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フィルはひんやり湿った地面の上に横たわっていた。
まだ辺りは暗いのに、鳥たちはもうどの餌場に行くのか話し合っているらしい。甲高い賑やかなさえずりが盛んに聞こえている。
朝露が天井の隙間から伝ってくるのだろうか。雫が地面に出来た水溜りに落ちてぽつんぽつんと小さな音を立てていた。
何か違和感を感じ取って、自らの身体をまさぐってみる。すると上半身には何も身につけておらず薄い胸板に直に触れられた。腰に麻で粗く織られたようなざらざらとした布が巻かれているだけで、それ以外には何も纏っていないようだ。それでも寒さは感じなかった。
そろそろと手を上げて眺めると、暗がりの中に薄っすらと見える腕は自分のものでないように細く、その先の掌も子どものもののように小さい。
(これは夢か? 自分の体はどうなってしまったのか)
しばらくの間、フィルはぼんやりと自分の置かれている状況について考えていた。しかし、どう思い出そうとしても、どうしてこんなところで裸に近い格好で寝ていたのかが分からなかった。
考え疲れ、ふたたびまどろみに落ちながら、自分が何か大きな勘違いをしていることに気付いた。
(そうか。大人になった夢を見ていたんだ。大人になった僕はおかしな格好で動き回っていた。だから目覚めたとき自分の姿を不思議に思ったのか。
僕は鍛冶村の少年カイだというのに!)
思い至って安心すると、夜明けまでのひとときを再び眠りなおすことにした。
深い森の奥から幾筋もの煙が細く長く上がっていく。空が白々と明けるころ、彼らの仕事が始まるのだ。
いくつもの釜に火が入ると、一日の労働が始まる。男たちだけでなく、女も子どもも忙しく立ち回り、にわかに集落は活気づく。
カイはこの時間が苦手だ。
ただでさえ蒸し暑いこの集落が、一斉に火が焚かれることで、巨大な灼熱の釜のようになるのだ。合金を作るために金に混ぜ込む銅やほかの鉱物も溶かされる。金属と炭が混じりあったひどい匂いが、辺り一帯にたちこめるのだからたまらない。
釜の脇に積み上げられた金の薄板を適当にがばっと抱えこむと、足早に集落の外れの森の入り口に走っていく。
そんなカイの姿を見て、数人の村人が声をかけた。
「おい、カイ。我慢して慣れないと、この鍛冶村では暮らしていけないぞ!」
「この村に生まれてもう十も近いというのに、いつまでそんなことをやっとるんだ」
カイはすっかり聞きなれてしまった彼らの忠告を無視して森の入り口まで走っていくと、抱え込んだ金板をバラバラと地面に蒔いた。そしてその脇にあぐらをかき、脚の上に金板を一枚置くと、首から提げている皮ひもを引っ張った。
皮ひもの先には小さな青銅のキリや太さの違う小さな木の棒などがついている。カイは、キリの先を保護していた木のヤニの塊を抜くと、抱えた金板に線を描いていった。
金板に細かい線画を丁寧に描くと、今度は棒で線の間をとんとんと突いていく。線画はみるみるうちに立体の模様となって浮かび上がってくる。平らな金板がカイの手の中で、美しい光沢を放つレリーフへと生まれ変わった。
集落の方からは、せわしく立ち回る村人の足音や声、金を打ち伸ばす石がぶつかり合う音などが響いてくる。集落の喧騒をよそに、カイは一心不乱にレリーフを彫り続けていた。
突然、頭上を無数の鳥たちが、バサバサと横切っていった。森に住むオウムやインコ、その他様々な種類の鳥たちが、一斉に飛び立って同じ方向をめがけて飛んでいく。
その音にカイは、思わず金板から目を上げ、鳥たちの姿を追った。
森の木々に阻まれてカイのいる場所からは見えないのだが、鳥たちが飛んで行った先には、森の木々の上に突き出すように聳え立つ石の神殿があることをカイはうわさ話で知っていた。
