花火前日 夜の散歩で
『この世界は、ポットによって支配されていた。その証拠に街を歩けば、ありとあらゆる所にポットの群れがはびこっている。闊歩している。ポットが、歩き回っている。数多くのポットたちの中で、唯一私だけが人間だった。私だけが、ポットじゃなかった。私は選ばれた人間だ。
ポット達は私が人間であることに対して何も思わないのか、それとも、私のような矮小な人間が一人いたくらいでポットたちの支配が崩れることはないということを確信しているのか、今のところは私に対して何の干渉もしてこない。でも、油断は禁物だ。私はいつポットたちに襲われ、悪の本拠地に連れていかれて、彼らと同様にポットに改造されてしまうのか、分かったものではないし、そんな状況は溜まったものではないので四六時中、年中無休、私は厳戒態勢でいなければならない。私は、私だけは彼らに屈してはいけない。私という人間は、人類の最後の砦、希望の光なのだから。きっとこの世界のどこかには、私のように未だポットになっていない人間がいるはずだ。世界は広いのだから。たとえ、海外放送局を含めるどのテレビ番組にも、人間がいなくたって、隠れて生き延びている人間はいるはずだ。私はいつかその人達と力をあわせて地球の危機を救うのだ。ポットの支配を覆し、私達の地球を守ってやろう。それはきっと私に課せられた使命なのだから。』
昔の日記の表紙の裏側。そこには私の決意表明がプロッキーで書き殴られていた。このノートは、私が日記をつけようとして最初に買ったもので、中学校1年生の秋に初めて筆を入れたものだ。当時の私の幼さの残る字体で書かれたその文章は、行ごとに文字の大きさがまちまちで、人に見せられたものではないし、今現在の自分としてもなかなか見るに堪えないものだ。最初に日記をつけた日は10月17日となっている。
今日の日記で、今のノートを使い切ったので、日記帳を整理している棚にその一冊を投入するついでに、魔が刺して一番古いノートを開いてみたのだが、相当に恥ずかしい。それに、内容が内容でとんでもないので、小さい子供ってすごいな、と思った。私はこんなにもぶっ飛んだ中学1年生だったんだと素直に感心した。もう一度、昔の私の決意表明を眺めてみると、今度は恥ずかしさが先行して、このまま棚の角に頭をぶつけて死にたくなった。コツン、と勢いを抑えて実行してみる。死ぬ気はないから死を思わない。
「うわぁ、やば…。死にたい。」
ありえない、と付け足して、手の中の日記帳を棚に戻した。
◎4月7日。今日は清々しいほどに入学式だった。郊外に建つ、だけどそこそこ大きい公立高校へと向かわなければならない。電車で二駅。電車通学なんて初めてだから、と緊張している私は、予定していた時間より20分ほど早く行動を開始する。横になっていた体を起こすときに、体がきしむような錯覚が一瞬よぎった。立ち上がって背伸びをすると完全に頭が覚醒する。布団をしまって、朝の支度をする。支度といっても準備するものは昨日のうちと言うか一昨日のうちに準備しているし、朝ごはんと身だしなみを済ませてしまえばそれでお終いなんだけど。緊張を気持ちが急いているのと勘違いした私は、無駄にテキパキと支度を済ませて、電車が来るまで50分以上の余裕を作ることになってしまった。いつものことながら計画性がない。歯を磨いていると手持ち無沙汰になったので、時間を潰そうとして、目覚めきった状態でめざましテレビを見ようとテレビのリモコンを操作した。プチョン、とした音の後に画面が青くなって、それから番組が流れだす。テレビの中では恰幅のいい男性と可愛い格好をした数人の女性が笑っていた。そういえば、ニュースバラエティの男の人達って皆スーツだなと新発見。女性の方々はおしゃれに気を配らなきゃいけないのに、不公平だと男女格差を嘆いてみる。男性で女性と同様の努力をしている人といえば、蝶ネクタイのあの人だけだろう。いや、あれも異質か。
画面には4人が映っていて、そこにいる人達の頭は全員が全員ポットだった。ポットだった、というのは正しい表現ではなく、私には彼らが全員ポットに見えるというだけにすぎないのだけど。件の蝶ネクタイが出てきた所で、口の中が歯磨き粉成分と唾液で洪水しそうになって小走りで洗面所に向かう。真っ白いコップで口をゆすいですっきりした後にテレビの前に戻る。個人的にはあまり興味のないスポーツ選手の話がされていた。
今日の占いを見ると、半端な順位で無難な順位だったことに喜ぶ。勇んで駅へと向かう。
アパートの駐輪場から自転車を引っ張り出したところで、斜向かいの家の中からスーツ姿のポットが出てくる。『斜向かいさん』。よく知らない人なので名前が分からない。お互いにどうも、と声をかけただけで別れる。ポットはドアを引いて部屋の中に戻っていった。燃えるゴミ袋を持っていた。
道路を自転車で駆け抜ける。この時間帯では小学生や中学生たちの登校時間と被るらしくて、小さい背格好の集団があちらこちらにたむろしている。もちろん彼ら彼女らも全員ポットであり、彼ら彼女らはポットの集団である。ポットの軍団を自転車のスピードですーっと追い越しながら駅へと向かう。4月といってもまだまだ風は冷たい。少し雪もある。
駅には通勤通学の人たちが大勢いて驚いた。今日の本番に電車の乗り方を間違えないようにと、一週間前に来たときは、JRの経営が危ぶまれるほどの人数だったくせに、今日はだいぶ繁盛しているみたいだった。小さい駅には収まり切らないのか、外でワイワイと話している制服姿までもいる。こんなに大人数が果たして電車に乗りきれるのだろうかと不思議に思った。
キョロキョロと視線を彷徨わせていると、見知った顔を見つけた。見知った顔といっても所詮はポットである。見知ったポットだった。ポットの前面に、『久米 好々乃』と書いてある。知り合いだと、ポットにその人の名前が見える。
「とーあ!」
私と同じ制服の、私より背の低い女の子がこちらに寄ってきた。好々乃は私の中学3年からの友達で、とても可愛いらしい。私にはポットにしか見えないんだけど、好々乃は目鼻立ちがはっきりとしている美少女らしく、性格もはきはきしていてとても人気があった。女子の中には僻む人もいたけど、好々乃はそういう人達をバッサリ切り捨てる。その性格が気に入っていて、私も彼女のことは大好きだ。運良く同じ高校に合格することが出来ていた。
「好々乃もこの電車なんだ。」
「うん、いやあ、人チョー多いね。でも戸逢がいてくれて良かったよ。ねぇ、明日からはこの時間に待ち合わせしよう。」
それからは二人でとりとめのないことをポツポツと話す。10分もしないうちに電車がやってきたので、駅のホームへ。ホームに出る時でさえも人が多すぎて一度好々乃とはぐれてしまう。朝の電車は恐ろしい。暗黙のルールで、高校1年生は電車の端っこの車両を使わなければならない、と好々乃に教えてもらって電車に乗る。電車の中は身動きがとれなくなる程ではないにしろ、シートは全て満席で、私と好々乃は壁づたいに並んで立った。
電車の中は、ポットだらけだ。ポットの中にぽつんと、私だけが人間だ。
私は、精神病を患っている。いわゆるパラノイア、偏執病というやつなのだけど、近年はこれらの名前は使われなくなってきているそうで、現在は【妄想性人格障害】という名前の方が専門の場ではよく使われるらしい。でも私は専門家じゃないし、パラノイアのほうが言いやすいしおしゃれなので、こちらの方を使っている。
パラのい私は人の顔が全てポットに見える。右肩と左肩の間から首がニョっと生えていて、ほんの少しいった所でポットが結合されている。テレビの中でも写真でも、絵として描かれている時でさえも、私以外の人の顔はどうしても見えない。一番衝撃的だったのは、モナリザの肖像画までもがきちんと見えなくなってしまっている時だった。記憶の中ではぼんやりと覚えているはずなのに、いざ、レプリカの前にたってみるとまったくもって顔がポットなのである。
