妙な満足感が胸を満たす。

 ひとりうなずいて、そのまま自宅に帰ろうと、目抜き通りへ向かった。




「おかえり、躑躅」

「ただいま」

「あ、そうだ躑躅。明日、兄ちゃん忘年会だからさ。夕飯、作っとくからな」

「うん、わかった。クリスマスイブに忘年会って、みんな、参加するの?」


 錦秋はあいまいに笑って、「どうだろうなぁ」と頭を掻いた。


「まあ、多数決でその日になったんだから、参加するんじゃないか?」

「へえ」

「イブに躑躅をひとりにするなんて、心配だけど……」

「どういう心配よ、お兄ちゃん」

「はは」


 夜凪は、よろこんでくれるだろうか。

 どういう反応をするだろうか。


 ひとのため。

 だれかのために、こころを砕くこと。

 それって、もしかすると、とても嬉しいことなのではないだろうか。


 夕飯を食べ、風呂にも入って、躑躅は机でペンをさ迷わせていた。

 もらったメッセージカードになにを書こう、と考えているが、やはり何もうかばない。

 

「んんー……。いつもありがとう? いや、それは母の日とか、父の日とかのだし……。クリスマスっぽいこと……」


 ふ、と顔をあげる。

 べつに、気取ったことを書かなくてもいいのではないか、と思う。

 自分が書きたいことを書けばいいのだ。

 そう考えると、なにかを書けるような気がしてきた。



「これで、いいかな」


 コーヒーの粉が入った紙袋をリボンで飾りつけをして、机の上に置く。

 なんとか、形になった。

 メッセージカードも、キーホルダーが入っている袋にも入れておいた。

 あとは、渡すだけだ。

 そう思うと、今さら胸の鼓動が早くなってきた。

 思わず、胸に手をあてる。


「……?」


 ほんとうに、今さらだ。

 今こんなで、明日はどうなってしまうんだろうか。

 おかしい言動をしてしまいそうで、不安だ。


「……ねよ」


 布団のなかにもぐりこんでも、眠気は一向に訪れなかった。







 

 クリスマスイブだからといって、べつに浮かれてはいない、と思う。

 今どき藍色の手ぬぐいを巻いている人間など、ほかにはいないだろうから。

 分かる、と思う、が。

 約束の時間を、15分、すぎている。

 それくらい、べつにかまわない。

 だが、どこかで転んでいて怪我をしていないか、誰かにナンパされていないか、と思惟する。


「………」


 電話をしても、出ない。


 そして、20分経過した。

 駅前は、イルミネーションで輝いている。

 かなり大きな駅だから、待ち合わせをしている人間も多々いるが、みな、どこか落ち着かない表情をしていた。


(まあ――俺も、そうなんだろうが。)


「……斑鳩、くん!」


 どたどた、と大きな足音が聞こえる。

 思わず、顔をあげた。


「う、うわっ!」

「夜天光!」

 

