7
鳥たちがはばたいて、ひとつの方向を目指す。その空を見上げながら森の奥へと進んでいく。
カイの脳裏に幼い日の記憶が鮮やかによみがえってきた。
まだ明けきれていない薄暗い空の下、ときどき朽木に足を取られそうになりながら、それでもはやる気持ちがカイを急き立てる。
朽木に飛び乗り、枝にぶらさがり、踊るように飛び跳ねながら、森の神殿を目指したあの頃。そして森の奥に進んでいくと聞こえる澄んだ鳥笛の音色……。
ふとカイの耳にあのときのように澄んだメロディが聞こえてきた。「おや」とカイは首を傾げた。鳥笛はカイの胸元で揺れている。ソルエはあの日カイに鳥笛を授けたのだから。
その音色は美しい歌声だった。森の神殿の方から風に乗って優しく響いてくる。
「ソルエさまの歌声か……」
カイはその声に誘われるように、さらに歩みを速めた。
神殿の上には無数の鳥たちが舞っていた。神殿の階段の中ほどに、空に手を高く伸ばして立つ人影が見えた。人影の周りに小さな小鳥たちが群れている。
カイに鳥笛を渡したあと、ソルエは歌で鳥たちを呼び寄せていたのだった。鳥笛と同じように澄んだ美しい音だった。
カイは神殿のそばまでやってきて、鳥たちの朝の集会を邪魔していいものかと少しためらったが、決心して階段の正面にやってくると、ソルエの姿を見ないように下を向いて呼びかけた。
「ソルエさま、鍛冶村のカイでございます」
カイが声を張り上げると、ソルエの歌声が止み、鳥たちが一斉に羽ばたく音がした。
「カイ。よく来てくれましたね」
ソルエが嬉しそうに呼びかけた。
「このたびはソルエさまのお蔭で村の平和を保つことができました。西の大国の兵士を追い払ってくださってありがとうございました」
「私の力ではないわ。前にも言ったとおり、鍛冶村の人々が森とともに生きようと心を砕いてきた結果です」
「でも、森を守ってこられたのはソルエさまのお力があってこそ」
突然、ソルエがフフフと笑い出した。
「カイ、そのように話していては苦しいでしょう。もう顔をお上げなさいな」
「しかし、巫女さまの姿を見ては」
「大丈夫よ」
ソルエの言葉にカイがそろそろと顔を上げると、階段の上に立つソルエの顔には長いヴェールがかかっていた。
「これなら私の姿を見ることはできないでしょう。安心して近くまでいらっしゃいな」
カイは言われるままに階段を上ってソルエに近づいていった。カイが近づくと、まだソルエの周りにいた小さな鳥たちも残らず飛び去ってしまった。
「鳥たちとソルエさまの時間を邪魔してしまいました」
「気にしなくていいのよ。みんな朝の食事に行く時間だから」
飛び去った鳥たちに向かって手を振りながら、ソルエは言った。
鳥たちの姿が見えなくなると、ソルエは階段に腰を下ろし、カイに隣に座るように勧めた。カイは遠慮がちにそこに腰を下ろした。
「笛が無くても、あのように鳥を集めることができるのですね」
「ええ、笛は遠くにいる鳥たちにも聞こえるように使っていただけ。でも鳥たちは毎朝ここに来ることが習慣になっているから、本当は歌がなくても集まってくるのよ。鳥たちと話すために歌っているだけなの」
「ソルエさまの不思議な力というのは、鳥や動物と話ができることなのですね」
「そう。私は小さい頃からそれが当たり前だと思っていた。大人たちも私が小さい頃には子供の空想だと思って相手にしなかったのだけれど、大きくなるにつれてそれが私に宿った不思議な力だと気づいたの。この力のお蔭で好きなだけ動物たちと話して暮らせるようになったけれど、逆にほとんど人と話すことができなくなってしまったのよ。皮肉なものね」
「ソルエさまは村の人間と森の動物たちの大事な架け橋ですよ」