この症状が始まったのは中学1年生の頃で、当時の私は相当に困惑したし、とにかく怖かった。あまりの恐ろしさに登校拒否にもなったし、それが原因で家庭訪問に来る先生の顔もポットで、カウンセリングにいった病院のお医者さんの顔もポットなものだから、もうどうしようもなくて、結果私は相当に引きこもった。引きこもっているうちに何度か目を潰そうと考えて、それでも怖くて痛くて中途半端に目潰しをし続けたら視力が落ちた。今現在の視力はメガネをかけるかどうかの瀬戸際をゆく。と、そんな話はどうでもよく、引きこもってからしばらくの時間が経った頃、私は、電話という手段でカウンセリングを受けることで何とか立ち直ることに成功した。この頃になると、人と全く顔をつき合わせないという生活にも限界が来ていたので、丁度よいタイミングでカウンセリングを受けられた私はトントン拍子に引きこもりを抜けだして、2週間後には保健室登校をするに至った。外に出ると、相変わらず周りは顔がポットな人ばかりだったし、半年近く引き篭っていた反動もあって対人すること自体に恐怖を抱くようになってしまっていたのも加わって、やはり登校は2週間に1、2度のペースで進められたけど、それでも2年生の夏休み明け頃には普通登校できるくらいには回復したし、こうやって高校に進学できているので終わりよければすべてよしと言うか、経過のうちの些細な問題くらいは私の中ではなかったことにしても構わない。とまぁ、つらつらと並べ立てましたのは、私のパラのい生活の経緯でした。メデタシメデタシとなるわけだ。
電車が出発して一駅目。かすかに見える窓からの景色がゆっくりになっていって、止まる。減速している中では感じなかった慣性が、止まる瞬間にだけはっきりと感じられた。体が流されて男子生徒にぶつかりそうになった。膝とか足の裏とかいろんな筋肉を使って踏ん張って、ぶつからないように頑張る。電車の中がさっきよりも窮屈になってから、ゆっくりと振動が始まった。体の角度を変えて、手で隠して、好々乃にしか見えないようにあくびをする。
「ちょっと、戸逢のあくびやばいよ、それ。」
好々乃がケラケラと笑う。
「ん…寝てないからさぁ。」
あくびを重ねる。あくびの原因は人の密集率が高いからかもしれなかった。
降りる駅につくと、私達だけでなくたくさんの学生が電車を降りていって、もちろん電車に乗り込む人もいたにはいたけど、それでも車内はがらがらになって、空いている車内に立っている人は少ない。少し損をした気分になる。
駅からは自転車。好々乃と一緒に学生の流れに乗る。学生たちがかなり密集して走っているし、時々猛スピードで後ろから追い上げてくる女子生徒とかもいてドキドキした。高校の登校はデンジャラスだ。
校舎が長い長い坂の上にあるのは、土地が安いからという理由らしい。その理由のせいで辛い登校が強いられる。坂の下からは自転車を押して上っていく。偶に坂上まで立ち漕ぎで自転車を進める男子もいた。会話の雰囲気から察して、たぶん野球部だと思う。私は野球部ではないので明日からも今日のように自転車を押して上るはずだ。ほんのりと向かい風が吹いた。帰りは楽そう。
坂を登り切る頃にやっと校舎が見え始める。紫だった。紫色の、毒々しい校舎だ。
紫一色というわけではないけれど、紫がベースな建物のうち、屋根の色とか時計の色とかが、濃ゆい赤や紺色に近い黒だったりしていて、かと思ったらグラウンドは気味の悪い緑だったり、その奥に見える部室らしき建物は末期色の真っ黄色だったりしていた。吐き気がする。
もちろん、そんな病んでいる校舎が実際にあるわけではなくて、これらも私の妄想の一つなんだけど。学校とか、病院とか、郵便局とか、そんな特別な建物などを、私は正確に見ることができない。それらの建物を、私は妄想を通してでしか見ることができなくなっている。
実際の校舎はかなり小奇麗で、若干潔癖感を抱くくらいらしい。私にはマリオの毒キノコ色にしか見えないのに。眠くて目付きが悪くなっているだろう両目を、自転車小屋に自転車を入れた後にこすった。目がかゆい。自転車小屋は真っ赤だった。目に悪い。
玄関にあるクラス表を見ると、私は好々乃と同じクラスで、好々乃が嬉しがって私の肩を掴んでジャンプしていた。
私達が到着した時間帯は早くもなく遅くもなかったみたいで、ちょうど大勢の新入生が玄関に詰め寄っていて、校舎の中に入ろうとしてもどうにも難しくて、10分くらい立ち往生した末にやっとこさ侵入に成功。二人ともさっさと内履きにはきかえて教室へと向かう。
引き戸から滲みだす雰囲気から察せられたけど、教室に入ると、皆が皆黙りこくっていて、私達二人は二人でだべったりしたかったのに、雰囲気に飲まれて静かに指定の席についた。
出席番号はジャストの30番。『原野戸逢』
黒板に座席の位置が書いてあったので迷うこと無く座る。と、そこまではいいものの、座った途端に手持ち無沙汰になるし、それなのに教室の雰囲気は重量数十トンで押しかかってくるので、ボーッとしているしかない。ボーとしているしかないけど、周りが皆知らない人という状況に素晴らしく気まずくて、好々乃がこちらを振り向くたびに目をあわせて無音で笑いあった。生徒の数はまだ半数ほどだ。
のぞみもしない我慢大会に飽きたので、部屋の中の3分の1がそうしているように私も窓から外を眺める。七色マーブルの教室の中は、黒板やら蛍光灯やらがひっきりなしに叫んでいる。騒がしさについ強い目をしてしまう。目の下のクマがひどく強調されているだろう。
パラノイアに加えてもう一つ、私は精神病を患っている。こっちは割とポピュラーで、普通に不眠症なんだけど、その度合いが普通じゃなくて、私はここ3年、1度も眠ったことがない”。眠くて眠くて倒れてしまったことは何回かあるのに、まるで眠り方を忘れてしまったかのように眠れない。誘眠剤や睡眠薬はずっと服用してきたのに効果がなく、倒れてしまった時も意識だけははっきりしているものだから、始末が悪い。私の妄想も、実は睡眠不足から来る幻覚なんじゃないかという線もあるくらいなんだけど、そっちはそっちできちんと病んでいるらしいので、私はパラノイアと不眠症、2つの病気を抱えていることになっている。精神が脆弱だ。
不眠症のせいで私の顔には深く深くクマが刻まれている。好々乃が言うには、とても幸薄そうに見えるそうで、改善したいとは思うけど、化粧とかはまだ私には早い気がして手をつけていない。悩みのタネの一つだった。
一つ、短く欠伸をした。
―――中学2年の頃、私が自分はパラノイアなのだと信じられた理由はただひとつ。どうしても人間が見つけられないからという諦めだった。街を歩いても、テレビを見ても、立ち読み可能な全ての雑誌や漫画の中を探しても、目に映るのはポットのみだ。壮大なドッキリとか、世紀の変態科学者の実験だとか、珍妙な陰謀論を並べ立てようともしたけど、2年生の夏休みを利用して、日本中を旅した結果、人間を一人も見つけられなかったという事実で私は私の病を認めることとなった。
日本一周の旅をしたときに、心暖かなヒューマンドラマがあったりして、混乱して錯乱しそうだった私が何度も救われたという話もあるのだけど、それは脇に置いといて、とにかく言うべきことは、私はあの日以来、中学1年生の秋、10月10日から、私が”人間”だと視認できるものには一度も遭遇したことがないという事実である。
そして4月7日の入学式的な今日この日。私は本当に久しぶりに、”人間”に出会った。
高校入学初日のその日に、私の世界は変わっていく。
世界が変わるなんて大仰な言い方だけど、パラのい私のパラのい世界は私の妄想が私の現実であって、世界は妄想でできているのだから、やはり、私の世界は、この日に変貌してしまったのだろう。
世界が変わったまさにその日は、私が私の彼氏と出会った日でもある。
◎ラケットケースを背中に背負って、日が沈んだ街を歩いていく。駅に背を向ける方角に、まっすぐと歩いていく。すると、予定通りに、彼がやってきた。付き合い始めてからもう1年以上もたつ、彼氏だ。こちらを見止めて、自転車を止める。
「夏柏。」
「戸逢じゃん。これから散歩すんの?」
「うん。」
「そっか。いつも言ってるけど、気をつけてな。」
夏柏が、左手を上げて、グーとパーを二回繰り返す。夏柏の、独特のバイバイの振りだった。
「夏柏。」
「ん、何かした?」
「今日は、一緒に行かない?」
出発しかけた自転車が再度止められる。
「え…だって戸逢、俺がついていくのいつも嫌がってるじゃん。」
「今日は体調悪くて、夏柏に、一緒にいて欲しいの。」
「体調悪いんなら散歩やめといたほうが良いんじゃない?もう電車来る時間だろ。丁度いいんじゃね?」
