野木久美①・9
日曜日。特に予定もなく、誰かからメールが来るという事もなかったので、そこそこふんだんにあるお金を持って、町を出歩いてみることにした。学校ではこの行為を徘徊と呼ぶらしいが、まあ深夜ではないし構わないだろう。
スーパーの登場で段々と廃れつつある商店街に入る。シャッター商店街と言う程ではないが、昔からある駄菓子屋さんや八百屋さんが数を減らし、薬局や理髪店が多く入ってきた分、昔ながらの商店街とは言えなくなっていた。
いくらか考えて、アニマートに入る。アニマートは、主にアニメや漫画・ライトノベルのグッズを取り扱うお店で、業界ではそれなりのシェアを持つ大手だ。
『~~~♪』
マイナーな電波ソングが店内BGMで流れ続けるのも、このお店の特徴と言って良い。今流れている『one's teacher』は、入門編程度の電波ソングながら、僕を含めて一般人には、歌詞の意味すら分からない。とは言え、その道を極めた人に言わせれば、歌詞が聞き取れる間はまだ電波ではない、のだそうだ。
今放送しているアニメで詳しい物は一つしかなかったが、そのグッズはどこを探しても見つからなかった。唯一、雑誌の付録にそれらしい物がある程度である。
(仏様の日記帳、不人気なのかなぁ)
僕自身、ここ二回ほど見逃しているのだが。他にも言って目を引く商品もなかったので、何も購入する事なくアニマートを後にした。
そのまま少し歩いていくと、見覚えのある小さな服が、商店街の路地裏に入るのが見えた。どうせなので、追い掛けてみる。
路地裏で立ち止まる後姿を見て誼絵ちゃんだと確信し、後ろから驚かそうと思って手を伸ばすと、誼絵ちゃんは思わぬスピードで僕の腕を掴み、強く捻った。
「い、痛い痛い。ごめんごめん、僕だよ」
「ああ、ごめんなさい。……ちょっと、匿って貰えますか?」
「え?」
「鬼ごっこ、してるんです」
僕が答える前に、誼絵ちゃんは僕の背中に隠れてしまった。路地裏だからかなり狭く、誼絵ちゃんが完全に隠れる為には、かなり密着する必要がある。まだ小さいとは言え、女性に耐性の無い僕にとっては心房細動にまで繋がりかねない危険な状態だ。いや、むしろ、もしかすると誼絵さんぐらいの子が、ストライクど真ん中なのかも知れない。ああ、怖い。その上、普段はあまり人気のない路地裏なのに、こんな時に限って多く人が通りかかってくる。迷惑な。誼絵ちゃんは長い間、僕の背中にしがみ付いていた。
「……ありがとうございました」
僕の鼓動が壊れかけてようやく、誼絵ちゃんは僕の背中から一歩離れた。
「ん……。子供は通りかからなかったけど、誰と鬼ごっこしてたの?」
「秘密ですー」
誼絵ちゃんはそう言って、一度お辞儀するとどこかへ走り去っていってしまった。
子供は元気だなぁ、と思う。日曜日でも走ろうという気になれるのは、多分中学生の最初の頃までだ。僕のようなインドアっ子ともなれば、小学校高学年の時点で既に、日曜日は半引きこもり状態だった。
(……ノートでも買って帰ろ)
ちょっとだけ意気消沈した僕は、近くの百円ショップで何冊かノートを買って、真っ直ぐ家へと帰った。
月曜日の朝。携帯電話を開いて真っ先に、久美にメールを送った。思えば、一昨日の夜から今日に至るまで、こちらが何度メールを送っても、一向に連絡がなかった。自惚れているのかも知れないが、土日月と三日連続で音沙汰がないと言うのは、結構珍しい事に思える。ちょっとだけ心配だった。
家を出る。どこか急いている自分を感じつつ、学校への最短距離を進んでいく。今日は、朋絵さんにも出会わなかった。いつもより三分ほど早く教室に着いて、携帯電話を開く。返信はない。
(珍しいなぁ……)
何曜日のどんな時間でも、すぐにメールを返して来るのが久美なのに。そう思っている内に人が揃い始め、僕の不安はそのままに、一学期最初の授業が始まった。
「えー。化学とは、えー、物質を扱う授業です。えー。これに対し、えー、物体を扱うのが、物理の、えー、授業です」
化学の先生の授業は、一言で言って眠たかった。声質もさる事ながら、毎度区切りごとに入る『えー』が、子守唄のような効果をもたらしていた。いや、ちょっとした子守唄よりは、効き目が強いかも知れない。化学の先生は凄い。
大半の生徒があくびをし、一割ほどの生徒は一時間目から机に突っ伏して寝に入っている。その点佐奈さんは普通とは違い、真っ直ぐ黒板に向き合ったまま不動の体勢で目を閉じ静かに眠っていた。寝ている事には違いないのに、何となく感心してしまう。
「……と、言う事で、えー、次の時間から、えー……。原子量について、学びます。以上」
