花火大会当日
◎6月1日。時間がたつにつれて、昨晩のパラノイアの症状に対する不快感は消えていき、気分は花火大会に対する高揚感に徐々に移行していた。まあ、もう慣れ切っていることだし、思い悩んでも仕方がない。そして、興奮しているせいか、いつもよりも早い時間に起きた。去年の入学式を思い出してさらに気分が高揚した。せかせかと動いて学校に行く準備をする。テレビの占いを見ると1位だった。幸先が良い。時間になって自転車を引っ張り出すと、スーツ姿の『斜向かいさん』と遭遇した。いつも通り、どうもとだけ挨拶をして駅に向かう。いつも通り。
駅に行くと好々乃が顔をにやけさせながら私の方に近付いてきて、持っている紙袋の中身を追及してきた。隠しておくことでもないので少し抵抗しただけで白状する。半ば予想していたのだと思う。好々乃はにやけ具合を増し、舘岡の駅と電車の車内で私をいいように弄んだ。
電車を降りると、いつもの通りに夏柏と一緒に登校して、それからは本当にいつもの通りに学生生活が進む。違うところがあるとすれば、いつもよりも時間の流れを遅く感じることくらいだ。それがじれったく、楽しい。
学校が終わると、夏柏とは別々に行動することになった。待ち合わせをするためだ。夏柏は自宅に帰って、私は先輩の家へと向かう。着物が入った紙袋を自転車のかごに入れて、学校前の坂道を下っていく。軽い。浮かれている。足が地についてない。自転車に乗っているから、当然だけど。花火は6時半からなので、5時半に待ち合わせ場所に集合することになっている。今からこの調子で大丈夫だろうか。
ライトグリーンのアパートの一室、先輩の部屋のインターホンを押す。
「おう、やっと来たか。」
先輩は私が来るのを今か今かと待っていたと、乱暴に話す。タバコのにおいが充満した部屋の中に入ると、いきなり脱げと強要される。
「さっさと脱げよー。脱がねえなら剥ぐからな!」
変態の発言をしている先輩の腕を華麗に交わすも、着付けの時点で、もみくちゃにされた。胸が邪魔だとなじられた。不服だ。先輩の着付けの技術は予想以上で、あっという間に出来上がる。ついでだと言われて髪形をアップにされた。さらに、お化粧もされた。お化粧のおかげで目の下のクマがある程度マシになる。
着物にタバコの匂いを染みつかせてしまうのも良くないので、先輩と一緒に外に出ることになった。軽く散歩をする。そう言えば、先輩と日のあるうちに散歩をするのは初めてだ。適当にお店に入ると、私の他にも着物姿の人がかなりいる。皆楽しそうにしている。店内では、先輩に夏柏のことでいじられながら時間を過ごした。ある程度して、先輩とはそこで別れる。どうやら先輩は先輩で別の場所で待ち合わせがあるらしい。
待ちあわせの場所はすぐ目と鼻の先で、余裕がある。店の中に一人でいるというのはなぜか落ち着かない気分にさせられるので、外に出た。やんわりと風が吹いている。気持ち良い。6月は全国的には梅雨の時期だというのに、この地域ではどういうわけか、逆に雨が降りにくい時期とされている。空気は乾いている。ボーっと歩いていると、不意に自分が履いている下駄の音が気になった。カラン、コロン。いつもならなんとも思わないような音で、むしろ若干うるさいように感じる音なのに、気分がおおらかになっているせいか和風の音楽を聞いているようだ。音がするたび心が弾む。
待ち合わせ場所は、会場から離れた場所にある。会場にはきっと人がたくさんいるので、現地集合は遠慮したからだ。早めに待ち合わせ場所に着くと、すでに夏柏が待っていた。いったいいつからそこにいたんだろう?私とは違って、ラフな格好をしている。
「夏柏、待った?」
「ううん。気分的にちょっと早めに来たかっただけ。」
夏柏がほほ笑む。それが、昨日の悲しそうな笑顔と一瞬重なって、ドキリとした。すぐにそれを振り払う。私も笑む。
「んー、じゃ。ここにいても仕方ないから、行こうか?」
「うん。そうだね。」
夏柏の言葉で歩きだす。花火大会の会場まで一緒に歩くのも、私にとっては至福の時間だ。私の方から手を握ると、夏柏は少し驚いたように見えた。昨日も手をつないで歩いたのに…慣れてないせいだろうか?今度から一緒に歩く時は必ず手をつなぐようにしよう。
20分ほどかけて会場に着くと、予想通り、既にたくさんの人でごった返している。目が痛くなりそうなほどだ。たくさんの露店も出ている。朝から準備された緊急のたたずまいだけど、それも祭りの雰囲気を醸し出す要素の一つだ。目移りしてしまう。
露店は後で回ろうということになって、夏柏と話をしながら祭りの直前の適度な騒がしさを満喫する。ちらほらと、学校の友達が見える。もう少し時間がたてばもっと増えるだろう。声をかけられるのは別に嫌ではないけど、できれば夏柏と二人だけでいたい。だって、他の人はみんなポットなのだから。
そう思っていたのに、背後から知っている声をかけられた。
「戸逢、と夏柏君。やっほ!」
「ああ、櫟さん。」
振り返ると、そこには紺色の浴衣姿の櫟さんがいた。今日がミュージシャンらしい恰好でもないし、もちろんギターケースを肩にかけてもいない。横で急に夏柏が萎縮してしまったのが分かる。夏柏はもう少し順応性を高めた方が良い。
「ちょっと、なんだよ―、ラブラブじゃん!もしかして昨日は私に遠慮してたのかな?」
櫟さんは妙に高いテンションだった。祭りの雰囲気に中てられているのかもしれない。
「上機嫌ですね。」
「お。分かるー?戸逢は何でもお見通しだね!」
いやーまいったねー!と浮かれている櫟さんはどこか不気味ですらある。調子が振り切れ過ぎだった。いつも陽気な人ではあるけど、今の櫟さんは浮かれているという感じだ。
「何があったんですか?」
「むふー。聞きたい?」
「話したくて声かけてきたんでしょうが。」
あきれるように溜息をつくものの、櫟さんは全く気にしない。スッとポットからコンセントを引き寄せると、オレンジ色の湯気がぶわっと噴出して、驚いてびくりとしてしまった。目の前をオレンジ色に染めつくされて瞬間視界が消える。慌ててコンセントを振りほどく。だんだんと湯気が消えても、櫟さんの浮かれた気持ちを肌で感じるようだった。
「私、オーディション受かったんだよ!」
櫟さんはピースサインを作って、そして多分満面の笑みを浮かべた。
立ち話もなんだからと言って会場の隅の小さな段差を椅子にして、櫟さんに無理やり奢られたたこ焼きを、夏柏と二人で一箱持たされた。大会会場で食べる一番最初の食べ物の決定権を奪われてしまうことを嫌って遠慮しようとしたけど、今日の櫟さんの押しに負けてしまった。テンションがバカ高いというよりむしろ、テンションが高いバカな人みたいだ。自然と鼻歌が漏れ出てくるようで、さっきから耳当たりのいい音楽が流れている。
時間を見る。花火が始まるまでもう15分を切るところだ。
「ああ、戸逢。もしかして時間気にしてる?大丈夫だからね。私も戸逢と夏柏君の甘いひと時を邪魔しようってわけじゃないんだから。」
「別に、そんなこと思ってないですよ。」
「ホントかに―?」
…かに?