「今日は散歩したい気分。」
「うーん。じゃ、ちょっと待って。親に電話すっから。」
学ランのポケットから最新のケータイを取り出して、夏柏が通話ボタンを押した。一分もかからないで会話は終わる。
「どう?」
「良いってさ。つうか、うちは基本的に門限とかないからさ。戸逢が一緒に来てって言うんなら俺はいつでも行くんだよ。」
「でも、さっきは少し渋ってるみたいだった。」
「あ、バレた?見たいテレビがあってさ。あれ、さんまさん出てるやつ。見てる?」
首を振る。木曜日は、たいていテレビを見ない。
「そっか。」
夏柏が笑った。
「じゃぁ、行こっか。俺、散歩とかあんまりしないからさ、戸逢、案内してよ。」
「夏柏。」
夏柏の学ランは夏柏の身長より一回り小さいサイズらしいので、割と輪郭が体の線に添っているように見える。タイトな学ランの第一ボタンは外されている。袖口のボタンも、外されている。
「手、つないで。」
少し間が空く。
「マジ?」
「今日だけ。今度からはしないから。」
「いや、俺はいいんだけど。どういう風の吹きまわしだよって感じかな。」
夏柏が、自転車から降りて、籠にのせていたエナメルを背負う。
「荷物、カゴに入れる?」
「ううん、いい。」
「そっか、じゃ、自転車駅前に止めてくるから。」
「私も行く。」
時刻は午後7時半。
「占い?」
「うん、この前歩いたときに、見つけた。」
「へぇ、占いとか興味あんの?」
「占いには興味ないけど、占い師さんには興味あるかも。」
「カッコいい人とか?」
「カッコいいとか、分かんないって言ったでしょ?だいたいその人、狸のお面してるし。」
「お面?変わった人だな。…じゃ、何が気に入ったの?」
「話が上手なところ。」
フーンと愛想のない返事をして、夏柏が握った手を強めてきた。痛いほどじゃないし、なんだかジェラシーに狂っているみたいで嬉しい。私も呼応するみたいに手を握った。手を握ってから幾分か落ち着いた気分がとても心地よい。既に裏通りに入っていたところを、もう一本、表の反対側に入る。
「うわぁ、戸逢ってこんなところ来てんの?」
「こんな所って?」
「なんていうかさ、気味悪くね?危険な香りがしてるっていうか…。」
鼻で笑う。
「あぁ、今鼻で笑っただろ。言っとくけど、全然怖くねえからな、俺。」
「怖いとか、そういう話してなかったのに。それじゃあ自爆してるようなもんだよ。」
「違うし、本当に違うし!」
「大丈夫だよ。これまで怖い目に会ったこととかないし。私が付いているからね。」
「待て待て!本当に違うからな!」
そこで右に曲って、目的地についた。白いテーブル掛けの上に、一回500円の小さな看板。水晶玉がある。名前は知らないけど、ジャラジャラとする棒もあった。王道のど真ん中をゆくようなセット。客用のパイプ椅子がひとつ置かれている。その向かい側に、ひじ掛け付きの回転椅子に座った、カジュアルファッションの狸のお面が船を漕いでいた。夏柏が、あれ?と指差して、私が頷く。二人で近づいていくと、足音で分かったのか、狸面がこちらを向いた。
「やぁ。こんばんは。また来たね。いらっしゃい。」
「こんばんは、また来ました。」
「その人が彼氏?」
狸のお面が夏柏を見て言う。
「そうです。」
「ども。」
「どうもはじめまして。ま、座って座って。」
あんまいい椅子じゃないけどさ。と、座るように言われたところで、一つしかないパイプ椅子を見る。夏柏を見る。最後に狸のお面を見る。
「戸逢が座れよ。俺はいいからさ。」
「おっ、彼氏君、良いね。イケメン彼氏君じゃないか。」
「ミドリさん。どうせ椅子くらい用意しているんでしょう?」
私が少し強い目をすると、夏柏がつられてミドリさんを見る。ミドリさんがお面の下で笑った。
「ごめんごめん。イケメン君、心配しないでいいよ。椅子ならまだあるんだ。」
ミドリさんがテーブルの下から、アウトドア用の小さな椅子を引っ張り出す。そして自分が座っていた回転椅子をゴロゴロとこちらに移動させて、自分は今取り出した方に座った。テーブルとミドリさんの身長に椅子があっていない。
「さぁ、座って。」
私がパイプ椅子に座って、それから数秒遅れて夏柏が静々と回転イスに座る。ミドリさんがクックと笑った。
「悪役笑いですね。」
「ん、まあね。それにしても戸逢ちゃんは、どうして今夜は彼氏君を連れているんだい?」
「わざわざ聞かなくてもいいんじゃないですか?」
「さぁ、どうだかねぇ。」
夏柏が、話についてこられない様子で、いかにも困ったような顔をしている。その表情が少しおかしい。
「今日は、気分がすぐれなかったから、一人で散歩するよりも、夏柏についてきてもらおうって思ったんです。その方が安心だから。」
「本当にそうかな?まぁ、いいけど、イケメン君は”カガシ”君って言うんだね。独特な響きじゃないか。実に良いね。」
ニタニタ、ニヤニヤとミドリさんが笑っているようだった。前回来た時はそうじゃなかったのに、今日はミドリさんが嫌な人に見える。
そのまま流れで雑談に入り少し話をしていると、チョンチョンと肩をつつかれたので、夏柏の方を向く。
「なぁ、占ってもらわねえの?」
「戸逢ちゃんは毎回占ってもらいに来てるわけじゃないからね。全く、悪いお客さんだよ。」
そうなの?と夏柏が聞く。そうだよ、と返答する。
「でも、夏柏は別だよ。占ってもらうのも良いかもね。この人の占い100%だから。」
そうなんですか?と夏柏。苦笑するミドリさん。
「んなこたないよ。結構クレームも来るしね。当たるは八卦、当たらぬも八卦さ?」
「大丈夫。この人嘘つくだけだから。」
底意地の悪い人なのだ。この人は。
「的中率は100%なのに、偶に本当のことを言わないの。」
「…そうなんですか?」
それじゃあまるで詐欺だ、と夏柏ならそう思うだろう。でも、私は夏柏じゃないし、夏柏も私じゃないから、もしかしたら夏柏は違うふうに思っているかもしれない。
「でも、それなりに理由はあるらしいから。それに、ちゃんと嘘を付くときは『嘘をつきましたよ』っていう印があるの。」
ポケットから財布を取り出す。小銭専用のがま口財布。今日は運がよいことに500円玉が入っていた。ワンコイン。
「嘘をついたらね、ミドリさんは払ったお金を返してくれるの。いつ返してくれたのかはよく分からないらしいんだけど、いつの間にかに財布に500円が戻ってるんだって。」
500円玉をテーブルの上に置く。ミドリさんがそれを一瞥した。夏柏が身を乗り出す。
「そうなんですか?」
「いやいや、夏柏君、信じるなよ。必ず当たる占い師なんていかにも嘘くさいじゃないか。それこそ、戸逢ちゃんが君をだまくらかしてるかもしれないだろ。」
「よく分からないけど、戸逢はあまり僕に嘘つきませんから。それに、戸逢は嘘を見抜くんです。」
やれやれ、とミドリさんがため息を付いた。ジャケットのポケットから煙草の箱を取り出して、一本を口に加える。火はつけない。煙草の銘柄は…私がいつも吸っているものとは別のものだ。
「戸逢ちゃんは幸せものだ。彼氏に信頼されててさ。」
「私もそう思います。」
「見せつけるなよ。なんか、ヤだなぁ、この二人。」
呻くミドリさんが新鮮だ。もう一本の煙草が半分まで取りだされて、しまわれた。
「夏柏君。僕はね、趣味で占いをやってるんだけど。いや違うかな?うーん。ま、占いを始める切っ掛けはただの好奇心だったってことだね。昔の漫画のキャラの真似してね。それで始めてみたら以外に当たるもんだからさ、だんだん面白くなって、それで続けてきたんだけど、就職した頃からは忙しくなって、こんな事する時間もだんだんなくなってきたし、その頃にはもう惰性が入ってきてたもんだから、なんだか当初の面白さも減ってきてたわけ。」
「就職されてるんですか?」
「ミドリさんは銀行員なんだよ。」
ミドリさんがポケットからライターを取り出す。火を付けて、消す。タバコはまだ咥えるだけ。
「凄い。」
「スゴかぁないよ。そんで、だらだら続けて今年で8年になるんだけど、それくらい続けてると、たとえ惰性だとしても何かこう、自分の中でルールが出来るんだよ。自分ルール。それにクサイ言い方になるけど、プライドみたいなものもできてきてね。そういう、ついて回ってきたものに則って、占いをしてると、うん。時には本当のことを言わないこともあるかもしれないね。」