僕が何とか意識を保っている内に、やっと一時間目が終わった。重郎などは、腕に自分でシャーペンを突き刺す事で、何とか一時間目からの快眠を避けたようだった。
二時間目、三時間目、四時間目と順調に終わり、お昼休みになる。僕は、朝の不安を先に消そうと、一組へ行ってみた。久美の姿はなかったが、幸い春花さんが居たので、声を掛ける。
「春花さん」
「わおぅ! ビックリしたー。何々?」
「久美、どこに居るか分かる?」
「んー……家かなぁ? 今日休みだよ、久美ちゃん」
ああ、なるほど。悪い風邪にでも当たって、寝込んでいるのか。返信がなかった理由まで、全ての辻褄が合った気がした。
「そっか。ありがと」
「看病にでも行ってあげたら喜ぶと思うよ、幼馴染さん」
これまでの明るすぎる口調とは違い、落ち着いた雰囲気で春花さんが言う。僕は大いに頷いた。久美の喜ぶ顔が、まぶたの裏に浮かぶように思えた。
六時間目後のホームルームを終え、焦る心を抑えながら初めての掃除を言葉少なにちゃちゃっと済ませ、僕は小走りで化学実験室に向かった。先に待機していた優さんに事情を伝え、今日は先に帰ると言った。
「分かったわ。明日は顔、出しなさいね」
「うん。じゃ」
挨拶も最低限に止めて、さっさと化学実験室を出た。
学校から久美の住むマンションまでは、川を挟んでいるもののそう遠くはない。自然が多く、目に入る光景の二割は緑というような道だ。美味しい空気をいくらか吸い込みつつ、ゆっくりとマンションまで歩いた。焦る事はない。息を切らさないで、落ち着いた状態で久美と対面したい。
久美のマンションのセキュリティ・システムは、オートロックのような素晴らしいシステムを採用していないらしく、フリーパスでエレベータまで辿り着く事が出来た。無用心だ。六階で止まっているエレベータを呼び出し、五階まで上がる。
やがてエレベータのドアが開き、五階のフロアが視界に入った。僕は、目を疑った。
「……く、久美?」
久美が一人、四階にある突き出した休憩所の、屋根に立って向こうの空を見ていた。屋根には、仕切りもなければ手すりもない。足を滑らせれば、五階から転落する事になる。落ちる先は、一階エントランスの屋根の上だ。
僕の言葉に反応して、久美はこちらを振り向いた。その久美の頬には、既に何滴もの涙が伝い、その涙は服の襟を冷たく濡らしていた。
「昴……すばるうぅ……」
鼻声で、久美は僕の名を呼んだ。どうして、そんな所で泣いているんだ。それじゃあ、まるで……。僕は、屋根の上とこちらとを分ける高い金網の前に走って、金網の間から手を伸ばした。
その時。久美は何を思ったのか、一瞬、涙の中に笑みを浮かべて見せた。
「久美!」
叫んで、金網をよじ登ろうと手をかけた。嫌な予感がする。大きな音が立つのも気に留めず、懸命に登った。
その僕の目の前で、久美の体が大きくひずんだ。僕が、声を上げる暇もなく、次の瞬間久美の体は高く宙に舞い、やがて僕の視界から消えていった。
……。
…………。
緊急治療室の前で、久美の両親は共に青ざめた顔をしていた。部屋のランプが消え、中から出て来た医師が、静かに首を振る。僕も、重郎も、そして久美の両親も、全員が声を上げて泣いた。
色々な事を聞かれた。久美が飛び降りる前の動作について。学校生活について。久美が抱えていた悩みについて。全て、記憶が朦朧としてはっきりしない。僕は、曖昧に答える事しか出来なかった。
呆然とした心のまま家に着く。事情を聞いたらしい両親は、無言で僕を抱きしめてくれた。また泣いた。
夜の十一時頃になって、ようやく冷静さが戻って来た。無力感と罪悪感、そして猛烈な虚脱感に襲われた。気だるかった。ベッドに入る気力もなく、僕はリビングのソファで一人座っていた。
十一時半頃、日が替わる前になって、誰かが家を訪ねて来た。両親は僕を気遣って先に布団に入っていたので、仕方なく僕が出た。誼絵ちゃんだった。誼絵ちゃんは事情を知らないらしく、それなのによく分からない事を僕に話し続けた。冷静さが失われ、苛立って、怒鳴った。誼絵さんの表情が変わった。
「……目が覚めて、不思議な事があったら私の所に来なさい」
それも、意味が分からない。誼絵ちゃんは、そのまま帰って行った。
今更、目が覚めなくても、不思議な事は嫌と言うほどあった。
何故、久美が身を投げたのか。投げなければならなかったのか。
いや、そうではない。今の僕にとって、一番不思議なのは、もっと単純な部分。
久美が、何故居ないのか。
玄関に座り込んで、僕は泣きながら目を閉じた。