奇天烈な語尾に眉を寄せると、夏柏が身を寄せてくる。
「なあ、戸逢。なんか櫟さんヤバくね?」
「もはやギャグだね…。」
「なになに?二人だけで話すなよぅ!私も混ぜろよぅ!二人だけの内緒ってやつ?かー、良いね!愛だね!」
ノリが中年男性だった。私の前でならともかく、昨日初めて会った夏柏の前でも気にしていないというのはやはりやり過ぎだ。夏柏も若干引いている。
しかし、それでも、その気持ちを理解できないわけでもない。長年の努力が報われたんだ。少しくらい行き過ぎたとしても許されてしかるべきじゃないだろうかと私は思う。後で後悔するのは櫟さんであるわけだし。
「いいなー。ラブラブカップル。私も学生の頃に恋愛したかった―。」
「櫟さん、私たちのことはいいですから、話聞かせてくださいよ。」
「ん?おお。そうだね!」
しつこく私たちをはやし立てる櫟さんをとめるために話題を転換させる。櫟さんが一つ咳払いをして話す準備をした。
「それがさ。昨日、いつもの時間に歌い終わって、ケータイ見たら着信あるのに気づいてさ。折り返してみたら一番最近受けたオーディション先だったわけ。もうめっちゃびっくりしたよ!電話に出られなかったこと、すごい謝ったね。歌うのに夢中で気が付きませんでした―って。でも、向こうの人が優しい人でさ。合格ですよ。これからは一緒に頑張りましょう、だって!すごいね!鳥肌立ったア。」
わざとらしく体を震わせる。すごく楽しそうだ。
「ンで、これは戸逢にありがとう言わなくちゃいけないなって思って、今日はこうやって仕事早引きしてまでここに出向いてきたってわけなの。いやあ、河川敷は人混んでるから見つかるかなって心配してたんだけど、すぐ見つかってよかったよ!」
ポンポンと頭を叩かれる。櫟さんの顔が、まっすぐ私に向いている。
「本当にありがとうね。戸逢のおかげで頑張れたんだよ。」
「そんな、私は大したことしてませんから。わざわざお礼なんていいのに。それに、そんな理由で早引きとか、櫟さん本当に社会人なんですか?」
たしなめる言葉に櫟さんがハハハと頭をかく。
「今日言わなきゃいけなかったんだよ。私、上京するから。」
「「え?」」
上京というワードに敏感に反応する。隣で夏柏も驚いているのが聞こえた。
「オーディションに合格したらしたらで、やることいっぱいあるわけよ。そんで明日、新幹線乗ってビューンとね、行っちゃうの。多分結構長丁場になると思うんだ。だから、戸逢に会うとしたら今日ここでしか無くってさ。電話でじゃなくて、どうしても直接会ってお礼言いたかったから、仕事先の方には無理を聞いてもらったんだ。」
「上京、するんですか。」
「そうだゾー。私がいなくなったら、戸逢、寂しいだろ?」
「…そうですね。櫟さんの歌がきけなくなるんだと思うと、少し。」
不意に、高かった櫟さんのテンションが下がった気がした。すっくと櫟さんがその場で立ち上がって、私の方に近付くと、覆いかぶさるようにハグをしてきた。夏柏の前なので、恥ずかしくてすぐに振りほどこうと思ったけど、私の体に回してくる腕の力があまりに弱弱しかったのに異常を感じて、振りほどけなくなった。櫟さんから、はかない印象を受ける。
「私の歌なんかすぐに聞けるようになるさ。いつまでも向こうにいるってわけでもないだろうし、できたらCD送るからさ。だからちゃんと聞いてね。」
「はい。ちゃんと聞きますよ。…頑張ってくださいね。」
「うん、ありがとう。」
それからハグを解いて、私から離れていく。その感触の名残があまりに薄くて軽くて、櫟さんがそのまま空に浮かんでいってしまいそうに感じた。
地面に足が付いている櫟さんが元の場所に座り直す。何がしたかったんだろう、この人は。さっきまでは嬉しくてうれしくてどうしようもないというふうだったのに、今はそれが柔らかくなっている。櫟さんの気持ちを計りかねたので、もう一度、コンセントプラグを引っ張り出してみると、ポットからは、さっきよりも控えめなオレンジ色の湯気に、少々青色が混じっていた。
「櫟さん、上京するの嫌なんですか?」
青色に疑問を持って、そう聞いてしまう。櫟さんは、普段分かりにくい性格ではないのに、時々不可思議な心持をする。そう言うのが一番気になってしまう。あけっぴろげな正確なら、その人の心情に疑問を持つことはないし、逆に全部内に秘めてしまう性格なら、無理に追求しよう音は思わないけど、櫟さんのようなタイプは、小魚の骨がのどに刺さった時のような気分にさせられる。
私の質問に櫟さんが湯気をポッ、ポッと短く噴く。これは驚いた時の反応だ。それから一泊間をおいて、周囲を震わせるような溜息をつく。
「嫌なわけないよ。長年の夢だからね。ただ、変化っていうのは、たとえそれが自分にとって嬉しいことでも、ちょっと怖いんだなって思うだけ。私、ずっとこの町で路上ライブ続けてきて、ここが一番安心して歌える場所だからさ。向こう行ってからちゃんと歌えんのかなって考えると少しは不安にもなるよね。ずっとここで歌っていた方が、気楽なんだって思ったりもする。」
できるだけ軽い口調になるように努めているのだろうけど、櫟さんの声に張りつめた物を感じる。声が、嫌に耳にまとわりつく。
「でもさ、ここは逃しちゃいけないタイミングなんだと思うんだよね。だから私には上京以外の選択肢はないわけ。戸逢に会ってエネルギーチャージしたしね。これで完璧に鉄壁の鋼の魂って感じ?バリバリ歌ってくるよ!」
そして櫟さんは、自分の声で不安を吹き飛ばすかのように話した。
それと同時に、ポットからオレンジ色の湯気が再度大量に噴出してくる。櫟さんは覚悟を決めたといわんばかりに堂々と胸を張った。
やっぱりカッコいい。櫟さんはカッコいい人だ。私も、できることならこうありたい。
櫟さんがよし!と気合を入れる。
「そんじゃあ、これで話も終わったし、邪魔者は退散するよ。二人とも、お幸せにね。」
私と夏柏を交互に見て、櫟さんは今の話を誤魔化すかのようにおどけた。その直後、私も櫟さんに何か言わなければならないような気がして、頭を巡らせる。
「櫟さん。」
「ン?何よ?」
「私、メールとかしますね。」
「うん、ありがとう。」
それから櫟さんはバイバイと言って歩いて行った。
私と夏柏だけがその場に残される。
「夏柏、本当に一言もしゃべらなかったね。」
「ダメなんだよ俺。突発イベントとかマジ無理。」
前もって言ってくれれば、と夏柏が不安を漏らす。私は、多分事前に会うことを知っていたとしても、夏柏は櫟さんと話ができなかったんじゃないかとあたりをつけた。
「櫟さん、いよいよ歌手デビューするんだ。すごいな。」
「そうだね。」
櫟さんの昨日の話をもう一度思い出す。リアリストの櫟さんが、夢をかなえるということは、とても凄いことじゃないのかなとぼんやりと思った。
そのままその場所でたこ焼きを食べていると、ついに花火の第一発目が上がった。気分的にやっぱり露店は後に回して、しばらくはその場所で座りながら何事かを話した。話したそばから何を話していたのかを忘れていくようなぼやけた会話だったけど、その怠惰な感じが幸せだ。夏柏の声が意識の外の遠いところから聞こえてくるのが何ともいえず落ち着かせてくれる。ときどき花火の音に驚いてしまうのも良かった。ただ、このまま何もしないというのももったいないような気がするので、3部まである花火大会全体のプログラムのうち、1部が終わりそうなところで、たこ焼きの容器を捨ててからまた歩き出した。
花火が打ちあがる前よりも格段に人が多くなっている。河川敷の一角にはブルーシートが引かれていて、座って花火を見れるようになっているのだけど、当然のように満員だ。あんなに知らない人であふれている場所に入っていく気概はない。
また私の方から手をつなぐ。夏柏は、今度はさっきみたいに動揺はしなかったみたいだ。歩きにくい下駄のせいでいつもよりも歩くのが遅い私に合わせるようにペースを落としてくれる。夏柏の気遣いが伝わってくる。それが胸の一点にスーッと入って来て、とどまり、私を壊してしまうのではないかと思うほどドクドクと脈打つ。それに合わせて私の心臓は動いている。
歩いていると、学校の友達に何度か遭遇した。クラスの友達、夏柏のサッカー部での友達、好々乃と一緒にいて知り合いになった他クラスの女子、夏柏の地元の友達。これだけたくさん人がいるのに、私たちは発信機でも取り付けられたのだろうかと思わせるほど、的確に見つけてくる。その度に、私か夏柏が一言二言話をした。夏柏の話が長引きそうになった時は、腕を引いて、夏柏にサインを送る。そうすると夏柏は話を切り上げて、私たちはまた、会場内を練り歩く。
プログラムの第二部が終了する頃に、焼きそばを食べようということになった。露店のすべての看板には大層なうたい文句が書いてあって面白い。『ここでしか味わえない!祭りの定番!伝統の焼きそば!』という店の列の最後尾に二人で並ぶ。二人で辺りの店のネーミングについて議論していると、看板を探しているうちに見覚えのあるポットの姿を見つけた。同じ中学の女子だった。あれは中学時代、私のことを毛嫌いしていた女子Aだ。長期で不登校を続けていたことと、私が中学校内で何度かしでかした問題行為を理由に私をよくいじめていた。その女子Aがだんだんこちらに近付いてきている。もしかしたら、見つかるかもしれない。
「夏柏、やっぱり他の所行かない?」
「ん?焼きそばじゃないの食べんの?」
「うん。あれ、あれ食べようよ。チョコバナナ。」
「俺、序盤から甘いものはきついんだけどなぁ。」
女子Aから離れるためにこの場から離れようと夏柏を女子Aが向かっているのと反対側の店に誘う。だけど夏柏は私の提案にごねる。その最中に私はちらちらと女子Aに目が向いた。
「なに?誰かいんの?」
「えっと…。同じ中学の子がね。いるの。」
それを聞くと、夏柏が私の向いていた方を見やる。でも、女子Aのことを知らない夏柏に分かるはずがない。
「その人と話したいとか?」
話をしたいなんて思わない。顔を突き合わせたらなにを言われるか分からないのだ。早くこの場を離れたいんだと、そう言いたいけど言葉にするのは気が引けた。夏柏にパラノイアが理由でいじめまがいの行為を受けていた事を話すのは何となく嫌だった。だから、夏柏の質問に躊躇してしまう。
夏柏は答えに窮した私を見て、続いてチョコバナナの店を見る。最後に焼きそばの列を見て、列の後ろの人にすみません、と告げる。
「俺達、他に行くんで、どうぞ。」
そう言って夏柏は私の手を引いて列を抜けた。私たちはチョコバナナの店に向かい、女子Aは
別の方向に歩いて行った。