ミドリさんが、ライターをテーブルの上において、咥えていたタバコを箱に戻した。夏柏は黙っている。
「それって、どんなときなんですか?」
「秘密。」
「ミドリさん、私も聞きたいです。」
「だめだよ。コレばかりはめったな事が無けりゃ教えないよ。…んー、でも、夏柏君には、いつか教える機会があるかもね。」
「本当ですか?」
「ンー、たぶんね。ってか、戸逢ちゃんは今日は彼氏自慢しに来たのかい?いつも言ってるけど冷やかしは勘弁してもらいたいんだけどな。」
「いつも冷やかしてるつもりはないんですけどね。でも、今日は占ってもらおうかなって思ってるんです。」
テーブルの500円玉をミドリさんの方に突き出す。オッ、とミドリさんの声。
「なんだいなんだい。今日はどういう風の吹き回しかな?」
「占ってもらおうとしたらこれですか…。全く。いつもと違って夏柏と一緒にいるから、今日はいつもと違ったことをしてみたかったんです。」
「なんだか、占いがついでみたいに聞こえるなぁ。ふん、別にいいけどさ。夏柏君、学校でもこういうふうに見せつけちゃってると、周りは自慢してるように思っちゃうんだから、君が気をつけてあげなよ。」
ははは、と夏柏の渇いた笑い。私はミドリさんに強い目をする。
「ミドリさん、明日、この近くで花火大会があるんです。」
「うん、あるね。知ってるよ。」
「私たち、二人きりでデートに行こうと思ってるんです。その花火大会へ。」
え、と隣で声が上がったのを無視してミドリさんを見据える。狸面は短く笑う。
「うわぁ、出たよ。惚気けるなぁ。ダメダメ、止めといたほうがいいよ。夏柏君、今初めて聞きましたって顔してんじゃん。そういうの片方が勝手に決めるのって良くないと思うなぁ。ね、夏柏君?」
「え?う…ぁ。」
夏柏がどもっている。それを見とめてから、パイプ椅子から立ち上がる。
「なるほど、分かりました。じゃぁ、二人で話し合って決めますね。夏柏、行こ?」
「お?おう。」
夏柏も回転椅子から立ち上がる。その際にゴロゴロ、とアスファルトの音がした。
「戸逢ちゃん、花火は止めといたほうがいいと思うな、僕。」
「じゃあ、また来ます、ミドリさん。」
それだけ言ってその場を立ち去る。追いかけるように夏柏が続くのが分かった。
2つ角を曲って、表通りにだんだんと近づいていく。私と夏柏は再び手を繋いでいる。ミドリさんのところからここまで会話はない。
「なぁ、戸逢。明日の花火、本当に行くの?」
私はそこで立ち止まる。夏柏も遅れて立ち止まる。自動販売機の前。
「夏柏、私、飲み物買うね。」
繋いでいた手を離し、がま口の財布を取り出す。中身を確認する。
「夏柏。」
「ン?」
「花火一緒に行こう?」
「うん。」
財布の中には、500円玉が入っている。
さっきよりも駅から離れるようにして歩くと、程なくして古いアーケードが見えてくる。私はまだ冷やかしをするくらいしか通ったことがないけれど、古着屋さんが沢山あるし、店頭に可愛い靴が並んでいるところもあれば、センスの良いオリジナルTシャツを出している店もある。近いうちにここで買い物をしてみたいと、割と本気で思っている。学校は、長期休暇内だけ、アルバイトを許可しているので、お金を貯めて通う日を楽しみにしてる。
私は二駅離れている街からの電車通学の身だけど、夏柏はこの町の住民だから、ここのアーケードを通るのももう慣れたもので、いつだか見た私服のうち、かなりの割合がここで購買されたものだと言っていた。夏柏は見るかぎりリラックスしていて、自分のよく利用する店などを気にしているようで、それでも今は私と一緒に歩いているので、あくまで私を優先してくれるみたいだった。歩いて歩いて、アーケードの入ってきた方の反対側まで歩くと、そこでUターンする。それからまたアーケードのちょうど中程まで戻って来ると、さっきは居なかった探し人がいる。すらっとした女の人がいる。かっこいいストリートミュージシャンがいた。
彼女も私に気づいて私たちを手招きする。萎縮している夏柏を引っ張って近づく。
「櫟さん。こんばんは。」
「や、戸逢。ええと、そっちの彼も今晩は。」
「どうも、はじめまして…。」
「ウン、はじめまして。」
櫟さんの声はよく通る。通り過ぎる声だと思う。
「そっか、戸逢。この子が、戸逢の彼氏で合ってるんだよね?確か、名前はかがし君。」
「はい。」
「ン、じゃぁ。夏柏くん。よろしくね。櫟だよ。」
夏柏は呆然としている。繋いでいない方の手の人差し指で、脇を小突いてやると、こちらを見た。
「戸逢って、櫟さんと知り合いだったんだ。」
「友達だよ。ですよね?」
「うん、私ら超仲良し。」
そう言って笑う櫟さんは、とても綺麗な人だと聞く。彼女はストリートミュージシャンで、アーケードから切り離されたような格好をしている。それは彼女によく似合っていると、いつも思う。緑色のインナーが鮮やかだ。
「凄い。僕達の間では、ちょっとした有名人っていうか、ファンも結構いるんですよ。高校の中で、男子も女子も。」
「知ってるよ。ちゃんと知ってる。フフッ。夏柏君、緊張してンの?もう少し砕けなよ。畏まんないでよ。」
夏柏が恥ずかしそうにする。私は自分が少しだけジェラシーに狂うのを自覚した。
「櫟さん。お願いしたものなんですけど。」
「持ってきてるよ。本当に私のお古でいいの?」
「買うような余裕は、私にはありませんから。」
櫟さんが、用意していたように、側に置いていた紙袋を私に渡してくる。紙袋はとても軽かった。夏柏が不思議そうに見ていた。
「それは?」
「浴衣。明日来ていこうと思って。」
「戸逢が、彼氏と花火に行くならどうしても浴衣を着たいって言ってさ。でも、自分では持ってないし、買うお金はないって言うから、私のあげる約束してたの。戸逢、ホントに着付けはいいの?」
「はい。部活の先輩にしてもらうことになっているので。」
「そっかあ。戸逢に着付けしてあげたかったのにな。」
「先輩も同じ事を言ってました。」
「モテモテだな、こいつめ。」
櫟さんのパンチが肩に当たる。軽い力なので痛くない。櫟さんに言われて、そこにあった白と赤の車止めに腰掛けた。2つある車止めのうち、一つに櫟さん。残りに私と夏柏。
「今日は歌わなくて良いんですか?」
「戸逢がいるから、もちっとおしゃべりしてから始めようかなって。ダメ?」
「嬉しいです。」
「そう言ってくれると、私も嬉しい。」
それから櫟さんと取り留めもない話をして時間を潰す。櫟さんの通りすぎる声は、聞いていて気味が悪くなるほど心地よい。吐き気がした。しばらく話すと、唐突に櫟さんがため息を漏らす。
「ふう。ね、夏柏君。さっきから全然喋ってないけど、もしかして人見知り君?」
「え、あぁの。そんなことはないんですけど。あの櫟さんと話ができるなんて、ちょっと感激してて。気後れもしてます。」
「んー、別に気にすることもないのにさ。もっと気楽にいこうよ、気楽に。お喋りしようぜ。」
「そう言うの逆に威圧しちゃいますよ、櫟さん。夏柏と櫟さんは初対面なんだから、これくらい普通ですって。」
「そーう?最近の男子は奥手でいかんね。もっと攻めてかなきゃァ。あ、お疲れ様でーす。」
櫟さんが急に大きな声を出す。声の向かう方を見ると、こちらに手を振る女性がいる。櫟さんと同じ職場の人だとすぐに分かった。夏柏もそちらを見やる。
「あ、そういえば、櫟さんって働いてるって…ここのどこかなんですか?」
「あれ?知らなかったの?けっこう学生さんも来るんだけどな。私がここで歌ってるのだって、このアーケードの宣伝って目的も入ってるんだからね。ほら、あそこのオレンジの看板のとこ。来週からオリジナル商品出るからさ。買いに来なよ、安くしたげる。」
「は、はい!買いに行きます。」
夏柏の声が裏返っている。櫟さんは苦笑。
「堅いなぁ。戸逢の彼氏なんだから私の前だからってそんなに気を張ること無いのに。なんか聞きたいこととかあったらバンバン聞いていいんだよ?」
そんな…と夏柏が困り果ててしまう。でも、急に何かをひらめいたように声を出した。
「そう言えば、戸逢と櫟さんってどうやって知り合ったんですか?」
櫟さんが身を乗り出す。
「お?聞いちゃう聞いちゃう?」
「ダメでしたか?」
「ダメじゃァないよ。むしろ話したくて話したくてしょうがない。」
「ちょっと櫟さん。」
