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さぁっ、と、躑躅の顔色が変わった。
暗いなかでも分かる。
目から流れた血のあと。
乾いているはずなのに、泣いているようにも見えた。
「どうして、そんなことを言うの」
「……戦うことは幸せなのか。戦わないことは不幸なのか。おまえが言っていることは、そういうことだろう」
「戦わないことが、そんなに偉いの? 戦うことがそんなにだめなことなの? ……戦えなくなった私に、なんの価値があるの? 教えてよ。斑鳩くん」
躑躅の表情は、まるで能面のように無機質だった。
風がふいて、長い髪の毛がゆれる。
「俺は、おまえが傷つくことはないと思っただけだ」
「そんなの、あなたの――」
「ああ、そうだな。俺のただの我が儘だ。だが、本気でそう思っている」
躑躅が戦わずに済むのならば、それがいちばん、いい。
躑躅も、錦秋も傷つかない。
「あなたは」
視線を感じる。
まぎれもない、夜天光躑躅の。
だが、夜凪は彼女の顔を見ることができなかった。
本気、だと。
これが本音なのだと。
そう思い込む。
そうあるべきだ。
これが「正解」なのだ。
「あなたは、嘘がへたね」
「……嘘、だと?」
「弱虫」
躑躅が言ったその単語が、夜凪をわずかに――いらだたせた。
彼女のことを「思い」、「言った」言葉を足蹴にされた気がしたからだ。
(だが。)
(これの本質を、見据えられたのかも、しれない。)
「おまえ――」
「あなたに何て言われようが、私は日霊をやめない。やめるものか……」
長い髪の毛をひるがえし、躑躅はその場を駆け足で去っていった。
夜凪は、彼女の影が消えるまで呆然と見送ることしかできずにいた。
うしろに、ふ、と。
気配を感じた。
「だめですよ。女の子にあんなことを言っては」
「……平坂さん。立ち聞きなんて、趣味が悪いんじゃないですか」
「本部への道は、この道しかありませんから」
伏は不意に、にこりと微笑んでから、去っていった彼女の影を追うように目を細めた。
この男の意思が読めない。
夜凪はただ、立ちすくむことしかできなかった。
「本心を隠して、彼女を日霊のお役目から引きはがそうとする、きみの熱意は分かりますが」
「本心ではない、と?」
「きみがいちばん、分かっているのでは? きみ自身のことなのだから」
「……あんた、何を知っている?」
伏は、どこまでも冷静だった。
おちょくったり、からかったりしたい、というものは一切、ない。
「これでも古参ですから。きみの父上のことと、夜天光さんのことも知っていますよ」
「だったら、余計……あいつを、日霊の役目から遠ざけたほうがいいと思っているんじゃないのか」
「そうは思わないですね。……まだ」
まだ、という言葉に夜凪の眉がひそめられた。
男は読めない表情のまま、こう続ける。
「あの子は、ただ生きているだけです。日霊として。そう。彼女の心を清浄に保つためには、日霊というお役目が必要なんです。日霊、というお役目だけが」
だけ。
命を賭し、荒ぶる神々と戦うため「だけ」が。
いつ死んでもおかしくはない。
いつ、アラミタマに取り込まれてもおかしくはない。
そんな、徒の人間としての幸福を、躑躅は拒絶している。
そしてそうしたのは誰でもない、夜凪の父親だ。
「……夜天光さん、どこかほかの人間とちがうでしょう?」
夜凪が思い浮かぶのは他の人間と比べ、目立つ行為を異様に嫌う、ということだった。
しかたなく、頷く。
「なぜか、分かりますか?」
「………」
「それは、彼女がある種の――欠陥品だからですよ」
急に真剣な表情になった伏から、思いもよらぬ言葉がでてきた。
欠陥品。
けれど、躑躅を侮辱している、というわけでもなさそうだった。
「それは、どういう……」
「人間として、といったほうがよいでしょう。人としての何かが、欠落している」
かちり、と。
伏が持つ刀が音をたてた。
そして、静かに夜凪を見下ろす。
「その欠落したものを見つけるのが、きみの仕事なのではないでしょうか」
「そこまで――深入りするつもりはない」
「きみは本当に、嘘をつくのが下手ですね」
呆れたように笑み、歩き出す。
話はこれで終わり、とでもいうかのように。
だが、伏は夜凪に背を向けたまま囁くようにこぼした。
「手放してはいけませんよ。大切ならば、なおさら」
本部で言われた言葉を、再び言われる。
まるで、くぎを刺すように。
残された夜凪は、夜の空を見上げる。
自分が何をすべきなのか、すこしだけ、分からなくなった。
遠くで、救急車のサイレンが聞こえてきた。
「躑躅!」
どこか疲れ切った表情をした躑躅を出迎えたのは、錦秋であった。
今にも倒れそうなほどのたよりない足取りの躑躅を支えながらで、玄関を通り過ぎる。
「お兄ちゃん。私……私、は」
居間に入ったとたん、へたり込むように座った躑躅の声は、今まで聞いたことがないほどにかすれて、よわっていた。
黒い髪の毛が躑躅の顔にかかり、表情を読み取ることができない。
「どうした? 何か、ほしいものでもあるか」
「ほしい、もの……」
ぼんやりとあげた顔に、錦秋は驚愕する。
両目のあたりから顎にかけて、血液が付着していた。
すでにそれは乾いていたが、まるで――血の涙を流したようだった。
錦秋の、どこか狼狽えているような視線を受けてもなお、躑躅はぼうっと、何もない場所を見つめている。
「私が……ほしい、もの、は……」
「躑躅!!」
そのまま崩れ落ち、カーペットの上に倒れこんだ。




