3
「躑躅」
「お、お兄ちゃん……」
次の日の朝、目をさました躑躅は自分の兄の姿をみて、いやそうな顔をかくさなかった。
それでも心配してくれているであろう彼を、そう邪険にすることもできない。
「そういやな顔をするなよ。傷ついちゃうだろ」
「あーはいはい悪かったわよ。仕事は?」
「まだ早いよ」
錦秋の、黒い真珠のような瞳が伏せられる。
彼女の目――右目のあたりに、傷跡がのこってしまう、と医者が言っていた。視力をうしなうまでにはならなかったのが幸いだったが。
それほどまでに、傷は深かった。
そして、反対の左目は――。
「斑鳩くんは……」
「……彼なら、別室にいるよ」
「しってるの?」
錦秋の表情がかすかに曇る。
いや、とかぶりを振ってから、躑躅の包帯がまかれている顔を見下ろした。
「昨日、廊下で会ってね。謝っていたよ」
「謝るようなことはなにもしてないでしょ」
「そうだな」
「それに彼が大事なのは、私なんかじゃないし」
あたりまえのように、つぶやく。
錦秋の表情がこわばり、ぐっとくちびるを噛んだ。夜凪のことばの裏を、分かってしまったのかもしれない。そのことも、躑躅はしらない。
「そうだ。私、どれくらいここにいなくちゃいけないの?」
「だいたい1週間くらいじゃないのか。それから、抜糸もあるしな」
「い、1週間! そんなに!?」
「あのな、1週間でも短いんだぞ。その怪我で」
あきれたように表情をくずす錦秋は、時計をみおろしてパイプ椅子からたちあがった。
彼はスーツではなく、グレイのパーカーにワンウオッシュのジーンズをきているので、家に帰ってから会社にいくのだろう。
「じゃあな。また夕方、着替えもってくるから」
「うん」
「ゆっくり休んで、ちゃんと傷をなおすんだぞ」
「分かってるわよ」
いちいち過保護だとおもうが、いやではない。
彼が出て行ったあと、ひとりきりになった病室でそっとため息をついた。
吐息が空間にとけるようにゆったりとゆらめく。
夜凪は、どうしたのだろう。あれから、会っていない。
大丈夫だろうか。ひどいけがではなかっただろうか。
ずき、と右目と横の腹が痛んだ。きっと、あとになってしまうだろう。それでも、嘆くことはない。すべては、自分が弱かったから――。ただ、それだけのことだ。自分のせいなのだから。
包帯でぐるぐる巻きにされている右目に、手をあてる。
ペールブルーの入院着からのびる、すらりとした足をスリッパにひっかけて、鏡がある洗面所にむかった。
「え」
鏡のむこうがわの自分。
左目の色が――変わっていた。まるで、真っ赤なばらの花びらのような色に。
「どうして……」
ただ、呆然とする。アラミタマと戦って、瞳の色が変わったなど聞いたことがない。なぜ、こんな色になってしまったのだろう。
からからと、音がする。扉が開く音だ。
「!」
「あら、夜天光さん。もう起きていいの?」
看護師が朝食をもってはいってくる。おもわず彼女は目をふせて、「はい」と返事をした。
「でも、あまり動かないほうがいいですよ。結構、縫ったから」
「は、はい」
「またあとで、体温を測りますからね。それまで、じっとしていてください」
「わかりました」
ベッドについているサイドテーブルに朝食をおくと、看護師はそのまま出て行った。
おぼつかない足取りで、ベッドのすみに座り込む。はらりと細い髪の毛がほおを撫でた。
「……」
心臓の音がうるさい。
どくどくと、脈を打っている。
だれに言えばいいのだろう。だれに、相談すればいいのだろう。うつむいて、ひざに手をあてた。かすかにふるえていることを、今知った。指先がつめたくなって、おもわずつよく握りしめる。
「夜天光」
ドアが開く音さえ拾えなかった。夜凪の声に反応できたのは、数秒たったあとだった。
「起きていて大丈夫なのか」
「大丈夫よ。あなたこそ大丈夫なの」
「ああ」
せなかをむけたままだが、彼はとくべつ気にする様子もないようだ。
「悪かったわね」
「なにがだ」
「巻き込んでしまって。まさか、あんなアラミタマがいるとは思わなかった」
「あれは――。あんなおまえの八握剣を模すアラミタマは、俺もはじめて見た」
「やっぱり、そうおもう? 堂元さんに言わなきゃいけないわね……。ああ、ぜったい怒られる……」
「それは、自業自得だ」
ぐうの音も出ない。
たしかに、事後報告はしていたものの、ひとりだけで勝手に行動していたのはたしかだ。
怒られるのは仕方がない。
けど、この目の色のことは――。
「……? 夜天光、どうしたんだ」
「どう、って?」
リノリウムの床に、かわいた杖のような音が躑躅の耳朶にひびく。
びくりと彼女の体がこわばった。
「こないで!」
口をついて出てきたことばは、かわいげのかけらもないものだった。躑躅は自分にうんざりしながらも、肩に力をいれながら、かぶりを振る。
「どうしたんだ」
「こないで」
声が、しらずしらずふるえる。目の色が変わったなどと、彼には知って欲しくなかった。けれど、いつまでも隠せるわけではない。
頭では分かっているのに、目先のことだけしか躑躅は求めなかった。
それでも夜凪は無視をして、こちらにむかってくる。逃げ場所はない。
おもわず目を伏せた。
視界の先に、味気ないスリッパが見える。
「……。おまえ、その目……」