鳥たちの羽ばたきが消えると、その神殿のほうから微かに笛の音がしていることがわかった。
「ソルエさまの笛だ……」
『巫女さまに近づくことは、畏れ多いことだ。村人が神聖な巫女さまの姿を見てしまうと、巫女の地位が穢れ、村に災いが起こる』
カイはその禁忌を親から嫌というほど教え込まれていたので、そんなことは百も承知だった。しかしそのときは何か見えない力に引き寄せられるように、自然と足が笛の音のする神殿へと向かっていた。
木々の間に石壁が見えてきた。それは巨大な台形状の石積みの基底の部分だ。
様々な種類の鳥のさえずりが他よりもずっと賑やかに聞こえてくる。頭上の木の梢にたくさんの鳥がとまって騒いでいるのだ。鳥の鳴き声に混じって、さっきは微かだった笛の音がはっきりと聞こえてきた。
カイは石積みの壁までやってくると、壁を伝って神殿の周囲を歩き、正面を探した。石積みの神殿は巨大で、苔むした石の壁は果てなく続くように思えた。
壁の角を二度ほど折れたところで、少し傾斜した壁に沿って上に伸びる大きな石階段を見つけた。石階段をはるか上に上がっていったところが、石積みの頂上に設けられた神殿の入り口になっているのだろう。
カイは、神殿の巨大さと部族のタブーに怯えながら、それでも好奇心の方が勝って、そろりそろりと階段の元まで歩み寄って行った。
階段の一段目、二段目、三段目と、ゆっくり順に目線を上げていく。数十段を目で追ったところで、階段の中央に立つ小さな人影を見た。
人影のさらに上のほうに階段の頂上、朝もやの中にうっすらと神殿の入り口らしきものが見えていた。
小さな人影は空を仰ぎながら何かを手で抱え込むようにして口元に当てていた。
人影の周りには小さな鳥が無数に飛び交っており、その上空では鷹や鷲のような大きな鳥がゆっくり大きな輪を描くように舞っていた。
なんとも不思議な光景だった。
カイはタブーのことなどすっかり忘れて、ぼんやりと鳥たちの動きと人影の様子を見つめていた。
そのとき首の後ろの方を何かにちくりと刺されたような気がして、カイは首の後ろに手をやって振り返った。いつの間にかカイの周りにはハチドリが群がっていて、腕や脚をときどきチクチクと刺してくる。
「うわぁ!」
思わずカイは大声を出してのけぞった。
カイの声で近くの木に群がっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。神殿の上を悠々と飛んでいた鳥たちも、驚いてさらに空高く舞い上がった。
階段の上の人影は、そんなカイの様子をしばらくじっと見つめていたが、やがてゆっくりと段を降りて近づいてきた。薄い朝もやの中からゆっくりとカイに近づいてくる。徐々にその姿がはっきりとしてきた。
目の前に降り立った人影にカイは目を見張った。
額には細い金のバンドを巻き、長いまっすぐな黒髪は、束ねもせず、ひざの辺りまで伸ばされている。麻の一枚布で作られた袖なしの長いドレスには、小さな金の飾りや貝や宝石で出来た小さなビーズがいくつも縫いつけられている。
その少女はカイよりも少し年長に見えるが、その立派な衣装から普通の民ではないことは明らかだ。
彼女が村人の間で崇められている神童……年老いた巫女のもとで修行をしている『ソルエ』という少女であることは、カイにはすぐに察しがついた。
ソルエは大きな黒い瞳で、カイの姿を上から下まで探るように見回した。
「鍛冶村の子どもね……」
ふと、カイの持つ彫りかけの金板に目を留めると、ソルエは言った。
「それを見せてちょうだい」
カイはまるで叱られているかのようにうつむいて、肩をこわばらせたまま、持っていた金板をおずおずと差し出した。
ソルエはカイから金板を受け取ると、裏と表に何度も返しながら、しげしげと眺めた。そして少し微笑んで言った。
