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森の神殿を再び訪れるきっかけが、村の危機を伝えるためだとは、なんと皮肉なことだろうか。
子供の頃、ソルエとともに朝のひとときを過ごしていた石階段は、いまも変わらずにそこにあった。
カイは、その石階段を懐かしむようにゆっくりと上っていった。以前は一段が随分と高く感じられたものだが、大人になったカイにはちょうどいい高さだ。カイは月日の大きさを感じた。
階段の中央あたりで、カイは上を見ないようにしてソルエを呼んでみた。
「ソルエさま。鍛冶村のカイでございます。急ぎお話したいことがあって、参りました」
声を張り上げたつもりだが、森の中の鳥や動物の声が騒がしく、カイの声は届かなかったようだ。しばらくうつむいてソルエの返事を待ったが、神殿の上からは何の気配もしなかった。
カイはまた顔を上げ、さらに神殿の上へと上がっていった。
とうとう、神殿の頂上までやってきた。
頂上には広いテラスがあり、その奥は何本もの太い柱が大きな屋根を支えている。
柱の列は奥へと長く続いていて、奥の柱と柱の間に、大きな薄布がかけられているのが見えた。
カイは柱の中へ進んでいき、薄布の手前までやってきた。そして薄布の前で跪くと、下を向いてさっきと同じように呼びかけた。
「ソルエさま。鍛冶村のカイでございます。急ぎお話したいことがあって、参りました」
しばらくして、中のほうでコトリと何かが動く音がした。
「カイ?」
薄布の向こうから微かな声が聞こえた。
「お久しぶりです。ソルエさま」
「本当にカイなのね?」
声の主のはずんだ表情が浮かぶような声だった。すぐにひたひたと足早に近づいてくる音がした。足音の主は今にも薄布を押し上げてこちらにやってきそうだ。カイは慌てて声を張り上げた。
「ソルエさま、私は長老の遣いで参りました。あなたのお姿を拝することは固く禁じられています」
カイの言葉で、足音がぴたりと止まった。
しばらく静寂が流れた。奥から吹き抜けてきた微風で少しだけ持ち上がった薄布が、うつむいているカイの頭をなでた。
「…………それは、ご苦労です。カイ。
して……。長老の伝言とは何ですか」
さっきまでの高揚した声とは打って変わって、落ち着いた低い声が静かに響いた。その沈んだ響きに、カイの胸が痛んだ。
「はい。
鍛冶村が危機にさらされています。西の大国が、私たちの村との取引を中止して村人を彼らの国に連れていくと言い出したのです。西の大国に行けば、金を作る奴隷となって暮らさねばなりません。しかし、私たちが抵抗すれば、彼らは軍を率いて村を襲うつもりでいるのです。
今、長老と村人が、私たちの行く末を話し合っているところです。
もしも、鍛冶村が襲われるようなことがあれば……」
そこまで言って、カイは口をつぐんだ。
もしもそのような状況になったとしても、一体ソルエに何を求めるというのか。数年も人々と隔離され、森の奥で孤独に暮らすことを強いられてきた娘に、村を護ってくれなどと頼むのはあまりにも身勝手な話だ。
しかし、ソルエはその先を汲んで、静かに答えた。
「村の危機を救うのは、巫女である私の役目です。
カイ、長老に伝えなさい。
村の伝統と平和な暮らしを捨てて、西の大国の言いなりになることはありません。私たちはこの森と一体となって繁栄してきた部族です。ほかの土地で暮らせるはずはない。
ここにいれば、必ず森が護ってくれる。私はそのために全霊を捧げましょう、と」
「ソルエさま……。分かりました。お伝えいたします。どうぞ私たちをお護りください」
カイはうなだれた頭をさらに深く下げて、ソルエに敬意をはらった。そして頭を下げたまま立ち上がって向きを変えると、そのまま石柱の間を出て行こうとした。
「カイ……」
小さな声が呼び止めるのを聞いて、カイは立ち止まった。
「これをあなたに授けます。村が危機に襲われたときは、これを吹きなさい」
カタンと薄布の下に何かが置かれる音がした。
