原野戸逢は人間と出会う
◎その日は確実に入学式だったようだけど、実際俺にはそんな印象は薄かった。それは、俺がとっぴなことにアドリブの利かない、臨機に応変のない性格だからなんだろうけど。実際にあったことだから、あり得ない話ではないけれど、それでも、よくある話じゃないから珍しいし、さらに言うと、俺が今現在、戸逢のことを好きでいるという事実が、その日の出来事を、もっとずっと確率の低いものにしている。だって、よく考えると、すごいことなんじゃないか?これって。世界の人口×世界の人口分の一。それが、戸逢と俺の可能性なんだ。ちょー低いって、これ。
高校に入学する日だ。今日俺は、地元の公立の1年生となるのである。緊張緊張。俺は、中学の頃から、高校へのあこがれが強かった。まだ身長の低かった時分の俺からすれば、やっぱり高校生なんてスラッとしていて大人チックだし、それでいて子供の盛りでもあるんだと予感していた。自分が中学に入ってから、小学校の頃に期待していた程の成長が無かったにもかかわらず、俺は懲りずに高校という、もっとも青春あふれる人生熱帯期を楽しみにせずにはいられなかったんだ。いろいろ想像していた。中学校への登校と、それから下校の時間帯にちらほらと見る高校生の姿を見ながら、まるで高校生になることがスーパーマンになることと同義みたいな、それだけで人間としてのステージが上がって、ボルテージも上がって、やっほいヒューみたいな。そんな想像をしていた。いいじゃん。誰だってするよね?高校デビューとか、あこがれた。俺は顔が薄いとよく言われていたから、そういうの取っ払って、髪染めたり、ワックスつけたり制服を着崩してちょっと悪目なワイルド出したり、それに何より彼女とか作ったりとか、そういう期待がバンバンビンビンなのでした、はい、キモいね。ただ、現時点、入学初日の今日としてはそんな期待とか全くないっていうか。とにかく怖い。そんなにひどいレベルではないけど、やっぱり俺も人並みには人見知りな部分があって、今日初めて顔を見る人がいっぱいなんだっていうことを考えると、とてもじゃないけどウハウハっていう気持は萎えていた。嫌だなぁ、学校いきたくねぇ。でも、そこでそのまま行かないという選択肢を出せるほどの行動力?いや、行動しない力は俺にはないから結局学校には行く。そんな消極的なのが俺なんですよ。
目覚まし時計のお力を借りて目が覚めて、時間をかけずに朝の諸々を済ませる。久しぶりにこんなに早い時間帯に動いているので、やっぱり目は覚めてても頭が覚醒していない。そのくせ動悸が激しいという非常に気分の悪い朝です。憂鬱。だけど、いつもお世話になっている星座占いは1位だったので幸先はいいかな。でも、1位のくせに恋愛運が妙に低かったぞ。5段階評価で2って、どういうこっちゃ。ま、いいか。だって入学初日で恋が芽生えるなんて、俺には縁のない話だもんな。一目ぼれっていうのは結局めんくいということである。俺は、外見だけで人を判断する人は好きじゃないから、だから一目ぼれなんて、ひとめぼれなんて…羨ましくなんてないからね!
中学からおなじみの制服に袖を通して、新しいエナメルを背負ってから、さっそうと玄関を出る。爽やか、さわやか過ぎるんじゃない、今の俺?宇宙的にさわやか少年だ。
自転車を漕いでいると、ついこの間までは横目で見てた高校生先輩たちが俺を次々と通り越していく。追い越されるたびに背筋がぞわぞわする感覚があった。まだ、自転車通学に慣れてない俺と違って、それがいつものことであるかのように、自転車を操っている。通学は大概自転車で。でも、歩きもいる。徒歩の人たちを追い越しながら、自転車の人たちに追い越されながらの登校。さっき、歩きたばこをしている髪を真っ赤に染めた女の人がいた。堂々と吸っていた。横目で見やる。
タバコには『All is fair in love and war』と書かれていた。
遠くで踏切の音が聞こえたので、学校に着くのは電車組より遅くなりそうだ。ま、でも、地元学生ってそんなもんさ。
一人での自転車通学というのは、なぜか人目が気になって、普通の人からはこわごわと、外見が少しアレな先輩とかからはもっとこわごわとしながらせっせと自転車を漕ぐ。しばらくして学校前の坂までたどり着く。緊張したせいか、めちゃくちゃ時間がかかった感じだ。相対性理論的ななんかがはたらいたのだろうか。科学ってすごい。でも、俺はもう15年と数カ月を過ごしている結構な人生ベテランなので、こういう緊張感がそうそう続くわけではなくて、たぶん、一週間もすれば慣れきってしまうことが分かっていて、登校自体にはそれほど憂鬱にはならずに済んだ。坂を登る最中に、並んで話をしながら自転車を押している人の姿を見ると、ああいうのはいいなと思って、でも、地元学生がそれを実行するには、朝一緒に登校する人をみつくろって、待ち合わせやなんだりをしなければならないのだという手間を考えると、自分はいいかなという気もしてくる。都合良く、登校途中にばったり出くわす程度の方が、手間もかからないし、待ち合わせの時間とかに縛られなくてもいいから、無難かな。坂を登りきるところで校舎が見えてくる。すごいキレイ。綺麗じゃ無くてキレイって感じ。美しいじゃなくて清潔。むしろ潔癖って印象を受ける。真っ白い校舎は、学校という特徴的な建物からしては、建てられてからの日が浅いためか、色彩の白さの上から新築の白さというものが上塗りされているようだ。……ヤバいな、俺、詩人だ。でも実際、この新しい校舎を志願理由の一つとしてくる生徒もいるくらいだから、いくら褒めても褒めすぎということはないのである。自転車小屋は木造で、まだまだ色が明るい。1年生の区割りの所へと自転車をとめて、鍵をする。チェーンまでばっちり。めんどくさいけど、高校って結構自転車盗まれるって聞くし、用心するに越したことはないよね。周りの自転車で鍵してないの結構あるけど、そういう奴らから盗まれてくんだからな。後から泣き言いっても遅いんだかんな!
玄関にはクラス表が張り出されていて、俺はD組。玄関に入って1階の、1番近くにある教室だ。案内に従って教室前へと。引き戸が締まっている。外から教室の中の様子はうかがえない。ってか静かだ。階段の上からは上級生たちの騒がしい声が聞こえてくるのに対して、この教室の中は異様な静けさ。そりゃそうか。みんな初対面同士で緊張してるんだろうし。そうだよ。緊張してるのはみんな同じなんだから、別にここまで俺がビビることは無いんだよな。さっきまでは周りの知らないやつらがみんな敵みたいに見えてたけどむしろ全員味方じゃん?これからずっと高校生活を共にしようっていう時期にあえて敵を作ろうなんていう猛者はそうそういないはずだ。これ真理ついてね?なんだか気持が軽くなってきた。イケる気してきた。よし、覚悟は出来たぞ。戸に手をかける。緊張感が高まる。一気に引く…ことはせず普通に開けた。気負い過ぎてもいかんもんね。
戸を開けると、大多数がこちらを見たけど、俺を見止めた直後、皆すぐに目をそらす。確かに条件反射的に見ちゃうよな。分かる分かる。目をそらされた後、逆に教室内の面々を眺める。うわぁ。こりゃ、さすが高校は中学とレベルが違いますな。かわいい子たくさんいる。イケ面もちらほらいる。うぁあ、あいつ髪の毛あんなにつんつんにして、いかつ。あの子はめっちゃくちゃきれいな。目鼻立ちがはっきりしてるって言うか、うん、整ってるっていう感じ。間違いなくこのクラスの一番だ。ほかにもかわいい子が結構多い。男は、イケ面が5人くらい。そのほかは普通。正直に見た目がよろしくないのも少し。ま、女子にもそういうのはいるにはいるけど。俺は、可もなく不可もなくゾーンかな。でも、ま、顔じゃないんですよ顔じゃ。あんまりじっと見てるのはよくないので黒板の座席票を見て席を確認。指定の席へ向かう。すると、その途中で一人の女子がこっちを見つめているのに気がついた。というか目があった。さっきかわいい認定したうちの一人だ。うわっ、気まず。すぐに目をそらして、席を目指す。『井島夏柏』の席は、廊下側の真ん中あたりだ。着席。そして座った後にちらっと視線をずらすようにしてさっき視線が合ったかわいい認定の子を盗み見る。
目の下に重度のクマ。それがだいぶもったいないけど、十分かわいい。セミロングとロングの中間のような長さの髪の毛で、脱色しているみたいだ。そのせいか少しぱさついてる。でも、その乱雑さが眠そうな両目に合っている。それに何より、胸が…。発育が良いってすばらしい。そうやって盗み見る際も少しだけ目があった。っていうか、ずっと見てる、見てるよ俺のこと。何?何だろう?ふつうは、俺の顔になんかついてるってパターンだよな?でも、今日ちゃんと鏡見てきたし、ほかのやつらは特に無反応だから。たぶん違う。じゃ、何?ひ、ひと、一目惚れ?ははっ、ないなーい。ナッシングですね。俺はそういう顔じゃないもの。じゃ、何?何だろう?例えば、昔どこかで会っているとか?うーん、俺はあの子を見た覚えは無いな。でも、人間、自分の預かり知らないところでどんな縁を作ってるか分からないからな。可能性としてはゼロじゃない。さらに例えば俺の顔が知り合いに似ているとか。うん、ありそうだな。親戚の○○君に似てたからつい凝視。このあと俺をケータイで隠し撮りして、その親戚の子に添付メールするのかもしれない。うわ、それはやだな。写真撮られるのってなんかやだ。ご遠慮願いたい。さらにさらに例えば、例えば…俺の後ろになんか見えてるとか?霊的な、ゴースト的な何かが見える人なのかもしれない。彼女のあのクマは、夜な夜な見たくないものを見てしまうせいで不眠症だから、とか。これはちょっと飛躍させすぎだな。俺、霊とか信じてないし。心霊現象とか、結構好きなのになぁ。そういうスポットとか行ったこともある。でもなんも起らんかった。つまりませんな。ん、話がそれた。再び一瞥する。やっぱり見てる。目は合わせないように視界の端っこに収めるように見ながら分析。やっぱりかわいいな。見目麗しいお方に見られてるんなら、まぁ良いか。ちょっと気分も良いじゃないか。存分に見てもらおう。そのうち仲良くなったりできたら嬉しい。ちょっとくらい期待してもいいのかな?でも、間違っちゃいけない。人間顔じゃないんだ。俺はあの子がかわいいから仲良くなりたいっていうわけじゃなくて、ただ単に、友達を作りたいからってことだからね。純粋に!
「はい、じゃあ気をつけて帰れよー。」
終わった。終わりました入学式。今更だけど入学式ってなんか幼い感じがする。語感がね。初回なので色々なことが詰め込まれてあまり短くないショートホームルームを、先生の話を流し聞きしながら適当に過ごした。帰ったら今日は中学からの友達とゲームをするのがいい。もう飽きても良いほどやっているけど、全然飽きない。既にレベル上がんないくらいやってるんだけど、好きだから別にいいんだよ。
先生の挨拶とともに今日の全日程が終わって放課後になった。
そして、放課後になったその瞬間である。自分の席に座って、午後の楽しいひと時に胸躍らせている俺の目の前には、件の女子、目の下のクマが目立つ、発育ちゃんがやってきていた。この角度から見下ろされていると、自分が何か悪いことをして、それをとがめられているかのような錯覚を覚える。その女子は、そのポジションを陣取ってから、少しもじもじと動いていて、何かを話そうとしているみたいだった。そして、目線が合う。
「あの、少しお時間を頂けますか?」
目線は上の位置にあるはずなのに、自然の摂理を捻じ曲げて、その問いは上目づかいで発せられた。
「うん。いいよ。」
とっさに了解してしまう。返事をしてからハッとした。ハッ、俺のゲームは?どうしよう?
いや、でもどうせゲームなんていつだってできるものだから、今回はこの発育ちゃんをたてる方が正解か。発育ちゃんはそれから、友達と思われる女子に、先に帰ってくれと伝えて教室に残った。その友達は俺を見ていぶかしげな目つきをしてから発育ちゃんに何かを耳打ちしてから去って行った。というか。その友達は俺がこのクラスで一番認定をした女子だった。発育ちゃんはあの子と友達だったのか。ま、だからなんだって話だけど。とりあえず、俺にとって重要なのは発育ちゃんとこれから過ごすスウィートタイムなのである。
発育ちゃんの名前は、原野戸逢と言うらしい。とあ、何て名前よく聞くもんじゃないし、響きが独特。何か好きだ。とあとあとあとあ…。今日の入学式いっぱいで、彼女からずっと視線を投げかけられていたので、彼女が話しかけてくる予感はあったし、彼女の方に、俺に対する話があるような直感もあった。その内容まではさすがに分からなかったけど、席に座っている自分の目の前に立たれたその瞬間に、俺の顔には何も変なものはついていないし、俺の顔は、彼女の親戚の誰のものにも似ていないし、彼女のクマの原因が、霊的なものによるものではないということが、すぐに分かった。彼女は、「二人きりでお話ししたいことなので、他の人がいなくなるまで待っていてくれますか?」と告げて、お手洗いへと言ってしまった。俺は素直にすそれを見送った。
俺は今、一人で教室に取り残されていた。担任の先生が訝しげな目で教室を出て行くのを横目に感じながら自分の左手の指先を凝視していた。先生が教室を出て行ったあとは右手の関節の出っ張っている部分を見つめる。校舎の中は携帯を使ってはいけない決まりになっているので、暇つぶしにケータイをいじることもできない。そんな退屈な時間を強いられていた。時間は正午を過ぎて、そろそろ俺の体がカロリーを求めてる。今日は午前までのスケジュールだから、学校が終われば家に即行で帰って、焼きそばでも作ろうかともくろんでいた。だから弁当とかない。腹減ったな。原野さん、早く来ないかな?話って長くなるんだろか?だったら、正直昼飯を先に済ませたい。でも、そしたらきっと原野さんと昼飯を一緒に食べることとかになるような…。それはきっと俺が提案する形になる。一緒にお昼でもどうですか?おおっ、これってハードル高くね?
