花火大会からその後
◎ピンポーン
めったになることのないインターホンが鳴らされた。作業に没頭していたのを切り上げて、いそいそと玄関に向かう。訪問客の予想はできている。手早くドアを開ける。
「夏柏。」
「おはよう、戸逢。」
私服の夏柏が片手をあげて挨拶をした。私もそれに応えて、部屋の中に招き入れる。部屋の中は段ボールに占領されている。今日から私はこのアパートの一室を出て俊樹さんと愛海さんの家に住むことになったので、荷作りをしているのだ。
「よっしゃ、できた物はどんどん運んでって良いの?」
「うん、お願い。」
近くにあった段ボールを持っていってもらうように頼むと、さっそく夏柏は斜向かいの一戸建てへと運んで行った。それを見ながら、私は荷作りを進める。
夏柏の提案というのは、私がもう一度俊樹さんと愛海さんと一緒に暮らすということだった。そうすれば、すぐにとはいかなくても、いずれはパラノイアの症状が軽くなっていくだろうと、夏柏は言った。私は躊躇なく同意して、その話をした日から数えて最初の日曜日に引っ越しをすることになった。
正直な話、これから俊樹さんと愛海さんと一緒に暮らすことに関して、気持ちははっきりとしない。嬉しいのかどうかがよく分からない。花火大会のあの日から、徐々に記憶の整理が付いてきて、俊樹さんや愛海さんのことも思い出してきてはいるけど、一人暮らしの期間が長かったせいか、誰かと一緒に過ごすということがよく理解できていなかった。よく分からないという理由からマイナスな方に考えが向いてしまうこともしばしばだ。ありていに言えば怖い。不安だ。櫟さんが言った『変化に伴う怖さ』という言葉をそのまま体験しているかのようだ。
昨日、夏柏に電話でその事を伝えると、今晩に限って、夏柏が泊まりに来てくれることになった。
つまり、今日は夏柏と一つ屋根の下で一晩を過ごすことになる。……そのシチュエーションに関して、少しドキドキしている。
「戸逢―。」
「ひゃう!」
急に呼びかけられて驚く。おかしな妄想をしていたところだったので、ついつい過敏に反応してしまった。
「ん?なんかした?」
「い、いや!なんでもないよ!あ、ほら、そこの隅に置いてあるやつ、持っていっていいから!」
「ういー。」
夏柏は訝しげな顔をして、運搬作業を再開した。
引っ越しと言っても、徒歩にして十数歩の距離なので、昼過ぎくらいには作業を終わらせることができるだろうと高をくくっていたのだけど、見事に予想は裏切られて夕方に差し掛かってやっと全部の荷物を運び終えた。用意された一室に段ボールが積み重なっていて、時間帯から考えて、ここから先の作業は明日に先送りすることになった。
夕飯は、愛海さんが腕によりをかけて作ると言って、さっきからキッチンにこもって忙しそうにしている。リビングには私と夏柏、それと俊樹さんが居るのだけど、正直俊樹さんとの距離が測りづらい。たぶんだけど、俊樹さんも、私に対してどう接していいのか分かりかねている様子だった。現在の布陣は俊樹さんが一人用のソファに座って、私と夏柏が3人用のソファに二人で座っているという状態だ。テレビから流れてくるバラエティの内容に関して、時折夏柏が間に立って俊樹さんと会話をするも、一言、二言で途切れてしまう。今後の展開が非常に危ぶまれる。
テレビにばかり集中しているとふっと、嗅ぎ慣れている匂いがした。匂いの元を探してみると、それは俊樹さんだった。俊樹さんがタバコを吸っていた。タバコには見慣れている文字が書かれている。
「あ…。」
驚きとともに声が漏れてしまって、それに俊樹さんが反応した。続けて、私がタバコを見ているのに気が付いとようだった。
「ああ、悪いな。タバコの匂い、嫌だったかな?」
「いえ、あの、そういうことじゃなくて…。私は構いませんから、吸ってて良いですよ。」
そうか?と俊樹さんが首をかしげる。私は、私自身はもうタバコは吸わなくていいのだなと思った。
19時を回るという頃に、夕飯が出来上がった。食卓に、かなりの品数のおかずと、温かいご飯とみそ汁が人数分並ぶ。一人暮らしをしているうちにはなかなかこのような夕飯を作ることは難しい。
「みんな今日は疲れただろうからな。本当はどこかおいしいところで外食をしても良かったんだが、愛海がどうしても戸逢に自分の料理を食べてほしいと言ってね。」