「懐かしいわ。私も金を彫る職人になりたかったの」
「懐かしい?」
「そう。私も鍛冶村に生まれ育って、小さいころから両親の仕事を手伝ってきたんですもの。いつか一人前の職人になるんだって思っていたわ。とくに金を彫って美しい装飾品に仕上げる仕事に憧れていたの。遠い国の王様がこれを身に付ける姿を思い描いてね」
と、ソルエはカイの彫りかけた金板を胸のところに当てて体を反り返らせて見せた。
怯えて小さくなっていたカイは、おどけてみせる少女を見て肩の力が抜け、思わずふっと微笑んだ。
「それを貸して」
ソルエは、今度はカイの首にさがっているキリとたたき棒を指差した。カイがそれを首から外して渡すと、少女は階段に腰を下ろして金板を膝に載せ、
「見ててね」
と言って、カイの彫りかけたレリーフの続きを彫り始めた。
ソルエの手は素早く動いて、カイの彫りかけていた線をうまくつなぎ合わせながら、大きく美しい模様を描いていく。線を引き終わると、たたき棒に持ち替えて、裏面からとんとんと細かくたたいて、模様を立体に浮かび上がらせる。
カイはそのあざやかな手つきを、目を輝かせて見ていた。
「すごいや!」
ソルエは金板をあっという間に立派なレリーフに仕上げると、キリとたたき棒を添えてカイに返した。カイは幻でも見たかのように口をぽっかりとあけたまま、渡された金板を眺めていた。
「どう? なかなかのものでしょう?
職人になって、美しい金製品をたくさん作るのが夢だったのだけど、大きくなるにつれて、私に不思議な力が宿っていることが分かって、ある日、私は巫女になる運命だと告げられたの。そしてこんなうらさびしい場所に連れてこられてしまった……」
今まで畏れの気持ちで見ていた小さな巫女見習いを、カイは急に身近に感じ、そして憐れに思った。
「僕も金を彫るのは好きだけど、釜の匂いが好きになれないんです。あの匂いをかぐと、どうしても具合が悪くなってしまって。だからこうして金板を持って森に来て、ひとりで彫っているんです」
「そうなの。自分が生まれ育ったところだからって、すべてが好きになれるわけはないわね。私は村に帰りたくて、あなたは村から出たいというわけね。なかなかうまくいかないものだわ」
いつの間にかソルエとカイの周りには、さっき飛び立った鳥たちが集まってきており、みな話をじっと聞いているように静かにふたりの方を向いていた。
「でも懐かしい鍛冶村のことが話せて楽しかったわ。久しぶりに金を彫ることもできたし。
毎日『しわくちゃばあさん』の顔を眺めて暮らすことにうんざりしていたところだったの!」
「しわくちゃ……って……」
村人が畏れ敬う偉大な巫女のことを『しわくちゃばあさん』と呼んでしまう大胆なソルエを、カイは驚きと尊敬のまなざしで見つめた。
そのカイの表情がおかしかったのか、ソルエはくっくと笑い出した。
ソルエにつられてカイも思わず笑い出した。無邪気なふたりの笑い声が朝の静かな森にこだまする。
「ソルエ! 何をしておるのじゃ」
突然神殿の上の方から、しわがれた声が響いてきた。ソルエの後ろにいた鳥たちが一斉に舞い上がり、二人の姿を神殿の上の視線から遮ってくれた。
「いけない! 早く帰るのよ!」
カイが走って戻ろうとすると、急かしたはずのソルエが腕を掴んで引き止めた。
「待って! ねえ、また鳥たちといっしょにここに来て! お願い」
カイが頷くと、ソルエはにっこりして、再びカイの背中を押した。
「ありがとう。さあ、早く!」
カイが森の中に走りこむと同時に、神殿の周りを舞っていた無数の鳥たちが空高く舞い上がっていった。
カイが木の陰から覗くと、ソルエが急いで階段を駆け上がっていくのが見えた。その先で待っていた小さな人影は、やがてソルエを伴って神殿の頂上へと姿を消した。