高校入学と同じ日にさっそく女子と一緒に昼ご飯なんて、俺の人生の何とかポイントがすごい勢いで消費されていくようだけど、そういう波乱って、きっと人生のスパイスって言われるものなんだ。そう考えると、ここで怯んだら負け癖つきそう。誘うは一時の恥だよな。よし、誘う、誘うぞ!誘う誘う誘う誘う誘う誘う誘う誘う……って、原野さん登場。
「お待たせしました。」
「いいよ。で、聞きたいことって何かな?」
待ってない感を全面に押し出す自然な返事を心がける。
「それなんですが、場合によったら、もしかしたら長くなるかもしれません。もうお昼時ですし、いきなりではあるんですけどお昼ごはん、ご一緒しませんか?」
俺の決意と緊張感が押し流された一瞬だった。どぎゃーん!
入学式だからということなのか、購買も学食もやっていなかった。話ができる場所という条件もあったので、学校から一番近くのファミレスへと、二人で自転車を走らせる。原野さんに昼食を誘われた後、ぎこちなく返答して流れ流れで自転車を並走させている俺と原野さん。結局ここまできたら色々と気にしても全部遅いわな。開き直ろう。
原野さんは地元民じゃないらしいので俺が案内する形。自転車を縦に並べて走る、一緒にいる相手が女の子というシチュエーションに心が躍る。素直にうれしい。少し俺の後ろをついてきているので、原野さんの表情は見えないのが残念だけど。
「原野さーん?」
「はい?」
「変なこと聞くけど、原野さんって俺のこと知ってるの?」
「それは、私が聞こうとしていたんですけど。井島さんは、私をどこかで見たとか、そういうのありませんか?」
「えー。んー。俺は特に覚えがないかなぁ。じゃ、何で俺に声かけたの?」
「えっと、それは………」
「ま、後で聞けばいいことだよね?」
自転車を走らせながらの会話。出会って初日で馴れ馴れしいと思われるかもしれないけど、会話が無い方が絶対にまずい。学校を出た直後に気まずさで死にそうだったので、今は俺から話題を振って、原野さんが答えるの繰り返し。気まずい空気とかを主食にする生物とかに生まれていたら、きっと人生すごく幸せなんだろうな。
自転車を走らせる目的地について、一番近くの場所をチョイスしたものの、女子と入れるお店というのなら、男子同士でも良い圏外に出なきゃいけない。時間的には15分くらい。家の方向から離れていって、帰り道が少し遠くなる。
…これって傍から見るとどう見えんのかな?カップルとかに見られるとしたら、かなり嬉しいんだけど、俺たちの放つ雰囲気がたぶんそうは感じさせないんだろうなと予想する。だって、原野さんなんか距離遠いんだもん。物理的な距離じゃなくて、気持ち的な方で。仕方ないことだけどさ。
店に近付くにつれて勝手に緊張が高まってくる。口数を減らさないようにするので精いっぱい。
「もう少しだからー。」
「はい。」
「…………」
「…………」
「もう少しだからー。」
「?はい。」
ボキャ無さすぎてごめんね、原野さん!
「ここね。値段も手ごろだし。」
「あ、ここ初めて入ります。」
「そうなの?へえ。じゃあ、入ろっか?」
「はい。」
地元で学生に人気な、低予算でご飯もレベルが低くない程度のお食事どころ。ここらの地方でチェーン展開しているレストラン。きっと店内には他にも学生がいると思うけど、きっとそれは近場のどのお店も同じなので羞恥心を捨てて仕方なく泣く泣くここに決定。初めて入る店じゃないんだけど、女の子と入るっていうシチュエーションがいつもと違う匂いを感じさせる。怖いわな。お店に入る一歩目が、だいぶん高い靴音を立てた。
「ハンバーグのAセット、お願いします。」
「私も、同じので。」
「ハンバーグAセットお二つですね。はい、失礼します。」
注文してから店員が去ってった。ハンバーグA。かなり量多めなんだけど、原野さん食べきれんのかな?あんまり食べれる方には見えないんだけど。きっと、初めての店だからよく分かんなかったんだよな。言ってあげればよかったよな、やっぱ。
原野さんがお冷を一口だけ飲み下す。
「っふう。いいお店ですね。雰囲気とか、店内全部禁煙だし。」
「そう、良かった。」
「また今度、友達と来ますね。井島さん。」
ふわっと和らぐ。かわいいな。同席してるのがすごい場違い感。で優越感。微妙な気持ちがくすぐったいけど、まずはお話ししなきゃあいけない。
「で、料理とどくまで話進めちゃう?」
「そうですね。そうしましょう。では…」
「では?」
原野さんがしきりに右手首をさすりだす。それが5往復くらいで止まる。
「例えば、さっきのウェイトレスさん、いたじゃないですか。髪長かったですか?」
…?ウェイトレスさん?どうだったかな?
「長かった、よね?」
「目は、大きい方でしたね?」
「そうだね。大きかった。」
「ま、実際はメイクで目を大きく見せることもできるんですけどね。鼻は高い方でしたか?」
「うーん、どうだったかな?」
そこまでちゃんと見てない。つかメイクて。原野さんはそんなもんしてないよな…?
「ああ、注意して見ていないと、細かいことまでは分かりませんよね。じゃぁ、あの、向かいのテーブルの男性ですけど、髪の毛どんな感じですか?」
「心理テストとかなんか?」
「まず、答えてください。」
はいはい。
「短いね、ちょっとつんつんしてる。あともみあげ。」
「目は?」
「きつくしてるけど、普通にしてたらもっとくりくりしてそう。」
「耳は寝ていますか?」
「この角度からじゃわかんないなぁ。」
「そうですか、なら後はいいですよ。」
原野さんの方に向き直る。なぜか分からないけど、すごく動揺してるように見える。予想が外れた時の追い詰められた場面みたいに。今度は左手首をひっきりなしにさすっている。そんな風には見えないんだけど、今にも泣きそうだ。痛い。
「井島さん。」
「ん?」
「電気ポットって、家にありますか?」
「ああ、うちはケトル派なんだ。それがどうかしたの?」
「いえ、そうですか…。では、これで質問は終わりです。」
は?
「もう終わり?」
「終わりというか、一時中断みたいな感じですね。一番大切なことは聞けましたから。……本当は、聞きたいことはまだ山ほどあるんですけど、今はそれが整理できてないんです。とりあえず、料理が来るまでは、私から聞くことはしません。でも、井島さんは別です。いろいろと、ご迷惑をかけてしまっていますから、何か聞きたいことがあれば言ってください。答えられる範囲で答えます。」
「はぁ。」
今ので質問終わったのか。意味不明。質問の意図が全く読めない。電気ポットってどういうこっちゃ。それに、こっちからの質問も、答えられる範囲っていうとこに引っかかるものがある。
「今の質問ってどういう意味?」
「ええと、それは、ですね…。パスです。」
パスか。ま、答えられる範囲外ってことね。
「原野さんが俺に声をかけた理由って聞けるの?」
「それも、パスですね。」
……黙考。
「ダメか。じゃあ…俺からも特にないかな。」
「良いんですか?」
良いも何も。だって原野さん、質問してくる時も、質問される時もめっちゃびくびくしてて、見ててかわいそうなんだもん。だんだんいじめてる気分になってくる。きっと、こういうときは広い心っていうのが大事なんだ。原野さん、かなり不思議ちゃんになってるけど、多分、っていうか絶対に事情があるはずだから、そういうのに付き合う分の心の余裕を持っていたい。小説とかで、とっぴな行動をするやつは大体わけありだからね。ふっ、待っていればいずれ時は巡ってくるのだ。それに、俺は今この状況を楽しむべきだ。ここまで来たら、行けるとこまで行ってみようという気に、いつの間にかになっている。進むしかもう道はない!とにかく原野さんと仲良くなりたい!
「良いも何も。何か聞けるほど、話が見えてこないっていうのが正直な感想なんだよね。っていうことでさ、お互いに自己紹介しようよ、ね?」
「それも、そうですかね。私もその方が助かりますし。」
にこっと笑う。笑いあう。気持ちが軽くなる。
それからは、料理が来るまで普通な話がぎくしゃく続いた。ハンバーグAセットが来て、案の定、原野さんは驚いていたけど、きちんと完食した。偉い。でも随分無理はしてたっぽい。仕方ないわな。お店に入ってから短くない時間をダラダラ話していると、少しずつ打ち解けてくる感じがする。かわいい子と話していて気分も良くなってくるほど、気持ちに余裕もできてきて、原野さんも、ちょくちょく笑顔を見せてくれるようになってきてる。
話す内容は本当に単純に、とりとめもないものを単調に。盛り上がりもしないけど、それが良い。緊張もしながらじわじわと言葉に温度が増してくる。柔軟で体がほぐれていく感覚に似てる。二人の間にある溝を、最初は戸惑っていた両端が、今は協力し合って埋めていると感じる。話がノってくるってそういうことだ。
「舘岡駅から電車で、降りたら今度は自転車なんだ。なんか、大変そうだね。電車組って時間に縛られるって聞くし。」
「でも、今日の朝、電車に揺られてるときとか、高校生なんだなって感じたり、それに同じ電車に乗っている別の地区の人とかも友達になれるって。だから、悪いことばかりじゃないです。」
「そういうもんか。」
「はい。」
原野さんは舘岡町の出身だという。舘岡といえば、小さい時に母方の祖母が死ぬまでは毎年墓参りに行っていた町だ。原野さんはあの町から、友達と一緒に電車に乗ってくるらしい。
もしかしたら、今朝見た電車とかに原野さんも乗ってたのかな?俺が家を出る時間しだいで登校中ばったりなんてこともあるかもしれない。そういうのがあると、俺はテンションが上がる。
「あの、井島さんは地元の人ですけど、こんな時間までつき合わせてしまって、さすがに申し訳ないですね。」
時計を見れば、短針がローマ数字のⅢを過ぎている。
「いやいや、今日は何も予定なかったもん。家ん中でじっとしてるよりも、やっぱ外に出てた方がいいからさ。外にいた方が、ずっと良いんだよ。小さい頃とか、楽しいことは全部外にあるんだって親から言われて、よく家から追い出されんの。子供は外で遊んで来いって、けっこう聞く言葉でしょ?」
「……あぁ!ありましたね。私も、言われたことがあります。」
「女の子でも、そうなの?」
「そうですよ。私は家の中にばかりいる子でしたからね。」
原野さんは、言葉の節々にふっと笑う。
お互いに話すことがなくなってきたことを敏感に感じ取り、原野さんがそろそろお開きにしようと切り出して、俺が便乗する。お昼のラッシュを過ぎたあたりから、ずっと居座っていて、お店の方にも申し訳ないので、いそいそと帰り支度を済ます。本当は、このお店のオーナーは優しいのでいつまでだべっていても怒られたりはしないんだけど、限度というものがあるし、たとえオーナーが許してくれたとしても、そんな迷惑なことはできない。そういうとこマナーね。お会計の際に、顔見知りのバイトが俺と原野さんを見て目を細めていた。何やら、変な風に勘違いされているんじゃないかと気をもんだけど、割り切った。もう疲れていだ。緊張はほとんど解けてきていたけど、精神的疲労は確実に蓄積していたから、くたくたなのである。余計な事に気を割く余裕が一切なくなっていた。でも、十分に充足感がある。
二人でお店を出ると同時に、店内に成人のカップルが入って行った。大学生っぽいいでたちが、大人を感じさせている。道を開けるようにさっさと退散して自転車をとりに行く。もうそろそろ、お店のラッシュがスタートしても良い頃なんだ。日はかなり傾いていて、時間の経過を物語る。こんな時間になるまで一体何を話していたのかと思って、思いだそうとしてみたけど、なぜか会話の内容はほとんど浮かんでこなかった。夕日になりかけている太陽を見る。原野さんはカップルを見てた。
店から駅までの道順が分からないということなので、また俺が先導して帰り道をたどる。原野さんからそう頼まれて、俺も帰り道が途中まで同じということもあって喜んで承諾。でも、その時の原野さんの表情に、何か危ういものが含まれているようだったのが気にかかった。女の人の表情って、きっと男のものよりずっとダイレクトで、それなのに見えにくい。相変わらずに自転車は縦に並んでいるけど、話しかける声のボリュームは小さくて済んだ。その分距離が縮んだと耳で感じる。
あっという間に駅に着いて、また相対性理論を実感。やっぱり科学ってすごい。駅の自転車小屋までいけば、もうさよならをしても良いかなと思ったけどせっかくだから電車が来るまでは一緒に待とうと思って適当に自分の自転車をとめて、原野さんと、駅の吹きさらしになっている場所で壁に背を預けて立っている。並んで立つと、今度は自然と言葉数が少なくなってきて、いくらかもしない内に、どちらからも話さなくなった。他の電車待ちの人の声とか、自動ドアの開閉の音とか、自販機から飲み物をとりだすのとか、遠い音だけになる。ちょー気まずい。でも、いったんそうなってしまうと、また話をするのははばかられた。たぶんそれは、原野さんが放つ危うい雰囲気のせいだ。確信。ファミレスを出てから、ずっと香る匂いが、めちゃくちゃ甘い刺激臭。鼻がツンとして頭がくらくらしてきそうになる。だんだん早く帰りたい気持ちが大きくなっている。
「井島さん。」
そこで原野さんが沈黙を破る。「なに?」と答えて背筋を伸ばす。原野さんはしきりに右手首をさすっている。さっき、店の中でもやってたしぐさ。
「もうすぐ、電車来る時間みたいです。今日は、本当にありがとうございました。」
「だから、気にしないで良いって。俺も楽しかったし。」
本当に、最後は冗談抜きで楽しかったから、すごく満足してる。俺よりも原野さんの方がどう感じたか不安なんだけど。結局原野さんの話と言えば、お店に入った最初の二、三問だけで、それ以降は全部話の流れ任せだったから、原野さんが俺に声をかけた時の目的みたいなものが達成されてるのか微妙なんだよな。俺には、原野さんの意図とか分かんないから、どうなのか分からないんだけどさ。
「そうですか?それなら、最後の最後に、あと二つ、聞かせてもらいたいことがあるんですけど良いですか。」
「二つ?」
それで良いの?と付け足すようにして聞くと、原野さんは大仰に頷いた。右手首をさすっていたのが止まる。
「『井島さんは』、私の顔、どう見ますか。」
「あーと、んー。原野さんって眠そうな顔してるよね?」
「う…。これ、ですよね。このクマ。私、不眠症で、こうなっちゃってて。」
「へー、そうなんだ。」
「はい…って、そうじゃなくてですね。そうじゃなくて…。自分で言うのは、その、勇気がいるんですけど、要は、さっきみたいに顔の特徴がどうのこうのと言う話ではなくて、容姿が優れているかどうかという話です。えと、つまり可愛いかどうかって聞いてるんですよ。人の好みによって分かれるところではありますから、あくまで井島さんは、私の顔をどう見るかという質問にしましょう。下手に気を使われれば、逆に傷つくので、できるだけ率直に言ってください。どう言われようが、井島さんを悪く思うことはないですから。どうか正直な感想を。」
「はあ…。」
最後は俺の逃げ道をふさぐように早口で『正直な感想を』要求してきた。原野さんは俺の顔を見ている。見ているけど、俺の顔を何か俺とは違うもののように見ているような気がした。目が危ない。
原野さんの質問だけど、非常に答えづらい。答えづらさは、回答の内容云々の話ではなくて、単に恥ずかしさからくるものだけど。だけど、原野さんの視線に中てられる。
「原野さんは、かわいいよね、普通に。」
うわあい、死にたいぜ。ひゃっほう。言ってから最高に後悔する。
「あ…ありがとうございます。」
照れんなよ!俺の方が恥ずかしいわ!