花火のプログラムのうち、第2部と第3部の間の休憩をチョコバナナを食べて過ごす。夏柏は結局フランクフルトを買って、あっという間に食べてしまった。動き回っているとまた同じ中学の人に出会う確率が高まると思ったので、第3部が始まるまでどこか座れる場所を探そうと夏柏に提案して、歩きまわる。できるだけ人のいない場所が良い。夏柏と手をつなぎながらうろつく。
そうすることは、まるでパラノイアという私の最大の弱みから逃げているみたいだ。
さっきの、河川敷の隅はもう他の人に占領されていた。当てもなくうろうろしていると、どんどん見る場所が無くなっていく。人だかりから遠ざかっていって、会場の外側まで歩いて、それでも見つからない。
そうこうしているうちに、第3部の花火が打ちあがって、私と夏柏は一様に驚いた。顔を見合わせる。
「夏柏、ごめんね。」
「謝んなくて良いって。」
申し訳なくなって、謝るのに、夏柏はすぐに許してくれる。息がつまりそうになった。
「やっぱり戻ろうか?」
「いいよ。戸逢が嫌ならわざわざ戻ることないよ。」
どこに行っても人がいる。そうやって会場から背を向け続けて、結局たどり着いたのは、近くの公園だった。公園には背の高い気が生い茂っているので花火はよく見えない。木々の奥からほのかに明るみだけが見え隠れする。音だけがはっきりと聞こえた。夏柏がそれだけで良いよと言ってくれたので、ベンチに二人で並んで座っている。
「本当に良いの?こんなので。」
「良いって。別に花火見えなくたってさ。これはこれで、なんか新しい楽しみ方っぽくて、風流みたいじゃん。」
明らかに気を使った発言なのは分かっていたけど、夏柏が今の状況を本当に気にしていないようだったので、私も、花火の音に静かに耳を傾けることにする。少しだけ夏柏との距離を詰めて、目を閉じた。
そのままぽつ、ぽつと単発の会話を繰り返していると、一際大きな音がドンと響き渡り、振動が私を打ち抜く。そして、花火大会の終了のアナウンスが流れ始めた。私が夏柏にこれからどうするの?と聞いてみると、小腹が空いたので、いつものレストランで少しだけ何かおなかに入れようということになった。ちなみに、いつものレストランというのは、夏柏と入学初日に入った、あの場所だ。ここからなら、それほど遠くない。歩いて15分くらいだろうか。帰路につく人の群れが過ぎ去るのを待ってから、公園を出発することにして、そのままベンチに座って時間を過ごす。時々、公園の中を通っていく人たちがいた。そういう人がいる時は、会話が中断される。そして、公園から人が出ていくと、さっきまでの会話を終了させて、また新しい話を始める。繰り返し。そうやってじっと背もたれに体重をかけ続けていると、今度は会場とは逆の方から少し乱雑な騒がしさを持った集団が近付いてきた。最初は何だといぶかしんだけど、しばらくしてそれが河川敷のホームレスの人たちだと気づく。炊き出しから帰ってきたんだろう。時刻は花火が終わってから30分はとうに過ぎている。丁度良い頃合いだった。そろそろ公園から出ようかと言おうとしたところで、また公園に入ってくる人がいた。二人組だ。木田さんとレミさんだった。上げようとしていた腰を再び下ろす。夏柏も二人に気がついたみたいで、会釈をした。
「やあ、こんばんは。」
「こんばんは。それにお帰りなさい。木田さん、レミさん。」
「こんばんは。戸逢ちゃん。それと、そっちは夏柏君でいいのよね?」
「あ、はい。そうです。」
「よろしくね。」
木田さんから順に、とりあえずの挨拶をすませる。すると、レミさんが木田さんと顔を合わせて何事かを囁いて、木田さんがそれに頷いた。二人の間で私たちの分からない何かが示しあわされる。
「戸逢ちゃん。少しだけ、時間もらえる?戸逢ちゃんにお話したいことがあるの。」
「私にですか?」
レミさんがおもむろに話しだした提案に少し戸惑う。これから、レストランに行こうという時に、時間を取らせる。私は構わないけど、夏柏はどうだろう。
夏柏の方に目を向けると、夏柏の方も私に視線を向けていて、良いよというふうに頷いた。それを見て、私がレミさんに向かって了解の返事をする。
レミさんは、二人きりで話をしたいと言って、木田さんと夏柏に公園の入り口付近で待ってくれるように頼んだ。そして、ベンチに二人で座る。レミさんは、性分なのか、上品な所作で私の横に座っているので、緊張させられた。早く話を進めるために、私から切り出す。
「話って、何ですか?」
「うん。戸逢ちゃん、私と木田君が結婚することになったってのは、木田君から聞いたのよね?」
「はい。」
「それでね。ほら、私、戸逢ちゃんに木田君とのことで相談に乗ってもらったことがあったじゃない?だから、木田君とのこと、ちゃんとした時は、話しておいた方が良いのかなってずっと思っていたの。ただ、そう思い立ってからなかなか戸逢ちゃんと会うことがなかったし、私の気のせいかもしれないんだけど、戸逢ちゃん、私のこと避けているんじゃないかって思うことがあって。なかなか言い出せなかったのよね。」
「避けるだなんて、そんなこと…。」
もしかしたらしていたかもしれない。正直に言えば、レミさんを目にすると、私がレミさんの味方じゃないと言われたことを思い出してしまって、何をするにも二の足を踏んでしまう自分がいた。
レミさんが上品に笑う。
「でも、それは、私が戸逢ちゃんにひどいことを言ってしまったのが原因なんでしょう?ごめんなさいね。」
「あの…」
「まあ、その話は置いておきましょうか。今、こうして話ができているのなら、問題はないわ。本当は昨日の夜でも良かったんだけど、私用でね。急いでいたから。今日会えて良かったわ。」
レミさんは、前に話をした時よりも、とても饒舌に話をころがす。何より、私と話すことを嬉しがっているようだった。少し、レミさんに対してかまえてしまっていた事に心が揺すぶられる。自分が、一人勝手に馬鹿をしていた子供のようで恥ずかしい。
「木田君も、夏柏君もあんまり長い間待たせてしまうわけにはいかないから、さっそく話すわね。私が、木田君と結婚することを決めたわけ。」
「はい。」
レミさんが静かに息を吐いた。呼吸とは思えないほど、小さい。
「私が、木田君と付き合うことになったのは、木田君が私の本質を見抜いてくれていたのが原因なの。」
レミさんの本質。
「それは、レミさんが他人から愛されやすい体質であるということですか?」
「ああ、それは違うわ。そうじゃないのよ。その事は、私から話をしたの。木田君が知ってくれていたというのは別のことよ。」
レミさんの声が弾んだ。
「木田君が言うには、私は人を受け入れることをきちんと知らないらしいの」
「……はあ。」
「ふふっ。よく分からないでしょ?ごめんなさいね。簡潔に結論だけ話すと、そういうこと、らしいの。じゃあ、ここから順を追って説明するわ。」
私が首をかしげるのを見て、レミさんが柔らかい音で笑う。それから、記憶を一つ一つなぞるように、話を始める。
「私が、木田君に私の体質のことを話した時、木田君は私に一つ、言ってくれたの。『レミは、自分のことを理不尽に幸福だと思っているみたいだけど、それは違う。レミは不幸なんだ』ってね。」
レミさんが優雅に首を振った。
「私の不幸というのは、愛情に間接的に関わっているはずのものを主体にして物事をとらえてしまったということだって、木田君は言ったわ。私が、何かを与えられることを、愛情というものに関連させる考え方にとらわれてしまったせいで、愛情に付加価値を作ってしまったのが間違いなんだって。要は、愛情というものを正しく理解できていなかったということね。」
ねえ、戸逢ちゃん。とレミさんが私に呼び掛ける。
「愛されるっていうのはね、自分のことを受け入れてもらうということなのだそうよ。例えば、子供が親に構ってほしくて、何か素頓狂なことをしでかすというのは、自分のことを見てほしいという欲求からくるもので、つまりそれは、親の愛情を自分に向けさせたいということなの。戸逢ちゃんは、そういう経験は、無いかしら?」
愛情の勉強。子供が一番勉強しなければならないこと。
親から愛されたい。そのワードに心臓が動く。
「そして、逆に愛するということは、他人を認める。受け入れることを意味するの。そして、その行為に報いる手段は認識の認識。他者が私のことを認識してくれていることを認識することで、他者の存在も確立してあげること、なのだそうよ。」
認識の認識。親が子供を愛して、子供はその愛を感じることで、子供も、親も存在が強固になる。はっきりしたものになるということだ。
レミさんの話が、自分の過去につながるようで、しくしくと痛くなった。
「だけど、私が愛情として認識したものは、すべて愛情を注いでくれた『人』たちではなくて、私に与えられる『物』だったの。」
レミさんが右手を胸元に添える。苦しそうに見えた。
「『与えること』っていうのは、愛されるための手段なのよね。だけど、私は愛されるための手段を、愛情のものだと誤解してしまった。私は、『与えられる物』を愛情としてとらえていたから、その愛情に報いるためには、その『物』相応の価値をもってするべきだと考えていたの。でも、それは、私には無理だと思って、ずっと逃げていた。『物』に価値をつけて、いつしか『自分』にも価値をつけて、自分の価値に見合わないものを受け入れられなくなった。そういう、誤ったものが、私の本質。私が愛情に相対的な価値を作ってしまったということを木田君は知っていて、私に教えてくれたの。」
レミさんが右手を胸から離して空を仰ぐように深呼吸をする。また、呼吸と思えないような、小さい音で。
「そこまで私のことを知ってくれた木田君に、私は私を受け入れてほしいと思えたんだよ。」
それからレミさんが黙ってしまう。レミさんが黙ってしまうと、後はここには何もないように思えた。それくらい、レミさんだけが、この場ではっきりと存在している。それは、レミさんが木田さんから愛されているから、ということなのだろうか。
何か言葉を求められているようには思えなかったから、私もそのまま黙っている。そしてふいとレミさんが私の方に向き直る。
「私が、木田君に私の体質のことを話したのは、戸逢ちゃんに相談した日の翌日なの。」
レミさんは、私には見えない目で、私をじっと見る。
「本当は、木田君とお別れをするつもりで話したんだけどこういうことになって、それからずっと、戸逢ちゃんに、あの時ひどいことを言ってしまったことのお詫びをしたいと思っていたのよ。」
そのままじっと見つめられて、私は柔らかく笑った。
◎戸逢とレミさんが二人で話をしたいと言うので、俺は木田さんと公園の出口付近まで移動して、一人勝手に気まずさを感じていた。ギャー。人見知りの俺には昨日会ったばかりの人と二人きりというのはハードルが高い!