「イイじゃんか。私の数少ない楽しみなんだよ。」
背中を叩かれる。上機嫌だ。上機嫌すぎて加減を忘れてるのか、今度は叩かれる背中が痛い。
「そういう話をべらべら喋るのって、あんまり私好きじゃありません。」
「私が好きだからイイんだよ。夏柏くんはー、聞くよね?」
「できれば。」
「そっかそっか!じゃ、話すしかないよね。そうね。あれは1ヶ月前の、三日月が夜空に映える晩のことだった。一人のストリートミュージシャンと、一人の女子高生が、運命の出会いを果たしたのだよ。」
「櫟さん、話し方がうざいのでやめてもらえますか?」
「もう、うっさいな!分かったよ、普通に話すよ。」
櫟さんが居住まいを正す。
「あー、夏柏くん。私ね、さっきは宣伝も兼ねてストリートミュージシャンやってるって言ったけど、『兼ねて』だからやっぱりそれだけじゃないの。ありきたりだけどさ、私は歌手になりたいんだよね。歌手デビューが夢なんだよ。色々あるけど、やっぱり夢が一番で、私は歌ってるんだ。」
「デカい夢ですね。」
夏柏が合いの手を入れる。それを聞いて眉を潜めた。私には、歌手なんてあちこちに落っこちているようなお手軽な夢にしか思えない。
「まあね。夏柏くんには夢はある?」
「僕には、今はないですね。」
「ソか。でも、今直ぐに必要なようにも見えないから、それはそれでイイんだろうね。私も昔はそうだったし…。昔の私はね、何にも頑張れない自分が嫌で嫌で、そんな自分を変えるためにあれこれ手に取ったときに一番しっくり来るのが歌だった。そんで、歌ってみたら、いつの間にかに夢になってたよ。毎日ここで歌って、ボイストレーニングも受けてる。4ヶ月に一回はオーディションにも行ってる。他にも色々、ね、やってるの。やりがいはある。でもね、私にとって夢っていうのはかなりしんどいものなんだ。」
「しんどいですか?」
夏柏が櫟さんの話に食いついた。私はため息を付いて、櫟さんは満足気に胸をそらした。この人の癖だった。
「しんどいんだよ。私こう見えてけっこうリアリストでね。私にとって夢っていうのは確認作業なんだ。そこに向かって進んだ距離と、そこに行くまでに進まなきゃいけない距離の確認作業。それが見えてなきゃ、私は夢を追えないわけ。進んだ距離がわからないと、とてもじゃないけど気持ちが保たないし、進まなきゃいけない距離が見えないようじゃ、それは夢だなんて言えないよ。夢は、追ってる事自体が分からなくなるようじゃ、追いつけないんだ。私はそれを確認する。確認すると、進んだ距離を見て嬉しくなるし、進まなきゃいけない距離を見て辛くなる。夢には期待と挫折感があって、私はそれを確認する。」
「なんか、詩人みたいですね。」
「歌姫だかんね。それにしんどいのはそれだけじゃないよ。だってさ、夏柏くん。考えてもご覧よ。例えばゴールまで私は100進まなきゃいけないとするよ。私はそこまで1進むか、それとも諦めるかを選べる。そうなると、ゴールする確率って、どれくらいになると思う?2の百乗だよ。2の百乗分の一。2の百乗って31桁にもなるんだって。31桁もパターンがあるうち、成功するのは一通り。これはまだゴールまで100進むってだけだけどゴールまでの距離が長くなればなるほど、確率は下がってくの。それでも成功するのは一通り。なんていうか、救われないよね。」
夏柏は黙っている。私も黙って聞いている。この話は何回も聞いたけど、何回聞いても、何回目でも、話している櫟さんの姿はかっこいい。
「ここまで考えたのは戸逢に会ってからなんだけど、そこまで自覚することはなくても、私はその時ちょっと辛くなってたんだよね。ここで歌い始めたときは、すごいエネルギッシュだったのに、何年も何年も芽が出ないから。偶に、神様は私をサクセスストーリーに乗せてくれてんのかなって考えたりしてさ。もう辞めたいって思うときは何度もあったし、それでも辞めたくないって思う気持ちはどこかに残ってるもんだから、そういう時は店の宣伝のためだって割り切って続けてる時期もあったね。好きな歌手のライブに出かけたりすると、ああ、頑張りたいなって気持ちが出てきたりもするんだけど、そういうのって繰り返すたびに効果が薄れてくるんだよね。慣れちゃうの。そんな負け癖っぽいのがついちゃってて、なんか嫌だなって思いながらだらだらと歌い続けてる時にね、戸逢が来たんだ。」
夏柏が私を見る気配。身をよじる。
「歌ってる最中は、ああ、初めて見る子だなって思って見てたんだけど、歌い終わって常連さんたちが居なくなったあとにもずっと同じ場所に立ってるのね。なんだか気味悪くなってきてさ、何か用ですか?って聞いたら、こいつなんて言ったと思う?」
「なんて言ったんですか?」
夏柏が既に話に呑まれているのを感じて嫌になったけど、櫟さんが楽しくしゃべっているのを邪魔するのは忍びないと思ったので黙っていることにする。
『歌うのが、嫌なんですか?』
「『歌いたくないんですか?なんだか、歌っているのが、辛いみたいです。』って言ったんだよ。非常識だよね?意味分からないし、この子頭いっちゃってんのかなって思って。腹立つしさ。それに、歌いたくないっていう気持ちが本当だっていうのに気付かされて、悔しかったんだろうね。でも、その後冷静に考える時間ができて、だんだんと安心もしてきた。」
「?なんで、そこで安心なんですか?」
「だってさ。歌いたくないっていうのは、その時のある程度の本音で、それを見透かされることで腹が立つくらいには、私はまだ歌に執着できているっていうのが、戸逢のおかげで分かったんだ。それが嬉しかったし、一番嬉しかったのは、他人が私の気持ちを看破してくれたことが、何より良かった。きっとね、私が私一人でその気持ちに丸っと気づいてしまってたら、私はここで歌うのをやめていたもの。嫌いになったら続けらんないよ。戸逢の言葉がなかったら腹が立つことも、悔しい時間を過ごすことも無かったし、冷静になれることもないままに、ストンって諦めてただろうって思うんだ。そんな、タイミングの話なんだね。他人から気付かされることで、私は何とか踏みとどまれたんだよ。考える時間ができて、辛い状態にあるのは分かっているけど、それでも歌は続けようって、夢を諦めずに済んだんだ。」
あとから夏柏に聞いた話では、そう言い切った時の櫟さんの表情は綺麗で、潔癖さに辟易しながら笑みを返すことしか出来なかったらしい。
「そんなものなんですか。」
「知らないけど、そんなものだったんだって、私は考えてる。で、その後に一悶着があって、戸逢とは仲良しになりましたってね。夏柏くん、分かったかな?」
「一悶着の所が重要な部分だと思うんですけど…、大体は分かりました。」
「うん、よろしい。」
櫟さんが立ち上がる。続けてへそが覗けるくらいまで伸びをして、こちらを振り向く。
「じゃ、おしゃべりはこれくらいにしようか。私はそろそろ始めるよ。」
「そうですか。私達は少し聞いてから帰ります。」
「ありがとうございます、お客様。」
私は歯を剥き出すくらいに微笑んだ。
櫟さんが歌っている。周りにはすぐに聴衆が集まってきて、私たちは人だかりの後ろから櫟さんの歌を聞く。それくらい離れていても、櫟さんの声はよく通る。
「櫟さんってあんなにフレンドリーな人だったんだな。っていうか、戸逢って以外に顔広いよな。」
隣で櫟さんの歌に危機後れている夏柏をちらりと盗み見る。夏柏は気づいているのだろうか?櫟さんがとても格好いいということに。櫟さんは夢に向かって真っ直ぐで、実直だ。それは、視界に捉えられるほどの夢を持たない私にとっては、カルト的な気味悪さがある。気味が悪いけれどカッコいい。気味が悪いくらいにカッコいい。その気持ち悪さは、度合いを過ぎて、心地良かった。ストリートミュージシャンの櫟さんという人間は、私にとって、快さを感じさせるほどに恐ろしい人だ。夏柏はそのことに気づいているのだろうか?私は気づいて欲しい。浴衣の入った紙袋を右手に持った。
しばらく聞いた後に、アーケードを抜けた。T字路を右に行くと、駅から離れて河川敷へと向かうことになる。ずんずんと、無口で歩く私に手を引かれて、夏柏は河川敷へと向かっている。河川敷へ行くと、テントがたくさんたっている。普段はホームレスの居住地となっている河川敷。河川敷は、明日、花火大会が開かれる場所だ。