それから少し間を開けると、電車が間もなく来るというアナウンスが流れ始める。恥ずかしさを紛らわそうと必死でそのアナウンスに耳を傾けるけど、まるで吸いつくように原野さんを見てしまう。どうやら、俺はテンパっているみたいだった。原野さんは、少し照れているようにも見えるけど、至極真面目な顔をしている。
「じゃあ、もう一つの方です。」
「…なにかな。」
それでは、これで最後です。原野さんの目が、半径100メートルを吹き飛ばすダイナマイトか何かみたいに恐ろしくて、存在感が大きくて、原野さんの本体と言うのは本当はこの二つの目で、他の体の部位は全部がおまけのようなもののような錯覚を覚えた。一つ、のけぞって視界を広くする。原野さんは体を持っている。だけど本当にそれは原野さんか?原野さん(両目)は原野さんの体を操作して、原野さんの両手を持ち上げ出した。その両手と言うのはとても細そうだ。長袖だから分からないけど。制服のしわやたるみを目ざとく見つけてしまって、まるであの長袖の中身はサランラップの芯くらいしか入っていないんじゃないかという気がしてきた。原野さん(両目)はサランラップの腕を操作する。紙筒のくせに動きはとても滑らかで、まるで人のもののような手が俺の顔の側面、両のほほを包むようにして挟んだ。そして、がっしりと固められる。……あ、あれ?動かないぞ!?急に顔を挟まれたことに驚いて、ビクッと体が動いたけど、首から上が微動だにしない。このサランラップ、強靭すぎる。このサランラップは鋼でできている!!
というサランラップ系統の話は俺のジョーダン的な妄想だけど、俺の頭は事実、原野さんの両方の手によって固定されていた。まるで原野さんの存在そのものかとも思えるような両目が、もう少しきつくすれば完全にガンつけてますよレベルで俺を見据えている。怖い、けど、頭を万力のような力で固定されることで、全身金縛りにあったように動けなくなった。あれ?コレやばくね?瞬間命の危機を感じる。
だけど、すぐにその両手は離れていった。次に、原野さん自身も後ずさって俺から距離をとり、顔から真剣さが薄れていった。
「私と付き合ってくれませんか?」
それから俺は告白された。
この後のことを気真面目に思い出し続けるというのは俺にはひどく苦行なので、とりあえずはここまで。ここまでが、俺と戸逢の慣れ染めというか、出会い的な何かである。出会って初日で、俺と戸逢は付き合うことになった。
◎さて、どうして、こんな話が出てきたかと言うと、簡単に言えば俺がその時の話を思い出さなければならない必要があったからだ。今日は5月の31日。高校2年生と言うベストポジションにもようやく怠惰に慣れてきた頃。その日は、明日からは学ランがワイシャツに変わってしまう名残惜しい日で、その名残惜しい日の翌日には俺の町で花火大会が開かれることになっていたりする。その5月31日、俺は、戸逢の秘密を握ることになった。いや、秘密と言っても、当人が秘密にするつもりであるのかは、色んな意味で定かじゃないし、もしかしたら当人にとっても知らない事実であるかもしれないんだけど。そして、その秘密というのが、現在俺と戸逢が付き合っている原因であるという裏設定もある。その、裏設定に関する話も、思い出さなければならない必要があるだろう。色んなことが必要である理由は、俺が知った戸逢の秘密について、俺が話をよく整理しておきたかったからだ。ということで、これから思い出す話と言うのは、俺と戸逢が付き合い始めてからちょっと時間がたったころ。詳しくは思い出せないけど、二カ月くらいは立っていたのかな?あまりにいろいろと激動だったので、記憶の中でも、事態に追いつけていけるかどうか怪しいんだけど。
◎「戸逢はどうして俺と付き合おうと思ったの?」
かろうじて、問いかける言葉の中に、俺『なんか』と、言うことは避けられた。そこまで自分を卑下することは逆に相手に失礼だと思ったからだ。でも、本当のことを言えば、俺は、『どうして戸逢は俺なんかと付き合ってくれているのか』と言うふうに聞いてみたかった。思えば前々からずっと疑問に思っていたことだった。不思議に思う気持ちがつもりにつもって、今日の今、あふれてしまったのだろう。
俺は、戸逢が俺に告白した理由が知りたかった。
告白なんて言葉が、自分の身の回りから出てくるなんて、思いもしなかったなんてことは言えないけれど、それはもっと先のこと。大人になって自分を磨いて、良い人見つけて…。自分を磨くなんて大層なことが、どういうことなのかも分かってないくせに。将来俺は大人になって、大人の男というものはカッコいいものだからそれくらいになればきっと人として成長して合格点をもらえるくらいには磨きがかかっててかてかぴかぴかしてんのさ。いぇい。小学生にとっての中学生は、俺にはぴかぴかしてたのに、中学生から見た高校生も、俺にはぴかぴかしてたのに、そんな輝きを俺は持ったことがあっただろうか?結論、俺はひどく平凡に普通にぴかぴかもてかてかもしていなかった。だけど、そういうことをずっと先にも期待して、期待するだけ期待しながら、俺は何もしないで結局磨かれない。磨かれないことにも気がつかないで、そのままずっと腐ってくのな。いや、腐ってくって分かってるんならきっと気がついてはいるんだ。ただただ見ないようにしてるだけ。それも違うか。きっとここでも行動力なんだ。俺は行動力ないからな。それがダメなんだ。嫌だと思うよ、当然。だけど、どうしたらいいのか分からないんだ。だって知らないんだから。誰だって、自分の磨き方なんて教えてくれなかったんだから。手とり足とり教えてくれりゃあ、簡単に自分なんか磨いてやるのに。親も先生も先輩も友達も誰も教えてくれない。「それは自分で見つけるものだよ」なんて、もっともらしい答えを持ってくる。テレビも新聞も雑誌も全部教えてくれない。いや、確かにうたい文句ではよくあるよ?CMでも、『自分を磨きたければ…これ!』とかよくいってるけどさ、なんだかいまいちピンとこない。自分の求めてるものはそういうのじゃないんだよ。体を鍛えたからって磨かれてんのか分かんない。英語が話せるからって磨かれてんのか分かんない。分かんないこと尽くしだと、何も手につけらんないんだよ。
だから告白なんて、俺には縁遠いものであるはずなのだ。俺は俺に告白をしうる、されうる資格があるとは思えない。その資格を得るために何の行動も見せない自分に呆れて憐れんでいるだけだ。俺もヒーローになりたい。そういう願いがあるだけで、願うこと自体を憐れんでる自分は最低だから、戸逢は俺みたいな人と付き合うことで、もしかしたら、戸逢の貴重な時間を浪費してしまってるんじゃなかろうか。
こうやってつらつらと言い訳を並びたてたけど、要は、俺は自分に自信がない。そういう自分が好きじゃない。自分が好きになれないのなら人を好きになりきれないんだ。だって人を好きになるってことは、その人を好きであるという自分のことも、好きになれなきゃいけないんだから……
と、言うことを、前日、ドラマスペシャルの内容につられながらぼんやりと考えていた。告白された時からずっと不思議に思っていたことが急に形になったみたいだった。そして、どうにも我慢がきかなくなって、週末金曜日のこの日に俺は戸逢に質問をしてしまった。
結果は最悪である。
俺は戸逢を傷つけた。
戸逢は俺の質問を聞くや否や見ていていたたまれなくなってくる程に固まって、答えに窮しているみたいだった。実は、ドラマの内容が秀逸過ぎて、流され気味に賢者タイムに浸っていただけだった俺は、戸逢のあまりの慌てぶりに戸逢以上におろおろしてしまう次第だ。というわけで、俺はにわかな賢者タイムからすっかり脱却を果たしていて、戸逢の衝撃ぶりにあっさり我に返っていた。
うーむ。恥ずかしい。だいたい質問の内容がキモすぎる。つまりは『俺のどこが好き?』って聞いてるようなものじゃないか。うわっ。背筋ぞくぞく。悪寒です。あかんです。あかんあかんよダメ絶対。時間よまき戻れ―。とか、最強に念じてみたとしてもだめですよね。うわ―うわ―わー。はーずかしーいー。
「…私は。」
と、井島史近年まれにみるほどの焦りを披露していると、戸逢が言葉を発する。目が左右に揺れていて、まだ焦っているみたいだった。見ていて苦しくなる。そして…
「……一目ぼれ、かな?」
戸逢が首をかしげながら応える。それが可愛過ぎて俺はキュン死にしました。キュンキュン。
一目ぼれってすばらしいですね。
と、いうことが先日ありました。そして俺は、その翌週の月曜日、進路指導室に呼び出されていた。目の前には担任教師の田島先生が座っている。部屋に入ってから、ずっと先生は苦しそうに難しそうな顔をしている。先生は俺と目を合わせて口を開いた。
「原野が停学処分をくらった。」
「はあ、停学…ですか。」
それから先生はしきりにうーんうーんとうめきだした。先生の、うんうんうめく姿を見せられるのは、普段の俺なら絶対にごめんなハズだけど、不思議なことにそうはならなかった。いや、別段不思議でもないか。俺は今、戸逢が停学を食らったという話に至極驚いているんだから。
「深夜徘徊をしていたと通報があったんだ。本人もそれを認めているんだがな。入学してきてクラスにも慣れてきたところだし、さすがに停学はないんじゃないかって、俺は思うんだけどな。」
先生が変な顔で話を進めている。何か話しづらいことがあるっぽい。
「初回なんだから、注意くらいで済まないんですか?」
「俺もそう考えてたんだけど。実は原野がいた中学から、入学試験の時に言われてたことがあったんだよ。原野は少し行き過ぎるところがあるから、他の生徒より少し慎重に見守ってやってくださいって。保護者の方からも連絡があって、原野が妙なことをしたらすぐに連絡をくださいっていう話だったらしい。そのときはよく分かってなかったが、もしかしたら今回の様な事を言っていたのかもしれんな。五月も下旬だから、気持ちに余裕ができてきて、つい羽目をはずしちゃったんだろうってのは察しがつくんだが、学年の担任の間で、少しきつめの灸をすえておけって決定になっちまった。」
先生が淡々と話を進める。なんだか納得がいかない。俺も、先生も黙ってしまうと、先生がうめく声だけが進路指導室にこだまする。ああ、それでなと、先生が人差し指を立てる。
「保護者の方に電話したら、一つ頼まれたことがあってな。原野に最近変わったことはなかったか知りたいらしい。そこで原野に聞いたんだが、あまり進んで話したくないことらしくてな。井島は原野と仲良かったよな?何か知らないか?」
先生が身を乗り出してきたので、その分椅子に深く座って距離を話した。俺は、戸逢が深夜徘徊をした理由が何か考えると、それが先週末金曜日に行われたことであることを加味して、もしかしたら俺のあの質問のせいなんじゃないかというあたりをつけていた。それほど、あの質問をした時の戸逢は様子が変だったんだ。でも、その心当たりの出来事がどうして深夜徘徊につながるのかはよく分からなかった。
◎高校に入学してから幾日がたった頃、私は入る部活を探していた。本当は夏柏がいるサッカー部のマネージャーにでもなろうかと思ったけど、体験入部のその日に諦めた。サッカー部マネージャーという職はとても人気があるようで、私のほかにもたくさんの入部希望の1年生がやってきた。そして私に話しかけてくる。やれストップウォッチはどこだだの、やれあの先輩カッコいいねだの…。そんなことは知らない。私は夏柏さえいれば良いのに。他のポットはいなくていいのに。ポットとばかり話をしていると、あまりよくない。だから、私はサッカー部をやめた。夏柏は残念がっていた。ごめん。
サッカー部に入れないのなら、もはや何の部活にも入る気はなかったのだけど、うちの学校は生徒全員が何かしらの部活に入らなければならないという決まりがあるので、それは無理で、できるだけ人の少ない、もとい、ポットがいない部活を見つけようとさまようことになった。だけど、なかなか見つからない。どの部も、先輩と名乗るポットたちが親切にしようと語りかけてくるし、一緒に入部しようとする1年生たちも、無遠慮に話しかけてくるのがとても微笑ましくてまぶしくてうるさい。人の多い部活はダメだ。優しい先輩がいる部活もダメで、人懐こい同期がいるのもダメ。そういうふうに絞っていく。最初の方は一緒に探してくれていた好々乃は、途中で茶道部への入部を決めた。楽だから。だから私は一人で放浪する。
そしてこの日、私は学校のそばにあるテニスコートにたどり着いた。
テニスコートの中にはだれもいなかった。それに加えて、多分、何年も整備がされていないコートの中は、雑草が生え放題で、所々に穴があいている。イレギュラーバウンドが起こってしまうんじゃないかと心配になってしまうほど荒れていた。その中で、おかしなことにベンチだけが、鮮やか過ぎるほどの青色をして佇んでいる。
コートに誰もいない理由に関してはだいたい予想ができていた。多分、ここは女子ソフトテニス部の使うコートなのだろう。新入生に向けての部活動紹介の日、男子ソフトテニス部の姿はあったけど、女子ソフトテニス部はいなかった。多分、廃部になったとか、そこらへんの事情があるのではないだろうか。それなら、コートの中に入ったとしても、別に問題はないような気がした。
そういう結論を出したのにはその鮮やか過ぎる青色のベンチに、なぜか興味がそそられたからという理由があった。それに連日の部活探しで足が疲れていたということもある。私は、青色のベンチに座って休憩をとることに決めた。外れそうな扉を押しあけてコートの中に入ると、ローファーの底から感じられる感触がでこぼこしている。本当にこのコートは使われていないのだな。ベンチまで歩く。すると、不意に独特の渋みのある香りがした。数瞬考えて、あたりをつける。タバコの匂いだ。
ベンチの青い色があまりにも鮮やか過ぎるので、座ったらお尻に青色が映ってしまうのではないかと危険に思って手でなぜてみる。ベンチはペンキ塗りたてではなかった。
「君―?体験入部の人?」
その時、不意に後ろから大きな声がした。びくりと体を震わせて、後ろを見る。一人のポットがいた。
少し慌ててから、絞り出すような声で応える。
「あ、はい。そうです。」
本当は足を休めるためだけに入ったのだけど、そのポットがテニスラケットらしきものを背負っていて、女子ソフトテニス部の関係者のようだったので、一応体験入部生と言う体で応えておく。部活を探しているのは事実だし。
「おおー、嬉しいねえ。」
そう言うと、ポットがテニスコートにずんずん入ってくる。ポットの側面に入っているラインがほどほどに淡い赤色だったので若い女性だということが分かった。ポットには、顔が見えないという状態を補うかのようにさまざまな情報がちりばめられている。ラインの色がその情報のうちの一つで、ラインが赤色ならば女、青なら男というふうに性別が分かる。前に一度、紫いろも見たことがある。近くにいた好々乃は、綺麗な女の人と言っていたけど、多分、そういうことなんだろう。
