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※この話はフィクションです。
実際の地名、地理、事件、歴史等にはまったく関係ありません。
碧き樹海のガブリエル
漆黒に近いほどの碧、やわらかな翠、その上に僅かに点々とともる真紅、薄紅、黄、白。僅かな隙間から届く天の光が、気まぐれに鋭い光を放つ。どこにも同じ色彩はなく、しかしまったくの異色もない。
鳥は謳い、獣は叫び、その賑やかな音楽は永遠に留まることを知らない。しかし無数の木々が一斉にその葉を震わせるとき、今まで愉しげに流れていた音楽を根こそぎ浚っていく。
辺りに漂う芳香は、ゆるやかな刺激に満ちている。ときに食欲をそそり、ときに吐き気を誘い、ときに甘美な幻想世界へといざなう。
人々はその音に耳を澄まし、その色に目を見張り、その香りを身体の隅々にまで染み込ませる。
その音、色、香りに怯え、それらとともに生きている。
しかし樹海に中に溶け込むには、ヒトという存在はあまりにも異物だったのかもしれない。
それでも彼らは樹海の恩恵に彼らの出来うる限りの誠意を示して暮らしてきた。
やがてその音が、彼らがかつて聴いたこともない轟音にかき消され、その色が本当の漆黒で塗り固められ、その香りが悪意に満ちたきな臭さに変えられるときまで……。
―― 20××年。ペルーとエクアドルの国境付近 ――
かつて麻薬密売組織の秘密農園があったその一帯は一般社会から隔離された場所であり、組織の弱体化に乗じてその前年に行われた政府の一斉摘発により、ようやく解放されたのだ。
もっとも、組織自体がその外郭を残して崩壊している状態であって、血なまぐさい攻防戦など経ることなく、あっさりと事は解決したらしい。そこにあったのはカモフラージュ用の組織であり、すでに違う場所で大規模なプランテーションが造られているという噂もあるが、ともかくその一帯からは不穏な空気が一掃されたのだ。
この現代において、ある時点からまるで時を止めてしまったかのような地域。山地の入り口をその組織が占有していたため、誰もその先の山地や森林に入ることはできなかった。組織の人間たちさえも、何の利益ももたらさない場所にまったく興味はなく、その奥地へと入り込むことはしなかった。
そしてそこは自然と前人未到といっても過言でないほどの秘境となったのだ。
『秘境』と聞けば、その秘密を暴きたくなるのが人の性なのだろうか。その一帯が解放されてから一年も経たないうちに国際調査団が組まれ、初めてその地に考古学調査のメスが入ることになった。
もちろん単なる好奇心ではない。一部の学者の間でその場所はある時代、一般に知られるところの文明と何某かの強い繋がりがあったのではないかと囁かれていたのだ。
ほとんど手付かずの自然。むせるように重厚な湿気。霧に霞む木々の深い碧や苔の柔らかい翠。あちらこちらから響いてくる珍しい動物や鳥の鳴き声。虫の羽ばたきの音。
閉鎖的な集団によって永いこと一般の社会とは隔離されていたその土地は、時代の流れを止めて眠っていたかのように、数世紀前のパラダイスをそのままの形で残していた。
そこが人類史上まったく未踏の地でないことは、その碧の森の中に埋もれるようにして建っている大きな石の土台が証明していた。びっしりと苔むしていて、一見、何かの拍子で地面から隆起したか、何処かの山から転がってきた自然の岩ではないかと思うが、近づいてみれば、明らかに人がひとつひとつ規則正しく積み上げていったものであることが分かる。
あと少しこのままであったら、完全にこの森と同化し、自然に帰化していただろう。天まで届けと積み上げられたのであろう石積みは、ピラミッド型の上部をほとんど失い、巨大な土台だけとなっている。そしてその土台も苔むし、蔦がその身体を絡め取って今にも地面に引きずり込もうとしているのだった。
フィルは、その石積みの土台から少し離れたところに転がっていた小さな円柱型の石を見つけた。その石にそっと触れ、何気なく表面の苔をこそげ取ってみた。苔の湿気をたっぷりと吸い取った石は、熟れたアボガドの皮のように黒々としていた。凹凸のある表面の凹の部分に、苔はしっかりと喰らい付いている。もとは平らに磨かれていたであろう石の表面は、苔に食い荒らされてあばただらけの顔のようになってしまっていた。
ベテランの隊員たちは、慣れた手つきで巨大な土台の周辺を調査し始めた。よく訓練された兵士のように、さっと八方に分かれると各々が検討を付けた場所を調査し始める。ミーティングをしなくても、それぞれの分担を十分に分かっているのだ。そして、最後に各班の結果を寄り集めれば、一度に多くの有益な情報が集まるというわけだ。
