野木久美①・11
久美のマンションへ、途中まで走って、ある時気付いて久美の携帯に掛けながら向かう。だが、電話は繋がらない。電源は切られていないようだが、何度掛けても留守番電話センターに繋がるばかりだ。
マンションに着いて、エレベータで五階まで上がる。月曜日……明々後日の月曜日の事が、フラッシュバックされて僕の不安を煽った。見えたその景色に、久美が居たらどうしようか。
当然の事ながら、エレベータが開いても久美の姿は見えなかった。ほっ、と胸を撫で下ろしてから、五〇三号室の前に立ち、呼び鈴を鳴らした。中でドタバタと足音がして、すぐにチェーン越しに扉が開いた。
「……どちら様かしら」
出たのは、中学校の頃の授業参観で一度だけ見かけた事のある、久美の母親だった。できるだけ声を落ち着かせて、言う。
「えと、久美さんの友人の、武田と言います。久美さん、居ます?」
「武田さんね。ゴメンなさいねぇ、久美、まだ帰ってないのよ」
申し訳なさそうに、久美の母親は肩を竦めて見せた。僕はお礼を言って、帰って来たら連絡するように伝えて貰えるように頼んだ。
「あの子、深夜までどこかに出掛けてる時もあるから、深夜になるかも知れないけど……」
「それでも構いません。是非」
「ええ、分かったわ」
快諾してくれた。恐らく、携帯電話を家に忘れているとか、着信音が聞こえないほどのカバンの奥にしまい込んでいるとかだろう。だがあるいは、電話に出たくない理由があると言う事かも知れない。久美に、自殺したいと思うような何かが起きた事は間違いないである。もしそうなら、久美は家に帰っても、僕に電話をしてくることはないだろう。
となれば張り込みしかない。すぐ近くにあるコンビニエンスストアで安いお弁当を買い、五階と六階を繋ぐ階段に腰掛けて食べた。割り箸の木の匂いが強くていまいち味は分からなかったが、とりあえず完食には至った。お腹を満たしたら、今度は家に電話を掛け、今日は友人の家に泊まる、と伝えておく。母の快諾っぷりは、むしろ嘆かわしい。
そして、階段に座り込んで、久美の帰りをじっと待つ。最悪の場合でも、久美は月曜日のあの時間に、ここに現れるのである。それまでは、待っていようと思った。それでとりあえず、僕の手の届かないところで久美が居なくなってしまう事は防げる。
(…………)
あの時の久美の様子を思い出す。
泣いて、休憩所の屋根に一人立っていた。僕に気付いて、振り向いて二度僕の名を呼び、そして笑った。それから、また向こうを向いて、飛び降りた。
残念ながら飛び降りる事に、自殺以外の目的が見つからない。やはり、止めなければならないのだ。
(…………)
昨日の夜……月曜日の夜に流し切ったと思っていた涙が、また溢れ出てきた。今日では、二度目だ。豪放な久美がそれだけ思い詰めていたのに、気付く事も出来ていなかった。それどころか、最近はむしろ元気になったと、喜んでいた。そして、飛び降りるのを止める事すら、出来なかった。物理的にも精神的にも、僕は彼女を止める杭にはなれなかったのである。
手で押さえて指でほぐしても熱い涙は中々止まらなかったが、ひとしきり泣いた所で泣き疲れてそのまま眠ってしまった。
「……るさん、昴さん?」
声を掛けられて、飛び起きる。いつの間に来たのか、朋絵さんと誼絵さんが僕を覗き込むようにしてみていた。その後ろからは、オレンジ色の陽が差し込んで来ている。意識朦朧としている内に、時間が経っていたらしい。
「はぁ、探しました~」
「ん……どうして?」
「久美さんが自殺するかも知れないんですよね?」
ハッとして、誼絵さんを見た。誼絵さんは、最初に会った時のような年相応な表情をしている。僕の視線に気付いてか、口を開いた。
「もう一つの件は、上手く行きましたー」
「……ああ。良かった」
ループが云々と言う件だ。こう言うのも何だが、今の所どうでも良い事だ。
誼絵さんは続いて、朋絵さんの死角で、その事については伝えていない、とジェスチャーで伝えて来た。
「もう一つの件?」
「別件だよ。……それより、ありがとう。久美の事」
「友達ですもん」
久美が隠しておきたい事実が出てくるだろうから、皆には秘密にしておきたかった。だが、朋絵さん一人ぐらいなら、この際良いだろう。もう一度、深く感謝の意を表して頭を下げた。
「それから、天才誼絵も連れて来ましたよ~」