 目の前に踊る、長い黒髪。

 イルミネーションにその髪が反射して輝いた。

 どこでつまずいたのか、躑躅の身体がおおきく傾く。

 その身体を腕で支えた。

 がくん、と彼女の首がかたむいたが、大丈夫だろうか。


「まったく、おまえは……」

「ご、ご、ごめん、なさい、お、遅れた……」

「おい、大丈夫か」


 肩がおおきく上下している。

 膝丈の、ベージュのスカート、黒いウールのコートを着た躑躅は、膝に手をあてて深呼吸をした。


 そして、ゆっくりと顔をあげる。


「……、」


 今日は、カラーコンタクトレンズをしていなかった。

 赤く染まった目。

 右目の傷あと。

 化粧っ気など、どこにもない、素の、躑躅がいた。


「? なに」

「いや……コンタクト、していないんだな。今は」

「ああ、そうね。……いやだった?」

「そんなんじゃない。まあ、たまにはいいんじゃねぇか」

「う、うん」


 風が、つめたい。

 強く吹いた風は、躑躅の髪を躊躇うことなく揺らせた。 


「さっむ……。ねぇ、これからどうするの?」

「どこか、入るか」


 目の前を通り過ぎる、男女。

 彼らは自然に手をつなぎ、肩をよせあって歩いている。

 きっと、こういうことは普通なのだろう、と、手を差し出す。


「?」

「手」

「て?」

「………」


 本当になにも分かっていない。

 一度、ため息をつく。

 躑躅の気分を害す前に、手を掴んだ。


「つめてぇ」

「え、な、な、なに?」

「いやか」


 躑躅の顔が、わずかに赤くなった、気がする。

 思わず、ふと口もとがゆるんだ。


「べっ、べつに!」

「そうか」


 黒い、低いヒールの編み上げブーツを履いた躑躅は、ちら、とこちらを見上げる。

 目があうと、すぐに顔をそらした。


「どこいくの」

「とりあえず、スタバ」

「わかった」


 この近くのスターバックスは、歩いて5分ほどの場所にある。

 そういえば、と思う。

 躑躅の手を「つなぐ」ではなく、今「つかんでいる」状態だ。

 手をほどくと躑躅が、はっとした表情でこちらを見上げる。

 再度、今度は彼女の手を、しっかりとつないだ。

 すると、すぐに顔を下げる。


「つめたいわ」

「20分、待ったからな」

「ご、ごめんなさい」

「かまわない。別に、それくらい。……一年前」

「?」

「初めて、おまえとバディを組んだとき。俺も結構、遅れただろ」

「ああ……そういえば、そんなこともあったわね。そっか、もう、一年か……。早いな」


 スターバックスの店内は、やはり思ったとおり、混んでいる。

 広い店内を見回すと、入口の近くの席が空いていた。

 丸いローテーブルに、ソファが向かい合った席だ。

 一度、そのソファに座ると、はあ、と躑躅のため息が聞こえる。


「あったかい」

「夜天光」

「なに?」

「頼んでくるから、荷物をたのむ」

「うん。私、ホットコーヒー」


 財布を出そうとする躑躅を制す。

 こういう時は、こちらが出すのが定番なはずだ。


「どうして? 私、お金あるわ」

「俺が誘ったんだ。これくらい、出させろ」

「……わかった。じゃあ、おごられてあげるわ」

「ああ」


 その言い方が躑躅らしい。

 思わず笑い、そのまま財布をもってカウンターに向かった。


 こういうことが、心がうわついてる、というのだろうか。

 夜凪の父が犯した罪を、忘れそうになる。

 そっと、歯を噛みしめた。

 

 コーヒーをふたつ注文してトレーに乗せ、席に戻る。

 躑躅はぼんやりと、スターバックスの、よく磨かれた窓のむこうを見ていた。


「なにか、見えるのか」

「ありがとう。別に、何が見えるってわけじゃないんだけど」


 窓から顔をそらして、夜凪を見つめるその赤い目は僅かににじんでいる。


「まぶしいなって思った」

「まあ、そうだな」

「ふつうの、ね。あの、そういう、らしいこと? っていうの、私、分からない、から。外歩くひとたち見て、なんか、まぶしいって」

「……おまえ、まさか誰かと付き合ったこと、ないのか?」

「ないわよ、そんなの」

「そうか」

「? なんか、うれしそうね」


 躑躅は不思議そうな表情をしたまま、コートを脱ぎ、ソファの背もたれにかけた。

 そっとコーヒーを飲み、口のなかを湿らす。


「そりゃそうだろ」

「そういうもの?」

 

 よく分かっていないような顔だ。

 考えれば分かるはずだが、そこのところ、躑躅はほかの人間と比べて鈍感に感じる。


「なんだか、不思議ね」


 目を伏せ、コーヒーを見下ろした彼女は、ほんとうに不思議そうに、そしておかしそうに、呟いた。


「はじめての恋は実らないって、いうのにね」


 カップを両手で、大事なものを包み込むように持つ手は、おせじにもきれいだとは言えない。

 肉刺があって、それが潰れて皮膚が硬くなっている部分もある。

 躑躅の年齢であれば、おそらく、こういう手をした女性はいないだろう。

 だが、夜凪はその手が好きだった。

 戦ってきた、証。

 生きようとした、証だからだ。


「みんな、きれい」


 躑躅の細い肩から、黒い髪がさらりと流れる。

 彼女は、まぶしそうに店内の女性客を眺めた。

 そのまなざしは、どこか羨望をにじませているような気がする。


「きれいにお化粧して、かわいいマニキュアをつけて、おしゃれな服を着て。こういうのが、きっと女の子っていうのね」


 日霊のお役目がある限り、おそらくそういうこととは無縁だ。


「俺には」


 べつに、それでもいい。

 それだけではないだろう。


「俺には、関係ないが」

「そうなの?」

「そうなの、ってな……。おまえは化粧も何もしてねぇだろ」

「え」

「……俺の目の前にいるのは誰だよ」


 ここまでくると、呆れてしまう。

 思わず頭を掻いて、ため息が出た。


「俺はな、おまえが化粧しようがしまいが別にどうだっていい。ただ」

「!」

 

 膝の上に置いてある、躑躅の手を引き寄せる。

 手はまだ、冷え切っていた。

 彼女の手のひらは、あかぎれや、皮膚が硬くなっている部分がある。


「ただ俺は、この手が好きだ」

「そ、そう」

「戦ってきた手、生きようとした手。俺と、同じだ」

「……うん」


 こくり、と素直にうなずいた躑躅は、やわらかくほほえんだ。


「これ、やる」


 躑躅の手にふれたまま、鞄に入っていた紙袋を、その手に置く。

 ちいさな、赤の紙袋。


「ありがとう……あ、あの、私もあなたに、これ、あげる」

 

