野木久美①・2
目が覚めたのは、六時二十五分だった。
昨日に比べて良すぎる目覚めに嬉しくなって、早朝からひゃっほーうと叫んだ。寝起きとは、本当に何をしでかすか分からない時だと思う。
(早起きしなくても、起こしにきてくれる幼馴染とか、欲しいなあ)
ゲームの話である。大抵のゲームでは、そういう男子生徒は様々な女子から人気があって、最終的に誰かとハッピーエンドを迎える。つい先月までやっていたゲームもその例に漏れず、主人公は現実ではあり得ない桃色の髪の女の子と恋愛を成就させた。
「~♪」
久々にそのゲームの事を思い出してテンションが上がり、オープニングテーマを鼻歌で奏でながら歯を磨いた。電動歯ブラシの音がその度に音色を変えるので、ついつい長磨きしてしまう。多分、電動歯ブラシよりも手動歯ブラシの方が、効率は良いだろう。
それから部屋に戻ると、時計は少し進んで三十二分を指していた。
「……鳴ってないじゃん!」
思わず驚きが声になった。アラームは六時半に設定してある。洗面所と僕の部屋とはそう離れていないので、鳴れば気付く筈だ。つまり、鳴ってない。昨日起きれずに遅刻したのは、時計が壊れていたからなのか。
お陰で、昨日の暗澹たる校長シャウトまで思い出してしまった。僕にとって残酷だったのは、それ自体よりも物真似の失敗だったのだが。
(って……アラームのスイッチ入れてなかった……)
昨夜は勢いで眠ってしまったから、目覚まし時計は今日に限ってただの時計だったらしい。鳴らない方が起き易いのだろうか。
ひとまず、鳴らなかった理由を突き止めたところで、今朝は早くに出掛けてしまっている両親の用意した朝ごはんへと向かった。今日の朝ごはんはカレーライスで、よくあるケースだが昨日の夕飯の残りである。昨日の夕飯は、一昨日の夕飯の残りのカレーライスだったから、今日の朝ごはんは一昨日の夕飯のカレーライスの残り、と言う事になる。
とは言え、家庭の味とは恐ろしい。二日続いたぐらいでは、カレーライスが持つ独特の魅力は全く薄れていなかった。
「行って来まーす」
食事の後、何十分かの一人の時間の満喫してから、僕は誰に告げるでもなく挨拶をして、家を出た。鍵はきちんと掛けておく。こうしておかないと、両親から思わぬ大目玉を食らう事になる。
空は清々しく、青く映えている。昨日は遅すぎて誰も居なかった道には、今日は早すぎて誰も居ないようだった。昨日の僕に、ちょっとした優越感を覚える。
そこへ、その昨日の僕が見た顔が通り掛かった。
「おはよう」
とりあえず、声を掛けてみる。猫のような外見をした女の子はうなだれていたが、僕の声に反応して顔を上げた。
「あ、昴さん。おはようございます~」
シャウト校長のモノマネで一躍名を上げた朋絵さんが、僕を見て手を振りながら挨拶を返してきた。もしかすると忘れられているのではないか、と思っていたが、さすがにそんな事はなかった。
「昴さんも迷ったんですか?」
「え?」
「道です。私、かれこれ三十分ほど迷っているんですが……」
三十分は僕の家から学校までの所要時間より長い。方向音痴、と、僕の脳内の朋絵さんデータに書き足しておいた。全般的に、どこか抜けている所があるようだ。
「じゃあ、一緒に行く?」
折角の珍しい、女の子と一緒に登校するチャンスなので、少ない勇気を存分に振り絞って訊いてみた。
僕の顔が火照るよりも、答えは早くに返って来た。
「はいっ!」
ちょっと周りの視線が突き刺さるようで痛いが、それを除けば今ほど幸せな時はないだろうと思う。いや、あるいは、この突き刺さる視線こそが、幸せに感じるポイントなのかも知れない。
なんせ、女の子と二人での登校だ。そして、その相手の女の子は、中々可愛い上に既にクラスの人気者と来ている。えへへ。
「…………」
「……あ、あの~?」
「うん? 何?」
敬語キャラな分、ちょっと他人行儀なのが気になるものの、遠目には彼氏彼女に見えるだろう。昨日出会ったばかりだから、他人に近いことは間違いないのだが。えへへ。
「顔、にやけてますけど」