「ちょっと。それじゃあ私の料理がおいしくないみたいじゃない。」
俊樹さんのセリフに愛海さんが可愛くすねて、私と夏柏は自然と笑う。なんだか家族の食事らしいやりとりにほっこりしてしまう。
「戸逢ちゃんが好物だったものを作ってみたの。」
愛海さんが温かく話しかけてくれる。その言葉を受けて、そうそうたるおかず群を見てみると、どうにも子供っぽいおかずが並んでいる。そのうちの海老フライを一つ口に運ぶと、衣の具合だとか、タルタルソースの絶妙な酸味とかが丁度よくて、とても美味しい。
「美味しいです。」
「そう、良かったわ。いっぱい食べてね。ご飯もおかわりあるからね。」
愛海さんが上機嫌に笑うとなんだか私も嬉しくなった。
夕飯が終わるとお風呂の順番で一悶着することになった。年頃の女子である私がどのタイミングで入るのか、というのを俊樹さんが問題としたのだ。私的にはあまり関心がわかないものだったけど、俊樹さんがどうしても私に順番を決めさせると迫って、もしもそうしろというのなら、一人ひとりお湯を入れ替える方向で行こうとまで言いだした。俊樹さんの過去にはいったい何があったのだろうか?お湯を入れ替えるのは、時間が遅いという理由から却下し、結果的に私が一番最初に入ることになった。一戸建ての浴室はやはりアパートのものよりも広くて機能も充実していて、今日から毎日これを使えるのかと思うと、じゅわりと嬉しさが心にしみ込んできた。
お風呂からあがると、次は夏柏か俊樹さんか、どちらかで揉めたうえで、なんと二人で入ることになった。男だからカラスの行水。さっさと上がってくると言って、俊樹さんが夏柏を連れて行ってしまう。きっと浴室では裸の付き合いというものが展開されるのだろう。
結果としてリビングに愛海さんと二人きりになる。愛海さんは俊樹さんと比べて同性という共通点がある分、アプローチがしやすいし、愛海さんという人がどこか柔らかい印象を持ち合わせているので話しやすい。愛海さんが私について色々と質問して、私が答えた内容にさらに質問をかぶせて行くという具合に話を広げてくれた。愛海さんは話し方が上手で、私という人間をスムーズに解き明かしていくような話の進め方だった。
しかし、途中で愛海さんが話をとめる。
「ねえ、戸逢ちゃん。今日からあなたもこの家の一員なんだから、不満とか遠慮しないで言ってくれていいんだからね?」
「そんな、不満なんて無いですよ。すごくよくしてもらって、こんなに幸せでいいのかってくらいで。私、そういうふうに見えたんですか?」
愛海さんの急な一言に動揺してしまう。私は愛海さんに対して、この家に不満を持っているように見られてしまっていたのだろうかと焦る。
愛海さんはそんな私を見てふふ、と控えめに笑う。
「そういうところを全然見せないからこそよ。急に生活が変わるんだから、何事にも順応できるなんてことは絶対にないわ。そう言う時に、戸逢ちゃんはきっと遠慮してしまうんじゃないかと思うの。でも、やっぱり不満は言ってほしいわ。戸逢ちゃんは、家族なんだから仲良くしなきゃいけないと思っているみたいだけど、家族だからこそ、ぶつかり合っても許されるんだから。」
愛海さんが『家族』という言葉を強調しながら話した。その言葉を私が咀嚼する間、愛海さんはもう一度笑い、その笑いに大人の余裕のようなものを感じる。この人には敵わないなと思わせられる半面、愛海さんの包容力が心地よくて、嬉しくなった。
夏柏と俊樹さんがお風呂からあがり、愛海さんが浴室に向かう。
「疲れたでしょうから、もう寝ても良いわよ。」
愛海さんの言葉で就寝に移る。
私と夏柏は、2階の空き部屋を一人一部屋ずつ割り当てられて、そこに来客用の布団を敷く。夏柏は俊樹さんに、私に手を出したら承知しないという内容をくどくどと話されていた。夏柏はそれに苦笑いで応えていた。俊樹さんは私たちの就寝の準備が終わるまで2階の廊下でそわそわしながら立っていて、とことん私に接することに関しての不器用さを見せつけてきた。これは改善には相当な時間を要するだろうと、私も苦笑いをしてしまう。
「俊樹さん、おやすみなさい。」
「あ、ああ。おやすみ。」
私から声をかけると、戸惑いつつも嬉しそうに応えて俊樹さんは階下に降りて行った。なんだか面白い人だ。そう思ってから割り当てられた部屋に入る。