 躑躅から渡されたのは、渡した紙袋よりもすこし小さな紙袋ふたつ。


「……ありがとう。躑躅」

「ず、ずるい」

「まぁな」


 はじめて、下の名前で呼んだ気がした。

 躑躅は赤くなりながら、落ち着かない様子で周りを見ている。

 落ち着くまで待とうと思い、彼女の顔を眺めていたが、それに気づいてうつむいてしまう。


「忙しいやつだな、おまえは」

「う、うぅ……ょ、よ、なぎ、開けて、いい?」

「ああ」


 呻きながらも、夜凪、と呼んでくれたことは思った以上に嬉しいものだった。


 躑躅は紙袋から出した箱を宝ものに触れるように、膝に置く。

 白い箱に巻かれた赤いリボンを、そっとほどいた。


「……これ」

「おまえに、似合うと思った」


 素直に言う。

 ありきたりだが、ネックレスにした。

 シルバーのチェーン。

 一粒の、ちいさな赤い石。

 過度な装飾など、なにもない。

 

「きれいね」


 幸福そうに、ほほえむ。

 その笑みがこころに、深く刻まれた気がした。

 躑躅からもらった紙袋のひとつは、粉末のコーヒーだった。おそらく、木の鶏のものだろう。

 そして、もうひとつ。

 白いベルベットのリボンをできるだけ、丁寧にほどこうとしたとき。


「……?」


 やわらかい、ベージュ色のカードが目に入った。

 それを取ろうとすると、躑躅の弱弱しい声で手をとめる。


「まって。それは、あの、家で見てくれない?」

「分かった」


 メッセージカードを、書いた本人の目の前で見られるのは、たしかに恥ずかしいだろう。

 カードは裏返して紙袋に入れておいた。

 改めてリボンを取り、濃い青色をした箱を開ける。

 

 照明に反射して光る、シルバーのキーホルダー。

 上のほうに、青い石が嵌まっていた。

 

「それね、ハンドメイドなんだって。だからどこにも出てなくて、いいなって思って。男のひとにプレゼント選ぶなんてこと、お兄ちゃん以外なくて、ええっと」

「ふ」


 思わず、噴き出す。

 いつもの躑躅は飄々としていて、おかしなところでズレていて、それでも――一生懸命なのだ。

 生きることにも。

 戦うことにも。


「わ、わらうところ? そこ!」

「悪い。……大事にする」


 箱を紙袋に仕舞い、鞄につぶれないように入れた。


「そろそろ、出るか?」

「うん」


 外に出ると、やはり冷たい風が吹いている。

 時間は19時ちょうど。


「まだ、時間大丈夫か」

「うん。まだ大丈夫だけど、どこかいくの?」

「そうだな……」


 イルミネーションも一応見たし、プレゼントも渡した。

 ほかに行くところといえば、どこだろうか。


「じゃあ、夜凪のアパートいきたい」

「……それは」


 おまえ、何を言ってるのか分かってんのか、と言うが、べつに躑躅はそういうつもりではないことは、分かっている。

 事実分かっていない顔をしているから、そうなのだろう。


「まあ、いいが……」


 夜凪のアパートまで、ここからそう遠くはない。

 帰りは躑躅を家まで送っていけばいいだろう。

 

「久しぶりに百代にもあいたいし」

「そうか」

「それとね、あなたが生活している場所を、見たいの」


 ぽつぽつとしかない電灯。

 この辺りの道路は灯りが少ないため、人通りはそれほど多くない。

 そのせいか、足音がだいぶ響く。


「ここ」

「結構きれいね」

「本部から、生活はそれなりに保証してもらってるからな」


 一階にある部屋に鍵を開けて入ると、躑躅は率先してブーツを脱いだ。


「おじゃまします」

「茶、いれるから座ってろ」

「あ、大丈夫。さっきコーヒー飲んだばかりだし」


 ソファはあるが、椅子はない。

 すべて備え付けの家具で、実家からはなにも持ってきてはいないため、家具は必要最低限だ。

 百代は日の当たらない、この部屋のすみに置いてある。


「百代」


 躑躅は百代の前に正座をして、柏手を叩く。

 

「ありがとう、百代。いつも、夜凪を守ってくれて」

「……躑躅」

「お礼をね、言いたかったの。もちろん、あなたが強いからっていうのは分かっているけど」


 照れたような表情で笑い、立ち上がった躑躅の手首を思わずつかんだ。


「俺は今まで、誰かのために強くなろうとは思わなかった」

「え?」

「だが、いいものだな。誰かのために、っていうのは」


 手首をそのまま引くと、躑躅はおとなしく腕のなかに収まる。

 

「死なないために、ってのもある、が。俺は、おまえのためにも強くなる」

「……わっ」


 躑躅の、わずかにふるえる声。

 泣いているのだろう。

 躑躅を泣かせたと錦秋に知られれば、激高されるのは目に見えているが、今はどうでもよかった。

 

「わ、私も強くなる。あなたを守れるくらい」

「そりゃ、楽しみだ」


 だれかのため。

 だれかのために、えらぶこと。

 だれかのために、戦うこと。

 だれかのために――生きること。


 幸福は、いま、ここにあった。

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