それと、色の鮮やかさとくすみ具合で年齢もだいたい分かる。目の前のポットの赤色は、私たちの世代よりも若干くすんでいるので、どうやら年上、うちの学校の生徒ではないらしい。
ポットは、私との距離を詰めると、私のことを頭の先から足のつま先まで眺める。その時、ふっとベンチから香ったのと同じ匂いが香った。タバコの匂い。
ポットがははっと笑った。顔が見えないのに、その笑いが苦いものであることが伝わる。
「いやあ、せっかく来てくれたのは嬉しいんだけど、だれもいなくて申し訳ないね。うちの部、やる気ないのばっかでさあ。がっかりしたでしょ?」
そう言って頭を掻く。ポットは私よりも身長が高かったので自然と見上げる形になる。
「いえ、私、入りたい部活とかまだ分かんなくて…。ここに来たのは、テニス部に入りたいからっていうのよりも、どんな部活なのかなって見てみたかっただけなので、そんなにがっかりということはない、です。」
テニス部に興味がないというわけでもないんですけど、と一応のフォローを付け足す。
ポットはふーんと適当に相槌を打った。それから「ああ」と、何かを思い出したように声を出す。
「自己紹介が遅れちゃったね。私は藤崎つつじ。偶にここに来て、テニス教えてんの。見ての通り、誰もいない時の方が多いんだけどね。」
「コーチってことですか?」
「あー。コーチってなんだか年齢感じちゃうからさ。私のことは先輩って呼んでよ。いちよ、ここの出なんだ。」
ポット、もとい藤崎先輩が親指で校舎の方を指す。なるほどOGということか。
「わかりました。藤崎先輩、ですね。私は、原野戸逢です。」
「とあが名前?へえ、珍しいね。」
「よく言われます。」
やっぱり?と、やっと苦さが無い笑い声。
「うーん、じゃさ、戸逢。練習とかは見せらんないけど、私もいちおー、女テニの関係者だから部活の説明くらいはできるんだ。良かったら聞いてくか?」
先輩が気を使うような言い方で聞いてくる。この人も馴れ馴れしく話しかけてくるタイプのポットかと思って、話を断ろうかとしたところで思いとどまる。もし、この部活に入ったらどうなるだろうか。話からして女子ソフトテニス部は廃部ではないものの、構成メンバーが幽霊部員であるということらしい。それなら上手くすれば、ポットたちと余計なかかわりは持たなくて済むかもしれない。
「お話、聞きます。」
先輩は笑って、私にベンチに座るように言った。
話を聞けば、女子ソフトテニス部は、部活に入りたくない生徒たちの逃げ道になっているらしい。放課後をフルに使って遊びたい生徒たちはとりあえず籍だけ入れておいて、あとは幽霊部員として活躍する。本当にごくたまに気の迷いで練習しようと集まる時もあるらしいけど、そういう時もとてもソフトテニスとは言えないようなボール遊びをするだけだという。
なんと理想的な部活だろう。この部は私が入るのに最適だ。
「昔は強い部だったんだけどねえ。インハイ行く選手も時々出てたし。だけど、私の代から、こんなふうになっちゃった。」
「こんなふう、ですか。」
「ああ。だから、戸逢とか、他にもソフトテニス部に入りたいやつらには、本当に悪いなあって思うんだ。ごめんな。」
自虐の影を一瞬見せて、先輩は話を進める。
先輩と話していて、一つ気になることがあった。やはり、タバコの匂いだ。先輩はここに来てから一度もタバコを吸っていないけど、どこかに匂いがしみ込んでいるらしく、そのタバコの匂いが漂っていると、不思議と心がなごむ。そして、そのタバコの匂いのおかげで、先輩と話しているのは、気分が悪くないのだ。落ち着くとさえ言っても良いかもしれなかった。先輩が吸うタバコが、何か特別なものなのかもしれない。
「先輩は、タバコを吸われるんですか?」
「ん?まあ、な。結構ヘビーな感じに吸ってっけど、体に悪いからさ。戸逢の前では吸わんよ。」
「そんな、気にしなくていいですよ。」
「お前なあ、タバコ舐めんなよ。ホンっと、吸ってて何一ついいことなんかねえんだからな。そのくせなかなかやめられないんだから、嫌んなっちゃうよなあ。」
ベンチに座りながら地面をタン、タンと叩いて、また話を進める。タバコを吸えないいらだちからそうしたのかもしれない。
しばらく話をすると、話のネタが尽きてきたことと、サッカー部の練習の終了時刻が迫ってきたこととで、その場はお開きにしようということになった。夏柏とは、入学式の次の日から登下校を一緒にしている。最近の帰りは、私がサッカー部が終わるまで待っていて、夏柏を迎えに行く流れだった。迎えに行く時刻まで10分を切っている。辺りは夕焼けに染まっていた。
「いやあ、ついつい話しすぎちゃったなあ。戸逢があんまりにも聞き上手なもんだから、さ。時間とらせちまったな。」
「時間をとらせただなんて、思わないでください。お話、すごく楽しかったです。」
「そう?だったらいいんだけど。」
私がベンチから立ち上がって、スクールバッグを肩にかける。先輩はまだベンチに座ったまま。
「良かったら、また来なよ。入部じゃなくても良いからさ。一緒におしゃべりしようぜ。」
「はい。是非。」
気の抜けたような声でかけられた言葉に、社交辞令ではなく、そう言うことができた。先輩もそかそか、と嬉しそうに言った。
「じゃあ、行きな。私はタバコを吸ってから行くからさ。」
その言葉で、私はテニスコートを出る。そして、コートの中へと振り向く。先輩はタバコを吸って、たそがれている。ポットの側面の、どこにタバコが吸いこまれていくのか(つまり、どこが口なのか)が気になったけど、遠めだとよく見えない。風邪に流れてくるタバコの匂いは、やっぱり気分を落ち着かせた。
その匂いを嗅いだからか、少しだけ、興味があったことを確かめてみようという気になった。
電気ポットには当然、コンセントプラグが付いているが、私が見る妄想のポットたちも、それぞれ、コンセントプラグを持っている。普段は見えないけど、私が見ようと思えばするすると伸びてくる。そして、私が触ろうと思えばコンセントの方が私の方に勝手にどんどん伸びてきて、私の体のどこかに突き刺さる。
そうすると、ポットの考えが、思いが分かるようになる。詳しく言えば、ポットから、その時の気持ちに応じた色の湯気が噴き出すのが見えるようになる。嬉しい時はオレンジ色の湯気、悲しい時は青色、怒っている時は赤色、というふうに。私はふと、先輩が今、どんなことを考えているのか気になってしまった。すぐに先輩のポットからコンセントプラグが伸びてくる。十何メートルも離れているけど、妄想のコンセントは視界におさまる程度の距離なら軽々と私をとらえる。フェンスの網目に何度か突っかかって、コンセントが私の左手首へと向かってきた。一度、戸惑うような意志を見せてからコンセントが私に刺さる。
それから私は後悔をして、次の日から、毎日テニスコートに通うことになった。
◎「戸逢はどうして俺と付き合おうと思ったの?」
今日、夏柏と一緒に昼ご飯を食べていると、夏柏がそれまでの話の流れを無視してその問いかけをしてきた。応えに詰まる。どうしてその質問をしたのか、その意図を計りかねた。
だけど、その意図を組むのが問題なのではない。私にとって問題なのは、私がその問いかけに答えることができないということだった。
私は、適当な理由をつけてその場をうやむやにした。
入学式があったその日に、私は夏柏に告白をして、断られるかと思ったけど、一言二言付け足すと夏柏は私と付き合うことを承諾してくれた。そう言えば、その時に私は、私が夏柏と付き合いたい理由を話していなかった。どうして夏柏は私と付き合ってくれたのだろうか。もはや私でも謎だ。
夏柏の質問に答えられない、あるいは質問に対して嘘をついてしまったことに堪えられない私はひどく卑怯だ。それがショックだった。
放課後になっても、そのショックは残りつづけた。それほど、その質問は私にとって致命的なものなのだ。私は茫然としていた。机に突っ伏したまま時計の針の音を数えながら時間を過ごす。夏柏は既に部活に行っていて、そのほかの生徒たちも同様だ。どうしよう。私も、早く部活に行かなければ。でも、体が動かない。夏柏が放った問いかけが、悪い煙になって全身の血管を行きかっているかのようで、その煙が体中をめぐっている間は、自分の席から動けそうにない。今日、夏柏は部活仲間と地区大会の反省会があるらしいので、いつも通り夏柏と一緒に帰ることはできないから、もはやこのまま教室で一夜を明かしても良いのではないかとさえ思った。体がだるい。動けない。
それなのに、しばらくすると、担任の田島先生がやってきて教室から出ていけと言って私を追い出した。私は、渋々とそれに従い、悪い煙と闘いながら部活へと足を進めることになった。
テニスコートに着くと、先輩がいた。いつもと違ってタバコを吸っていたけど、いつものように鮮やか過ぎる青のベンチに、私が座る分のスペースを開けて座っていた。放課後になってかなり時間が過ぎているから、今日はもう帰ってしまったのではないかと思っていたけど、先輩は私を待っていてくれてたみたいだった。
「先輩。」
「んー?ああ、来たか。」
「はい、遅れてすみません。」
「いいよいいよ。戸逢も、毎日ここに来れるわけじゃないだろうってのは分かってるからね。委員会の仕事とか?」
「いえ、あの…」
「まあ、いいさ。座りな。」
手入れがされずに荒れ放題のテニスコートへと入る。雑草をよけながら歩いて行くと、先輩からはいつもよりも強くタバコが香った。私の好きな匂い。
先輩が持っていたタバコを携帯灰皿にしまった。
「でもなあ、時間が時間だから、今日はあんまり話できないよなあ。そろそろサッカー部の練習も終わるだろう?カレシ迎えに行かなきゃあな。」
先輩がクックと悪役笑いをする。先輩には何も悪いことなどしていないはずなのに、すごく不実な行為をしてしまったかのように、やりきれない気持ちになった。
「あの、それが。今日は夏柏、部活の反省会があるから一緒には帰れないんだそうです。」
「んあ?そうなのか。そりゃあ、残念だな。」
「はい。」
返事をしてベンチに座る。いつも座るたびに、お尻にペンキが移らないか心配になる青さ。
「じゃあ、どうする?電車の時間までっていうにも、やっぱり時間が半端だよなあ。」
「…そうですね。」
私の部活動内容は、時間の限り先輩と話をすることだ。帰りのホームルームが終わってからまっすぐテニスコートに向かい、先輩が通っている会社から車でやってくるのを待って、先輩がきたらひたすら話をする。時には何もしないでぼんやりベンチに座っていることもあるけど、先輩がかなり話し好きということが手伝って、放課後の時間はずっとしゃべりっぱなしになる。ただ、今日は既に、いつも使っている電車の時間に近付いている。
だから、もう先輩と話をすることなく、自分のアパートへ帰らなければならない。夏柏の質問のこともあって、自分が気落ちしているのが分かるので、さっさとベッドに横になりたかった。
うつむきがちになっている視線を持ち上げると、先輩とかなりの近距離で目があった。怯んでしまう私に反して、先輩がさらに顔を近づけてくる。肩をつかまれた。痛い。
「先輩?」
「おい、戸逢。なんか元気ねえのな。」
ドクン。
「そんなことないです。」
「そうか…?」
先輩は、私を疑っている。ポットからは緑色の湯気。先輩は私を心配もしている。
肩はつかんだまま、先輩の顔が離れていって、少しほっとした。なんでこの人は、と少し恨めしくなる。
なんでこの人は私のことを見透かすんだ。
なぜか先輩は私の考えていることを当ててしまうことが時々ある。それが怖い。
「ま、何でもないなら、良いんだけどよ。」
先輩が私の肩をつかんでいた手も放した。
それから先輩は笑ったようだった。でもポットからはまだ緑色の湯気が出続けている。何でもないとは思っていないようだ。
ここにいると危ないような気がした。ここに居続けると、先輩に甘えてしまうような気がした。ここにいてしまうと、先輩に見透かしてほしがってしまうと思った。それはいけない。夏柏の質問は、私の中にしまっておくべきものだ。
先輩、私帰ります。
そう言おうとして席を立つ。
「戸逢。」
すると先輩に先制を許してしまう。
「じゃあ、私たちもするか。」
「はい?」
「はい?じゃねえよ。カレシの方は部活のやつらとどっかに飲み食いしに行ったんだろ?なら、私らもどっかに遊びに行ってやろうぜ!」
先輩が勢いよく立ちあがる。やっぱり背が高い。
「戸逢の歓迎会だ。まだやってなかったよな?私おごっちゃうぜ。」
「そんな…」
いいですよ、という言葉は咄嗟に出てこなかった。くしゃり。
「私がおごるって言ったらおごるんだよ。学生ごときが遠慮するもんじゃねえぞ。」
「でも、こんな時間ですし。」
ケータイのディスプレイを見れば、時刻は午後7時を過ぎていることを示している。今乗る電車を逃すと、後は終電しか残っていない。
「バカ言ってんな。お楽しみはこっからなんだぜ?なに、終電には間に合わせればいいんだろ?ヨユーだよヨユー。もしもの時は、うちに泊まってもいいしな。明日からは休みだし。」
先輩が、私に背を向けて背伸びをする。『終電に間に合わせる』の所で、ポットからは黄色い湯気が飛び出した。黄色い湯気は、他の色の湯気とは違って特殊な場合に噴き出るものだ。
黄色い湯気は嘘をついていることを表す。先輩は、私を家に帰さないつもりのようだった。
くしゃり、くしゃりくしゃり。心臓がしわしわになる音が耳に響いてくる。ヤバい。
頭に、アパートの部屋で一人でベッドに入る自分が想像できて、とてつもなく悲しくなった。ヤバいヤバい。
先輩の家に行きたい。
そう思う。どうしよう。どうしようもなくやりきれない。
「どうする?戸逢。」
「あ…私。」
ふと気がついた。先輩は私の名前をたくさん呼んでくれる。夏柏と同じくらい。たくさん呼んでくれるのだった。
私は先輩に甘えたくなった。
「行きたいです…」
「おっしゃ!行くか!」
ポットから、オレンジ色の湯気が噴射した。
「私の車で行くから、今日はチャリ置いていきな。ま、どうしてもってんなら車に乗っけても良いけど、どうする?」
先輩の申し出を断って、先輩の指示に従う。自転車は学校に置いていって、来週の月曜日は徒歩で登校することにした。夏柏には悪いけど来週は一緒に歩いてもらう。先輩の車の中は密室なせいもあってかかなりタバコの匂いがきつかった。好きな匂いではあるけど、つい咳きこんでしまう。
「ああ、悪いな。臭かったか?窓開けるか?」
「いえ、このままでいいです。」
「我慢すんなよ。」
窓は開けずに車は出発する。少しすれば匂いの強さに慣れて、逆に落ち着いてくる。先輩も独り暮らしで、アパート暮らしらしい。3人までなら泊まるのに不自由はないと話をしていて、その話をしている時点で、私をとめる気が満々であることを再確認した。
かなりゆっくり目に運転をして15分弱でアパートに着いた。外観は三角屋根のおしゃれなアパートで、ライトグリーンの塗装も似合っている。
「歩いて行くから、大事なもん以外は荷物になるから車ん中に置いてけよ。」