木田さんは年上の余裕か、爽やかな笑みをたたえながら、俺に話題を提供してくれるんだけど、俺はそれに対してうまく返答できずにカチコチのまま。恥ずかしいやら、申し訳ないやらで、てんてこ舞いのきりきり舞い。舞いに舞っている状態だった。早く戸逢来てくんないかなー。さっきは「ゆっくりでいいから」なんてカッコいい目なセリフを言っちゃったけど、早くも根を上げている。つくづくダメな俺。ただ、木田さんにそんなことで気を遣わせるわけにはいかないので、いっぱいいっぱいなのを顔に出さないようにしながら精いっぱい話に食いついて行く次第だった。
話の途中で、木田さんが腕時計に目をやる。
「少し時間かかってますね。」
「はぁ、そうですね。」
我ながらそっけない返事を返してしまう。相変わらずの会話スキルだった。
夏柏君、と木田さんに名前を呼ばれる。
「僕は、そこらへんで何か飲み物を買ってきますから、夏柏君はここで待っていてもらえますか?炊き出しの場所からここまで歩いてきて、レミものどが渇いているんじゃないかと思うんです。もし良かったら、夏柏君と、戸逢さんの分も買ってきますから。」
「え?い、いやそんな。僕たちの分は良いですから、どぞ、行って来てください。」
「そうですか?」
木田さんが申し訳なさそうに笑う。頼みますよ、と言われて、留守番を頼まれた。木田さんは公園から一本街の中心の方に入っていく道へと向かい、だれか男の人とすれ違うようにしてから、消えて行ってしまった。
「はあ。」
溜息が洩れる。もしかしたら、木田さんは俺が緊張してしまっているのに気づいて、気遣って俺を一人にしてくれたのかもしれなかった。と、言うかその可能性が高い気がする。本当にカッコ悪いな。自己嫌悪―。これから控えている戸逢のパラノイア撃退作戦に先立って、テンションがダダ下がりだ。むむ、幸先がよくない。
「カガシ君。」
突然、すぐそばから誰かから呼ばれる声がした。気持ちとともに落ち込んでいた目線を元に戻すと、さっき、木田さんとすれ違った男の人が目の前に立っている。背の高い、そして何よりイケ面だ。イケ面というより、これはもう超が付く次元である。スーパーイケ面、略してスパ面が俺の目の前に立っていて、確実に俺に向けて声をかけて来ていた。てか、この人誰?
「どうしたんだい?カガシ君。変な顔になってるよ。」
「あ……え?」
スパ面のお兄さんは妙に気安く話しかけてくる。覚えはないけど、この気安い雰囲気と、スパ面のお兄さんが俺の名前を知っていることから、俺とこの人とはどうやら知り合いみたいだった。こんなインパクトある人と会ったことがあったら、少しは覚えてていいはずなんだけど、残念ながら全く記憶にない。ただ、ここで誰ですか?と名前を聞くのは失礼に値するだろう。どうしよう。頭をフル回転させる。脳味噌を絞る。……うーん。う――――ん。う―――――――――――ん。なんとか、なんとかして思い出せ―――!
「あの、どなたでしょうか?」
ま、聞くしかないよね。ふつう。
俺が質問をすると、スパ面お兄さんが爽やかに、軽やかに笑った。なんか口からミントの香りとか出てそう。
「ま、そりゃあ判らないよね。昨日みたいにお面してないし。ミドリだよ。忘れてないよね?夏柏君。」
スパ面お兄さんが、イケ面ヴォイスで自己紹介をした。ミドリ、お面、昨日…って、え、マジ?
「ミドリさんなんですか?」
「そうだよ。」
スパ面、もとい、ミドリさんが華麗に笑う。背景に花を散らすと似合いそうだ。
もう一度、頭の先からつま先まで眺めてみる。一部の隙もなく、ミドリさんはスパ面のいで立ちだった。
「狸のお面は、イケ面隠しだったんですね。」
「イケ面とか言うなよ。つまんないキャラになっちゃうだろ?」
ミドリさんがおどけた口調で言う。俺は呆気にとられるままだ。こんなスパ面を狸のお面で隠してしまっているなんて、占いをしている時のミドリさんは、なんともったいないことをしているのか。考えるとやるせなくなってきた。
「お面とか、しない方が良いですよ、絶対。もったいないです。」
「色々あるんだよ。お面も、自分ルールのうちさ。ま、気にしないでよ。」
そういえば、とミドリさんがわざとらしく話をつなげる。
「ここに来たのは夏柏君に少しアドバイスを授けようと思ったからなんだよ。無駄話をするために来たわけじゃあ、ないんだ。」
「アドバイスって、何のアドバイスですか?」
「まあまあ。」
「なにがまあまあなんですか?」
俺をなだめるように手を動かしてから、左手の人差し指をぴんと立てる。
「夏柏君、君には僕がどうして占いで嘘をつくのかという理由を特別に教えよう。他の人には内緒だよ。まあ、今となっては、夏柏君にはそんなに興味が無いことかもしれないけどね。」
ミドリさんは愉快そうに口をゆがめる。正直、確かに興味が無いことだった。というか、話の先が見えない。
「それはね、趣味を仕事にしないためだよ。」
「……よく分からないんですけど。」
「つまりね、僕は趣味で占いをやっているのに、全部をしっかりしすぎると仕事と変わんなくなっちゃうでしょ?まあ、趣味だからこそ極める人もいるけどさ。僕にとっての占いはそういうものではないんだよ。だから、何事も適度にてきとーに、ね。」
ミドリさんがポケットからタバコの箱を取り出す。
「僕はね、そういう、本来の性質というか、もともとそうであったものを大事にしたいたちなんだ。」
タバコの箱から一本を取り出すと、ミドリさんはその一本を片手でくるくると合わし始める。
「それでだよ。アドバイスってのは、そういうこと。」
「はぁ。」
ぜんっぜん分からない。
「よく分からないんですけど。」
「まあまあ。」
またそれか。
「これから夏柏君がしようとしていることについて、本来の性質って言うものを考えてみようか。」
ミドリさんの言葉が耳に残る。
「これから僕がすることって、何のことですか?」
「とぼけるなよ。戸逢ちゃんのためを思っての行動だろ?ヒーローみたいでかっこいいじゃないか。」
「……」
周囲の空気が少しだけ張りつめる。
「いや、ホントに別に。僕は夏柏君に協力をしようってだけなんだから。構えなくていいんだよ。」
「なんでミドリさんがその事を知ってるんですか。」
「僕は占い師だからね。分かるものは分かるんだよ。」
ミドリさんがウインクをする。げえ、似合っていてキモい。
「さて、夏柏君は、戸逢ちゃんを助けるための手段として戸逢ちゃんと付き合っている状態だったと思うけど、そも、その行為の本来の性質というのは、病気から戸逢ちゃんを守ってあげることか、戸逢ちゃんのことを好きだったからか、どっちだったんだろうね?夏柏君、考えてみてよ。ま、考えるまでもないことだろうけど。」
そこで悪役笑いが挟まれる。げえ、げえ。
「もし、君が戸逢ちゃんを守ってあげようとしてそばに居たってんなら、それは僕が占いをすることと同じで、惰性だ。まあ、昨日の僕の話もあるしね。惰性が悪いってわけじゃアないんだけど。きっと、そこをうまく捉えると、戸逢ちゃんのことはちゃんと行くはずだ。」
意地の悪いセリフを言いきって、ミドリさんが、タバコを箱に戻した。それから、戻したタバコを再び取り出して、またくるくるとまわし始める。
「それと、今日夏柏君と戸逢ちゃんは櫟ちゃんと会ったよね?」
「……もしかして見てたんですか?」
「まあまあ。そんなつまらないことは今はいいんだ。今大事なことはその時話していた事の内容だ。たとえそれが良いことだったとしても、変化には少し怖さがある。きっと、戸逢ちゃんも、今日これからの変化には多少なりとも不安があるだろうから、そういう時は、夏柏君がちゃんと一緒にいてあげることが大事だよ。」
ミドリさんは、まるでさっきの、戸逢と櫟さんとが話をしていたその場所にいたように滑らかに話す。
「それから、今、戸逢ちゃんと、もう一人女の人とが話をしているよね?あの女の人はよく知らないんだけど、まあ、いいか。あまり深くは触れないけど、今話している話題は恋愛についてだね。ガールズトークだなぁ。と言っても、愛情全般の話をしているのかな?夏柏君、君がこれから戸逢ちゃんに話そうと思っていることが少しだけ触れられているかもしれないね。戸逢ちゃんの理解の助けになるんじゃないかな。」
「うわぁ。」
うわぁ。何なんだろう、この人は。何を言っているんだろう。ゾクゾクしてくる。
よどみなく話している内容は、ほぼ間違いなくさっきまでの出来事と、俺がこれからすることとを言い当てている。今、戸逢とレミさんが話している内容は、確かめようがないけど、ミドリさんはまるで、実際に知っているかのように話していた。
「それも、占いなんですか?」
「ん、まあ、僕がいつもしていることと同じことをしているのには違いないよ。」
俺の質問に答えて、ミドリさんが、タバコを箱に戻した。
「まあ、意味があるようで無いことかもね。今の話は、本当なら君の頭には入っていかなかったことだろうし、そしたらこれから君がすることには関係のなかったことかもしれないし。でも、実際に関わりが無いこと同士だって、こうやって自分で関わりを見出してしまうことができるんだよ。」
余韻を残すような言い方だった。呆けた状態でも、その言葉と、ミドリさんの口の動きに注意が向いた。
タバコの箱をポケットに戻しながら、ミドリさんが俺に背を向ける。
「さて、そろそろさっきの男が戻ってくる頃だろうから、僕は行くとするよ。頑張ってね、夏柏君。それと今のことは、全部口外禁止だからね。口チャックだよ。もし、誰かに話そうとしたら、僕には分かるから、本当にチャックつけに行っちゃうからね。」
それだけ言って、ミドリさんは後ろ手に手を振って歩いて行ってしまった。
もう何もかもが突飛過ぎて、もう少し詳しい事情を聞くためにミドリさんを引き留めようとしたけど、ミドリさんの歩くスピードは異様に早く俺も持ち場を離れるわけにはいかないために、一言、ミドリさんと声を発しただけで、その場は終わってしまった。ミドリさんは当然振り返らなかった。嵐のような人だ。
程なくして木田さんが戻ってきて、それからすぐに戸逢とレミさんの話も終わったようだった。戸逢はどこか穏やかな様子だった。昨日、レミさんと顔を合わせた時は少し緊張すらしているようだったけど、今はそれが無い。大丈夫。
「じゃあね、戸逢ちゃん。夏柏君。」
「はい、また今度。」
戸逢とレミさんが挨拶を交わして、俺は会釈をして別れた。俺と戸逢はレストランへと向かう。
◎「さっき、レミさんと何の話してたの?」
「ガールズトークだよ。夏柏には話せないかも。」
戸逢が嬉しそうに笑って答える。俺は少し動揺する。
「ガールズトークって、例えば?」
「もう、詮索禁止だから。」
戸逢が少しすねるように言う。俺は悶悶とする。
さっきのミドリさんの話が頭をよぎる。すべて見透かされているようで気味が悪かった。俺が戸逢のパラノイアをどうこうしようという話は、限られた人たちにしかしていないのに、まるで、話の詳細まで知っているかのように話すもんだから、冷や汗が出る。本当にミドリさんは何者なんだろうか?占いであんなことまで分かるのか?
