野木久美①・8
絶好のカラオケ日和なのかは分からないが、目が覚めて部屋の窓のカーテンを開けると、雲一つない青空が広がっていた。今日は土曜日だが、あえて言うなら日曜日っぽい。日曜日が二日続くと考えると、こんな幸せは他にないだろう。
皆との約束の時間は十一時、場所はこの辺のカラオケ店舗では格段の安価を誇る、駅前のジャイカラへ現地集合だ。じっくりと歯磨きをして、テレビを見ながらご飯を食べても、十分に余裕がある。
(そうだ、今の内にウォーミングアップしとこう)
その余裕を使って、着信音にもしている名曲の練習をする事にした。頭の中に、美しい前奏が多少のアレンジをもって流れ、ついに僕の出番がやってくる。そうして、僕は自分の音痴を思い出すのだった。
名曲を泣く泣く蔵にしまって、僕は家を出発した。十一時少し前にジャイカラに着くと、メンバーは既に全員揃っていた。
「遅いですよ~!」
朋絵さんは僕の姿を認めると、すぐに口を尖らせた。私服……ではなく、何故か制服を着ている。飾りっ気のない白服だが、所々に入る薄桃色の花の刺繍が、朋絵さんの愛らしさをよく表していた。
「ごめんごめん。でもほら、時間前だし」
「十分前行動は原則です!」
わざとらしく、腰に手を当てて怒る。その隣で、派手ではないが地味でもない水色がかった白衣を着た優さんが、溜め息を吐いた。
「あなた、ついさっき来たじゃない?」
「そ、それは、道に迷っただけで……」
「一時間ほど早めに出るべきだな。朋絵嬢は」
そう言って笑う佐奈さんを、朋絵さんが抗議の意をもってか見つめた。
重郎は、僕の姿を見てすぐに受付に行ってくれていたらしく、それから少しして部屋番号が記されたバインダーを持って帰ってきた。
「二〇五号室だ。二階だな」
中学校時代からここで鍛えたブレイカー重郎は、さすがに手慣れている。僕たちは重郎の案内に従って、用意された部屋に入った。
二〇五号室は、数字が若いだけあって中もかなりの広さを誇っていた。十人ぐらい入っても苦にならない気がする。逆に、一人や二人で利用するには、広すぎて不便と言う程だ。多分、パーティ用の部屋なのだろう。
先に注文しておいた飲み物が届くまで待って、とりあえず各々選曲する事になった。
「優さんは、歌上手そうですよね~」
手馴れた手付きで電子歌本をいじる優さんを眺めて、朋絵さんが言った。その右手には、色の良いオレンジジュースが握られている。
「カラオケなんて、前世ぶりよ?」
「そうなんです? でも、真っ先に取りましたよね、それ」
「電子機器を見るとつい、ね。……はぁはぁ」
優さんは、思っているよりもずっと危ない人のようだ。僕はそう、脳内のメモに書き足しておいた。そうこうしている内に、一番最初に曲を入れた重郎のジャイアンリサイタルが始まる。僕はポケットに手を突っ込んで、耳栓を入れ損ねた事に初めて気付いた。
「お゛ー゛! 冬休みぃ゛ー!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
重郎の歌は、中学校の頃から更に悪化していた。いや、このレベルになると、むしろ進化と呼ぶべきなのかも知れない。
「……うっし。まぁまぁだったな!」
「そう……かしら……」
重郎が歌いきった頃には、僕たちは佐奈さんを除いて全員虫の息となっていた。さっきまでの地獄絵図的な歌とは正反対の、朗らかな効果音と共に、得点が表示される。
『音程:49% テクニック:71/100 得点:61点』
「うぉぉぉぉ! 自己最高だぜ!」
「うむ、おめでとう」
「……半分も音が違ったら、もう別の曲みたいじゃないです?」
続いて表示された、採点機能からのアドバイス的なコメントには、『落ち着いて歌いましょう』とだけ記されていた。とても、正しい。落ち着いて歌ったところで、多分音痴には違いないのだろうけど。
次に演奏されたのは、朋絵さんの入れた『TAIFU』だった。
「~~~♪」
どちらかと言うとアルト声の朋絵さんの音域には、『TAIFU』は丁度歌いやすいようだった。のびのびと歌っているような感じがする。
「さっきの後で、天使の歌声に聞こえるわね」
「うん。かなり」
聞いていて心地良い。聞きたいと思わせる為の十分条件をクリアしているのだ隣で重郎は、自分の方が上手いじゃないか、と言うような顔をしていたが。
曲が終わり、評価が表示された。
『音程:83% テクニック:83/100 得点:81点』
「……まあまあです?」
「朋絵嬢は、歌が上手いのだな。そこのとは違って」
「そこのって何だよ!」