テキパキと動きながら私に指示を出して出発の準備をする。先輩がカギを開けて部屋を開けると、予想以上にこぎれいな部屋。もしくは何もない殺風景。先輩は着替えてから行くらしい。私は先輩の着替えが終わるまで、おとなしくベッドに座って待っていた。大きいベッドだった。聞いたことがなかったけど、先輩にも彼氏がいるのかもしれない。
「よーし行くぞー。」
気の抜けた声とともに先輩のアパートを出る。
「学校の近くには何も娯楽とかないだろうけど、一つ橋超えると別世界だかんな。色々あるぜ。楽しみにしてろよ。」
私の前を行く先輩が楽しそうに話をする。
「戸逢、お前ハラ減ってる?」
「いえ、まだそんなにです。」
「んーじゃあ、適当に回ってくか。」
楽しそうに歩く先輩を見ると、私も自然と心が浮かれていくような錯覚を覚える。浮かれ過ぎてはいけない、だめだと思いながら先輩の後をついていく。橋の上は、ふだん通っている道とは違う感触が足から伝わってくる。本当に別世界へとつながっているみたいだ。
色々と検討した結果、先輩がお勧めするお店を冷やかして回ることにした。いくらか回った後に適当な場所でご飯を食べるらしい。まっすぐにアーケードの方へと向かって、服や小物の店を手ごろな順から回っていく。学生でも気楽に入れる店や、サービスが充実している店などを回ると、先輩は、至る所で声を掛けられていた。ここらでは人気者なのかもしれない。先輩と一緒に声をかけられるのには抵抗を感じるものの、先輩が一緒にいる安心感の方がはるかに大きくて、笑顔で対応するくらいの余裕は持てた。
「あそこは良いぞ。ここらでは一番デザインがしっかりしてんだ。」
「ここはちょっと値段高めかな。カレシに買ってもらえ。」
そんな提案をちょくちょく挟みながら歩くのは楽しかった。時間帯が夜というのがさらにいい。気分が高揚する。好々乃がよく言ってるけど、これが夜のテンションか。
いくらか歩きまわった後に、先輩が「そろそろ飯食うか」と言いだして、これまたずんずんと、男らしくあるいていく。一本、また一本と深い道に入っていって、ついた場所は―――居酒屋だった。
「先輩。」
「なんだ、戸逢?」
「私、未成年なんですけど。」
「まあ、そりゃあ、そうだわな。」
先輩がクックと悪役笑いをする。
「私、お酒飲みませんよ。」
「別に飲ませるつもりで連れてきたわけじゃねえよ。ここが私の一押しってだけでな。店長は気のいい人だし、料理も群を抜いてうまい。ジュースもちゃんとあっから大丈夫だって。まあ、戸逢がやっぱり飲みたいって時はハードな方を飲んでもいいけどな。」
「お断りします。」
お店の外からでも分かるような騒がしさが、入口の戸を開けると一気に増す。先輩は、ここでもたくさんの人に声を掛けられて、当然のように私にも目が向けられる。
「おおう、藤崎ぃ。そっちの可愛い娘誰だぁ?」
「おうおう!酔っぱらいども!これは私の可愛い可愛い後輩だからな。あんたら手ぇ出すんじゃねえぞ!」
酔った人たちの声はとても大きかったけど、先輩がそれよりも大きい声で張り返すので、怖さが緩和された。お店の料理は、先輩が一押しするのが頷けるほどにおいしく、お酒が飲めるようになったら、また先輩とここに来たいと思わせる味だった。そんな楽しい思いにずっと浸りながら時間を過ごすと、終電の時間はとっくに過ぎている。
「あー、飲んだ―、食った―。」
お店を出て、先輩の第一声はそれだった。かなり飲んでいるようだったけど足取りはまだ軽い。
結局私はお酒を一滴も飲まずに済んだ。お酒の匂いは大分嗅がされて、鼻の奥がツンとするけど、特に大事はない。
「もう、終電ねえなー。戸逢、泊まってけな。」
「はい。」
そのつもりです。
コンビニで歯ブラシと下着を買って先輩の家に戻った時にはもう時間帯は深夜だ。それなのに、先輩はますます元気になっていくようで「オーし、飲むぞー」と息巻いている。
私は先輩からスウェットを借りて着て、先輩は学校で来ているのとはまた別のジャージに着替えた。やはり、先輩は私より背が高いので袖が余る。胸元も十分すぎるゆとり。テーブルの前にクッションを敷かれてそこに座る。先輩は冷蔵庫の中身をごそごそと探ってから、発泡酒を二缶持って私の正面に座った。一缶を私の前に置いて、それからテレビをつけた。
「先輩、私は飲みませんから。」
「いいんだよ。戸逢が飲まないなら私が飲むからさ。」
それからおつまみのピーナッツも取ってきてまた私の正面にどっかりと座る。プシュッという音がテレビの音を一瞬掻き消す。
先輩の部屋はタバコの匂いに満ちていた。だからか、落ち着く。自分の部屋よりも、落ち着いた。
しばらくテレビを見ながら無言の時間。気まずさはなく、ぼんやりと過ごす。先輩は発泡酒を少しずつ飲んでいた。私も少し、ピーナッツを摘まむ。何もしない時間が心地よい。できればこのまま何もしないでひっそりと死んでしまいたい気分になる。
「なあ、戸逢。」
「なんですか。」
先輩が発泡酒をテーブルに置いた。
「私はな。」
少し舌が回っていない。
「先輩、酔ってますよ。」
うるへー、と返される。
「私はな、頭ぁ良くないから、戸逢がどんなことを思ってそんなにナーバスになってるかはわかんねぇよ。それに気が長い方じゃないから、戸逢が話してくれるまで黙って待ってるなんてこともできねえ。だから、戸逢が、今の事情を私に話してくれるか、くれないかだけ教えてほしいんだ。話してくれないってんなら、諦めるくらいなら、私にもできる。」
酔いに任せて話しているのだろうか。乱雑な話し方はいつもの通りだけど、内容の方は先輩らしくない。先輩は、私を気遣うことはあっても、こんなに深くまで踏み込む人じゃなかった。
がっかりするような気持ちの脇で、その心づかいが嬉しい気持ちがむくむくと膨れていく。先輩が、私との距離をぐんと縮めてくれたと、じわじわと理解してきた。ただ、やはり事情を話すのは勇気がいる。
「先輩。」
「なんだよ。」
「私は、私の事情を話せると思います。でも、その前に先輩に聞きたいことがあります。」
「聞いてみろ。」
先輩は声に余裕を持っていた。
「先輩の、高校の頃の話を聞きたいんです。」
「私の?」
「はい、特に、ソフトテニス部でどんなことがあったのかを。」
先輩の口が真一文字にしまったような気がした。見えないから分からないけど。
しばらくテレビの音だけがこの場を支配して自由に走り回る。
「どうしてその話を聞きたいんだ?」
睨むような、挑むような視線が私に突き刺さる。
「私だけが、話をするのはフェアじゃないじゃないですか。」
それに、いつも話をするのは大概先輩の方ですから。と続ける
先輩は何かを黙考するかのような間をおいて、ため息をつく。
「私が話したら、戸逢も話してくれるんか?」
「それは、もちろんです。」
「なら話すよ。別に面白くもない話だけどな。…『私が』、あの部活をつぶしちまった話だ。」
先輩と初めて会ったあの日、先輩の気持ちを盗み見るような真似をして、私は後悔をした。プラグが私に刺さった瞬間、私の目に見えた光景は、先輩がタバコの煙を吐くのと同時に青い湯気が全身から立ち上り、そしてベンチへと吸いこまれていくさまだった。あのベンチの鮮やかな青は、先輩から出た青い湯気のせいだった。その証拠に、ベンチの本当の色は灰色らしい。ただ、あれだけベンチの色を鮮やかにさせたということは、それだけ悲しみが強いか、それとも、青い湯気を吐きだして、ベンチにしみ込ませた時間が長いことを意味している。あるいはその両方だ。ただ、それだけなら後悔までには至らない。嫌なものを見てしまったと反省するだけにとどまるはずだった。だけど、そうならなかったのは、ベンチの色が一か所変わっていたからだ。私の座っていたところだけ、ベンチがオレンジ色になっていた。オレンジは喜びを表す。先輩は、私がここに来たことを喜んでいた。純粋な悲しみの中で、オレンジ色が
よく映える。私は、悲しみだけを噴き出す先輩に知らぬ間に喜びを与えているようだった。それを知ったから後悔をした。先輩を、悲しみにだけ浸らせないために、私は次の日から毎日テニスコートを訪れた。
「うちの学校の女子ソフトテニス部が、昔はそこそこ強かったって話はしたな?私はあの高校にソフトテニスのスポーツ推薦で入ったんだ。今はもう全然ダメだけど、中学の頃には全国大会まで行ってたんだぜ。私は期待されながら高校に入学して、実力は期待以上だった。私はどの先輩たちよりも強かったし、1年生の最初の大会でインハイにも行った。自分のテニスに自信があったから、その時は先輩達とか、同学年のやつらとか、他の学校のやつらも見下してたな。そういう嫌な奴だったんだ、私は。」
先輩がピーナツを摘まむ。
「調子に乗ってたんだよ。そんで私は調子に乗ってる奴らしく自分勝手にふるまうようになった。最初は髪を染めたんだったかな。めっちゃ色抜いて、そんで学校言ったら当然注意食らった。でも、それくらい覚悟してたし、部活での活躍もあったからかそんな厳しく感じなかった。友達は私のことをもてはやしてくれた。だからますます調子に乗った。制服改造して、ピアス開けて、酒飲んで、タバコ吸って深夜徘徊も当然だ。他校の奴らと遊んだりもしたよ。授業さぼって、最後には部活もさぼった。でも、テニスの大会には出たよ。私が出れば快勝だったな。それで私のわがままもまかり通る。そのうち先生も親も諦めて、私のしたいようにやらせてくれた。いつかは学校辞めさせられるってその時も思ってたけど、それならそれで良いと思った。」
先輩が発泡酒をあおる。
「そういうことやってるとな、周りが私に影響されだした。最初は部活の同学年の奴らだったんだけど、そいつらが私のまねをしだしたんだ。なんだか私が周りから崇拝されてるような気がした。一緒に悪さをして、一緒に怒られて、一緒に先生にガンつけんだ。それから反省文を書き終わったらまた遊びに行くの繰り返し。すげえ楽しいんだ。毎日笑ってた。でも、度が過ぎちまったんだな。気がついたら、ソフトテニス部はダメになってたよ。」
「活動停止とかですか?」
「いや違う。まあ実質そんなもんだけどな。」
一息。先輩が戸惑うかのような間。
「部員がみんな、私みたいになっちまってたんだよ。ある日、久しぶりに部室に入ったら、もうめちゃくちゃでさ。同期も後輩もブッ飛んだやつばっか。ソフトテニス部の部室じゃあねえんだ。それ見たら、なぜだか急に焦った。
「焦った、ですか?」
「ああ、焦ったんだ。私はどうやら、ソフトテニス部がめちゃくちゃになっているのが、とにかく嫌みたいだった。私の預かり知らないところで、私の糧みたいなもんが崩れてたような気がしたんだ。普段遊び呆けてた阿呆が言えることじゃないんだけどな。だけど、いくら普段はっちゃけてようが、私はソフトテニスが好きだったんだよ。だけど、私がしでかしたことで、私の好きなもんがここまで壊れちゃってたんだなって思うと、すっごく焦った。自分でもどうにかしてたな、あのときは。私はとにかく何とかしようと思った。皆に連絡してさ、人集めようと思うんだけど、そしたらだれも相手してくんなかった。練習しようぜって言ったら、皆、『こいつ何言ってんの?』みたいなふうに言ってきた。そんでもなんとか頼みこんだんだ。結局、大概は相手してくれないままだったけど、数人が渋々付き合ってくれることになった。そういうことでよし練習だーって時に、また愕然とした。コートがぼろぼろだったんだ。いつの間にあんなになってたのかなあ。きっとコートの扱い方も知らねえような奴らが、そうしちまったんだろうな。私はそんなふうになってしまってるのも知んなかった。それだけで終わりだった。テニスに関しちゃ、もう誰も相手してくんなくなったよ。籍だけは置いてくれてたから廃部にはなんなかったけど、似たようなもんだ。自然消滅とか、空中分解とか、な。そんな感じ。」
自虐の笑い。いたたまれなくなるほど痛ましい。
「それから大会があった。でも人が集まらないからうちの学校は出られなかった。それで、スポーツ推薦だった私は学校辞めることになった。何だか悔しかったな。」
青い湯気がそこらじゅうを漂っている。先輩の悲しい気持ちの根幹だった。
「それじゃあ、どうして先輩は、今テニスコートに通ってるんですか?」
「私は、私のせいでつぶれちまったテニス部が、また元に戻ってくれるまで、あそこに通うんだ。なんだか、そう思っちゃったんだから仕方ない。」
この人は責任を感じてるんだろう。その責任を、どうにかして果たしていきたいと思っているのだ。
「これが私のくだらない話だよ。」
そして先輩は話を締めくくった。
先輩の話で、青いベンチとそのベンチのオレンジ色の謎が解けた。なるほど、そうだったのかと、納得のいく話だった。次は、私の番。
目の前の発泡酒の缶を見つめる。
「先輩、これ頂きます。」
「ん?おう、飲め、飲め。」
大げさな手振りで私にお酒を進める。プルタブを起こすとプシュッという音が空しい。一度口をつけようとして離して、二回目に一気に傾ける。苦い。美味しくない。どうして先輩はこんなものを飲みたがるのか。
「ゲホッ!ゲホゲホっ。…うぅ。」
「ハハッ、不味いか?」
「…おいしくはないです。」
「私も最初はそうだったよ。」
喉がピリピリと痛い。これが喉が焼けるということなのだろうか?よく分からない。
それでも我慢しながらくいっ、くいっと飲み続ける。とりあえず最後まで飲みきってから話をしたい。まだ未成年の私だけど、お酒の勢いというものを借りてみたかった。
先輩は、気が長い方ではないと言っておきながら、私がお酒を飲むのを待っている。先輩がおもむろにタバコの箱を取り出して一本を手に取る。
「戸逢、吸うぞ?」
「あ、はい。」
慣れた手つきで口にくわえて火をつける。先輩は、高校の頃からこのタバコを吸っていたんだろうか。
私が発泡酒を飲みきるのと、先輩がタバコを一本吸いきるのとはほぼ同時だった。
「ごちそうさまでした。」
「おう、頑張ったな。戸逢」
先輩がタバコをもう一本取り出す。
「先輩。そちらももらえませんか?」
私がタバコの箱を指さす。先輩は目を意表を突かれたのか、目を見開いて、それから一瞬迷った後に、口にくわえ、火をつけて、一度吸ってから、私に渡した。
「一回吸うだけな。」
タバコには『All is fair in love and war』と書かれていた。
私はタバコを一息吸って、それから先輩に、夏柏の質問と、それに応えられなかったことを話した。
翌週の月曜日、私は停学処分を下された。
◎コンコン
田島先生から話された内容を頭の中で反復していると進路指導室の戸が開いた。
「田島センセ、いるか?」
そこから背の高いスーツを着た女の人が出てくる。その女の人を見て先生が驚いたように腰を上げる。
「あ、おまえ。藤崎じゃないか!」
「や、久しぶりだな。」
女の人が不敵に笑う。先生もどこか嬉しそうだ。
「一体どうした!?いきなりじゃないか!」
「まあ、センセ。落ち着きなよ。てか落ち着いてくれ。実は私の方が心中穏やかじゃねえんだ。…戸逢が停学食らったんだって?」
ん?