ただ、ミドリさんは、俺にアドバイスをくれるのだと言っていた。なら、それは俺にとってマイナスになることはないのだろうか?うーん。考えるとドつぼにはまりそうだ。それに、考えない方が正しいような気がする。ミドリさん自身も、意味のないことだと言っていたような気がするし。それに、今は、純粋に戸逢のことを考えていたいと思う。これから俺は戸逢をパラノイアから助け切るんだ。
花火大会の途中で、戸逢がいきなりチョコバナナを食べようと言った時、それは戸逢が中学の知り合いから離れようとしている感じだった。戸逢は、パラノイアで中学時代に色々と問題を起こしていたみたいだったから、それに関連して嫌な思い出があるんじゃないだろうか?そう考えると、中学の知り合いから逃げるようにして移動したのは、まるでパラノイアという病気そのものから逃げているみたいだ。戸逢はそんな状態で苦悩しているんじゃないだろうか?戸逢を、そんな状態から抜け出させてやりたい。今はその事だけを考えるべきだ。余計なことは考えないように。頑張りたい。頑張ろう。結局それしか今はない。
もう少しでレストランに着く。考え事をしている時は、時間の経過が速い。特に、今みたいに考えた結果が不毛だった時なんかは格別早い。俺は、もっと色々煮詰めなきゃいけないことがあったと思うのに。
時間を見る。待ち合わせの時間には間に合いそうだ。
◎外から、明かりのついたレストランの中を見ると、多少混雑していた。俺達と同じように、花火から続けてここに来ている人が多いんだろう。浴衣姿がちらほら見える。
「席、空いてるかな?」
「大丈夫だよ。」
席は取ってある。とってくれている人がいるんだ。
店内に入る時に、つないでいた手を話すことになる。その時、妙に不安になってしまって苛立った。くそっ、怖いのは俺じゃなくて、戸逢なのに。
「只今、満席となっておりますので……」
顔なじみのバイトが仕事の口調で話しかけてくる。
「予約しているんです。」
「お名前の方は?」
「原野で。」
バイトが席を案内するために俺と戸逢の前に立った。歩きだす。
「予約、取ってたんだ。しかも私の名前で。」
戸逢が口をすぼませながら言う。勝手に自分の名前を使ったのかと責められたみたいで、背中を冷たい何かがぞぞぞと這いあがっていく焦りを感じた。俺は何も答えない。戸逢の手を握ってみたかったけど、通路が狭くて二人が横に並ぶのにはきついし、何より恥ずかしいからやめた。
案内された席は入口から対角線上にある場所で、テーブルには、ひと組の男女が座っている。中年といえる年齢だ。男の人はスーツ姿で、女の人は、おとなし目のよそ行きっぽい服を着ている。表情が強張っている。
戸逢が「相席?」と俺に訪ねてくる。また答えを濁して、とにかく戸逢を席に座らせた。戸逢の目は、向かいの男女の方に向いている。その男女の方も、戸逢のことをじっと見つめている。俺と戸逢が店内に入ってからずっと、見ている。
俺も席に座ると、戸逢が落ち着かなそうに俺を見てきた。戸逢を落ち着かせるようにぎこちなく笑った。
「戸逢、こちらは原野さん夫妻。旦那さんの俊樹さんと、奥さんの愛海さん。」
「夏柏の知り合いなの?」
戸逢が俺の顔を覗き込むようにして訪ねてくる。俺は頷く。
「うん、まあね。多分、戸逢も知ってる人たちだと思うんだけど。」
「そうだね。」
戸逢が俊樹さんと愛海さんの方を向く。俺達の話を心配そうに見守っていた二人がたじろぐ。
「私が住んでいるアパートの、はす向かいの家に住んでいる人たちだよ。…毎朝、軽くですけどご挨拶させてもらってます。原野戸逢です。」
戸逢がにこやかに自己紹介をした。対して、二人が一様に渋い顔をする。特に、俊樹さんの方は内臓がぐちゃぐちゃにされたかのように顔をゆがませた。…多分、俺の顔も少なからずそうなっているんじゃないかな。ヤバいな、それは。
目の前の二人は、戸逢の言葉に一言、二言返すだけで、また緊張した面持ちで黙り込んでしまった。それは俺が頼んだことなんだけど、もしそうでなかったとしても二人は何か戸逢に話してあげることができただろうか?俺はそうは思えない。だけど、無理ないな。こうして、戸逢と対面するということがどれだけこの二人にとって大きい事実だったことか。つまり、俺が戸逢に話してあげるしかないんだ。それは望むところだ。なぜなら、それは戸逢との約束を果たすことになるからだ。始めよう。戸逢をパラノイアから救う話だ。
話をする前に一瞬、一年前のことを思い出す。
ここで、戸逢が俺にパラノイアのことを告白したんだ。今は、その時の状況とまるで立場が反対だ。当時の戸逢の気持ちがそのまままるっと分かるみたいだった。戸逢はすごいな。こんなにきつい気持ちだったのかな。
「戸逢、ちょっとな、聞いてほしいことがあるんだけど。」
俺の言葉に、戸逢がもう一度俺のことを覗き込んだ。ただ、俊樹さんと愛海さんの前だからか少し遠慮しているように思える。戸逢に余計な気遣いをさせないように気をつけて、ゆっくり目に口を動かす。
「大事な話なんだ。」
「うん、聞くよ。」
戸逢が、大事な話を聞く姿勢をとるまで少し待つ。その間を埋めるように細く息を吐いて、吸うと、もう戸逢は俺のことをちゃんと見ている。
覚悟が決まった。
「俊樹さんは、戸逢のお父さんの弟さんなんだ。二人は戸逢の叔父夫婦で、戸逢は、前に、俊樹さんと愛海さんと一緒に暮らしていた事があるんだよ。」
そこでいったん言葉を切る。驚くことに、これだけで喉がからからになった。戸逢はまだ、しっかりと俺を見ている。ごくりと、少ない唾液を呑み込んで、続けて決定的な一言。
「戸逢は、二人と一緒に暮らしている時にパラノイアになったんだよ。」
さあ、ここから暴露話の始まりだ。
◎俊樹さんに初めて会ったのは、2か月前くらいだっただろうか。急に田島先生に呼び出されて、放課後に先生の所に行くと、なぜかスーツを大人チックに着こなしている中年男性がいた。渋い外見のせいで、勝手に威圧感を感じてしまう。初対面のその人は俺のことをガン見していた。というかむしろガンつけていた。俺はその日、中年男性に死ぬ気でガンつけられるという初体験を済ませることになったのだった。が―ん。
田島先生によると、その人は戸逢の保護者の人らしい。保護者、という言い方に眉が寄る。戸逢の父さんと母さんの事情は聞いていたので、この人は戸逢にとって、どんなポジションにある人なんだろうという疑問を持った。その疑問を口にすると、返答はすぐに帰ってきて、この人は戸逢の叔父さんだということだった。その叔父さまがいかような用事でいらっしゃったのか。それはなんと、戸逢が交際をしているという噂を聞いて、その野郎を一目見ておきたいというなんとも親ばか的な理由だった。いや、本当は、戸逢が親しくしている人から戸逢の話を聞いてみたい、と話していたんだけど、本音は絶対にそうじゃなかったに違いない。突き刺さる視線から、敵意がビシビシと伝わってきたから。目は口ほどにものを言うとはよく言ったものだ。
ただ、その理由にまた疑問を持つ。
「それは、とあ…原野さんから直接聞くのでは、ダメなんですか?」
水素の様に軽い俺の口によって、疑問が質問に変換される。すると、今度はすぐに返答が返ることはなく、俊樹さんは動揺したような顔をして、渋々といった感じで応えた。
「あの子にとって、僕はもう他人なんだよ。」
変な響きの声だった。
「君はもう、戸逢の小さい頃の話は聞いたのかな?」
「はい、多分それなりには…。」
「そうか。その話について、よく聞かせてくれないか?」
俊樹さんが厳しい目つきで淡々と話す。俺は、パラノイアのことについて話すことに抵抗を感じたけど、どうやら俊樹さんは既にそこらへんの事情を知っているようで、俺に聞きたいのは、俺がどこまで戸逢の事情を把握しているか、ということのようだった。まあ、保護者なら戸逢の病気の事情くらい知ってて当然か。最後に短く逡巡してから、戸逢に聞いたそのままに話をした。
俺の話を聞いている間、俊樹さんはずっと黙ったままで、話している立場としては、少し気まずいというか、やっぱり威圧感がきつくて、たびたびまごついてしまったけど、できるだけ詳細まで話すよう努力する。そして話が終わると、俊樹さんは短くうめいた。
「井島君。その話は、事実とはだいぶ違うんだよ。」
「は?」
俊樹さんが、俺の話は間違っていると指摘する。あれ?どこか内容を間違えたか?
