12
夢をみた気がする。
なにもない、ただの黒ずんだ夢。
ただ、暗い。
光の一筋もなく、ただただ夜より暗く、闇より黒い。
モノや、ヒトがどこにもない。
景色さえもみえない。
重厚な黒い緞帳をただ見つめているように、あまりにも、そこには何もなかった。
ただ――、遠くからなにかが聞こえる。
唸り声のような、反対にやさしい歌声のような。
『おまえは、決して――』
男性の声がきこえた。
懐かしく、哀しくなるほどの悲痛めいた、声。
「おとう、さん……?」
『決して、――なってはいけないよ』
それきり、声が聞こえることはなかった。
その代わり、躑躅は、自分が「躑躅であること」を自覚する。
「……まぶし……」
思わず、目に手をあてた。
数秒たち、目に入ったのは見慣れた天井。
自室だ、と理解したのは、さらに十秒ほどたった後だった。
ゆっくりと起き上がる。
昨日のことが思いおこされて、眉を寄せた。
退院したばかりで――あんなことがあって、躑躅はいまも疲れていることを自覚する。
大きく息を吸って、吐き出す、を繰り返して、ようやく立ち上がった。
立てたならば、大丈夫だ。
ハンガーにかけられたセーラー服を手に取った時、自室のドアをノックする音が聞こえる。
「躑躅? 起きたのか」
「うん。今から着替えるところ」
「今日は休んだほうがいいんじゃないか? 兄ちゃん心配だよ」
「大丈夫よ。これ以上休んだら、授業に置いてけぼりにされちゃう」
けれど傷跡と目の色はどうしよう、と思う。
赤い目は、カラーコンタクト、といえば、苦しい言い訳だが通用するだろう。
校則違反だが。
だが傷跡は仕方がないし、どうしようもない。
セーラー服に腕をとおす。
おおよそ一週間ぶりに袖をとおすセーラー服に、かすかな違和感を感じた。
特別いやな違和感ではなかったから、そのまま紺のスカートと黒のハイソックスをはく。
朝食を食べるために居間にむかうと、すでに錦秋は席についていた。
「躑躅。本当に行くのか?」
「行くってば。それよりお兄ちゃんにお願いがあるんだけど」
「ん?」
「カラーコンタクトレンズを買ってきてほしいの。茶色……薄い茶色っぽい色の」
「……分かったよ」
理由は、言わなくとも分かっているのだろう。錦秋はすぐに了承した。
「じゃあ、よろしくね。いってきます!」
「ああ、いってらっしゃい」
躑躅は玄関まで見送りにきた兄に、笑ってみせた。
彼も、すこしは安心したのか安堵した表情をうかべている。
それに安心して、通学路を歩く。
(お兄ちゃんは、心配性だから。)
(けど、それは私がまだ弱いから。強くなればきっと――。)
「……?」
電車を降りて学校近くまで来た途中、セーラー服や学ランを着た生徒に交じって、長身でスーツを着た、黒髪の男性の姿があった。
後ろ姿だが、見覚えがある。
平坂伏。
彼に間違いはないだろう。
けれど、こんなに大勢の生徒が行きかう中で、話しかける勇気などない。
どうしよう、と思わず立ち止まる。
黒く、長い髪の生徒もほかにもいるから、自分が躑躅だと感づくことはないかもしれない。
躑躅は意を決して、足を学校の校門へ踏み出した。
できるだけ早足で歩いて、伏を通り過ぎる。
「夜天光さん」
びくりと肩がゆれた。
そろそろと顔をあげると、やはり平坂伏が立っている。
「おはようございます」
「お、おはよう、ございます……あの、どうして」
ぼそぼそと鞄を胸にかかえたまま、道路を見下ろして呟く。
伏は落ち着いた声色でほほえんだ。
――もっとも、躑躅は下を向いているのでその表情は分からなかったが。
「きみに用事がありまして」
「どうして、こんな朝に。せ、せめて放課後に」
「いえ。放課後では遅いのです。今でないと」
きっぱりと伏は言い、有無を言わさず躑躅の腕をつかむ。
遠慮のない視線が、二人に突き刺さった。
伏の腕の力は強く、躑躅の体は容易く彼に引き寄せられる。
やめて、と言いたいけれど、これほど無遠慮な視線のなかでは声を出したいが、出すことができなかった。
行き交う生徒たちは、やがて興味を失ったかのように視線をはずし、校門へと吸い込まれるように足を向けていく。
やがて、人通りが少ないシャッターが目立つ商店街へと入っていった。
ここは、「木の鶏」がある商店街だ。
古びた看板を認めると、ようやく伏は躑躅から手を放した。
「どういうつもりですか。あんな……」
「午前中の授業は我慢してください。木の鶏へ、入りましょう」
「ちょ……っ」
背中をおされて、まだ薄暗い店のなかへ無理矢理連れ込まれる。
伏はドアを後ろ手でしめ、躑躅の目の前に立った。
長身の伏は、躑躅が見上げなければ顔が見えない。
「平坂さん、一体なにを……」
「きみに、渡したいものがあるんです」
伏は一度躑躅の目を見下ろしてから、すっと彼女の横を通り過ぎた。
コーヒー豆がずらりと並んでいるカウンターへ入り、さらにキッチンのほうへと入って行ってしまった。
「………」
躑躅はひとり、薄暗い店内に立ちすくむ。
久しぶりにおとなった木の鶏は、相変わらず古い木のにおいと、コーヒー豆のにおいがした。
手の甲まである、コートの袖を無意味にめくる。
ラピスラズリのブレスレットが、手首にあった。
そういえば、店主はどうしたのだろう――。
そんな、とりとめなく思考をしていると、伏の足音が聞こえてくる。
のろのろと顔をあげると、躑躅の目が、軽く見開かれた。
「それは……」
「これが、きみの新たな刀です」
「……持ってみてもいいですか」
伏は両手で――まるで、神聖なものに進呈するかのように、両手で躑躅の手のひらの上に置いた。
重さは、八握剣、試作品の刀とほぼおなじに感じられる。
「――名は?」