「んん、そういえば原野はソフトテニス部だったな。原野から知らされたのか?」
「ああ、メールしてきてな。どうしようって、めちゃくちゃ焦ってたぞ?あいつ。」
女の人が近くの椅子を適当に置いて座る。俺を一瞥してから、先生の方を向く。
「センセならまだ何とかしてくれんじゃねえかと思ってな。頼みに来たんだ。」
先生が唸る。
「そうか。だけど、な。んん。藤崎、お前急ぎか?」
今度は先生が俺を一瞥。俺は即、場違い感を察知。
「あの、先生、僕、出た方が良いですか?」
「センセ。私は、そっちの用事が先でもかまわねえよ。」
そういう女の人、もとい藤崎さんは俺をにらみっぱなしだし、構わないとか、絶対思ってない。
「いや、話は一応一段落したんだ。井島、急に時間をとらせて悪かったな。もう行っていいぞ。」
「はい。」
すぐに席を立つ。その時、藤崎さんがさらに鋭い視線で俺をにらんだ。なんで睨まれてんだろう。めっちゃ怖いよ。とりあえず危険域から脱出しようと足が動く。
「ちょっと待て。」
だけど、早足で部屋を出ようとすると、藤崎さんに呼び止められた。
「君、もしかして井島夏柏君か?」
「え?はい。」
藤崎さんは俺の名前を言い当てるとにやりと笑う。
「丁度良かった。君も同席して話を聞いてってくれ。その後で、別に私から君に伝えることもあるんだ。」
女の人は、藤崎つつじと言うらしい。田島先生が以前受け持った生徒の一人で、相当の不良だったらしいけど、先生はとても気に入っていた生徒だったらしい。
「藤崎には手を焼かされたが、こいつは今まで持った奴らの中で一番誇りに思える生徒だよ。」
先生の談である。先生が生徒を比べるような真似をしていいのか。
その藤崎さんの話とは、戸逢の深夜徘徊の詳しい事情についてで、戸逢は、藤崎さんに連れ回されただけだから、どうにか停学を取り消してほしいということだった。責任も藤崎さんがとると行った。いわゆる、監督責任と言う奴だ。先生は藤崎さんの話を一通り聞き終わると、盛大にため息をつく。
「お前は、また面倒なことをやらかしてくれたもんだな。」
「悪かったって思ってるよ。だから責任取りに来たんだ。なあ、分かったろ?あいつは何も悪くねえんだよ。後生だ。何とかしてくれ。」
「もし、停学を取り消そうってんなら、お前にもう一度事情を説明してもらうことになるぞ。学年の先生方とか、教頭や校長にも話をつけてもらうかもしれんな。」
「上等だ。そんくらいは覚悟してる。」
先生がいつものように唸る。でも、すでに事は決まっているようだった。
「よし、分かった。じゃあ、もう一度とりなしてみるよ。お前の頼みだしな。」
「ああ、ありがとうな、センセ。」
藤崎さんと先生が笑いあって停学云々の話は終わり、先生は進路指導室から出て行った。
俺と藤崎さんの二人だけが取り残されて、間を開けずに藤崎さんが口を開いた。
「さて、井島、夏柏君だな。戸逢は夏柏って呼んでるから、そっちの方が良いのか?」
「いえ、どうぞ好きなように呼んでくれれば…」
藤崎さんは豪快な話し方で、あっという間に空気を変える。まるで歌舞伎だ。いや、実際に歌舞伎を見たことはないんだけど。
「じゃあ…、井島だな。そう呼ぶぞ?さて、井島。さっそく話をしようか。もちろん戸逢の話だ。」
「戸逢のですか?」
「ああ、そうだ。もっと詳しく言えば、先週末の話だな。君は何か、ちょっとした質問をしたらしいな。井島は覚えているか?」
ああ、やっぱりか。なるほど納得。やはり、戸逢の深夜徘徊と俺との質問とは関係があったんだな。
「ええと、はい。覚えてます。」
「よし。いいぞ。その質問についてなんだがな。戸逢が後悔していたよ。」
…後悔?なんのことだろう?
首をかしげる俺の向かいで、藤崎さんは尊大にふるまっている。
「ああ、そう言ってた。それで、私に相談してくれたんだ。あまり踏み込んだ話はしてくれなかったけどな。まあ、簡潔に言っちゃえば、『私は夏柏の誠実さに見合わない』らしい。」
「はい?」
漠然過ぎて意味がよく分からない。
「分かんねえか?まあ、そうだろうな。私にもよく分からないんだ。だけどな、多分戸逢は君に引け目を感じているんだろうな。」
「はあ。」
引け目?何についてだろう。思い当たる節がみつからない。
『戸逢はどうして俺と付き合おうと思ったの?』
その質問に、戸逢が引け目に感じてしまう何かがあったんだ。うーん、何?
「でも、だ。」
藤崎さんの声が注意を引く。
「でも、戸逢はもう一つ、『それでも君と一緒にいたい』とも言っていた。」
「……」
俺と一緒にいたい。それは、戸逢が俺に告白した直後に言った言葉だったりする。
そして、俺が戸逢と付き合おうと思った言葉だったりもした。
「なあ、井島。私の好きな言葉の中に『All is fair in love and war』ってのがある。この言葉、知ってるか?」
「?知りません」
「知らないか。まあ、戸逢も知らなかったしな。そういうもんなんかな。私としては残念に思うところではあるんだが。さて、井島。この言葉の直訳はな『恋と戦争に置いてはすべてが正当である』、って言うんだ。」
「はあ。」
藤崎さんの勝気な視線が俺を襲う。なんだか飲みこまれそうだった。
「つまりは、『恋と戦争では何でもアリ』って意味だな。何でもアリ。ルール無用の無法地帯っていうわけだ。まあ、戦争にはルールがあるから、この場合においてはやっぱり恋だよ。恋愛だ。『恋愛においては何でもアリ』。何でも起こる。何があっても不思議じゃない。」
その話をしている藤崎さんは妙に楽しそうだった。そして、最後を一言で締めくくる。
「きっと、君らがしてるのは恋で間違いないんだろうな。」
◎ケラケラ、ケラケラケラ―――
先週末、先輩のおかげで少しリフレッシュができたと思ったものの土曜日曜、夏柏と会えない日が続くので その2日間は憂鬱な時間だ。油断すると妄想が現実に入り込む。休日は気を張っておかなければならない。休めない。
そして今日。自転車は学校に置いてあるので夏柏と歩いて登校した。それからホームルームまで夏柏と話をしていると、担任教師の田島先生に呼び出され、停学処分を言い渡された。理由は先週末の深夜徘徊。たしかに、居酒屋を出た時の時間は既に11時近くを回っていた。なるほど。まごうこと無き深夜徘徊だ。油断していた、というよりは失念していた。高校生になれば、それくらいの時間帯は大丈夫だと思っていたけど、うちの学校はかなり厳しいようだ。
そして私は焦った。
停学は避けなければいけない問題なのだ。停学はまずい。マズイ、不味い。魔図イ。
カガシト会エナイトイウ事ガトニカクダメダ
ケラケラ、ケラケラ
田島先生に通された生徒指導室の中で、私は反省文を書かされている。だけど、筆は進まない。筆は進まないので、紙は真っ白なまま。真っ白なはずなのに、私の視界は真っ黒だ。真っ黒な湯気が、私の視界を支配している。黒い湯気は敵意の証。私の視界は、生徒指導室は真っ黒な敵意に満ちていた。さっき先生が出て行ったので、この部屋にはだれもいないはずである。敵意は部屋の外から入ってきている。これほどの濃い悪意、害意を放つ相手は、いったい誰なのか?その相手はどうして私にこれほどまでの敵意を向けているのか?ヤバい。ソイツを、この部屋に入れてはいけない。
部屋に入れたら、どうなる?
もしかしたら、殺されるかもしれない。
それだけなら、まだましだ。
もしかしたら、私までもが、ポットになってしまうんじゃないか?
悪のアジトの一因が、とうとう私をポットに改造しようと決めたのではないだろうか?
私も、世界中の大多数と同様に、人間ではなくなってしまうんじゃないだろうか?
それは嫌だ。勘弁だ。無理だ。死にたい。死のうか?