河川敷に着くと、そこには荷物をまとめ出しているホームレスの人たちがたくさんいた。テントは橋の下あたりに集中しているのだけど、今はその7割弱が無くなっている。明日の花火大会に向けて、警察や自治体の方から退去願いが出されたのだろうなと予想ができた。いまだに残って作業をしている人たちの中に見知った顔を見かけたので近づいていく。向こうも途中で私に気が付いたようだ。
「木田さん。」
「やあ、戸逢さんじゃないですか。どうしたんですか?そちらは…彼氏さんですかね?」
「はい。今日は散歩のついでに、明日の花火大会の場所を下見しようと思ってここまで来てみました。」
「そうですか。花火大会、ですか。明日は晴れるらしいですから、きっときれいに見えると思いますよ。」
日焼けしきった黒い顔で、木田さんは笑い、楽しんでくださいね、と口にする。明日は、花火には来られないんですか?と聞いてみる。
「あー。僕らは退去した後は北公園の方に行くんです。退去に応じてくれたホームレスの人には炊き出しが出るというので。だから、明日は行けないと思います。非常に残念ですが。」
そう答えると、薄いレンズの眼鏡をくいっと上げ直して、木田さんは作業に戻る。直後に左肩が叩かれた。
「戸逢。ちょっと。」
振り返る。夏柏が難しい顔をしていた。
「戸逢って、こういう人たちとも絡んでるの?」
「うん。」
顔が近づく。
「あのさ、どういう感覚でそうしてるのかは俺には分からないけど、もっと慎重に相手は選んだほうがいいと思うんだけど。なんていうか、不用心じゃないのか?…その、変なこととかされてないよな?」
「うん。何もされてないよ。相手も、ちゃんと選んでるつもり。」
夏柏は、『変なこと』の部分を濁していたけど、私はそれが何を指すのか分からないほど鈍くはないから、すぐに、素直に答えた。夏柏の難しい顔は戻らない。
「俺、心配するから。」
「うん、ありがと。」
夏柏の、私を心配してくれる気持ちを胸に刻む。夏柏の言葉は、私にとってすべて大切な意味を持つ真実の言葉になりうる。だから向けられる言葉は鵜呑みにする。
しばらくの沈黙の後に、夏柏の顔が元に戻った。二人で、木田さんの方に向き直る。
「木田さん、だっけか?あの人とはどうやって知り合ったんだ?」
「どうやってって…。普通に散歩してた時に会ったんだよ。でも、えっとね。最初に会ったのはレミさんの方だった。」
「レミさん?」
「木田さんの奥さんだよ。」
夏柏が微妙な表情をする。
「あの人、結婚してるのか。」
「あ。違うよ。奥さんっていうか、今は違うんだけど。未来の奥さんって言えばいいのかな?二人とももう、そうやって考えてるって。」
「それでもびっくりだぜ。」
「本当は驚くほどのことでもないんだけどね。木田さんは別にホームレスってわけじゃないし。」
「そうなの?」
「うん。近くのアパート借りてて。あ、でもそのアパートに入る前には久木通りの大きいマンションに一部屋とってたんだって。結構、お金持ちなんだろうね。」
「じゃあ何でこんなことしてんだよ。」
「それは、さっき言った奥さんの方が元々の、ここの人だったからだよ。」
私の話を咀嚼するように夏柏が黙り込む。それを待つようにワンテンポの間を入れて、話を続ける。
「レミさんは、半年前くらいからここに移った新人さんなんだって。それで丁度ここに来たばかりの時に木田さんと会ったの。木田さんが仕事帰りに…ほら、あそこの道を自転車で走っていた時だったって。その日はすごく調子が悪かったらしくて、マンションに帰る前に公園で…あの、向かいにあるやつね、そこで休もうって寄ったらしいの。ベンチがあったから、横になって休んでたら、いつの間にか眠っちゃってて、調子が悪かったせいですごい悪い夢を見て目が覚めて、そしたら、ベンチの端っこでレミさんが木田さんのことを見てたんだって。レミさん、具合悪そうなの見つけて心配して、起きるまで様子を見てたって。」
「うん、それで?」
「木田さんが起きてレミさんを見つけて、最初は警戒しようとしたんだけど、それも無理なくらい体調が苦しくなっててそれどころじゃなくなって。レミさんがいろいろ介抱してあげたんだよ。介抱って言っても、背中さすってあげたり、飲み物買ってきてあげたりってだけだし、もちろんレミさんはお金持ってないから、その時のお金は木田さんのだったりって感じなんだけど。ずっと、介抱してあげてたんだって。夜になって、最終的には救急車を呼んで、流れでレミさんが付き添って。木田さんが回復した後に、病院のベッドでお互い自己紹介。木田さんは、その時始めてレミさんがホームレスだって知って驚いたらしいんだけど、自分のことをここまで面倒みてくれた人だからって恩返しのつもりでそのあとにも何度か会って、ご飯とか、こっちのアパートに越してきてからは、寒い日とかレミさんを泊めてあげたりとかして。今日みたいに、移動の手伝いとかも欠かさないし、ホームレス支援の活動とか必ずチェックして、レミさんのこと助けてくれるらしいんだ。レミさんはそういうの遠慮するんだけど、木田さんの押しが強くて断れないって言ってた。3か月前頃からはもう、木田さんはレミさんのこと好きになってて、一月前から積極的なアプローチの末に二人は結ばれましたとさ。」
「うわ、壮絶だな。木田さんってもしかしてやばい人なんじゃねえの?ストーカー気質とか、そんなんじゃん。」
「だね。でも…」
「でも…、何?」
川の流れる音が、一際大きくなった。
「ううん、何でもない。」
「ふーん。ま、今はお互い好き合ってるってんなら、結果オーライなのかもな。」
夏柏が木田さんのほうに振り返る。その夏柏をのぞき見ると、木田さんを見る目が、少なくない程度に柔らかくなっていることに落胆した。そして、落胆していいような資格は、私にはないのだと、首を振る。私も、木田さんのほうに向き直る。作業はだいぶん進んで、あと5分もすれば終わりそうだった。
『でも』
でも、木田さんは、温厚な見た目に反せず、普通な人なんだと私は思う。ストーカー性を持つほどの人間ではないはずだと確信している。やばいのは、木田さんじゃない。本当にやばいのは、レミさんだ。
レミさんは、かなり細身の、若干の栄養不足を感じさせる体をした人だ。ここに来る前からもホームレス生活をしていたそうなので、痩せすぎともいえるその体型は、その生活が原因かもしれない。初めてレミさんと出会ったのは、夜の散歩にもだんだん新鮮さがけて来ていた頃で、私はその時、今まで新聞やニュースでしかその存在を知らなかったホームレスという境遇の人に偶然にも遭遇して、興奮していた。そして何の警戒もなく近くにいたレミさんに声をかけた。レミさんは逆に私のことを警戒していたみたいだけど、いくらか話をするにつれてその警戒も解いてくれて、笑って話をするまでになった。私は今までホームレスという人たちにただならぬ興味関心を抱いていたので、レミさんのことを何でも聞いてみようという気になっていた。もちろん、レミさんの話したくないような物の核心には触れないように気をつけていた、と思う。そうして話していると、自然な流れで木田さんの話になった。木田さんという人からプロポーズを受けてしまって、断ろうと思っているけど向こうがなかなか引いてくれなくて困っている、という内容だった。でも、話を聞いてみると、レミさんは別段木田さんのことが嫌いなわけではなくて、むしろ心のうちでは、ぜひともそのプロポーズを受けてみたいということだった。ならば、どうしてプロポーズを断ろうとしているんですか?と私が聞くとレミさんは、真剣になって、話を始めた。
レミさんは、生まれてこの方、周囲の人からの愛を感じない日はないのだと言った。確信はないけれど、どうやら人から愛されやすい体質なのだ、と付け足して、半笑いの口に、なんとも言いようのない感情をして、私を見つめた。もちろん、最初は何を言っているのか判断ができなかったし、その言葉の意味も良く分かっていなかった。レミさんは話を続けた。
レミさんが、自分について何かおかしいことに気がついたのは小学校中学年の頃だったそうだ。レミさんの家庭、今では元家庭になってしまったのだが、それはいわゆる中流家庭の模範とも言ってもよいものだったらしく、父親がサラリーマンで母親は専業主婦。姉が一人。年子だった。格別裕福でもなければ貧乏というわけでもない。ごくごく一般的な階級の家庭だった。