「でもね、先代の巫女のように長年人の世界から離れていると人間嫌いになるものよ。ましてや顔を合わせてもいけないなんて。先代の巫女は鍛冶村の人間を憎んでいたわ。私もここで誰とも会わずに過ごしていたら、きっとそうなっていたでしょうね。今回のような事件があっても、きっと協力しようとは思わなかったわ」
「なぜ、ソルエさまは鍛冶村の人間を憎まなかったのですか?」
ソルエはヴェールのかかった顔を真っ直ぐカイに向けた。
「カイ、あなたのお蔭なのよ。あの日あなたがやってきて、友達になってくれたから。そして二人で作った金細工を鍛冶村の人が認めてくれたから。離れていても、私も鍛冶村の一員なのだと実感できたの」
「私はただ、ソルエさまと一緒にいるのが楽しくて……」
「ええ、それで十分なの。人は誰かひとりでも自分を必要としてくれる人がいることで生きていけるのよ。いつも仲間に囲まれている人たちには分からないことでしょうけど」
あのとき、カイを引き止めたソルエは必死だったのだ。あの日の出会いがソルエを孤独から救い、そして鍛冶村を救うことになったのだ。
「ソルエさま、鍛冶村に平和が戻りました。私は約束を果たしにきたのですよ」
カイは肩から提げていた袋から数枚の金の薄板とキリとたたき棒を取り出した。
「嬉しいわ。またあの日が戻ってきたみたい」
「これからもずっと続きますよ」
ソルエはふと下を向いて黙ってしまった。しかし、カイが金の板と道具を差し出すと、向き直って嬉しそうに『ありがとう』と言って受け取った。
早速ヴェールの中に抱えてなにやら彫り始める。
ふたりはそれからしばらく、黙って金板を彫っていた。
カイがおおまかに描いた線をソルエが手直しし、ソルエが描いたラインの間をカイが叩き出してそれらを浮かび上がらせる。
金の薄板には、ワシやジャガーやサル……森の動物たちの姿がつぎつぎと鮮やかに浮かび上がった。
カイは最後にたどたどしい手つきで翼を描いた。そしてその翼の元には人間の横顔とその身体を描く。それを受け取ったソルエは首を傾げた。
「カイ、これは何?」
「ソルエさまです。さっき鳥と戯れているソルエさまの姿を遠くから見たとき、まるで鳥の翼が生えた人間のように見えましたから」
ソルエは笑い出した。
「カイの発想はおもしろいわ。このような姿をした神様がどこかの国にいるらしいのよ」
ソルエは面白がって、そのラインをきれいに整えていった。
いつの間にか、日が傾いていた。
カイは出来上がった金板を袋にしまうと帰り支度を始めた。そこで大事な目的を思い出した。
「鳥笛をお返しするのを忘れるところでした」
と、首から提げていたひもを外して笛をソルエに返そうとすると、ソルエはその手を押し返した。
「カイ、笛はあなたが付けておきなさい。西の大国が一度で諦めるとは思えないわ」
カイの背筋に冷たいものが走った。
「それは……この後もまだ奇襲があるというのですか。あの将軍はジャガーに喰われてしまったのでは?」
「いいえ、動物たちが教えてくれたわ。
彼は生きて逃げ帰った。執念深い人間よ。いつか復讐にくる」
カイは言葉を失い、目を伏せた。鳥笛を持つカイの両手をソルエの手が包んだ。
「これはもう鳥たちの笛ではなく、鍛冶村の人々の命綱なのよ」
重ねられたソルエの細い指先はひんやりと冷たかった。逆に手の中の素焼きの笛のほうがどくどくと脈打っているかのように熱く感じられた。
「でも、将軍の傷は深い。しばらく動けないでしょう。それまで鍛冶村は平和だわ」
「ソルエさま、もしや今後の運命を知っているのですか? 私たちは生き残ることができるのですか?」
「カイ、それは私にも分からないの。運命を怖れていては何もできない。
でも、ひとつだけ分かっているさだめがあるわ。
あなたは鍛冶村に何があっても生き延びて、部族の伝統を伝えていくのよ。覚えておいてほしいの」
カイの手が小刻みに震えた。その手をソルエのひんやりとした指が強く握り締めた。