「えへへー……ってわ、わ! わぁ!」
危ない危ない。つい弛緩してしまう表情筋には、後でみっちりお仕置きしておかねばなるまい。えへへ。えへへ。
そんな調子でそのまま教室に入った。
さすがに萎縮した顔の筋肉と共に、先生が来るまでの時間、一緒に登校してきた流れで後ろの席の朋絵さんと友達らしく会話を交わした。そのせいか、ちょっとして教室に入ってきた重郎は、こちらを見るや否や駆け寄って叫んだ、
「おい! お前! 朋ちんと付き合ってるって本当か!?」
僕の手元の筆箱が落ちそうになった。
「朋ちんって、私の事ですか? 付き合ってませんけど~」
「で、でも、朋ちんと昴が、一緒に登校してたって言う噂があってだな……うわぁー! 昴の裏切り者ー!」
「誤解だよ!」
叫び散らす重郎に、時に理路整然と、時に感情的に、時に深層心理に働き掛けるようにして事情を説明してみたが、聞く耳を持たない彼には全く効果がない。その間にも、重郎の声を聞いた周りの生徒達が、わいわいと勝手に騒ぎ始める。非常によくない。中には今日の僕のにやけ顔を目撃した生徒もいるようで、事態は収まるどころか徐々に悪化し始めた。
「大体お前、昨日だって朋ちんと一緒に遅れて来たじゃねぇかよ! 裏切り者ぉ! ブルータス! お前もかぁ!」
「混乱しすぎだって、ちょっと落ち着いてよ!」
昨日に至っては、シャウト校長の前で初めて会ったというレベルなのだが、それを否定する暇もないほどに重郎が押してくる。騒ぎはどんどんと加熱し、早く火の元を止めなければその内爆発に至るだろうと思われた。
「なるほど、昴さんと朋絵さんは、そうでしたか……」
向こうで、静かで落ち着いているのが特徴のはずの多香子さんが、新たな火種になり得る独り言を言いながらメモを取っている。だが、僕の手は重郎の勢いを止めるので完全に塞がっていて、多香子さんまで回らない。
「会った時から、そんな感じはしていたな」
「はい。お似合いだと思います」
そこへどっしり豪快で知られる佐奈さんも紛れ込んだ。もはや、火消しすら火薬になってしまいそうな勢いである。
「学級崩壊の危機だ、どうすれば良いのか……」
そんな中、学級委員長こと明菜さんは学級委員長なりに、少しずれながらも現在状況に違和感を覚えたらしく、火消しの方法について一人思案していた。だが、どうやら結局何も思いつかなかったようで、僕に小さくお辞儀をして自分の席へと戻っていった。
火消し役もなしで盛り上がり続けた熱気は、冷めるのもまた早く、五分もしない内にクラスの話題は別に移った。
「おい、どうした皆! もっと盛り上がろうぜぇい!」
「……あの、昴さん。重郎さんって、いつもこんな感じなんです?」
ちょっと伏せ目がちに言う朋絵さんの目は、それでもどこか楽しそうだった。
「朋ちんちゅーたら、僕の学生時代のあだ名やね」
あろう事か、重郎は先生が来てからもずっと騒いでいた。お陰で先生にもその噂が聞こえ、そこから十分以上にも渡る先生の超青春記が始まってしまっていた。主に一人の女の子との恋愛についてだったその話は、僕の二つ後ろの席の女の子一人の涙を誘うだけに終わった。
やっとその話が終わり、先生は黒板に大きな文字で『グループ決め』と書いた。教室内でいくつかのグループを作り、それらで日直・掃除・課題・遠足などに当たるのだと言う。結構重要だ。ここ次第で、僕の高校生活がバラ色にも灰色にもなり得る。
「三十二人やし、一グループ六,七人で五グループ作ろか。……はい、開始。ドーン」
いまいち歯切れの悪い掛け声の必要性がどの程度なのかは全くの不明だ。
とにかくグループを組むならと重郎を振り向くと、既に重郎は、さっき副火種となってクラスを混乱へと陥れた二人、佐奈さんと多香子さんを連れてこちらへと歩いてきていた。こういうグループ決めは、早い者勝ちである。誰も、他のグループに入ってしまった人を、自分のグループに強引に連れてくるわけには行かないからだ。そういう点では、重郎のお陰で僕はかなり得していると思う。