「そうじゃなくてね、井島君。そもそも、戸逢が話した内容が間違いだらけなんだ。」
戸逢が俺に話してくれたことが、事実と違っている?それなら、それは戸逢が俺に嘘をついていたということになるのか?
「いや、それも違う。戸逢は正直に自分の事情を話したはずだ。戸逢の中では今の話が経験談なんだろう。だけど、実際は違う。良いかい?井島君。これから僕が、本当の事情を話すよ。よく聞いてくれ。」
◎戸逢は、小学校の中学年まで、戸逢の本当の親と一緒に暮らしてた。戸逢のお父さん、これは僕の兄さんに当たる人なんだが、ある時不幸なことが起こってね、兄さんは少々精神が不安定になってしまった。兄さんの奥さんも、同様だ。兄さんと兄さんの奥さんはどちらも内向的な人だったから、家の外では問題を起こさなかったが、家の中で戸逢に暴力をふるうようになった。戸逢は暴力を、愛情の裏返しだと言われて育った。ここまでは戸逢の話の通りだね。休日の部屋のくだりも、まあ、概ねその通りだろう。戸逢は休日はある部屋に軟禁されていた。戸逢の扱いはひどいものだった。その行為の主が僕の兄さんということに、僕はひどく腹が立っている。戸逢には済まなかったと思っているよ。…話を進めよう。ある日、兄さんの家に児童相談所から人がやってきた。虐待の通報があったらしい。戸逢の話の通り、兄さんたちは逮捕された。だが、戸逢の話と違って、この時点では戸逢はパラノイアなんかにはなっていなかった。そしてそもそも、戸逢は虐待には遭っていたが、それはネグレクトではなかったんだよ。ここからが戸逢の話で間違っているところ、というか改ざんされていると言っても良い話だ。
兄さんたちが逮捕された後、戸逢は僕たちの家に来ることになった。戸逢はその時点では多少家族についての考え方は偏ってはいたものの、健康的な精神状態だった。僕と妻は共働きだったから、上手くスケジュールを都合しあって、できるだけ戸逢の傍にいてあげられるように努力した。僕と妻にはまだ子供がいなかったからね。正直、甘やかしすぎた面もあったと思うが、それでも虐待に遭って心に傷を負った子だ。可能な限り慎重に見守っていたつもりだ。そうして2年間、特に大きな問題もなく、戸逢も健康そのもので、小学校を卒業したんだ。そして、問題は丁度その頃に起きた。
僕の会社で割と大きなプロジェクトが立ち上がってね、そのプロジェクトの中のいくつかあるグループの長に、僕が選ばれた。実質、出世のようなものだった。僕は舞い上がってしまってね。あまりに嬉しくて、プロジェクトは絶対に成功させようと思った。精いっぱい仕事に打ち込んだ。妻は僕を応援してくれて、そして戸逢も、頑張ってと言ってくれたんだよ。僕は、ここで一つ、大きな業績を残そうと思って、躍起になっていた。仕事に没頭して、会社に泊まりこむことも多くなった。戸逢のことについて心配がないというわけではなかったけど、もうあれから2年もたっている。戸逢の心の傷も、癒えて来てるんじゃないかと楽観視してしまっていた。週に2回くらい家に帰った時に、戸逢の顔を見てやる。戸逢はもう寝ている時間だから、静かに寝室の戸を開ける程度だったけど、そうすると決まって戸逢は戸の音に気が付いて目を覚ますんだ。もう遅い時間だから寝なさいと叱ってやるんだがね。正直うれしかったよ。
プロジェクトは成功した。僕は仕事を評価されて名実ともに出世して、そうなると以前よりも仕事が増えた。正直僕のキャパではいっぱいいっぱいの量だったけど、そのうち要領よくこなせるようになると思ってやっていると、また、残業が多い日々になった。遅い時間に家に帰っては戸逢の寝顔を見るために寝室の戸を開ける。戸逢が目を覚ます。僕は、もしかしたら戸逢が僕の帰りを待って寝られていないんじゃないかと思ったが、今の様に目の下のクマもなかったし、戸逢本人も元気な表情を見せてくれていた。だから、つい嬉しくて、もう寝なさいと軽く叱るだけになってしまう。
夏に新しいプロジェクトが立ち上がった。僕はまた、一つのグループの長になった。仕事の量が増えて、また家を開けるのが多くなった。妻も、戸逢も相変わらず僕を応援してくれていたが、正直家族で過ごす時間を少なくしてしまって申し訳なく思っていた。あまりに忙しくて、時々妻に仕事場まで着替えとかの必要なものを持ってきてもらうことが多くなった。そうすると戸逢が家に独りになってしまうのは分かっていたが、僕はこの時、戸逢ももう元気になったと思い込んで、戸逢を孤独にさせることに少しずつ慣れて行ってしまっていた。本当に最低なことだよ。
ある日、仕事をしていると、会社に来た妻から『戸逢に元気が無い』という話を聞いた。表情に影があるし、食欲も無いそうだ。僕はいったん仕事にケリをつけて戸逢の様子を見るために家に帰ることにした。家に帰って、寝室の戸を開ける。戸逢はその音に気が付いて目を覚ます。いつものように僕の所に寄って来て、記憶にある笑顔のまま笑った。ただ、少し眠れていないのか、うっすらクマができている。寝られていないのか?と聞いてみるが、少しだけ、ちょっとだけとしか返事をしなかった。その日は妻も一緒に3人で一緒の部屋に寝た。戸逢ももう中学1年でそう言うのには抵抗があるんじゃないかと思ったが、戸逢は僕の横で静かに寝息を立てていた。次の日から、僕はできるだけ戸逢のことに気を割いてやろうと思ったが、会社はなかなかそれを許してくれなかった。
しばらくして秋になり、プロジェクトはやっと山を越えた。成績が安定して、僕自身も仕事を要領よくこなせるようになって来ていた。そんなある日に、妻から一本、電話が入った。その電話の内容は、『僕と妻が児童虐待の容疑をかけられている』というものだった。
児童相談所に、通報があったらしい。そして、自宅にやってきた児童相談所の人たちは、僕たちの家のある一室で、両手を手錠に掛けられた状態でおびえている戸逢を見たという。
僕には何が何だか分からなかった。とりあえず会社には断りを入れてそのまま児童相談所に向かった。そこにはすでに妻がいて、動揺した顔で僕を迎えた。僕たちにかけられた嫌疑は『ネグレクト』だった。
さて、確かに僕は仕事一辺倒になって家庭をおろそかにしてしまったが、戸逢の手首に手錠をかけて軟禁するなんてことは絶対にしていない。当然、僕の妻にしても同じことを言える。誓って言える。だが、戸逢はそういう状態で発見された。いったいどういうことか?井島君。ここからが話の核心だ。心して聞いてくれ。多分、君には信じ難いことだろうが、これは本当のことなんだ。
『戸逢を軟禁していたのは、戸逢本人だったんだ』
信じがたいだろうが本当の話だ。これが分かったのは、戸逢がきちんと中学校に通っていることが発覚したからだ。僕と妻は朝に出勤して、帰りは、早くても妻が18時過ぎに家に着くというスケジュールになっている。もし、戸逢が手錠を掛けられて軟禁されていたとしたら、戸逢は学校には行けない。それが発覚して、僕たちの児童虐待の嫌疑が晴れた。そして、次は戸逢を軟禁していたのは誰かという調査が始まり、すぐに戸逢の自作自演だったということが判明した。きっかけは児童相談所にかけられた電話だ。そもそも、虐待の事実が無いのに、だれが虐待の通報をしたのか。通報は僕たちの家の電話からされていた。そして、電話したのは、戸逢だった。そこまで分かると、後はすぐだった。学校で事情を聞いたり、町の目撃情報を調べたりして、だいたいの全容がはっきりした。
戸逢は、朝、妻と一緒に朝ご飯を食べると、普通に学校に行き、学校が終わるとすぐに家に帰る。そして、家にあった音声付きの電気ポットを自室に持って行って、自分の手首に手錠をかけてから何度も何度もポットでお湯を沸かしたんだ。
お湯を沸かして、カップ麺を食べていた時があったことも分かった。うちには買い置きのカップ麺があるから、それを食べていたんだろう。棚に入れてあったものがごっそりとなくなっていた。きっと、食欲がないというのは、カップ麺を食べていたせいで満腹だったんだろう。カップ麺のストックが無くなった時には戸逢が自分で買い物に行っていた事もあったようだ。買い物に行く時は人の少ない裏路地を通っていた。それを何人かの人が見ていた。戸逢の話の電気ポットとカップ麺のくだりはこういうことだ。自分で買いに行っていたんだから、カップ麺が無くならないのは当然だ。
それらの一連の行動は、戸逢がまだ兄さんの家にいた時の休日の部屋の状況を模していたみたいだった。戸逢の中で、それらは愛情の象徴だったんじゃないかと思う。兄さんの家にいる時、休日は両親からの愛をいつもよりたくさん受けられる日だったはずだから、戸逢は、休日の部屋の状況を作れば、僕たちからたくさん愛情を受けられると思ったんだろう。