異変は、最初は軽いものだった。
家でのご飯の時間、学校の給食、駄菓子屋さんでお菓子を買う時、その他さまざまな場所で、なぜか、レミさんだけが他の子よりも過度なおまけをされる。『与える』ということは、この世で最も分かりやすい愛の形だ。レミさんは、おまけの分だけ、他の皆よりも愛を受けていた。おまけだけじゃない。給食の時間であれば、嫌いな食べ物があれば、どうしてかその食べ物をレミさんの皿から外してくれる。好き嫌いを許さない先生が理由もないのにレミさんの場合だけは見過ごしてくれた。このようなお目こぼしも『与える』ことに関連する愛である。学校の異変といえばそれだけではなく、授業中のおしゃべりをレミさんだけが注意されなかったり、忘れ物で叱られなかったり、ときにはテストの間違いを無かったことにされたことさえあった。通知表も異常的で、得意な算数などはもちろんのこと、苦手な体育や美術も全て最高評価をもらえた。
家庭においても、お姉さんのわがままは通らないのに、レミさんのそれは至極普通に承諾された。あれがほしい、これがほしいといえば何でも買ってくれる。何のお小言もなし。でも、お姉さんにはそれが許されない。姉妹間でも、『与える』ことに差異があった。そのことが悲しくなったレミさんは、ある日からわがままを言うのをやめたのだが、すると、両親は、レミさんが何も言わないのに勝手にプレゼントを買ってくるようになった。当然、お姉さんにはそのようなことは全く無い。こうして、『与える』ことで、レミさんは至極愛された。「いらない。」と言ってもどんどん増えるプレゼントは、幼いレミさんに得体のしれない恐怖感を植え付けるのには十分だった。
しかし、決定的にレミさんに恐ろしいと感じさせたのは、それらの不平等な状況の中で、周りの人がおかしいとかけらも思ってくれないことだった。レミさんに優しくしてくれる人たちはもちろん、友達も、お姉さんでさえ、レミさんが特別な待遇を受けることに何の疑問を持っていないようだった。理不尽に『与えられる』生活が怖かった。
そんな状況が中学まで続く。
高校受験は推薦でごり押しだった。高校に入ると、頻繁に告白を受けた。愛情が『与えられた』。レミさんは全部を断ったけど、「好き」という言葉を見ずに、聞かずに済んだ日は少なかった。同じころには勉強をすることに、あまり意味を感じなくなっていた。勉強をしなくても、レミさんには単位を『与えられる』。それでも、勉強をかかしたくなかったレミさんは人並みに努力をした。すると、高校2年の頃には、格別に努力をしたわけでもないのに、学年1位の成績を収めた。それは、私に与えられるべきものではないのにと、先生に抗議したかった。このことで、学校を嫌がったレミさんは授業やテストを放棄したのだが、今度は親が成績について先生に相談し、レミさんの単位を得るためにお金を積んだのだそうだ。両親が気持ち悪いと、本格的に感じた瞬間だった。レミさんが両親に自分の気持ちを話すと、親は、高校だけはきちんと出てくれと懇願し、レミさんは渋々それを了解した。
そして、その後に最悪の事態が起こる。レミさんは交通事故に遭った。内臓の一部が欠損するほどの重症で、臓器移植手術が必要になるほどだった。レミさんが病院に運ばれた後、手術は速やかに行われ、長時間の手術の末に、レミさんは助かり、家族や友達がお祝いに駆け付けたそうだ。この時ばかりはレミさんも皆の愛情が嬉しかった。手術後もしばらく入院生活が強いられたが、毎日お見舞いが堪えなかった。
ある日、レミさんが病院の中を歩いていると、病院服を着ている男の子と、多分その両親と思われる男性と女性が笑って話をしている。男の子は少々痩せすぎていたけど、両親と一緒で幸せそうだった。自然と心が温かくなって、その時は自分の病室に戻った。
それから一週間くらいたったころ、レミさんはやせ気味の男の子の両親を見かけた。その日は男の子はおらず、二人ともとても悲しそうにしていた。
「どうしよう○○。ドナーが、見つからないんだって…。」
「この前、手術ができたらよかったのに。」
二人は臓器移植手術の話をしていた。そして件の臓器は、レミさんの体の一部になっていることを、レミさんは知った。
男の子はほどなくして亡くなった。あり得てはいけないことだった。レミさんは、男の子から横取りした臓器で生きていた。
後から話を聞くと、その男の子は臓器移植手術をしても、しばらくの延命が可能になるだけで根本的な回復は見込めない状態だったのだという。助からない命と、助かる命を天秤にかけて、その結果レミさんが助かった。
不幸な気分になった。これまでで最大の『与える』行為に絶望して、レミさんはこれ以上誰からも何も与えられないよう、一人になる決心をした。退院すると、レミさんは家を出てホームレスになった。
しかし、ホームレスになって、数々の社会とのつながりを切ってからも、彼女に対する異常は終わることはなく、街を歩けば、あらゆる人から施しをもらう。生活に困らない程度以上には稼ぐことができた。自分と同じホームレスの人からも、食料や寝る場所を無償で提供されて、ときには理由もなくお金を渡される時もあったそうだ。それはきっと仲間意識から来るものだったと、今はそう反省するものの、当時は、その日暮らしの彼らが身を削って自分を助けてくれるということを、レミさんは素直に受け入れられなかった。不幸だった。
もう何をすればいいのか分からなくなって、さまよってさまよった末にたどり着いたのがこの河川敷で、ここでも、木田さんという人に会った。
もう、嫌なのだと、彼女は話す。
レミさんは、木田さんのことが好きなのだと言った。好きだから、私のような意味のわからないものとは一緒にならないでほしいと願っていた。
だけど、私はそれは違うと、思って、考えてしまう。だから言う。
「それでも、木田さんは、レミさんが好きで、レミさんと一緒にいられることが木田さんの一番の幸せなんじゃないんですか?それなら、きっとうまくいきますよ。」
言った瞬間に、なるほど、納得のいく言葉だと思った。まるでレミさんと自分の両方に言い聞かせるかのような言葉だった。だけど、それを聞いたレミさんが、とても悲しい気持ちになっていく。
「あなたも、私の敵をするのね。」
肺が、のりでガチガチに固められたように、息ができなくなる。
「愛とか恋とか、好きとか愛してるとか、そういうのは、もう暴力よね。どれだけ苦しい状況になっても、それがあれば救われる。どれほどのものを与えたとしても、愛はそれと等価か、あるいは上等なものなのよ。それに、それらはいかにも正しいことだと、私たちに感じさせてしまうの。…だけど。愛して、与えて、愛されることは本当に一番の幸せかもしれないけど、それをとることでいくつも無くしてることを厭わないことが私には怖いの。この世界には『好き』以外のこともたくさんあるのに…」
そこまで聞いて私は、自分も既に、レミさんの事を理不尽に好きになってしまっていたのだと気がついた。私はレミさんに安らぎを与えたかったから、あんなことを言ってしまったのだ。私はすでにレミさんを好きになってしまっていた。だからこそ、私はこんなにも悲しい気持ちになっているんだ。その後には何も言えず、何もしないでその場を去った。レミさんは肩を落としていた。
私は、レミさんの味方になれなかったのだと理解する。
見ると、作業のほうはもうすでに終わっていて、木田さんの横にはさっきまでいなかったレミさんが立っていた。今の彼女の気持ちは分からない。分かりたくないというのが本音だ。うれしいのか、悲しいのか。彼女が、どれほどの幸福な不幸に見舞われているのか、私は知るのが怖かった。ただ、木田さんはとても幸せそうだ。レミさんは、私と話をしたあの時からどうやって木田さんと一緒になることを決めたのだろうかという疑問が、私の胸には残っているけど、それを聞く勇気は、今は無い。
木田さんとレミさんに別れの挨拶をしてから、ほんの少しの時間を河川敷で夏柏と過ごすことにした。ただ座って、対岸の景色を眺めているだけだ。いつも携帯しているたばこを吸った。味がしない。夏柏も、私のせいで理不尽に与えて、失っているものが何かあるかもしれない、とふと思う。
夏柏は、こんな意味のわからない私と付き合って、幸せなのだろうか?