◎部屋に入ってから、すぐには布団には入らない。それは怖いからだ。私は、ここで、この家で果たしてちゃんと普通に眠ることができるのだろうかという不安があった。夏柏の話によれば、私の不眠症の原因は、私が見限った家族愛に対する未練だということである。なら、家族が戻った今の状態では、私は何の問題も無く眠ることができるはずだ。
だけど、どうしてか、今は目が冴えていた。布団に横になって、それでも眠ることができなかった時、私はまた悩み増やすことになるだろう。その怖さを感じて、誰かにそばにいてほしいと思った。部屋のドアを見つめる。ほんの少しのわがままを願う。
夏柏に割り当てられている部屋のドアを軽くノックする。すると、すぐにドアが開いた。
「どうしたの?眠れないの?」
「眠れるかどうか分からないの。だから眠るのが怖くて。ねえ、どうすればいいと思う?」
懇願するように問うと、夏柏はやんわりと笑う。
「じゃあ、少しだけ話そうか。」
そう言って、夏柏は私を部屋に入れた。
「そんなにすぐに眠れるようになるとは思ってないから、ゆっくりと変わっていけばいいんだよ。」
夏柏が部屋の窓を開ける。ガラガラと音がした。
「だいたい、戸逢がこんなに早く俊樹さんたちと一緒に暮らせるようになるって思ってなかったんだよ。まずはそっちの方に俺は驚きだったよ。」
何も無い部屋に布団だけが敷かれている。私と夏柏は布団の上で向かい合わせになるように座った。
「たぶん、予感があったんだと思う。」
「予感って?」
「えーとね。こんなことになるのは予想できなかったけど、花火大会の前日。夏柏が散歩についてきてくれた時、なんだか夏柏の様子が変だったから。なんか、私に隠し事しているみたいだった。」
「うわ…バレてたんだ。」
夏柏が頭をかく。
「まあ、予感は予感でしかないよ。」
あの日、夏柏の笑顔が悲しげだったことに、引っかかりを感じていた。たぶんその時から、何かしらの変化があることを私は予感していたんだと思う。
窓から風が入ってきてカーテンを揺らした。その動きを目で追う。夏柏の視線を傍で感じながら、私は深く息を吸った。
「あの日にね。」
「うん。」
「私、また妄想にやられちゃって、家に帰るまで大変だったんだ。でね、夏柏。私どうしてあの時にそうなっちゃったのかなって考えてみたんだけど。それって、多分家族がいない寂しさとか、孤独感とかは関係なかったんだと思うの。ただ、確かに寂しくはあったんだよ。…私は、夏柏が私に隠し事をしていることが寂しかったんだと思う。」
「………………」
夏柏が黙り込む。それに構わず、私は言葉を続ける。
「私の中では、夏柏はもう家族と同じくらいそばにいてほしい人になっているんじゃないかな。」
「………………」
私の問いかけに答えてくれるのは窓からの風だけだった。夏柏が考えることは私には分からない。夏柏は人間だから、人間なら他人の心を知ることができないのは当然だ。夏柏は今どう思っているのだろうか。不安でつぶれそうだ。
「戸逢。」
夏柏のしっかりとした声が私をとらえる。
「まだ、戸逢のパラノイアが治るかどうかは分からないから、言わない方が良いと思っていたんだけど、去年俺が戸逢に付き合ってほしいって言った時のことを戸逢は覚えてる?」
「うん。」
忘れるはずがない。どうしたって忘れられないよ。
「あの時、俺は戸逢に言ったよね。戸逢を助ける手段として、俺は戸逢と付き合うって。」
「……うん。」
「もし、俊樹さんと愛海さんと一緒に暮らすことで戸逢の病気が治ったなら、俺はその時戸逢の彼氏じゃなくなっちゃうんだよね。」
「その時は。」
夏柏が次に言おうとしていることが、なんとなく分かる気がした。だから、それを先制して言わせないようにする。
「その時は、私が…」
「俺が!…その時は俺がまた戸逢に告白をしても良いのかな?」
先制しようとしたのに、結局夏柏が言いきった。もちろん、私が考えていた事と同じことを。
それは通算3回目の告白になる。
「もちろんだよ。」
「じゃあ、その時に、また。今度こそ。」
私と夏柏は本当に恋人になれるだろう。
6月6日(日)
今日は、私のパラノイアが治った時に夏柏と恋人になる約束をした。その日を迎えることができたら、私はこの日記を書くのをやめようと思う。いつか机に向かって筆を執る日が終わることを願って、今日は眠りに着こう。