こういうわけで、僕と妻の嫌疑は晴れたが、大きな問題が残った。言わずもがな、戸逢の精神状態が芳しくなかったことだ。どうやら、戸逢は人の顔がポットに見えているようだった。にわかには信じられなかったがね。そしてもう一つ、戸逢には僕と妻のことが分からないみたいだった。『原野俊樹』と『原野愛海』という名前は、戸逢には見えないようだった。戸逢の記憶は、混濁していて、僕たちと暮らしていた時の記憶が無いそうだ。そして何より、僕たちに対しておびえを持っていた。一緒に家に帰ろうとすると、戸逢は泣き出してしまったんだよ。それから近くにあった刃物で自傷行為をした。リストカットだ。これで、もう駄目だと思った。僕たちは、戸逢と一緒に暮らすことはできないんだと思った。
戸逢は今、僕たちの家の斜向かいのアパートの一室で生活をしている。毎朝、出がけの戸逢の顔を見て、無事に過ごしているかどうかを確認するのが、今の僕と妻の義務になっているんだよ。
◎俊樹さんの話が終わって、俺は頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。俊樹さんが悲しい顔をする。
「すまない、井島君。本当に勝手なことだが、戸逢を見守る立場として、戸逢の近くにいる君には知っておいてもらいたいことだった。」
頭を下げられる。俺はどう答えたものかと迷う。俊樹さんが静かに淡々と話した言葉が、俺の体の中をうねうねと動いているみたいで、気持ち悪い。考えがまとまらない。
「俊樹さん。」
「何だ。」
目いっぱいタメを作ってから、俊樹さんの顔を、真正面に見る。
「正直、僕には信じられません。」
「だろうな。」
俊樹さんが目を伏せる。
「君にとっては、今日会ったばかりの中年オヤジよりも、戸逢の方が信頼できるはずだからな。そういう反応もあるだろうとは思っていた。」
一つ一つの単語を苦々しく言ってから俊樹さんが顔を上げる。
「だが、それだけ戸逢のことを信じてくれているのだと思えば、それは僕としても嬉しいことだ。」
俊樹さんは俺に向けて初めて嬉しそうに笑った。
「また来週、戸逢の話を聞かせてもらえないだろうか?」
その日から毎週、俺は俊樹さんと会って戸逢の話をするようになった。時々、奥さんの愛海さんも同席して、戸逢について話している時間は、毎回穏やかに進んだ。
◎そして、昨日。5月31日。決定的な日。その日は、俊樹さんと愛海さんと戸逢で過ごした間の戸逢のアルバムを見せてもらった。写真の中の戸逢は、今とはかなり容姿が異なる。黒髪のショートボブで、当然目の下のクマはない。胸の発育は年相応で、今と比べるとまるで別人だ。みんな、笑顔で写っていた。
その写真の戸逢を見て、俺はやっと、俊樹さんの話を信じることができるようになった。理由は二つある。それらの写真が、俊樹さんと愛海さんが戸逢と一緒に暮らしていた事を裏付ける証拠になっているということが一つ目の理由。
そして二つ目の理由は、俺がこの時の戸逢と出会っていた事を思い出したからだ。
◎中学1年の秋、俺の母方の祖母が亡くなった。特に病気にかかったわけでもなく、死ぬのにはまだ早かったのではないかと思う。年に数回しか会う機会はなかったけど、それなりに悲しい気持ちになった。
その日は祖母の通夜で、舘岡の町まで来ていた。広くない座敷に親戚が集まって、長いお経を聞く。俺は通夜なんて初めてだったから、一つ一つの出来事におっかなびっくりしていた事を覚えている。時間が長く感じられたけど、気が付けばいつの間にか通夜ぶるまいの時間になっていて、大人たちがそれぞれ酒を飲んでいた。俺はその場の雰囲気が嫌になって外に出た。
親戚が死ぬという経験は初めてだった。思ったよりも涙が出なくて、自分が非情なんじゃないかと疑う。あるいは今どきの若者らしく、死ぬことっていうのをよく分かっていないのかも。ただ、死ぬことなんてのは普段は絶対に考えないから、ほんの少しくらいはナーバスになっているのかもしれなかった。
舘岡の町は正月とお盆の帰省に親に連れてこられるだけの場所なので、母さんの実家と車の中からの景色しか知らない。ただ、その車の中から見た物の中で、一度行ってみたい場所があった。昔の小さな駅なのだろうか。古びれた外装の建物と、そこから少しだけ伸びる線路が見える場所がある。あそこに行ってみたい。以前、道順を母さんから聞いたことがあって、いつか行こう、いつか行こうと考えて行動しないままだった。だけど、今日は通夜の席にいたことで変なテンションが構築されていて、不思議と足が進む。やっぱり、ある程度は祖母の死に感傷的な気分になっているんだろう。
歩きだして、どんどん小道に入っていく途中で、自分が通夜用に着てきた真っ黒い出で立ちなのに気が付いたけど、家に戻る気はなかった。だけど、誰か知らない人に見られるのは嫌だ。なるべく人目を避けるようにこそこそと歩く。すると、人目ばかりを気にしすぎたからか、どこかの道を一本か二本、間違ってしまったらしい。母から聞いたような目印が、周囲のどこにも見えなくなって、最初に突き当たりにぶち当たってから、少しマズイ事態になっているのに気が付いた。
よく知らない町。よく知らない道。初見だと目印もうまく作れない。周りに人の気配はなくて、どうすればいいか分からずに困っていた時に、視界の隅にちらりと誰かが見えた気がした。そちらの方を向くと、細身で黒髪ショートの女子が、中身の膨らんだビニール袋を持って歩いているのを見つける。自分の格好を見られるのは嫌だったけど、この状況下ではその女子に道順を教えてもらうしかないと思って、せかせか歩いている女子を小走りで追った。
「ちょ、ちょっと!あの!」
背中越しに声をかける。なんて言ったらいいのか分からないので、とにかく気を引こうと叫んだだけだったけど、女子は気付いてくれたようで歩みをとめた。振り向いた顔が、近くで見るとすごく小さい。女の子サイズだ。
その女子が、俺の黒装束を見て、変なものを見るような目をしてから、「何?」と小声で言った。恥ずかしさで死にそうになるのを何とかこらえる。
「あの…道に迷っちゃって…。君、ここら辺の人、だよね?」
女子がコクリと頷く。助かった!と心の中で叫んだ。
「あぁ、あの!道、教えてほしいんだけど!」
「…どこに、行くの?」
女子の声はあまりに小さくて聞き取りづらかったけど、どうやら道を教えてくれるみたいだ。でも、そこで固まった。そういえば、母の実家の住所が分からない。年に一回、年賀状を書くときくらいしか頭に入ってこない情報なので、正月から10カ月もたっていれば、忘れてしまうのも道理だった。せっかく親切に道を教えてくれる人が現れたのに、目的地を伝えられなければ、たどり着けるものもたどり着けるはずがない。
そのままうろたえていると女子が首をかしげる。
「…君、もしかして行きたい場所も分かんないの?」
「あ…うん。家に帰りたいんだけど、年に1,2回くらいしか来ないから。」
「ふーん。どこの家?名前は?」
多分、この女子は、実家の名前を聞いているんだろう。
「高橋。」
「それだけじゃ、分かんないね…。」
女子が困った顔になる。それから人差し指をあごに当てて何かを考えるようなポーズをした。なんだかすごく申し訳ない。
「表通りまで行けば、道、分かる?」
「た、多分。」
俺が答えると、女子はくるりとその場で半回転して、背中越しに顔を向ける。
「…じゃ、ついてきて。一緒に行こう?」
地獄で仏という言葉を体験した。
女子の後ろをつき従うように歩く。歩くたびに女子が持っているビニール袋が、かさかさと音を立てた。ビニール袋の中身が気になるけど、角度的に見えない。お互いにしゃべることはしなかった。まあ、道を教えてもらっているだけだから別にいいんだけど。一つ角を曲がり、二つ角を曲がり…。俺は結構深いところまで歩いてきてしまっていたみたいだった。反省しなきゃな。
「君、さ。」
「…え?あ、何?」
すぐには分からなかったけど、突然女子が俺に話しかけてきたみたいだった。歩くのをやめている。
「ここら辺の道、よく知らないんでしょ?それなのにどうしてこんなとこまで来たの?」
女子が首だけ動かして俺を見た。俺もその女子を見る。女子の目は、なんだか謎めいている。
「今日はばあちゃんの通夜だったんだけど、家の中はつまんなくて出てきたんだ。」
「……家の中はつまらないの?」
瞬間、女子が強い目をしたような気がした。少しひるむ。何か、癇に障ることでも言ってしまったのだろうか?
