野木久美①・13
「……ヤクザ者が家に乱入、娘を人質に取っておいて何の要求もせず。しかも、その娘の父親は地域の組の幹部で、ヤクザ者はそれを知らなかった。……奇怪な話ね。辻褄が合わなすぎる」
僕の部屋のベッドに座り心地悪そうに腰掛けて、誼絵さんは言った。本当なら前に訪ねた誼絵さんの部屋で話すのが一番だったのだが、今日は何かと都合が悪いらしく、仕方なく少しだけ掃除をした僕の部屋に招待したのだった。寝室としても利用しているから、臭ったりしなければ良いなと思う。
「まず、この辺を仕切っている組の幹部の家だと言う事ぐらい、調べずとも分かるはず。それから、家に立てこもった目的も不明。謎だらけ」
「八方上手く収まったんだし、良いんじゃない?」
「……とてつもない能天気ね」
幼い少女を、ただ一人だけ部屋に上げるに当たって、まず両親からかなり白い目で見られた。自分でも、かなりよろしくない事をしているように見えるのは、よく分かる。だが、目の前に居る少女の声は、幼いそれとは全く似通ってはいないのだ。多分、精神的な年齢も、比べれば僕よりも誼絵さんの方が数倍高いだろう。
そんな非日常ながら平和な会話に、僕は全ての決着がついたような感触を得てホッとする。だがその様子を見て、誼絵さんは溜め息を吐いて言った。
「あえて言わなくても良いのだけど……。本当に、何の疑問も感じないの?」
「えー。うん」
「……人質に取られたその子が、何故自殺したのか。あなたには、見当がつく?」
……ああ、そう言えば、それは今もって謎だ。人質になった状態から、何をどうすれば自殺と言う事態に陥るのだろう。
「色々あったんじゃない?」
「……短慮ね。私も、簡単に虐待だと決め付けたのだから、言えないけれど」
予想が外れたのは久しぶりだと、誼絵さんは笑って見せた。実は、今日の今日……日曜日に至るまで、誼絵さんの話は六割ぐらいしか信じていなかったのだが、今日様々な事を試してみて、信じざるを得なくなった。
まず、高校数学は理解しているだけでなく、解くのも非常に早かった。僕がまだ存在しか知らないような微分積分なども、すらすらと解いていく。英語も上手い。そして、カードゲームも恐ろしく強かった。今日初めて知ったはずのルールを、巧みに利用してきたのだ。お陰で僕は、相当自信を失った。
「はぁ……凄く疲れたのに、明日から授業と思うと心が萎むなぁ……」
「一時間目は眠れるんでしょう?」
「あー……まぁね」
あの授業をまた受けるのか。化学の先生の顔を思い出して、ちょっとだけ憂鬱になった。
「あ、そう言えば。飲む?」
手提げのかばんから、赤いプリントが特徴的なルーラ・コーラ・ジュースを取り出して、誼絵さんに手渡した。少しぬるくなってしまったが、まぁ飲めなくはないだろう。
だが、誼絵さんはコーラに手をつけることなく、床においた。
「ごめんなさい、コーラは苦手」
「そっか。美味しいんだけどなぁ」
僕は缶を捕まえてプルタブを引き、口を一杯にコーラで満たした。
月曜日、最初の昼食は、学食で思ったほどの苦難もなく手に入れたカツサンドを持って、一組へと走った。金曜日に会った以来、電話やメールで連絡し合ったりはしたものの、直接会っては居なかった。今日は、久しぶりに久美に会える日なのだった。
同時に、誼絵さんが感じた違和感、そして僕があの時に感じた、今では何なのかよく分からない違和感が、心にずっと引っ掛かってもいた。つまり、他に何か自殺する理由があったとしたなら……。今日は朝から、そんな悪夢を見た。
とは言え、そんな事は万に一つもあり得ないと分かってもいた。今日の朝も、電話まで掛けて来たのだ。
「久美ー?」
名前を呼びながら、一組の部屋中を見回す。かなり恥ずかしい行為だとは分かっていたが、早く久美の顔が見たい僕にとっては、些細な事だった。
「ありゃ。スバちゃんじゃん。何々、どうしたの?」
前と同じように、先に春花さんに話し掛けられた。フラッシュバックしかかる嫌なイメージを頭から振り払って、久美の居場所を尋ねる。
「さっき、スバスバと重郎に会いに行くんだーとか言って、七組に行ったよ?」
「すれ違っちゃったのかぁ……。ありがと、七組戻るね」
「きひひ、恋患いですなぁ。うっし、面白そうだし、あたしも行く行くぅ♪」
うるさいお供が出来てしまった。でもとりあえず、今日は学校に来ているらしい。まずはとりあえず、安心した。
階段でも廊下でも所構わず、恋患いですなぁ、青春ですなぁ、と繰り返す春花さんを何とか落ち着かせながら、七組へと向かった。今日見た悪夢のせいでいくらか寝不足だったが、進む足は勢いがある。
あと少しで七組の教室、という最後の曲がり角で、今度は優さんに出会った。
「……科学的に、何か一人だけハブられそうな流れを感じたわ。私も誘いなさい」
「超能力者? テレパシー持ち? 優ちゃん凄いなぁー」
「科学の力よ、いえす!」
まだ盗聴器疑惑は解けていないが、久美救出の陰の立役者である。心の中で、深くお辞儀をしておいた。
(……でも、優さんも、やっぱり変人だよね)
冷静なのか、一匹狼なのか、お茶目なのか、さっぱり分からない。色々混在しているという感じがする。ただ、総合して、余裕があって有事には頼りにはなりそうだ。平時に頼りにするには頼りないけれど。敵に回したくはないが、味方に置くのも怖いような、そんな感じである。
教室の扉を開ける。中に人は少ない。だがしかし、僕の求める姿は、その中にあった。
「……ほほふ、ふははん。ほほひひふほはほほほっは」
「おおう、スバちゃん。どこに居るのかと思った。と言っている」
口いっぱいにご飯を詰め込んだ久美が、生き生きと笑いながら、七組五班の皆に囲まれていた。通訳には、明菜さんが起用されている。
「ひんはいひはんはよ?」
「心配したんだよ? と言っている」
「ははふひひひははっ……げふ、がふ。……ひははっははは」
「七組に居なかっ……げふがふ。居なかったから。と言っている」
そう言うムードなら抱きしめるまではしようと思っていたが、全くそう言う感じではなかった。と言うか、明菜さんの翻訳能力が素直に凄い。
これで良い。こうして、日常に溶け込めるのなら、これが一番良いのだ。なかった事になった自殺の原因など、もう良いではないか。
「……早く食べないと、お昼休憩が終わってしまいますよ?」
多香子さんに急かされて、僕はカツサンドの封を勢い良く開けた。