そうだと思い出して後ろの席を見ると、幸い、朋絵さんはまだ誰とも組んではいないようだった。
「一緒に組もっか」
「あ、はい。了解です~」
あっさりしている。何かこう、二十年来の知り合いのような。違うけど。
重郎が合流すると、佐奈さんに多香子さん、朋絵さん、それに僕と重郎を加えて五人になった。あと一人か二人、昨日知り合った人で言うと……。
「明菜さんは?」
「あちらの方で、グループ作りの斡旋をしているようですね」
多香子さんが指差した先で、明菜さんは小さな体をフル活用して、てきぱきと指示を出していた。八人のグループと五人のグループを、上手くならして七人と六人に分ける所などは、一種のカリスマ性を感じさせられる。
僕は立ち上がってその後姿へと歩くと、後ろから竹頭さん、と呼んだ。
「どうかしたのか」
「えと、明菜さんは、グループ決まってるの?」
明菜さんはちょっと天井を見上げて、考えた。そして、そう言えば決まっていない、と答えた。とぼけた反応だ。とても可愛い。
「良かったら、昨日の五人でグループ組んでるんだけど、入らない?」
「ありがとう。そうする」
返事は、今度は早くに返された。
「じゃあ、終わったら来てね」
「うん。くるくるー」
昨日からのお気に入りなのか、言いながら明菜さんは愛らしくくるっと一回転して見せた。
皆の所に戻ってみると、何故か全員が僕を冷たい目で見ていた。
「……君はアレだな、軽い男だな」
「え?」
「下の名前で呼ぶのが早すぎる」
突っつく様な口調で佐奈さんに言われて、我に返った。中学校の頃は、三年間下の名前で呼んだのは、重郎と久美だけだったのに。いつの間にこんなに積極的になったのだろう。
「多香子さんにつられたんだよ、きっと」
「責任転嫁……良くないです」
多香子さんは、涼やかに言った。大人しい女の子だと思っていたが、思わず積極性がある。
「また名前で呼んでるしな。ひでぇ奴め、浮気性め。ブルータスめ!」
「ブルータスさんは一本気ですけれど、重郎さんも人の事言えませんよね」
わいわい、がやがや。三分ほどで来た明菜さんも巻き込んで、グループは早くも大議論の渦にはまっていった。
大議論は、およそ五分で決着がついた。
「以上をもって、あだ名や名前で呼ぶ事をくるくる認める」
明菜さんがそうまとめる。最初は攻守分からずに言い合っていただけだったのだが、明菜さんが入って意見を一人ずつに聞くと、皆が名前で呼ばれる事に抵抗がないという意見だったので、その後はこれと言った反論もなく綺麗にまとまった。学級委員長の力は絶大だ。
「よっしゃー。いったん席ついてなー」
先生の言葉で、僕たちは席に戻った。
それから、グループについてさっき受けたものよりも詳しい説明を受けた。グループの仕事の一つである掃除は、教室と、すぐ近くのトイレと、少し遠くにある社会科教室が、週に各一回ずつ計三度回ってくる。先生の指示で各班の代表者が話し合い、その結果月曜日に社会科教室、木曜日に教室、金曜日にトイレの掃除を担当する事になった。掃除は来週からなので、月曜日早速掃除があると言う事になる。
次は、来週金曜日……今日が火曜日だから、ちょうど十日後に訪れる遠足についての説明だった。行き先は近くのレジャー施設で、飯ごうやら料理やらを行ってグループの団結を図るのが目的らしい。よくあるパターンではあるが、楽しい行事だ。
「時間は、調理・食事・片付けを含めて二時間半や。間違うても、時間の掛かり過ぎる料理したらあかんで。去年は、ドーナツ作ろうとしたアホがおったからな。じゃ、もっかい班で集まってその辺決めてんか。あと、班長も決めといてな」
先生の指示に従って、また六人で集まる。集合場所は僕と朋絵さんの席の周りだという、暗黙の了解が出来たらしく、僕と朋絵さんは全く動く必要がなかった。
全員集合しての開口一番、重郎が言った。
「リーダーは、まぁ俺で良いとして……。料理が悩み所だな」
「悪い冗談はよせ」
頼りになる佐奈さんがすぐに突っ込みを入れる。そのタイミングの良さたるや、久美にも劣らないほどで、僕が突っ込む隙は全くない。クイーンオブツッコミだ。