「いや、あの…なんていうかさ。うちの父さんとか母さんがよく言うんだよ。『楽しいことは全部外にある』って。そうやって俺を家の中から追い出すんだ。それで今日は、ちょっと探検みたいな?行きたい場所もあった、し……。」
「……」
俺の言葉はどんどん尻すぼみになってしまった。
それは、話している途中で、明らかの女子が過敏に反応したからだ。目を大きく見開いて、何かに驚いたようだった。女子が「楽しいことは全部外にある」と復唱した。そして黙る。黙って、考える人の像みたいになる。俺は何が何だか分からなくて勘弁してほしいなと思った。
そして、おかしいくらいに長い時間その状態が続いてから、女子がうつむいていた顔を上げる。
「君、どこに行きたかったの?」
「え?」
「だから、行きたい場所ってどこなの?連れてってあげるよ。」
急に女子が積極的になった気がした。
「いや、いいよ。そんなことまで。」
「いいから、教えてよ。一緒に行こうよ。」
さっきまでと違って押しが強い。俺は押しに弱い草食系男子の極みのような人種なので、つい、行きたかった場所をそのまま白状してしまう。
「そこなら、すぐそこだよ。こっち。」
女子は、やる気満々だった。まるでさっきと別人だ。若干、躊躇してしまうけど、状況的には何も問題はない。この女子は、進んであの場所まで案内してくれるというのだ。その厚意に甘えてしまえ。
目的地は本当にすぐそこだった。どうしてたどり着けなかったか不思議なくらいの場所にあった。木造のすたれた建物から、劣化しきった線路が伸びている。どうしてここに来たかったのか、自分でも良く分からないけど、ここに来れたことはとてもうれしいことのような気がする。しゃがみ込んで、古びた線路を右手でなぞっていると、女子に対する感謝の気持ちがふつふつとわいてきた。
その場で、駅の壁にもたれかかっている女子に振り返る。
「あの、ここに来れて良かったよ。案内してくれてありがとう。」
女子はふっと笑ってくれた。
「ううん、私も、良かったよ。」
その言葉の意味はよく分からなかったけど、俺はさらにうれしくなった。
◎よく考えれば、なんであの時、俺は女子の名前を聞かなかったんだろう?いや、普通かな?道案内してくれるだけだったわけだし。でも、なんか聞いても良さそうな雰囲気ではあったような…。まあ、全て終わったことだ。
と、いうことで、俺が祖母の通夜で舘岡に行ったあの日に、道に迷った俺を助けてくれた謎めいた女子が、俊樹さんの持ってきた写真の中でにこにこと笑っている、というのが、なんとも衝撃的な事実だったわけで。俺は、期せずして、中学1年の秋、戸逢と出会っていたのである。わー、びっくり。
そして、肝心なことは、ばあちゃんの通夜の日、つまり俺が中学生の戸逢に会った日が10月9日で、戸逢が自宅から児童相談所に通報したという日が10月10日だったことだ。偶然にしては出来過ぎな日取りだ。関係が無いと考える方が無理がある。そこでなんとなく輪郭がはっきりしてくる。
たぶん戸逢は、俺と出会ったことで何かしらの影響を受けたんだ。きっとそれは、『楽しいことは全部外にある』という言葉だったんじゃないだろうか。俺がその言葉を言った時の戸逢の反応を考えれば、おおよそ間違いない。それで戸逢は行動を起こしたんだ。ただ、その行動が正しかったのかどうかというのは微妙な問題だったりする。
さて、戸逢の軟禁自作自演の話と今の話とを踏まえたうえで、俺が戸逢を分析すると以下の通りになる。
戸逢のパラノイアの根っこにある部分は、愛情の不足から来るさびしさや孤独感といったものだと考える。順序立てて見て行くと、まず、戸逢は戸逢の本当の親の元で暮らすことで、偏った家族観を持っていた。その経緯は一般にはあまり肯定される部類のものではないけど、戸逢は家族愛というものを非常に大事にするようになる。その後、戸逢は俊樹さんと愛海さんの元に引き取られて、そこで大切に可愛がられた。たぶん戸逢は、家族愛の表現方法の差異について戸惑いを持っただろうが、結果的には一般的な家族愛の形を知ることができたのだろう。だけど、ある時から、その愛情をあまり感じられなくなるような状態が訪れる。つまり俊樹さんの仕事が忙しくなってきたときのことだ。俊樹さんがあまり家にいられない。自分のことを見てくれない。戸逢は焦ったのではないかと思う。深夜まで寝ないで俊樹さんを待っていたことは、戸逢が愛情に飢えていた事を示しているだろう。戸逢は俊樹さんがまた、自分のことを愛してくれるようになるのを待っていたけど、俊樹さんの仕事は忙しくなっていく一方で、戸逢はこのままではいけないと考えた。そこで、俊樹さんの話にあった通り、昔、自分が最も愛情を受けていた頃を模してみることにした。俊樹さんの仕事にケリがつくまでは、昔の自分を模倣していても効果はなかったわけだけど、家族愛に関して偏った思考を持つ戸逢にとって、他の方法を考えつくのは難しいことだったのかもしれない。そんなときに、戸逢は俺に出会ってしまった。そして、俺の言葉を聞いて、多分開き直ってしまったんだと思う。戸逢は愛情を家の中で求めるのに見切りをつけて、家の外に愛情の不足分を求めようとしたんじゃないだろうか。児童相談所へと通報したのには、どういった理由があるのか、はっきりした推測はできない。過去を模倣した状況を作ったことに対するけじめだったのかもしれないし、児童相談所へと通報することで、俊樹さんと愛海さんの注意を自分に向けさせるという、最後のあがきだったのかもしれない。結果としては戸逢は家の中で得られる愛情、家族愛を見限った形になった。そして、家の外で、愛情を手にすることができたのだろう。
だけど、その時点で戸逢は家族の愛情を諦めてしまっている。その諦めがパラノイアの原因だと、俺は思う。それは、戸逢の不眠症の原因が、無くしてしまった家族愛への未練だと考えられるからだ。戸逢は自分で家族を切り捨てたけど、まだどこかで、家族を欲しているんじゃないだろうか。そして、パラノイアの原因はおそらくそこにあるんだろう。
だとすると、だ。
「戸逢をパラノイアにさせてしまったのは、色々な要因があったんだろうけど、決定的な原因は俺だったんだと思う。本当に、謝っても謝りきれないことをしちゃったんだ。ごめん、戸逢。」
最後の言葉で戸逢に謝る。脳味噌が鉛に入れ替わったかのように頭が重くて、自然と頭が下が戸逢を助け切るのには、まず、戸逢に真実を話してやることが必要だった。戸逢が今の話を信じてくれることが、戸逢の救出の第一のステップになる。ただしそれはつまり、自分が戸逢にしてしまったこと、俺が戸逢を今の苦しい状況に陥れてしまったことを戸逢に知られてしまうことを意味している。それを知って、戸逢はどう思うのだろうか。
顔を上げる。戸逢はなんの反応もしていなかった。ただ、俺の話を聞いて、その言葉の意味を咀嚼する作業を淡々とこなしているように見える。そして、いつかと同じように人差し指をあごに当てるポーズをとった。
「そう…。そうだったんだね。」
「今の話、戸逢は信じられるのか?」
戸逢が大きく頷く。
「いつか話したことがあったよね。私にとって、夏柏の言葉は全部本当だって。」
戸逢が笑う。
「聞いていて、納得することもあったし、思い当たることもあったよ。それに、今の話を俊樹さんか愛海さんに確認すれば、私には嘘が分かるから本当かどうかなんてすぐに分かっちゃう。でも、それよりも何よりも、夏柏が話したことだから、それは私にとって本当のことになるんだよ。」
堂々と言い切る戸逢には本当に疑心も躊躇もないようだった。だけど…
「それは、ダメだ。」
「ダメって、何で?」
「戸逢が、俺のことを信じるしかないのも、俺以外の人の嘘が分かるのも、話してもらったことがあるから知ってるよ。でも、そういうところに頼った納得の仕方じゃダメなんだ。ちゃんと、パラノイアの部分に頼らないで戸逢が納得しなきゃいけないんだよ。」
これはパラノイアから戸逢を助け切ることが第一目的だ。だから、戸逢には自分のパラノイアの部分を一切排除してもらわなければならない。
「夏柏、それなら問題ないよ。」
「え?」
戸逢を見ると、変わらずに晴れ晴れとした表情でほほ笑んでいる。
「私も、思い出したの。夏柏と会った時の事。ねえ、夏柏。夏柏は私に話してくれたことを、良くないことみたいに言うけど、やっぱりあれは、私にとって助けになっていたんだよ?」
戸逢が左手を胸に当てて、言葉を続ける。
「あのときも、夏柏が私を助けてくれていたんだね。ありがとう。」
「あ……」
不覚にも涙が出そうになった。戸逢の言葉に、顔がジーンと熱くなる。とにかくうれしさが体を支配した。俺は、戸逢を助けられていたんだと知って、俺自身が救われた気分になる。心臓の波打つ速度が気持ちよく、そして戸逢が自分の話を信じてくれることを理解する。戸逢を助ける準備は整った。
俊樹さんと顔を見合わせる。お互いに示し合わせて、とうとう、話はゴールに向かう。
「戸逢、そこで提案なんだけど……」