カイが振り返って薄布の下に目をやると、素焼きの小さな笛が置かれていた。それはソルエが鳥を喚び寄せるときに吹いていた、あの笛だった。
「いけません、ソルエさま。これは大事な鳥笛ではないですか」
カイは、また薄布の前にやってくると、跪いて頭を下げた。
「だからこそ、あなたに託すのです。
カイ、私がなぜ毎朝鳥を喚び寄せているのか、わかりますか?」
「いいえ」
「村人は、巫女が村を護っていると思っているようですが、それは少し違うのです。巫女の役目は、村だけでなくこの森一帯を護ることなのです。森に住むあらゆる動物たちを護ることなのです。
鍛冶村が発展するにつれて、鍛冶のために多くの火を使うようになり、たくさんの煙を出さなくてはならなくなりました。
煙は森の鳥たちに害をもたらします。人間の出す煙から森の鳥たちや動物たちを護ることが、巫女に与えられた役目のひとつなのです。
森は人間の生活になくてはならないものを与えてくれる。金を熔かす火も森の木がなくては熾せない。森が人の生活を豊かにしてくれるのなら、人は森を護る努力をしなくてはいけないのです。
人と森が調和して暮らせるように手を貸すのが、巫女の役目なのです。私や先代の巫女たちは、人間の暮らしを支える森に少しずつ恩を返してきたのです。
私たちが、森とともに生きるために長い間努力してきたことを、森はちゃんと分かってくれています。だから部族が危険に侵されることになれば、森はきっと私たちに力を貸してくれるでしょう。
私はここを離れるわけにはいきません。村に危機が迫ったときには、カイがその笛を吹いて、私と森に合図をするのですよ」
カイはソルエの話を聞いて、床に置かれた鳥笛をそっと手に取った。
「大事な役目を任せていただいて、光栄です」
そしてそれを頭上に高々と持ち上げて、礼をした。
「……カイ」
「はい」
「……鍛冶村と森に平和が戻ったら、また以前のようにここを訪ねてきて話し相手をしてくれないかしら。また一緒に金板を彫りましょうよ」
今まで巫女の威厳を感じさせていたソルエの口調が、急に小さな少女のように無邪気な口調へと変わった。
「ソルエさま、必ずもとの平和が戻ると信じています。そのときにはふたりで、誰も見たことのないような見事な金細工を彫りましょう」
思わずカイは、顔を上げて薄布のほうを見た。
奥のほうから微かな光が差していて、ぼんやりと小さな人影を映し出していた。その影が少し頭を傾けて頷いたように見えた。
カイはその影に向かって深々と礼をすると、そのまま踵を返して神殿の階段へと向かった。
階段を下りていると、森の中がざわめいて、いつの間にか神殿の周りに鳥や獣が集まってきているのに気がついた。
鳥たちがカイの頭上を通って背後の神殿の頂上へと飛んでいく。
ふとカイは背中に視線を感じたが、振り返らずに鳥笛をぎゅっと抱え込んで、足早に階段を下り、そのまま村へと帰っていった。
カイが村に戻るとすでに会議は終わっていて、長老の小屋に集まった男たちは、囲炉裏を囲んで談笑していた。
カイが小屋に入っていくと、男たちが話をやめて一斉にカイに注目した。長老が奥に入れと手招きをしながら声をかけた。
「カイ、ご苦労だったな。巫女さまのお返事を待たずに、村の方針を決めさせてもらったよ」
「長老。おそらく村の決定と巫女さまのご意向は同じではないかと」
「わしらは西の大国と戦うことになっても、ここに留まることを決意した。
巫女さまも、同じご意見か?」
「はい。巫女さまのお言葉を伝えます。
村の伝統と平和な暮らしを捨てて、西の大国の言いなりになることはない。森が必ず部族を護ってくれるであろう……そのために巫女さまは全霊を捧げるご覚悟だと。
そして、私にこの笛を授けられました」
「それは、巫女の命ともいえる鳥笛だな。ソルエさまのご覚悟が分かった。
みなのもの、怖れることはないぞ。巫女の偉大な力がわしらを護ってくださるのだからな」
長老の言葉に、集まっていた男たちが一斉に歓喜の声をあげた。