「んぁ? 何だ、何か良い料理の案があるのか?」
ただし、キングオブボケ重郎も、そう簡単に負けはしない。
「そっちじゃない。お前がリーダーと言う件だ」
「確かに、ちょっと不安ですね~……」
天然ボケでその名をクラス中に響かす朋絵さんが、佐奈さんと共に突っ込みに回った事で、重郎の無勢は明らかになった。
とりあえず、一番適任っぽい人が居るので、薦める事にした。
「明菜さんは、どう?」
「……良いですね。明菜さんなら、安心してお任せ出来ます」
小さく頷いて、多香子さんが同意してくれる。佐奈さんも朋絵さんも、不満はなさそうな目だ。これが人望の差かと思い知らされて、重郎も目を点にする。
だが、明菜さんは首を横に振った。
「学級委員長の務めがある。残念ながら、時間が取れない」
「よっしゃぁ! ならもうこれは、俺しかないな!」
「うむ。では、委員長に指名して貰う事にしよう」
重郎は半分無視されかかっていた。いや、完全に無視されている。
結局、佐奈さんの提案通り、明菜さんの指名でリーダーを決める事になった。明菜さんが一番に指名したのは、大方の予想を大きく裏切る重郎だったが、佐奈さんが提出した不信任案に賛成票が三票集まり、結果重郎は解任され、二度目の明菜さんによる指名で、何故か僕が選ばれた。
「名前で呼ぶ合うと言うフレンドリー感を生み出した功績を評価した」
「え、それだけ?」
リーダーという柄では全くないので、腰が引ける。見た所、どっしり感のある佐奈さんや意外とまとめが上手そうな多香子さん辺りが、僕に比べても明らかにリーダーに相応しそうなのだが。
「昨日と今日しか評価基準がないから、十分だった。くるくるを生み出した朋絵が三番手」
くるくるに関してはもはや、明菜さん個人の意見でしかない。そもそもまあ、多香子さんや佐奈さん、朋絵さんについての印象がゼロに等しいのだろうけど。
「昴さんなら……重郎さんよりは良さそうです」
「多香子嬢が言うなら、私もそう思うことにしよう」
「私も、それで良いと思いますよ~」
色々まどろっこしい言い方をされながらも、重郎以外の信任を得た僕は、めでたくリーダーに就任した。重郎だけはずっと俺だ俺だと言っていたが、逆にその事が、僕がリーダーを辞任しない理由になった。
続いて、恐らく本題であろう料理選択を話し合い始めたのだが、その冒頭、あまり好き嫌いをしなさそうな明菜さんが、
「さんまだけは嫌だ」
と言った。
「元々、さんまは選ばれる余地がなさそうだが」
「苦手なの?」
クイーンオブツッコミ佐奈さんの突っ込みもだいぶ核心を突いていたが、とりあえずリーダーとして訊いてみた。
「キャラが被る」
……いわゆる恋愛ゲームのヒロインに、そう言えば『フーキーン』と呼ばれるさんま好きの女の子が居た。だが、何故それを、明菜さんが知っているのだろう。
とりあえず、初めから考えになかったさんまを更に遠くに追いやってから、意見を一人ずつに訊いていった。
「焼きそば……シーフード焼きそばが良いですねぇ~」
「カレーが妥当ではないかと」
「裏を掻いて、塩結びだ」
「コーンフレークはどうだろう。栄養満点」
「俺、サンドイッチが食いてぇ!」
……バッラバラだった。一体感がないって言うレベルじゃない。普通、せめてワンペアかスリーカードが出来るものである。何故ストレートなのか。役は高いが、そういう問題ではない。
まずは、ふるいにかける。
「塩結びは二時間半使えないし、サンドイッチはご飯が余っちゃうし、コーンフレークはそもそも料理してないから却下ね」
「となると、二択だな。重郎……以外で採決を取ろう」
「なんでやねんっ!」
重郎が先生に、良いツッコミだとか褒められている間に、五人で採決した。シーフード焼きそばが五人、カレーが無し……。
「あれ、多香子さん、カレーは良かったの?」
「何だか、シーフード焼きそばと言うフレーズに惹かれまして」
満場一致。僕たちは残りの時間を、談笑と重郎をなだめるのに費やした。