自分の首をなぞる。
――――――――――――――――――――
ケラケラ、ケラケラ
もしかしたらこの黒い湯気は敵意の証などではなくてポットたちからの攻撃なのかもしれない。この黒い湯気にずっと浸っていれば私の頭がだんだんとポットに変形してしまうのではないか?もしそうなってしまったらおしまいだ。私までもがポットに屈してしまったら、残された人類はどうなるか?夏柏はどうなる?私という人間がいなくなって、独りぼっちになってしまう夏柏。絶望。ダメだ、やめてくれ。
――――――――――――――――――――
ケラケラ、ケラケラ
私は選ばれた人間だ。ポットになって、人類の敵になるくらいなら、夏柏の敵になるくらいなら、死を選ぶ。だけど、それだと結局夏柏は一人になるのか。それは、とてもかわいそう。でも、もう、無理だと思う。限界だ。私はここまで追い詰められている。夏柏のことを考えられる余裕なんてない。覚悟を決めなければならない。夏柏、ごめんなさい。私は死ぬよ。あなたのために死なせて下さい。ごめんなさい。ありがとう。夏柏は、ポットたちに負けないで。私はだめだったけど、どうか人類を救ってください。
――――――――――――――――――――
全部が全部、言い訳がましい。
「戸逢はどうして俺と付き合おうと思ったの?」
その答えを、私はちゃんと夏柏に話していない。話さなきゃいけない。そして謝りたい。
・・・・・・・・・・・・・・
「…おい!!戸逢、戸逢!!」
誰かが私の肩を強くつかんで揺さぶっていた。視界が鮮明になってくる。最初に見えたのははさみだった。生徒指導室に偶然置いてあったはさみが私の手の中にある。私は刃を広げて、首筋に当てていた。少し痛い。ちょっとだけ切ったようだ。顔を上げると、そこには、血相を変えた夏柏の顔がある。私の名前を呼んでいるのも夏柏だ。夏柏が私を呼ぶと、その声が心臓を圧迫して全身へと血を巡らす。少しずつ意識がはっきりとしてくる。意識が起きあがってくるとずんっと疲労が許容量を超えてすぐにその場に倒れそうになった。それを夏柏が支えてくれた。そしてお互いがお互いをまっすぐに見る。
「夏柏……。夏柏!!!」
すがりつくように抱きついた。助けを求めて泣きついてしまおうかと思ったけど、それはずるいので、ぎりぎりのところで止めておく。その代わりに声を張り上げる。すぐそばにいるのに、どうか届いてほしいと叫ぶ。夏柏、夏柏夏柏かがしカガシ。どうか、お願い。
「夏柏!私、夏柏にずっと話さなくちゃいけなかったことがあるの!お願い!聞いて!」
知ってほしい話があるの。
「うん、聞くよ。」
それが、夏柏の答えだ。
◎ずっと話さなくちゃいけなかったこと。ずっと話していなかったこと。つまりそれは、秘密や隠し事などのことだ。
秘密や隠し事っていうのは、知らなければどうってことない事だったりするんじゃないだろうか?秘密とは、ばれてしまわなければ、秘密にされている側にとってはないのと同じことだからだ。そしてそれはつまり、ばれてしまう前だと、秘密を持っている側が一方的にその事実を背負うことになるということでもあったりする。秘密が必ずしも悪いことであるという決まりはないけど、『秘密』という言葉には独特の重みがあるので、それを背負う人は大変だ。重い。
戸逢が話があるというから、俺達は入学式の日にも行ったあの店の、入学式の日に座ったのと同じ席で向い合った。本当は気持ちがざわついて落ち着かないんだけど、緊張した雰囲気に固められていて身動きができない。戸逢はさっきから注文した飲み物を少しずつ飲みつつ、ずっとうつむいている。どう声をかけていいものか分からなかった。
藤崎さんと田島先生のおかげで戸逢の停学処分が見送られた。ということで、俺はいつもの通り戸逢と一緒に帰宅するために、生徒指導室へと足を進めた。そして、乳白色のドアをぐいと開けると、そこには、はさみの刃を広げてのど元に当てている戸逢の姿がありましたとさ。なんじゃそりゃ。事態に頭が追いつかなかったけど、戸逢の首から血が垂れているのを見て、急いではさみを引きはがそうと走り寄る。片手で戸逢の肩を、片手ではさみをつかんで引きはがしながら戸逢の名前を呼び掛けると、はさみは引きはがせたけど、今度は戸逢に抱きつかれて至近距離で名前を叫ばれた。そして今に至るというわけですな。いやあ、いろいろ端折っちゃったぜ。でも概ねそんな感じ。
戸逢の様子からみて、戸逢が話す内容が尋常ではないことが察せられ、そして俺は、なんか神懸った直感がはたらいて、その話の内容と言うのが藤崎さんの言っていた、戸逢が俺に対して引け目を感じていることなんじゃないかというあたりをつけていた。だってなんかタイミングがね、そんな感じ。だから、戸逢が目の前でかつてないほどの負のオーラを放っていたとしても、俺はマリアナ海溝よりも深い慈愛の心を持ってきちんと戸逢に向き合うべきである。仏のように、なんてね。ほっとけー、ほっとけー。と、さっきからきちんと脳内で現実逃避を続けている。
戸逢の首に絆創膏が貼られてある。
「戸逢…、傷、大丈夫?」
「…!?う、うん。だ、だいじょうぶ。」
一言声をかけるだけでこの慌てぶり。大丈夫じゃないのだけは確かだ。
どうにも沈黙の時間が長いので、考えることがあちらこちらにフラフラする。今度はさっきよりも真剣に今の状態を分析してみる。
いつになれば話してくれるのかとか、そういうことを考えるのは不毛だ。話してくれる時は話すし、話してくれない時は話さないんだろう。まだまだ人生経験の少ない俺でも、そういう、どうにもならないってことを感じたことはある。だから、絶望はない。失望もしない。俺は、戸逢が話をしてくれないのならそれでいい。それで良いし、どうだっていいことだったりする。戸逢が話そうとすることが、どんな内容であったとしても、それは、俺と戸逢の関係を変貌させるものではあるかもしれないけど、俺の中の原野戸逢像を完璧に打ち砕いてしまうものではないんじゃないか。そう思う。
だから、俺としてはこのままここでダラダラ時間を過ごすのも良いんじゃないかな―…
「夏柏。」
って思ったりすれば、逆に話が始まったりするんだろうなって予感があったんですよね。いやマジで。
「私、夏柏に謝らなきゃいけないことがあるの。」
そらきた。
戸逢は絆創膏を指でなぞる。今まであんまり注意してみたことなかったけど、指が細い。肩が小さい。顔をしかめている。
「本当に、切っちゃうかと思った?」
「本当に、切るつもりだったの?」
「夏柏が来なければ、もしかしたらそうなってたかもしれない。」
戸逢が、場違いに笑う。少しむっとしそうになった。危ない危ない。今の俺はマラリア海溝なのである。
「私、病気なんだ。」
「病気?」
「うん。心の病気。『パラノイア』って知ってる?偏執病って言うんだけど、今は妄想性人格障害っていうことが多いらしいの。私、それなんだ。それでさっきのは、その病気の症状みたいなものなの。」
うーむ。正直、パラノイアも偏執病も妄想性人格障害も全く知らない。困ってしまって、それが顔に出てしまった。知らない?と聞かれて、うなずく。
「そう…。簡単にいえば、そうだね。パラノイアっていうのは、単なる妄想が強すぎるってだけの症状なんだけど、その妄想が体系立っているのが特徴なの。妄想の種類はいろいろだし、私自身あんまり詳しくは調べたくなかったから、知っていることは多くないんだけど。とにかくパラノイアは、一貫した考え方を持つ、心の病気なんだ。」
一貫した考え方。
「そう。そして、パラノイア患者は、その一貫した考え方に変に触れなければ日常生活を正常に送れるというのも、特徴の一つなの。…だから、もしかしたら、ずっと隠していけるんじゃないかっていう期待があったんだけど、ダメだったね。自分から、こうして話しちゃってるんだもん。症状が出なかったとしても、黙っているっていうのに無理してたし、無理があったんだ。」
戸逢が悲しい目をしたので、目を見られなくなる。『別に、隠さなくても、話してくれたら良かったのに』という言葉は呑み込む。その言葉は、どうしたって、戸逢を傷つける。
「驚いた?」
「驚かないよ。」
本当に。だって実感がない。驚くにはまだ、事実がよく分かってない。
「じゃあ、さっきのは、そういうことだったの?」
さっきのは、戸逢の一貫した思考の何かが変に触れたということなのか。戸逢は一つうなずく。
「時々、自分の妄想にやられちゃうというか、飲みこまれちゃうというか。特定の考え方にとらわれちゃう時があってね。そういう時に、自分でもわけのわからないことをしちゃうの。例えば、家であんな状態になれば、部屋の壁紙がいつの間にか全部はがされてたりするし、中学校の保健室では、棚の中の薬の瓶をありったけ床にたたきつけてた時もあったかな。」
そして今日は、高校の生徒指導室で自殺未遂。
「私、人の頭部が全部ポットに見えるの。」
は?
「…は?」
「だからね。人の頭がこう、あるでしょ?首のここら辺から上がポットなんだよ。生身と電化製品が合体してるように見えちゃうの。それが私の妄想。」
「…はあ?」
「実際の人も、写真も、絵も。私以外の、私が人としてとらえるすべてのものの頭部がポットに見えるの。」
何を言ってるんだろう?
戸逢が身ぶり手ぶりを交えて話をしてくれるけど、戸逢が言っていることのイメージがわいてこない。
「そういう病気なんだよ。」
そう言う病気って、どういう病気だ。自分の想像力の貧困さが嘆かれる。というか、何だその設定。聞いたことないぞ。聞いても分かんねえぞ。…ん?
「それじゃあ、俺の頭も、戸逢にはポットに見えてるってわけなの?」
戸逢の話によれば、そういうことである。自分以外のすべての人間の頭部と言うのには、俺のこの、すっからかんの頭も入っている。
その質問に、戸逢が困ったような顔になる。
「それが、夏柏の顔は私にもちゃんと見えてるの。」
戸逢の話がまた複雑になる。
「髪は短めで、目の大きさは普通くらいで、鼻は高くも低くもなくて、口は大きくも小さくもないよね。」
「それ、どこにでもいるくね?」
実際は一言も悪口を言われたわけじゃないのに、けなされた気がした。
「でも私は、夏柏が笑うのも怒るのも悲しい顔をするのもちゃんと見えてるから。他の人の表情は何も分からないんだけど、夏柏の表情の変化はいつも、ずっとちゃんと見てるよ。」
なんだか、いつも君を見てるよ、みたいなことを言われた気がした。でへへ。照れちゃうなあ、モー。
「昔はね、私以外の人間が明らかにおかしかったから、もしかしたら世界がこのポットたちに支配されて、私が数少ない生き残り。世界中の生き残りの人たちと力を合わせて世界を救うんだって息巻いてたりもしてたんだ。恥ずかしい話だけどね。さすがに今はそんなことは思ってないから、いくらかはパラノイアの症状が緩和されてきてるんだろうって言われているんだ。だけど、夏柏に会った時は、もしかしてこれから世界を救う冒険が始まるんじゃないかって思っちゃった。」
戸逢の口調は緊張をはらんでいるものの、話の内容がブッ飛んでいて、非常にファンタジックと言うか、フィクション的。冒険て。
「夏柏、初めて会った日に、ここで夏柏に聞いたこと、覚えてる?」
「まあ、覚えてるよ。」
特徴的すぎて奇異に思えた質問の内容を思い出す。…あ?そういえば。
「あの時の質問で、ウェイトレスさんと、あそこの席にいた男の人の顔と、ポットについて聞いたよね」
「うん。」
「その質問の理由っていうのがつまり、そういうことなんだよ。」
「あ…」
ハッと息を飲む音がするかと思うと、それは自分だと気づく。戸逢の諭すようなその一言で、糸がすうっと抜けたというか針がすっと入ったみたいに、ようやく線がつながった気がした。戸逢が、人間の頭部を電化製品のポットに幻視してしまう、という事実がスムーズに頭に入ってくる。戸逢は真実を話してる。いや、疑ってかかったわけじゃないけど、この、人の頭がポットに見える、というのは戸逢の中でまぎれもなく事実なのだと実感する。つまり、あの時の質問は、俺が他の人の顔をちゃんと見えるかどうかを確かめることで、戸逢の見えているものが妄想で作り出されているのかどうかを調べるためのものだったんだ。
「驚いた?」
「驚いた、かも。ちょっと。」
そして少しだけ納得もした。
「そう…」
戸逢が悲しそうな顔をする。返答を間違えたかもしれない。でも、次の瞬間には元の表情に戻る。俺を見据える。
「パラノイアは心の病気だから、やっぱり原因は、ストレスとかトラウマとかなんだって。」
それは、戸逢に、現在の妄想意識を持たせるほどの経験が昔にあったということを言っている。
「……なにがあったの?」
一度言いあぐねてからそう聞く。戸逢はその質問を予想してたかのように答える。
「私は虐待を受けてたんだ。」
ありがちな話だけどねと戸逢が続ける。
◎私の両親は、悪い人ではないのだと思う。しかしそれでも、やはりタイミングというものがある。私は生まれてくるタイミングが違ったんだと思う。まあ、そう悲観するものではないんだ。悲観してしまうということは、心が不健康である証拠だから。気持ちは強く保っておかなければならない。
私の両親は、私に乱暴をしますが、私が痛い分、お父さんもお母さんもとても痛い。痛いけれどそうしなければならないそうです。そうしなければお父さんとお母さんは心がまいってしまうのだそうです。それに、お父さんとお母さんが私を叩くのは、愛情表現なのだそうです。ならば仕方ありません。親は子を愛するのが義務だから。そして、子供が親から学ぶ一番大切なことが、愛情だからだそうです。私はよく分からない。
学校は楽しい。家は、楽しくない。だけど、お父さんとお母さんは私を愛してくれているのだから、楽しくなくても我慢しなければなりません。学校は楽しいけど、私はお母さんから『愛情』を勉強させてもらわなければならないので、寄り道をせずにまっすぐに帰ります。お母さんは主婦だからいつも家にいます。時々、買い物に出かけている時もありますが、一カ月にほんの1,2回ていどです。だから大抵いつも私を愛してくれます。お父さんは会社に行くので、お母さんが私を愛してくれているうちはまだお仕事をしているそうです。帰ってきたら私を愛してくれます。私は精いっぱい勉強します。勉強すると偉くなれるからだそうです。
休みの日は、私は一日中部屋の中にいます。お父さんとお母さんが、一日中私を愛してくれるからです。学校がある最後の日の夜、私は休みの日の部屋に入ります。休みの日の部屋に入ると、刑事ドラマで見たことのあるような手錠をつけられます。これが少し辛い。私の身長よりも少し高いところで吊るされるように手錠をつけられるから、疲れてくるとずっと手首に私の全体重分の負担がかかって、後で手首がかゆくなってきます。血のめぐりの問題だそうです。難しい。休みの日は一日中ここにいます。お父さんとお母さんは、頻繁にこの部屋に入ってくる日もありますが、一日ずっと、入ってこない時もあります。これは実は仕方がない。お父さんとお母さんはお休みの日でもやることがいっぱいあります。仕方ない。
そんな生活がずっと続いていく。両親から『愛情』を受けるたびに体が傷つく。痛い。でも、ありがとうございますと言わなければならなりません。時々、あまりに痛くて言えない時もあるけど、そうなると、まだまだ私は勉強不足なのだそうです。だから勉強は続きます。ありがとうございます。
今思うと不思議だけど、当時の私は両親から受けるしうちに何の疑問も持っていなかった。でも、虐待を受ける子供なんて、そういうものなのかもしれない。疑問を持ったらそこで終わりだ。『私』が終わる。さよならバイバイ。また明日、はない。そこでジ・エンドだ。何が終わりなのか、分からない時点でそこには絶対的に差があるので、分からない人はそれで良い。
後で知る話になるが、両親は近所では特に悪い噂などは立ったことが無い。まさかこの人たちがこんなことをするなんて!と言われるような人たち。と言うか、本当なら『こんなこと』なんてしない人たち。だけどタイミングが悪かった。私は『できてしまった』子供だった。ここまで言ってしまうのはオーバーかもしれないが、いわば『望まれない子』である。いや、やはり印象が悪すぎるか。ただ、望んで生まれた子供ではない。タイミングが悪かったのだ。タイミングさえあっていれば、私の両親も、その両親の子供も、幸せなまま過ごせていたはずだ。その子供は私じゃない。
微妙な均衡というものが、家の中の、あらゆる場所に、そしてあらゆる時に存在していた。私がそれを崩してしまうと、両親は怒ってしまうらしい。だけど私は幼かったから、そして、まだ両親と暮らし始めて日が浅かったものだから、よく、バランスを失わせてしまう。父が激怒する。母がヒステリーを起こす。だけど私は叱られない。両親は私に勉強をさせるのだ。おぞましい。
ずっと続いた。そして、ふっと終わった。私はある日突然、愛情の勉強ができなくなる。教えてくれる人がいなくなる。
困った。どうしよう。どうしようもない。二人がいない。
その日は、休みの日だったけど、前日から両親が家にいない。だから、手錠はされなかったけど、とりあえず私は休みの日の部屋にいた。両親はどこに行ってしまったのか、幼い頭で考えるけど、どうしても考えが及ばない。考えるとお腹が空いた。ご飯はどうしよう。お菓子が無いから何か作らなければならない。だけど、まだ包丁も火も使わせてもらったためしがない。電子レンジを使おうかと思ったけど、温める惣菜パンが無い。あるのはカップ麺だけだ。ポットもある。ポットくらいなら、使ったことがある。水を入れてコンセントを指すだけ。簡単。他にないから、これしかない。
うちのポットは、少し前に流行ったという音声付きのポットで、沸騰すると、『お湯が沸騰しました』という声を聞くことができる。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
・・・・・・・・・・・・・・・・繰り返し。
両親は来ない。
月曜日は必ず遅刻をしていた。月曜日の朝は、少し遅い時間に起きてくるお母さんが手錠を外してくれないと学校に行くことができなかったからだ。だけど、そのお母さんがいない。私は、いつ月曜日が来るのか判別がつかなかった。というよりも、いつから休みは始まるのか?大量のカップ麺と一緒に時間を過ごす。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
・・・・・・・・・・・・・・・・繰り返し。
勉強ができない。私は勉強不熱心だ。偉くなれない。偉くなれないと幸せになれない。私は焦る。でも、それも最初だけ。すぐに怠惰になった。勉強ができないのにほっとしていたのかも知れない。分からない。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
・・・・・・・・・・・・・・・・繰り返し。
家から出ようとは思わなかった。家以外の場所とは、私にとっては学校だけで、以前は家にいればずっと待ち遠しかったはずのその場所が、あまり気にならない。行きたくないわけじゃないけど、行きたいわけでももちろんない。私は家にいる。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
・・・・・・・・・・・・・・・・繰り返し。
なぜか、カップ麺は食べても食べてもなくならない。カップ麺の残りが少なくなってくると、いつの間にかに、補充されているみたいだ。誰が補充してくれているんだろう。お父さんか、お母さんかだろうか?そうかもしれない。そう思うけど、両親の姿は見ることが無かった。カップ麺はなくならない。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
『お湯が沸騰しました』。お湯を注ぐ。3分待って、麺をすする。
・・・・・・・・・・・・・・・・繰り返し。
いつの間にか、家の中で、私と話をしてくれるのは電気ポットだけになっていた。一方的な会話。だけど、確かに誰かの声が吹きこまれている。なぜか、その声がお母さんの声の様な気がする。ふと気付くとお父さんの声の様でもある。カップ麺は飽きたから、食べないようになってしまった。だけど、ポットは使う。お湯を沸騰させる。
『お湯が沸騰しました』。『お湯が沸騰しました』。『お湯が沸騰しました』。
『お湯が沸騰しました』。『お湯が沸騰しました』。『お湯が沸騰しました』。
『お湯が沸騰しました』。『お湯が沸騰しました』。『お湯が沸騰しました』。
・・・・・・・・・・・・・・・・繰り返し。
時々カップ麺を食べる。お腹が空くから。
『お湯が沸騰しました』。『お湯が沸騰しました』。『お湯が沸騰しました』。
『お湯が沸騰しました』。『お湯が沸騰しました』。『お湯が沸騰しました』。
『お湯が沸騰しました』。『お湯が沸騰しました』。『お湯が沸騰しました』。
・・・・・・・・・・・・・・・・繰り返し。
『お湯が沸騰しました』。ありがとう。
『お湯が沸騰しました』。御苦労さま。
『お湯が沸騰しました』。よく出来ました。
『お湯が沸騰しました』。もう?早いね!
