野木久美①・20
少なくとも、久美が何かした訳ではないのだ。それなのに、大人の勝手な事情で命まで奪われるのは、あまりにも不条理である。
マンションに到着した僕達を出迎えたのは、沢山の銃口だった。
「……おう。兄やん、連れてきてくれたんかのお」
……。何か言わなければいけない。だが、思考が、口が、一斉にストライキを起こして、何も言葉にならない。
思いとは裏腹に奮い立たない自分にむしゃくしゃしながら、僕は右手で、僕を指す拳銃を、押して避けさせた。
「ま、入れや。野木嬢。あと、兄やんものお」
無口のまま、頷いて、中へと入る。久美は、何も言わない僕を、逆に頼りに思っているのか、抵抗せずに付いて来てくれた。一時の信頼にすら応えられない自分に、堪らない無力感を覚える。
男に従って五階まで上がり、久美の家の扉を開く。中には、数人のサングラスをした男達が座り込んでたむろしていた。案内役らしい男に誘導されて、金曜日に謎の男が立てこもった小さい部屋へと歩いた。そういえば、あの謎の男は何だったのだろう。自殺の狂言に必要だったはずはないし、今あちこちに居るサングラスとは、雰囲気も服装も、全く違う。
……。そんな、どうでも良い事に限って意味もなく頭を働かせてしまう自分に、辟易した。今は目の前の久美を、目の前のサングラス達から解放する事だけに集中すれば良い。僕は、入れてもすぐに抜けてしまう炭酸のような気合を、もう一度入れ直した。
「……野木ん旦那、連れて来ましたん」
「ああ。うん。ありがとう」
そこには、ただ一人、暗がりに佇む久美の父親の姿があった。おかしい。久美がこうして追われている状況で、ある意味当人である久美の父親が、悠々とこんな所に一人居る。その光景は、異様と言って間違いなかった。
「……お父、さん?」
久美もそう思ったらしく、ぎゅっと僕の裾を掴んだままに、呼び掛けた。久美の父親は、一歩こちらへと歩み寄って、
「少なくとも、久美が思っているような事にはなっていないよ」
と言った。更に、言葉を継いでいく。
「ウチじゃないどこかの車だね。久美を追ってきた以上は、警戒はしないといけないけれど」
……。どうやら、とりあえず、最も危惧していた事は、元々発生していなかったようだ。しかし久美を追いかけてきた怪しい車は、一体何だというのだ。
思い出して、振り返って見てみると、久美は心底、ホッとした表情をしていた。強がってはいたが、やはり不安だったのだろう。だが、僕の裾には、まだしわが寄ったままだった。
「……お疲れ様、久美」
僕はそう言って、軽く久美の頭を撫でてやった。
一時間ほど久美の家に留まった後、怪しい車が姿を消したという事で帰宅した頃には、既に夜の八時ぐらいになっていた。解放されたという明菜さんは、怪我一つしていなかったらしく、本人も何故解放されたのか分からない、と言っているらしい。不思議な話である。久美はその後、落ち着きを完全に取り戻し、強面の男による叱責にも、にこにこと対応していたとの事だった。何がともあれ、無事に済んで良かったと思った。
翌日木曜日。朝に、朋絵さんから、無事だったかというメールが届いた。僕は、経過を丁寧に書き記して、返信した。
多香子さんと佐奈さんは、一連の事件について全く知らないようだった。わざわざ知らせる必要はないだろう、と思ったので、秘しておく事にした。
六時間目のロング・ホームルームでは、お向かいという超最寄りのスーパーへ、明日の遠足料理の材料を買いに行った。予算五千円の半分以上を、明菜さんが強く希望したロールイカに費やし、肝心のそばはかなり少なめになったが、とりあえず問題なく購入する事が出来た。
「小型通信機をそういう車にくっ付けて回ったのだけど、通信可能範囲が狭すぎて検知出来ないわ……不覚っ」
部活では、優さんが小さな液晶画面を覗きながら、そう溜め息を吐いていたのが印象的だった。
あの時初めて見せた、息の詰まるような春花さんの態度は、まるでそんな事などなかったかのように扱われ、春花さんはいつも通り笑い、叫んで、騒がしいまま帰っていった。
帰宅して、思う。結局、僕は何も出来なかったのだと。ただ、決意し、決心し、覚悟を決めたばかりで、事態の解決に何の協力も出来はしなかった。
久美との事も、心に引っ掛かっていた。久美が、狂言自殺で何の挨拶もなしに引っ越そうとしていた事。少なくとも、僕が涙を流して、前後不覚となるまでに至ったあの時を作り出したのは、他でもない久美なのだ。そして重郎も、同じだった。
僕は、僕のふがいなかった事を、よく知っている。だから、そうされても、仕方ないと思わないではない。でも、だからといって、久美が、重郎が僕にした、あるいはしようとしていた残酷な行為が、僕にとって心の痛む事でないという訳には、残念ながら行かなかった。
まだ、足りない。久美との中に残るわだかまりは、まだ僕と久美を、決定的に隔てている。そう何度も反芻しながら、僕は、未だに鳴らない時計二つを眺めた。