まだ学生であるフィルは、どうしても研鑽を積みたいと教授に頼み込んでこの調査団に加わることになった。
彼をかわいがり、いずれは自分の研究を継がせてみたいと思っていた教授は、いくつかの条件を出して彼をこの調査団に連れていくことにした。これまでも数々の発掘調査に同行したことはあった。しかし、今回はまったく手付かずの地を初めて掘り返すのである。手順や方法を少しでも誤れば大切な資料をすべて台無しにしてしまいかねない。
フィルは、メインの調査には加わらず、その周囲に転がっている大して意味の無さそうなものを見つけては調査する『真似事』をしていた。
ベテランの傍に行ってその方法を事細かく観察するには、彼らの方に多少の余裕が出てきてからでないと余計な負担をかけさせてしまう。とりあえずその日は遠巻きに発掘の様子を眺めているしかないのだが、それだけではあまりにも退屈だ。そこでフィルは『調査ごっこ』を思いついた。
ベテランの隊員たちには、新米のやることにいちいち口を出している暇はない。これまで未知だった遺跡に初めてメスを入れる瞬間なのだ。今日のうちに、ここがどのような意味を持つ場所なのかおおまかな輪郭だけでも掴まなければならない。
見学者は邪魔にならない程度に遊んでいてくれればいいのだ。フィル自身もそれを十分承知していた。フィルにとってこの現場に居合わせていること自体が重要なのだ。
フィルがそのどうでもいいような円柱を見つけたことは幸運だった。
もちろん『遺跡の一部』には違いない。傷をつけたり移動したりするのはご法度だが、どうせ取り除かなくはいけない苔を丁寧に剥ぎ取ることくらいは赦されるだろう。そのくらいの方法ならこれまでも学んできている。
フィルは細かい窪みの中に入り込んだ苔も、自前の道具で優しく優しく取り除いていった。
「ガブリエル……」
フィルは苔の中から現れた小さな彫刻を手でなぞって呟いた。
まだ過酷な発掘調査などそれほど経験したことのない、細く頼りない彼の指先は、人と思われる輪郭とその背中から伸びている鳥の翼の形をなぞっていた。これまでこの周辺の遺跡から出土した物にそのような模様が施されていたことはない。この狭い範囲で独自の伝統を守って暮らしていた先住民たちが崇めていた神なのであろうか。しかしそれはまさに彼の良く知る大天使の姿だ。
不思議な感覚に囚われて、フィルはかなり長いこと『大天使』の彫刻を眺めていた。そして思わずその異文化の『神』に、心の中で十字を切り、祈りの言葉を唱えていた。
その夜はその遺跡の周囲に野宿をすることになっていた。
そこは深い山の奥地であって、長年閉鎖されていた地域だけに最寄りの村に行き着くまでに優に二日はかかってしまうのだ。数日をかけてじっくりと調査をするためには、その近くにキャンプを張るしかない。
なるべく木の密集していない、数あるテントがそう遠くない位置に張れるような開けた空間を探し、調査団は野営を敷いた。
フィルの活躍の場がやってきた。彼がベテランたちに重宝されたのは、この大所帯のひとりひとりの舌を満足させることができる料理を手際よく用意できることだった。勉学に励みながら、長年レストランでのアルバイトを続けてきて良かったと、このパーティーに加わってからつくづく思ったものだ。
この特技のお蔭か、夕食のあとの団欒では、何人かの隊員がフィルに親しげに話しかけてきてくれた。どんな場においても『食事』というのは一番重要な位置を占める。気難しい金持ちを買収するときに必要なのは金ではなくとびきりおいしい食事だろう。
これまで明らかにフィルを厄介な存在と見ていた、しかつめらしい顔の学者が途端に親和的な態度で話しかけてきたとき、フィルはその持論が裏付けられた気がした。
しかしそのパーティーの仲間として認められることは、歓迎されることばかりではなかった。学者たちはその独特の理念や薀蓄の披露に忙しく、フィルには相槌を打つ間さえ与えてくれないからだ。そうして一方的に話し終えるとさっとその場から立ち去った。
ぽつんとひとりになったフィルの横に、今度はふたつのカップを手にした大男がどかっと座り込んだ。彼は片方のカップをフィルの目の前に差し出して言った。
「ホットウィスキーだ。温まるぞ」
神経質そうな学者たちとは違って、まるで鉱山労働者のような頑健な身体つきのこの男は、こういった調査団を案内する仕事をもう十数年やっているということだった。あちこちの発掘調査に同行してきただけに素人であっても下手な学者よりも知識を持っているのかもしれない。彼はロドリゲスと名乗った。