『お湯が沸騰しました』。そうなんだー。
『お湯が沸騰しました』。今はイイよ。
『お湯が沸騰しました』。あ、そう。
『お湯が沸騰しました』。もう、やめてよ。
『お湯が沸騰しました』。いつもごめんね。
いつしかポットと話すようになる。ポットだけが、私の声を聞いてくれるようだった。ポットは、私の友達である。唯一の。
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長い。時間が過ぎた。今は一体何曜日だろう。ずっと家の中にいた。外に出ないと、いけないかも。
ピンポーン
インターホンが鳴らされて、ドンドンという音。玄関のドアが叩かれている。乱暴だ。なんだろう?怖い。ガチャガチャ音がして、バンッと言う音がして、声がする。声…?何と言っているのだろう?外国の言葉だろうか?だいたいこれは人の声?荒い足音で近付いてくる。怖い。ガチャ、ガチャとドアが開けられていく。休みの日の部屋の前で一つの足音がとまる。そう、足音はたくさんあった。そのうちの一つの足音の主が、ドアの部に手をかけて、一気に引く。
男の人だった。短髪、ひげ、真一文字の口、怖い目。目。優しくなる。そして―――
「原野戸逢ちゃんだね?もう大丈夫だよ。」
衝撃。声がした。私が話すような言葉が話された。だけど、何だコレは?声を発する、何?どうしてコレは声が出せるのか?分からない。怖い、怖い、怖い!!!
怖くて目を閉じる。そして、もう一度目を開けると、目の前のソレはポットだった。
◎「近所の人が、私の姿が全然見えなくなったのを心配して探してくれてたみたいなの。私の両親が、私を虐待してるんじゃないかっていう通報もあったらしいんだ。どこのだれがそうしたのか分からないんだけど、とにかくそういういろいろなことが重なって、私は保護されたの。親は逮捕されちゃって、今は一人暮らしをしてるんだ。」
戸逢があまりにあっけらかんに話をするので、話の中身と口調のギャップに戸惑ってしまう。壮絶。波乱万丈。残酷。
「結果私は発症したというか、その、心が病気になっちゃったわけだけどね。多分、ネグレクトのせいで人と接しなかった期間が長かったから、言葉を話すモノ=ポットっていう図式が、頭の中に出来上がってちゃったんじゃないかって思うの。もしかしたら、大人の人に対する恐怖っていうのもあったのかもしれないね。」
戸逢は二コリと笑う。さしものマリアナ海溝も崩壊寸前である。
その時の戸逢を助けてあげられたら、良かったのに。辛かっただろうに。それに今も辛いだろうに。かわいそうだと思わずにはいられない。
戸逢が右手首をさすり始める。今見るとそれは、手錠の跡をなぞるしぐさの様で身の毛がよだつ。
「で、私のことを一通り話したとこで、本題に入るんだけど。」
「本題って?」
「謝らなきゃいけないことがあったって、言ったでしょ?」
「ああ…」
そう言えばそうだ。戸逢がここに来て最初に行ったのはそのせりふだった。ってか、忘れてた。今の話のスケールに呑み込まれてしまっているのを自覚する。俺は動揺している。戸逢も多分、平静じゃない。そう見える。戸逢が沈痛な顔持ちをする。さっきの自分語りの時は逆に笑っていたのに。これから話すことは、今の話をよりも衝撃的なのだろうか?
「この前の質問、覚えてる?私がどうして夏柏と付き合おうと思ったのかってやつ。」
「うん、覚えてる。」
「話はそれのことなんだけど…」
そうだ。謝ることがあるとすれば、やはりそこなんだろう。その質問に絡む何かなんだ。戸逢は一体何を言うつもりなんだろうか?何を謝りたいというのだろうか?頭が急激に回転して、それでも何も考えていなかった。ただ、その疑問がぐるぐると回っているだけだ。
戸逢が、何か、大きなことを言う前の動作として、躊躇の色を見せる。
そして
「ごめんなさい!私、本当は夏柏に一目ぼれしたわけでもなければ、夏柏のことを好きなわけでもないの!別れよう!」
・・・・・・・・え?
「まぢ?」
今度はさっきまでの話が吹っ飛んだ。
◎「ちょ」
「ひぅっ!」
ちょっと待って、と言いかけたところで戸逢がおびえてしまったので、言葉を飲み込む。泣きそうな表情でびくびくしている。とたんに冷静になった。
突然の破局だった。驚愕だった。なんじゃそりゃ。というか、話の流れぶった切りである。そりゃあ、マリアナ海溝だろうが一撃粉砕だ。おお、すごい。びっくりした。
そこまで理解すると、話が簡潔すぎて詳細が分かっていないことに気がつく。そこは大事なところだ。聞かねばなるまいぞ。
「戸逢?」
できるだけ優しいジェントルメンヴォイスで話しかける。戸逢は、うつむいたまま、「ごめんなさい」とつぶやいた。ふる方がそんなに落ち込まないでほしい。
「戸逢。大丈夫だから。少し顔あげてよ。」
目が合う。涙目。可愛い。テレ。デレデレ。いかん、いかん。邪念を振り払う。
「あ、あのさ。さっきの話から、別れたいっていう話につながらないんだけど、理由を聞いていい?」
「別れたいなんて、思ってないよ!」
???再び謎発言。首をひねる。戸逢は、思ったよりも大きな声が出たからか、恥ずかしがっている。まあ、さっきの別れようって言ったところでもう遅いんだけどね。周りのお客さんの視線が痛い。
「どういうことなの?話してみて。」
ジェントルメン度増し増しの声でもう一度説明を求めてみる。戸逢は。一度周りをきょろきょろ見渡して、それから俺の方を見た。
「私は、本当は助かりたかっただけなの。」
「…助かりたかった?」
「…うん。さっき、夏柏の顔はちゃんと見えるって話したけど、入学式の日、夏柏に会えて本当にビックリしたし、嬉しかった。最初は、本当に最初は、この人と一緒に世界を救うんだとか、恥ずかしいことも考えたんだよ?ここでの質問で、そういうことにはならないって分かったけど、でも、それでも夏柏は、私にとって何か特別な人には違いないって思いなおしたの。」
歯の浮きそうなセリフだ。でも、戸逢は至極真面目だから、俺も真面目な顔をする。
「だから、この人とは一緒にいたいと思ったの。夏柏の、できるだけ近くにいたいと思ったの。それで、どうすれば近くにいられるかって考えて。その、それで、恋人になれば、夏柏は私を一番に優先してくれるんじゃないかって思ったの。それが、告白した本当の理由なんだ。夏柏、誠実そうだし、彼女大事にしそうだし、それに、大事にしてくれたし……」
俺はそんなに誠実な奴だったかな?
戸逢の顔から火が出そうだ。それくらい赤くなっている。
「でも、ずっと思うんだ。それってやっぱり、卑怯なんだって。夏柏に対して失礼なんだって。恋愛って、もっと真剣にするものだったんだよ。夏柏は、こんな私にも優しくしてくれたけど、私は夏柏になにもできなかったよ。色々頑張ろうとは思ったけど、全部、気持ちが伴ってなきゃダメなんだよ。だから、私が私の妄想から助かりたいばっかりに、夏柏を独占しちゃう申し訳なさに耐えられなくなったんだ。だから、別れなきゃって思った。」
戸逢は、今度は目をそらさない。俺も目をそらさない。
「夏柏。ずっと黙っていてごめんなさい。騙していて、ごめんなさい。」
それで、全部を言いきったらしい。私の話は終わったという空気をよこしてくる。そして、今度は俺の順番だ。俺が戸逢の告白に対して何かを言わなきゃいけない。
戸逢の話をまとめると、要するに、戸逢の告白は嘘だったということらしい。交際は目的ではなくて手段だったらしい。そして、嘘の告白で、俺を縛っているというふうに、戸逢が罪悪感を感じてるらしい。結論、別れ話。うわぁ、あまり信じらんないな。信じたくないっていう気持ちもあるけど、その前提の非凡さが邪魔をしている。
っていうか、そんな申し訳ないとか思わなくていいのに。俺が、好きで勝手に一緒にいただけなのに。こっちが勝手に馬鹿をしていただけなのに。どうして俺なんかに罪悪感を感じてるんだ。むしろ、最後までだましてくれてたってよかった。こんな急に別れ話を振られても、対応に困るわ。バカ。
だけど、戸逢にとってはそれはとても重要なことなんだろう。こんなに真面目に俺を見るのは、告白の時以来じゃないだろうか。なんだか急に戸逢に対して申し訳なさが募っていく。まったく、恋愛に真剣じゃなかったのはこっちの方だ。俺は、何も知らないでへらへら付き合っていたつけを支払わなきゃいけない。そう覚悟を決めなきゃいけない。急き立てられる。自分はなんてダメなやつだったんだ。ダメなやつだってのは知ってるつもりだったんだけど、これは予想以上のダメさ加減だ。認識を改めなければならない。戸逢は俺のことを考えて、頑張ってこの告白をしてくれたんだ。俺も戸逢のことを考えて、戸逢のために答えるのが筋である。でも、よく考えてみると、実際問題、世界有数のダメさを所持するこの俺が、そんな尊い行為をすることができるはずがないのである。ならばどうするか?どうするの?どうしようかな―。うーん。考えようとしてもなかなかいい案が思いつかない。どうしようもない奴だ。だったらもう、頭の中にある答えをそのまんま口にしてしまおうか。
「うん、分かった。じゃあ、戸逢の言う通り、別れるよ。」
そう言うと、戸逢は泣きそうな顔をするんだろうと知りながら言う。予想通り、目に涙をたたえている。戸逢は涙腺緩いから、すぐにこうやって泣きそうになる。ヤバいなあ。この後に追い打ちをかけたら、絶対泣いちゃう気がするんだよなあ。そしたら、俺が変なことして戸逢を泣かせたように見えるんだろうな。あーイヤイヤ。でも言っちゃう。
「戸逢。」
呼びかけて、下に向きそうになっていた視線を戻させる。戸逢はしっかりしているので、こういうしっかりした時は、しっかりした姿勢で相手に向き合う。しっかりって便利な言葉だな。まあ、そんなどうでもいいことは、横に置いといて。俺も戸逢にしっかり向き合う。
「戸逢の言う通りに別れる代わりに、俺に戸逢のことを助けさせてほしいんだけど。」
そして、その手段として、俺と付き合ってくれないか?
戸逢が付き合うことを手段にしたように、俺もそれを手段にして、戸逢を助けたい。これでおあいこだ。
『All is fair in love and war』
恋愛は色々である。
◎と、まあこんな具合だったのではないかと思う。こんなふうにへんてこな具合で、俺は戸逢の事情を知ることになり、俺達は変わらずに今も付き合い続けることになっている。そう言う設定だ。本当はだいぶ記憶があやふやだけど、大事な部分は落としてないはずなのでよしとしておこう。
俺は戸逢の言う通りに戸逢と別れて、その直後に告白をして戸逢と付き合うことになりました。と、簡単にまとめるとそれだけのことだ。
俺と戸逢の関係はほぼ変わらなかった。変わったことといえば、その後、数日してから、戸逢が時々一人で夜の散歩をするようになった(ただし、深夜徘徊にならない程度の時間まで)ことと、タバコを吸うようになったことくらいだ。部活の『先輩』の真似をしているのだという。タバコは体に悪いからやめてほしいんだけど、戸逢がタバコを吸う姿はめちゃくちゃカッコかわいいので、その事を言い出せてなかったりする。それくらいの微々たる変化だ。
さて、忘れてはならないことだけど、今日は、その出来事から多分1年くらいたった後の5月31日。高校生活で、魅惑の中だるみを満喫せざるを得ない時期だ。その日、俺は戸逢の秘密を握ることになった。回想の中でもふれたとおり、秘密なんて、隠している間は隠している側が一方的にめんどうくさいものだったりする。だから、俺は明日にでも、この秘密を暴露してしまおうと考えていたりする。
明日、戸逢を助け切ってしまおうかと画策しているのである。