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横の腹、そして右目を裂かれ、躑躅は畳の上に倒れ込んだ。血がはなびらのように舞い、不気味に畳へ散らばる。
「夜天光……!」
やがて笹木悟のアラミタマはちりぢりになり、霧のように部屋のなかから消えていった。
夜凪は足をひきずって、倒れたまま動かない彼女の体をゆっくりと起こす。軽かった。まるで、羽毛のような軽さがそこにあった。
「夜天光」
肩をそっとゆらすと、白いほおがひくりとゆれる。黒い真珠のような瞳が、夜凪をうつした。光をうしなうことなく、その目はしっかりと彼を映している。
「アラミ……タマは……」
「霧散した。もう、笹木庚につきまとうことはないだろ」
「そう……。よかった」
「本部に連絡する。いいな」
躑躅は細い髪の毛をゆらして、うなずいた。
それから本部からウイスタリアが駆け込んできたのは、10分後だった。
救急車もよんだのか、救急隊員も部屋のなかに入ってくる。
彼女をストレッチャーにのせるために、傷ついた体をかかえようとしたが、それを遮ったのは、躑躅自身だった。
「私はちゃんと、自分の足で歩ける」
まるで、自分に言い聞かせるように立ち上がる。制服は裂けて血で汚れ、右目のあたりも血でばらのように赤く染まっている。
「躑躅。だめだよ。動いちゃ。出血がひどいんだから……」
「平気。それよりウイスタリア。笹木さんのことをおねがい」
「……でも」
「ウイスタリア。斑鳩くんもけがをしているの。言い訳はしないわ。でも、今は笹木さんのことも気になるから」
「分かった、分かったよ躑躅」
ブロンドの髪の毛をしたウイスタリアは、降参したように玄関口へむかう。
救急隊員につきそわれながら、救急車にのりこんだ躑躅の体は、まるでちいさな少女のようにか細く夜凪には見えた。夜凪も救急車に乗りこみ、サイレンを鳴らしながら救急車は笹木庚の家をあとにした。
「……」
足と手を斬られた夜凪の傷からは、出血はもうないものの傷は深かった。縫うことになるかもしれない、と、救急隊員が言った。
彼らはこちらの事情を知っているのか、それとも怪我を気遣ってか分からないが、なにも問うことはない。
ストレッチャーにすわっている躑躅の呼吸は荒い。
しかし、意識ははっきりしている。だからだろうか、余計つらそうにみえるのは。
意識がなかったほうが、楽だっただろう。
夢しかみなかったら、否、夢さえみなかったら。振り子の時計は延々と時をきざむというのに、それは決して永遠ではないと、知っていた。
永遠にねむるには早すぎる。
氷雨がふる。
あかい南天の実がおちる。
みずみずしい緑色の葉が、かげる。
病院につくと、すぐに治療が始まった。夜凪は麻酔をうたれ、外科医の医者に何針か縫われた。痛みはなかった。ただ、茫漠とした意識のなかで、針をみつめる。
あとになるから、と医者は言った。夜凪はそれでもかまわない、と答えた。
男だとか女だとかいうまえに、忘れてはならないと分かっていたからだ。
あのアラミタマは今まで経験してきたものと、まったく違った。
最後、あれは「かたち」を変形させた。躑躅の八握剣と似た剣となって、彼女を穿ったのだ。
その意味を考えれば考えるほど、ぞっとする。
アラミタマも、日霊と戦っているうちに学習するのではないか、と。
治療が終わり、松葉杖で廊下に出る。
そこに、長い影ができていた。
「……夜天光……さん」
躑躅の兄である、錦秋がそこに立っていた。息を切らせながら、彼は躑躅と似た色をしている瞳を、夜凪にむけている。
「躑躅は……」
「治療中です。すみません。俺は……」
「いや。きみが謝ることはない。言っただろう。きみはまだ若い。きみ自身を守ることができたら、躑躅は満足だろうからね」
錦秋は、もうなにもかもを分かっているようだった。
何がおきたのかも。おそらく、遊糸が知らせたのだろう。
「力不足でした」
「まだ強くなれるってことだろう。まあ、俺が言っては説得力もなにもあったものじゃないがな……」
躑躅の病室をきいてあるのか、錦秋は廊下をあとにした。
ひとり残され、おかれているソファにそっと腰をおろす。リノリウムの廊下。わずかに自分の顔がうつった。
藍染めの手ぬぐいはとれ、長い前髪が目にかかる。あたらしいものを買わないといけない。藍染めでなくてもいい。
夜凪の額には、傷跡がのこっていた。
一年前のことだった。
父親が目の前でアラミタマに殺され、自身も相当な傷をおったのだ。
「……」
ながいため息をついて、ソファから立ち上がる。あとは残るが、骨に異常はなく、抜糸すればふつうに歩くことができるだろうと、医者は言っていた。
だれもいない廊下に松葉杖のかわいた音が響く。
エレベーターにのって、用意された病室にむかった。
家にはだれもいないということを言うと、今日と明日、検査のために病院に寝泊まりするように言われたのだ。
病室にはひとりだけ、ほおの痩けた男がいた。
新聞を見て、なにも話すことはないと言っているように、沈黙をつづけている。
夜凪もそれにならい、(特別なにかを話すこともないのだから)くちびるを閉ざした。
夜、ゆめをみた。
白い銀いろの月のしたで、ただ長い髪を風にゆらせている、凜とした佇まいの少女のゆめを。
なにもいわなかった。
夜凪もなにも言うことはなく、アーモンドの形をした瞳を、ただ見つめていた。




