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背中に感じる重さは、ほんものだ。
金属がこすれる音が聞こえる。駅から笹木庚の家まで、そうかからなかった。
絵にかいたような、しずかで、どこかあたたかいにおいのする住宅街。そのなかにオフホワイトの、ヨーロッパ風の家。街灯がちかくにあるので、すぐに分かった。
家のまわりには、パンジーが咲いている。だが、すこし草が伸びていた。笹木悟が生きていたころは、きれいに手入れされていたのだろう。
玄関のむかいには、スロープがついていた。そのスロープをのぼり、インターホンをならす。
か細い声がきこえて、すぐにすりガラスに影ができた。
「……こんばんは」
昨日会ったときよりも、庚はだいぶやつれていた。顔は青白く、くちびるも色をうしなっている。
「!」
扉をあけた彼女のうしろ。笹木悟がいた。いや――、すでにアラミタマとなった男が、そこにいた。
ぼんやりとした、黒いシルエット。そこから、真っ黒な煙をだしつづけている。
なめらかな手ざわりの絹の布から、八握剣をとりだした。
硝子がすれるような音。
どう見ても日本刀にしか見えないそれに、笹木庚は目を見開いた。
「!? な、なにを……」
「笹木さん。そこから出なさい。一刻もはやく」
「え……?」
笹木悟のアラミタマが、ぐにゃりと雲をちらしたように変形する。それは日霊の「敵意」に反応し、まさに荒ぶる魂となりはじめている。生きとし生けるものすべてを憎み、恨み、妬む、アラミタマ。それが今、おのれの娘――笹木庚を殺そうともがいている。
「きゃ……」
夜凪がとっさに彼女の腕をつかみ、むりやり外に連れだした。
この家は危険だ。アラミタマによって、さまざまな陰の気が部屋中を満たしている。
夜凪は眉をひそめ、なにをおもったのか――単身、アラミタマにつっこんでいった。
ばたん、と扉がしめられ、鍵までしめられた。
「斑鳩くん!?」
返事はない。
ただ、扉のむこうで物音がするだけだ。
「ひとりで戦う気なの!?」
へたりこんだ庚に目線をあわせるようにしゃがみ、ほとんど光をうしなっているその瞳を見つめて彼女に叱咤する。
「いい。笹木さん。ぜったいに、家のなかに入ったらだめよ」
「……」
人形のように機械的にうなずいた彼女を確認して、躑躅は庭のほうへ駆けこんだ。家のなかは、不気味なほどに静まっている。
縁側からはいろうとするが、鍵がかかっていて開かなかった。
いやな汗がにじむ。
長い、空間にとけこむほどに暗い色の髪の毛が、風にのってゆれた。
汗がとたんに風に冷やされて、よけいに汗がにじむ。
「なんで……」
ぐっとくちびるを噛みしめ、八握剣を握りしめた。きしんだ音。さみしい、風の音。
躑躅は呆然としながらも、胸のうちにうまれた、ぎしぎしとした痛みに顔をゆがめた。
「そう……。そうか……。私がまだ、未熟だから……」
日霊になって、まだ二年しかたっていない。夜凪は八年だ。だから、足手まといと言われてもしかたがない。
いきがってみせても、その差はうまらない。けっして。
(だから、なんだ。私は、日霊。それしか価値がない。意味がないのに。)
くちびるを噛んだまま、鍵がかかっている窓にむかって、八握剣をふりあげた。
硝子がわれる音が、響く。
きらきらと光る硝子の破片を顔に浴びながら、躑躅はそのまま家のなかに入った。顔に数カ所、傷ができたが構ってはいられない。
がたん、と、奥で箪笥がひっくりかえるような音がきこえる。
「……!」
血がほおを伝う。
ざくろのような色の血が。
てんてんと、カーペットに落ちるが、彼女にはそれを気にする必要はなかった。躑躅のものではない血液が、床にすでに付着していたからだ。
彼がいたのは、仏間だった。
「斑鳩くん!」
藍色のてぬぐいはすでにほどけ、顎にむかって血液がながれている。
アラミタマは霧状に霧散し、ゆらゆらとゆれている。
「なぜ来た!」
「なぜ、じゃないわよ! このばか!」
「なっ」
八握剣をにぎりしめ、ふたたびヒトのかたちをとるアラミタマをにらみつけた。
目と口は白く不気味に光ってはいるが、先刻とくらべるとすこし、弱っているようだ。
「ちょっと、笹木悟! あんた、しゃべれるんでしょ。だったら答えなさい! なぜ、庚を憎んでいるの!」
八握剣は神聖なる神剣だ。
邪を祓い、人のおもいをたぐり寄せる。
しかし、このアラミタマはなにも話さない。ことばを、わすれてしまったかのように。
「ちっ、もう残ってないみたいね。だったら……斬るだけ」
「夜天光!!」
あれほど遊糸から言われていた鞘を放り投げ、剣一本でアラミタマにむかう姿は、無謀だ。
あの日も、おなじだった。
子どもの姿のアラミタマを斬ったあの日も。
夜凪の目は、彼女の血液を見ていた。
傷つくことを恐れないという。
それはどういうことなのか、夜凪にはわからない。どんなおもいで、どんなきもちで生きてきているのか、わからない。
それでも、傷ついてはいけないと思う。
ぎああ、という、獣の咆哮が聞こえた。
夜凪の手は、すでに血が流れている。
砕けてはいないものの、彼の「百代」を振るうことはできない。
だからこそ――彼女の名を呼ぶしかなかった。
彼女の呼気が聞こえる。
手のなかの百代が、ひどく重たい。
「夜天光! やめろ、おまえひとりじゃ無理だ!」
「うるさいわね! あなただって、ひとりで突っ込んだじゃない! いいからそこで見てろ! 私には――、私には……」
まるで剣舞を舞うように八握剣をふるい、手をやすめない彼女の表情は、ひどく――苦渋に満ちていた。
「私にはこれしかないんだから!!」
下段から斜めに袈裟斬りを見舞う。砂と砂がこすれるような耳障りな音が聞こえた。
これしかない。
彼女は、そう言った。
笹木悟のアラミタマは、霧散しはじめている。おそらく、絶え間なく与えられる攻撃にたえられなくなったのだろう。
「これ、は……」
霧散し始めたアラミタマの姿が、徐々に細長く、とがってゆく。
躑躅と夜凪が気づいたときにはもう、遅かった。
「あ……っ」
とがった、まるで彼女の八握剣を模したような剣が、彼女を貫いた。