「今の状況を、省かず余さず全て話して下さいー」
どうやら誼絵さんは、朋絵さんに対してあの達観した口調と言うか、第二の性格は見せていないようだった。しかし、わざわざその事を追求しても何の意味もないので、気にしない事にする。
誼絵さんと朋絵さんに、ここへ来てから今に至るまでの一部始終……といってもこれと言った進展はなかったのだが、全てをつぶさに語った。二人とも相槌だけ打って反応を示さずに居たが、全部聞き終わって誼絵さんが口を開いた。
「……お姉ちゃん。何だか喉が渇いちゃいましたー」
「あ、はい。何か買ってきます~」
誼絵さんの意図を察して、朋絵さんが階段を駆け下りていく。ちょっと申し訳ない気持ちになったが、新しい縦軸だのループだのと言う話を聞かせる訳にもいかないから、仕方ないと割り切るほか無い。
「そうね。まずは携帯電話の所在から考える」
誼絵さんの雰囲気が変わった。二重人格と言うよりは、こちらが本性と言う感じである。あっちは、さしずめ仮面と言う所だろうか。
「一回目の金曜日、あなたはその子とメールをした。なら、今日のその時間には、その子は携帯電話を持っていたと言う事になる」
「うん」
「母親の話を信じるとすれば、その子は今日家に帰っていない。つまり、一回目の金曜日にも、家には帰っていなかったはず」
「……うん」
「なら今、その子は携帯電話を持っていなければならないの。なのに、電話に出ない。電源が切れている訳でもない。これは、明らかにおかしい」
言われて見れば、不可解だった。冷静になって考えれば、すぐに導き出せたであろう不可解さを、今の今まで全く気付けなかった。
誼絵さんは、更に続ける。
「と、すれば、電話に出られなくなるトラブルに巻き込まれたと言う事になる。それも、自殺してしまうほどのトラブル、そして周囲に知れ渡らないほどのトラブルに」
「……強姦とか?」
「あり得るわ。だけど現実的に言って、電話が繋がらなくなった頃……昼時ね。昼時に、そんな場所を通りかかる事はまずない。そんな行為に及ぼうという者もそうは居ない」
それもそうだ。しかし、そうなると……。
「……トラブルに巻き込まれようがない?」
「ええ。そして、大きなトラブルには巻き込まれず、ちょっとした事で連絡が出来なかったなら、土曜日や日曜日に連絡があるべきだった。つまりは、少なくとも金曜日から日曜日まで、携帯電話が使えなくなる理由は続いていたと言う事ね」
携帯電話を持ったまま外に居るのに、僕と連絡がつかない。電源は入っている。大きなトラブルに巻き込まれたとは考えにくい。なのに、携帯電話は日曜日の終わりまで使えなかった。あるいは、使わなかったのかも知れないが。
……全く分からない。そんな僕を見て、誼絵さんは訊いた。
「あなたの中のその子は、どんな子なの?」
「え……っと。活発で、明るくて、外向的で……って言う感じかな」
「そんな子が、深夜徘徊なんてすると思う?」
……。深夜徘徊をする理由も、徘徊する悪仲間も、久美にはない。深夜まで帰って来ない事が度々あるとすれば……いや、そうじゃない。そっちじゃない。
久美は深夜徘徊なんてした事がない……? 久美の母親は、嘘を吐いている? 久美は今でも、家に居る? それを隠して、連絡さえさせない理由は……?
「久美は、虐待を受けている……の?」
「その可能性が、他の推測よりはまだあると思う」
学校では、そんな様子はなかった。だが、幼稚園の頃から今に至るまで、久美が両親の話をした所を見た事はない。ずっと同じクラスだったのに、両親が授業参観に来たのは、中学校の頃のあの時だけだったのではなかったか。
間違いない。全ての状況証拠が、久美の被虐の事実を認めている。
「けれど、絶対とも言い切れないわ。あとは、あなた次第」
誼絵さんはそう言うと、後ろを向いてこちらに背中を見せた。
「私はそろそろ帰る。他にも、色々と用事があるから」
「うん。……ありがとう。結局、全部任せちゃったけど」
「そうでもないわ」
小さい背中をこちらに向け、誼絵さんはエレベータの方へと歩き去って行った。
誼絵さんと入れ替わりで、朋絵さんが階段を上って来た。腕には、三本の缶ジュースが抱えられている。
「あれ、帰っちゃったんですか? 一本、余っちゃいますね」
余らせるものか。僕はそう、強く思った。




