駒黒佐奈①・1
誼絵さんの話をまとめると、つまりはこうだ。
昨日の謎の車については、謎しかない。目的も分からないし、どこから現れたのかも不明のままである。ただ、少なくとも、春花さんの家を取り囲んでいたのは間違いなく、一度捕まって解放された明菜さんを除く僕たちの中の、誰かが狙われているのには違いない。そして今の所、それを回避する絶対的な術は一つもない。捕まえる機会は、いつにでもあるのだから。
「登下校は、二人以上でした方が良いわ。登校は、朋絵と一緒にしなさい」
こうなると、かなりの大事だ。どこからこんな非日常に迷い込んでしまったのだろう。鈍い僕にとって、あまり環境がおかしすぎるのは、良くないと思うのだが。
誼絵さんは、どうしてか不機嫌のまま、家を出て行った。
土曜日。僕は、買った筈なのに買っていない事になっているノートを求め、商店街の百円ショップ『Syoso』を訪れた。何でも店名の由来は『勝訴』であり、昔、実際の販売価格が百五円であるのに、百円ショップを名乗るのは詐欺広告行為ではないか、という理由で起こされた裁判に、数ヶ月の闘争の結果勝利した事だそうだ。客を小馬鹿にしたような店名だが、それでも年々大きくなっていくのは、その商品の質が高いからに他ならない。
僕が三冊セットのノートを胸に抱えながら、五百ページもあって税抜き百円の英和辞典を眺め、二つぐらい購入しておくと使い出があるかも知れない、などと考えていると、隣から見覚えのある顔が、その辞書を手に取った。
「……うん? ああ、君か」
佐奈さんだ。佐奈さんは、僕よりも先に僕に話しかけると、手に持つ辞書をぺらぺらとめくりながら、
「枕にちょうど良いのだよ」
と言った。確かに良い暑さかも知れない。
「枕……。確かに、そうかもね。使った事ないけど」
「無論、猫のだ。私は使わない」
「……また騙された」
時々、佐奈さんのこういう手にやられる。多分、僕の方がちょっとずれていて、そこを上手くからかわれているのだと思うのだが、逆にそのせいでどうしても引っ掛かってしまう。
「騙すとは心外だな。君が勝手に勘違いしているだけだろう」
「……。猫の枕を買いに来たの?」
僕がちょっと意地悪げにそう訊くと、佐奈さんは少し目を細めた。
「猫は飼っていないんだ」
「え? ……嘘吐きだなぁ」
「私の妹は猫っぽいからな。猫と呼んでいる」
そう言えば、自然科学部員の家族構成はよく知らない。佐奈さんには、妹が居たのか。
「へぇ……。妹さんは、幾つなの?」
「君にはやらんぞ。……私の一つ下だ」
という事は、中学三年生か。無邪気な佐奈さん……は、想像にかなり難い。どんな子なんだろうか。可愛いのかな。
……。危ない。またおかしな方向に走りかけた心を修正した。
「そっか。……猫、ちょっと撫でてみたかったんだけどなぁ」
「ふむ。私は猫は嫌いなのだよ」
佐奈さんは、もっと目を細める。でも今度は、すぐに表情を崩して、
「さて、そろそろ会計せねばな」
と言った。僕もそれに従ってポケットに手を入れる。……あれ、ない。ポケットの中には財布はなく、そういえば入れた記憶もない。
「……あー、佐奈さん?」
「うん?」
「財布忘れちゃって……良かったら、お金貸してくれない?」
佐奈さんは、少しの間硬直した。
「……なんだ、私に金をせびろうと言うのか」
「そうじゃな……くもないけど、同じクラスの誼でさ」
「それは、貸す方のセリフだぞ。……ノートだけか?」
「うん。ありがとう」
多少の皮肉を言いながらも、思っていたよりもすんなりと貸してくれた。
僕は何度もお礼をしてから、佐奈さんに押されてレジへと並び、会計を済ました。その時後ろを見返しても、もう佐奈さんは居なかった。つくづく、不思議な格好良い人である。
その後、家に財布を取りに返ってまた商店街へと戻ったが、佐奈さんの姿を見かける事はなかった。
日曜日。昼ご飯を終えた一時ぐらいから、すっかり忘れ掛けていた化学の宿題に取り掛かった。原子番号と元素名を覚える……。単純作業とは言え、暗記力に乏しい僕には中々に難関で、課題だった二十番まで覚えるのに一時間を要した。
次に、英語の宿題を始める。先生に言わせれば、「I love you.」を日本語訳する時のような感覚で他の英文とも当たれるようにすべきであり、その為には大量の読解をこなす必要があるのだそうだ。お陰で、宿題を終える頃には四時過ぎになっていた。
(微妙だなぁ……)
四時過ぎだと、遠出は出来ない。かといって近場に用事はないし、何もせずに居るには暇が多すぎる。予習するようなタチでもないし、ゲームするような気分でもない。分かりやすく言うと、向こう二時間ほど手持ち無沙汰だ。
メールでもしようかな。そう思った所へ、電話の着信音が鳴り響いた。発信者は……。
「もしもし?」
『……おはようございます』
発信源は多香子さんだった。珍しい。というより、初めてである。
「もう夕方だよ?」
『おはようございました』
「……うん。ええと、用件は?」
『用件……はい、そうですね。用件は、明日の時間割なのですが……』
どうも渾身のギャグだったらしく、薄い反応に少し釈然としていない口調で、多香子さんは明日の時間割の詳細について尋ねた。どうやら時間割表を失くしてしまったらしい。
『英語が二時間もあるのですか?』
「英語と、リーディングかな」
『なるほど……。分かりました、ありがとうございます』
「どう致しまして」
電話を切る。
と、すぐにまた着信があった。
『お弁当、作っていきます』
「え……?」
『皆さんの分持っていこうと思います。では』
ブチ。今度は向こうから電話が切れた。
ええと。お弁当。持ってくる。明日から?
(……わぁ)
マイペースというのは、多分こういう人の事を言うんだろうなぁ、と思った。既に家に居ない母親へ、明日のお弁当は要らないというメモを書いておく。それから、一応連絡しておこうと思って五班のメンバーにメールを送ったのだが、全員から知っているとの返信が来た。中々、多香子さんもアクティブである。
色々な事が終わってしまったが、変わらず明日も楽しみだ。朋絵さんとの登校も、もちろん含めて。
(今日は早く寝よう……)
そう決め込んで、僕はかなり早い夕餉の支度を始めた。