最近の、利用者に媚を売る事を知らない採点機能が、八割オーバーの得点を出す事はけっこう稀である。普通、七十台後半を上下する事が多い。つまり八十一点は、中々の高得点だという事だ。
ちなみに、コメントは何故か『落ち着いて歌いましょう』だった。
「ほら、朋っちも俺と一緒じゃねぇか!」
烏龍茶を持った重郎の言葉に、朋絵さんがかなりショックそうにへたり込んだ。
次に、優さんが選曲した『世代』が始まった。優さんはいつもの声に比べても、格段に明瞭で真っ直ぐな声で歌い出した。優さんの声は元々澄んでいるから、要するに恐ろしいほど綺麗だった。
「~~~♪」
「……やべぇ、うめぇ」
頑固な重郎が認めるほどの安定感だった。絶対音感でもあるのかと言うほどに、正確に、ごく正確に音を繋いでいく。変なアレンジは全くしない辺りが、普段の優さんとは一線を画しているように思えた。
僕が夢中に聞き続けている中、曲は終了した。部屋はすぐに、満場の拍手に包まれた。
「褒められるのも、悪い気はしないわね」
優さんも、心地良さそうにその拍手を受け止めているようだった。
その後表示された評価は『音程:89% テクニック:75/100 得点:84点』、コメントは『ビブラートを意識してみましょう。こぶしを利かせるのも更なる高得点への道です』だった。
「優嬢は万能だな。ネギのようだ」
「それは嫌な喩えね……」
無料の水を口に運びながら、優さんは眉をひそめた。
次はいよいよ……僕の番だ。曲は、『世界に溢れている花』。好きな曲よりも、まずは自分が何とか歌える曲を選んだ。好きな曲は、どう頑張っても上手く歌えそうにない。
前奏もなく始まる歌い出しでちょっともたついたが、ノリ始めるとそれなりに歌う事が出来た。
「~~♪」
「……あれ、佐奈さん、入れないんです?」
「ん? うむ。今日は三分の一ほど昴に払って貰うのでな。大人しくしている」
佐奈さんらしくもない、謎のおしとやかさだ。何度も朋絵さんが入れるように迫ったが、佐奈さんは固く拒否したようだった。
そんな事に気を取られている内に、曲が終わってしまう。得点が表示される段になって、僕はぐっと不安になった。少なくとも、重郎よりは点を取らねばならない。僕は、二代目ブレイカーにはなりたくない。
『音程:72% テクニック:75/100 得点:74点』
「よし、重郎に勝ったっ」
「俺に勝つとは……! だが俺は、四天王の中で最弱、自然科学部の面汚しよ……って何言わせんだよ!」
「いやいや、一人で言ったんでしょ?」
低層での争いだったが、何とか制する事が出来た。朋絵さんからは中々上手でした、優さんからは精進しなさい、佐奈さんからは大葉のような歌声だった、とのコメントを頂いたが、画面に表示されたコメントは『落ち着いて歌いましょう』だった。
「……それで、佐奈さんは歌ってくれないの?」
「ああ。歌ってあげない」
「気にしないし、歌ってよ」
何度か誘ったが、佐奈さんが電子歌本を手に取る事はなかった。僕たちも、無理強いは出来ない。
「じゃ、二周目だな。つまりは俺だ、俺だ、俺だぁー!」
地獄のジャイアンリサイタル・リターンが始まり、僕たちはまた阿鼻叫喚の中に突き落とされていくのだった。
「……あー……喉痛ぇ……」
うなだれる重郎を先頭に、五時間ほど歌い尽くした僕たちは店の扉をくぐって外に出た。
最初に歌った時の雰囲気通り、優さんの歌は華やかではないものの正確で、一番上手だった。音程だけを見ると、正確さが九割を超えている時すらあったほどだ。ただ、結構な数を歌ったと言うのに、ずっとノンビブラートで通していた辺り、カラオケが初めてだと言うのも本当らしい。となると、歌が上手いのは天性の才能なのだろうか。羨ましい。
「私は耳が痛いがな」
結局、五時間の間一曲も歌わなかった佐奈さんが、耳を押さえる振りをして言う。何度も歌うよう勧めたのだが、三分の一も持って貰うのだから、と言って譲らなかった。終始楽しそうだったから、本人が良いなら構わないのだが。
「あの電子本……何とかして持って帰れないかしら……はぁはぁ」
「そんなに気に入ったんです?」
「当然よ! ……あのサイズであの動作速度……通信速度も申し分なかったし……はぁはぁ」
「変態だな。優嬢は」
全くの同意見だ。あと、そんなに先端技術でもない気がする。あまり綺麗な液晶画面でもなかったし。
駅前から少し歩いた所まで、今日のカラオケの出来について皆でわいわいと喋り合い、そこで別れて解散となった。
家に着く直前に、久美にメールをしてみた。だが、返信は夜になっても来ないままで、少しだけ寂しくなった。