蒸し暑い密林の夜にホットウィスキーを手渡されて戸惑っていると、ロドリゲスはこうして飲むんだと教えるようにフィルの方に目を遣りながら自分のカップに口を付けた。
仕方なく同じように湯気の出る液体に口を付ける。それを飲み込んでみて初めて、フィルの体は自分が感じている以上に冷え込んでいるのが分かった。
「湿気で気付かないが、夜露はかなり身体を冷やすものだ。次の日も元気に働くためには良く身体をあっためて良く眠ることさ」
そう言ってロドリゲスは笑うと、カップの中身をぐいぐいと飲み干してしまった。
フィルは熱さも手伝って、一口一口しか飲むことができない。そんな悠長なフィルの様子を見守りながら、ロドリゲスはフィルに問い掛けた。
「新人は、この森に入ったとき、どんな感じがした」
フィルはウィスキーを啜るのを止めてロドリゲスの方を見たが、漠然とした問い掛けに、何と答えていいのか分からなかった。
「こういう空気は滅多に感じられるもんじゃない。俺はいろんな遺跡の案内役をやってきたが、どの遺跡にもそこに独特の匂いを感じるんだ。匂い……空気っていうのかな。長年いろんな発掘現場に関わってきて思った。その場にいる誰もが現場に来た途端、やつらが見つけ出そうとしている結論を知るんだ。そこには昔、誰がいて何をしていたのか。感じることはできるがその証拠を見つけ出すことは難しい。ときにはどんなに証拠を探しても見つからないこともある。いやその方が多いかもしれん。
やつらは証拠が無ければやつらの感じ取ったストーリーを他に公表することはできない。だから必死で探すんだ。自分がふと感じたそのストーリーが正しいといえる何かを。
しかしやつらはすでに結論を知っている。ここに誰がいて、何をしていたかを」
と、ロドリゲスは太い親指を立て、それを逆さにして地面の方に向けた。
「先入観は、正しいものを見極めようとするとき邪魔をする」
フィルは言った。
「ああ、そういうこともあるかもしれない。しかし、直感というものは大方正しいものだ。特に突然強く沸き起こったインスピレーションは。それを無理に抑えようとするから余計正しいものが分からなくなる。真実かそうじゃないかなんて、所詮人間の決めることだ。
発掘調査の段階でそれを最も強く感じられるのは、初めてその地に足を踏み入れたときだ。そのとき長年その地に封印されてきた魂たちが叫ぶ。どうか俺たちのことを分かってくれってな。
それを感じ取った段階でそのストーリーを記録してしまえばいいんだが、やつらはまず証拠探しに走る。そのストーリーが証明できるだけの証拠が揃うことはまずない。
そうして何年も手が加えられてしまった遺跡には、強く呼びかけていた魂はもういないんだ。それでもやつらは証拠探しに躍起になって、そのうち最初に与えられたインスピレーションさえ忘れてしまっている」
フィルは黙ってロドリゲスを見つめていた。ウィスキーがぬるまってきたことにも気付かなかった。
何かを聞こうとしたが、何を聞いていいのか分からなかった。
その代わりに何故か、昼間見た石に刻まれたガブリエルの姿が鮮明に頭に蘇ってきた。
「別に証拠なんか見つからんでもいい。新人は何かを感じ取ったはずだ。お前さんは先入観をもっちゃいけないという先入観を信じているだけだ。お前さんの意に反してな。でも今回、新人は証拠集めをしなくていい立場でここに来てるんだ。だから思いっきり耳を澄まして聴いてみろ。この森にまだたくさん残っている魂たちの声を。このキャンプを終えるころには、おそらくあいつらはどっかに行っちまうだろうからな」
ロドリゲスはもう残っていないであろうウィスキーを最後の一滴まで飲み干そうとするかのように、カップを口に当てて傾けた。そしてぼんやりとしているフィルの肩を良く肉の付いた大きな掌でポンポンと叩いて立ち上がった。
フィルはそのあと、しばらく考え込んでいたが、すっかり冷めてしまったウィスキーを飲み干すとテントに入った。そして自分の寝袋に潜り込み、ファスナーを顎の上まで引き上げた。少しでも隙間があれば、何か得体の知れないものが入り込んでくるように思えた。
そうしても、しばらく眠れなかった。
夜行性の動物の声がうるさかったからではない。何かが自分の周りを取り巻いているような圧迫感を感じていたからだ。「ばからしい」と思ってもロドリゲスの話がフィルの頭の中の大部分を占めている。
もうこのまま朝まで眠れないと思っていたが、先ほどのウィスキーがほどよく効き目を発揮して、いつの間にかフィルは深い眠りに落ちていた。
そして彼はその晩、同じ密林の中にいながら、時空を遡ることになったのだ。