それを聞く勇気も、今は無い。
河川敷には、常の住人であるホームレスの人たちの姿は一切なくなっている。そうなると、ここの景色は落ち着かない。ホームレスの人たちがいれば、その分、ここは騒がしい見た目になるのだけど、その騒がしさは妙に落ち着きを与えてくれる。今の河川敷は、静かなのにうるさい気分だ。たとえて言うなら、陰を一切取り払った絵のような妙な煩さがある。たばこを吸うペースも自然と上がっていた。2本目に手を伸ばして、できるだけ勢いをつけて火をつけようとしたけど、別段いつもと同じ大きさの炎しか点かない。何事もうまくいかなかったときのような焦燥感が足元から首筋まで這ってくる。言い知れない不安で、言いようもない不安だ。口にしようとするとどう表現していいのか分からなくて、それでも誰にでも通用するだろうと思われる確固たる不安がそこにある。寝転がって目をつむっていた夏柏が体を起こす。もうそろそろ行こうかという声に携帯の時計を見てみると、予定していた時間よりも10分ほど早い。それでも、夏柏がそういうなら、私に反対する理由はない。
「私も、ちょうどそう思ってた。」
何を言ってるんだか、私は。
帰り道は最初、川沿いを歩いて涼しく帰る。学校指定の制服はあまり好きじゃない。今は衣替えの時期なので、今度は夏服に変えなければならないけど、それもまた嫌だった。制服というのはどうにも私に似合わない服だと思う。それなのに毎日袖を通さなければならない。不服だ。制服はまだ生地がしっかりしていてあまりよれよれとしてない。夏柏の学ランは、中学校からそのまま着ているそうで、だからか随分とペカペカとしていた。街灯の明かりが当たると、摩擦でつるつるになった生地が不必要に光を反射する。安っぽさが出ている。同時に安定感もある。ずっと着てきたことによるものか、なじんでいる感覚がある。うらやましい。女子は中学の制服をそのまま高校に引き継ぐことなんかできないし、それに制服で学校を選ぶ人もいるほど、着道楽な人も少なくないから、服装に気を割かないわけにはいかない、辛く苦しいさだめにある。夏柏はよく私のことをマイペースだというけど、私自身はかなり周りに気を配ったり気を使ったりしているはずで、好々乃からもそういう評価を受けている。だとしたら、私は、夏柏にだけ私のマイペースな部分を見せているのかもしれないと、また夏柏の言葉を信じることにした。心地よい風が、川のほうから吹いてくる。川から吹く風は、下から上へ、舞い上がっていく風だ。さっきからスカートがひらひらと、落ち着かない。丈が短くないので、中を見られる心配はないけれど、ふわりとスカートが膨らむ感覚は嫌だったので、時折眉をしかめてしまう。川沿いから離れようかとも思ったけど、夏柏と一緒に、しかも無言で歩く時間は私にとって最高級の時間のうちの一つだったので、スカートくらいは我慢して夏柏と繋いでいないほうの手で夏柏に気づかれない程度に控えめにスカートを抑えた。そのまま夏柏の手の温度を確かめるように感覚を意識していると、いつしか風はやんでいた。
川沿いの道から離れて、何分かすると、次に見えてくるのはアーケードの入り口だ。そろそろ開いている店のほうが少なくなってきている。櫟さんはいるだろうか、いたら顔は見せるべきだろうかと考えて、さっき挨拶をしたので今はいいかという結論を出す。櫟さんとはいつでも会えるし、それに何より、とてもきれいであろうという人と、夏柏を会わせるのには不安がある。比較対象がいないのでわからないけど、たぶん私は美人の類には入らないのではないかと思う。シンプルというよりは華がない。そんなラインをたどっている。それに加えて目の下には深いクマを持つので、それは減点になるだろう。きっと、私なんかよりきれいな人は、身近にいくらでもいるに違いないし、外見の話から外れたとしても、私よりも良い性格をしている人はその倍はいるだろう。だから、夏柏が私と付き合ってくれているという事実は、外見や性格といった要素とは異なる部分だということになる。それでも、外見や性格を気にしなくていい理由にはならないし、むしろ大いに気を割くべき問題であるわけで。私はそれにいらないストレスを感じさせられる。無駄な葛藤と言ってもいい。どうせ私は、夏柏に可能な限り私を見てほしいと考えているのだから、最終的には私以外の女の人に会わせないほうがいいと思うのだろうけど、それは不可能な話なので、結局はできる範囲でという但し書きをつけて実行するのみだ。アーケードの前を通る時、横目で盗み見ると、櫟さんはいないようだった。
行きよりもはるかに短い時間で駅まで戻った。終電に乗る乗客の数は少なく、学生の数となればほんのわずかだ。背負っているエナメルからして、野球部だと分かった。予想していた時間よりも早めに駅に着いたので、電車が来るまでの時間、夏柏が一緒に待ってくれるみたいだった。無言でその場に一緒にいてくれる。こういう気を配れるところがある夏柏が彼氏で、私は幸せだ。
人が少ないとは言っても、それは相対的にであって、50人くらいの人数はいる。夏柏以外の人が邪魔だった。たばこを吸いたい。それを誤魔化すようにカルピスキャンディを口に含んで、一つを夏柏にあげた。ありがとうと言って、おいしいとも言ってくれた。時間が過ぎるのが遅い。でも、こうして夏柏が一緒にいてくれるのだということを思えば、残り時間は少ないともいえる。
夏柏を見る。私がいるのと逆の方向を向いているので、夏柏の後頭部が見えた。夏柏の後頭部を見る。変哲のない、普通の、人の頭だ。それを見ると安心して、安心したら脳内に余裕ができる。今日、夏柏と散歩をして、ミドリさんと、櫟さんと、木田さんと、レミさんに会った。話をして、新しく知ったこともある。惰性からもプライドが生まれて、夢からは期待と挫折感が生まれて、幸せからも不幸が生まれる、らしい。もちろん、それだけではなく、きっといろいろなものが複雑だ。複雑なうちの、一本を手繰り寄せて、ミドリさんと、櫟さんと、木田さんと、レミさんは今の状況にあるのだろう。もしかしたら、惰性からは怠惰が生じて、夢からは希望が生じて、幸福は人を幸せにしてくれるかもしれない。そういう、複雑なものが、私と夏柏の間にも、もちろんあるのだと、ふと感じる。
私と夏柏の間にも、何か生まれているのだろう。
私と夏柏の間には、何が生まれているのだろう
「戸逢。」
「…ん?」
駅の煩雑さの中で久しぶりに口を開いた。私は、沈黙の時間を貫くつもりでいたけれど、周りがこれほどうるさいなら、夏柏と話をしているほうが幾分ましかもしれない。
「何?」
「あのさ、夜の散歩って危なかったりするよな?」
「んん、今までは、無かったけど。そういう時もあるかもしれないね。」
「こういうの言うの、あんまりあれだけど。やっぱり、俺と一緒に行くとか、頻度少なくするとか。あー、なんていうかさ、もうちょっと危機感持てよ。今日会った人たちは、大丈夫かもー、なんだろうけどさ。」
「んー……。」
渋る私を、夏柏が強い目で見る。
「大丈夫『かも』ってだけで、ミドリさんたちをまだ絶対に信用してるわけじゃないし、やっぱ夜に女の子が一人で外歩いてるのって、危ないんだなって、今日思った。」
「あぁ…」
あぁ、心配してくれている。そう思うと、胸に熱さが伝播してきた。ヤバい。
「うん、じゃあ。今度からは、夏柏に一緒に来てくれるの頼むの、少し多くなるかもしれないけど、良い?」
「もち。」
嬉しすぎてヤバい。
「夏柏。」
「うん?」
「呼んでみただけ。」
「さよけ。」
本当は呼んでみただけじゃない。でも、これくらいなら、夏柏は分かってくれるはず。
「戸逢。」
「何?」
「…呼んでみただけ。」
ほら、ちゃんとわかってる。
嬉しさが漏れ出すように笑った。夏柏も笑っている。そして、周囲のすべてが笑い出す。自販機が、自動ドアが、天井からつり下がる飾りが、街灯が、駅前のタクシーが。気がつくとそこここにいるポットたちも笑っている。ガタガタと、バタバタ、バンバンと、地震が起きたかのように、ひっきりなしに暴れている。手足をシェイクしながら、ヘッドバンキングしながら、目だけは逸らさずに、つりあがっている口元を見せつけるように、周りの景色が歪んでいく。フッと息を吸った瞬間に、吸った息を吐き出させないかのように筋肉が収縮する。それだけでは足りないのか、それとも単なる恐怖からか、痙攣も始まる。瞳孔が開く感覚がして、眼球が頭の中にめり込んでくる。それを皮切りに、全身がへそに向かってめくれていく。首がうずまる。腕が裏返って、足がねじれる。自分の顔がひどく歪んでいて、舌が食道に詰まった。
そして、世界が戻る。
夏柏が肩に左手を置いてくれていた。
世界が戻る。隣の自販機も向かいの自動ドアも静止してるし、だれも私を見ていないし、もちろん五体満足だ。きちんと呼吸もできていた。長い溜息だ。
夏柏を見る。夏柏も私を見ていて、真剣な、少し怖そうな顔をしている。
「だいじょうぶ、か?」
正直に言うと、気分は悪い。あんなものが見えるのは、最近では少なくなっていたから抵抗力が弱まっていたのかもしれない。
「うん。…私、なんか変だった?」
「変っていうか。急に体震えさせるから、何事かと思ったら目がすごいまわってて…。」
あぁ、いつもの症状だ。でも何で?どうして、見えないものが見えだした?
とりあえず、大丈夫な体を装って深めの呼吸で吐き気を誤魔化す。気が抜ける。でも、気を抜くとまたさっきのようになりそうで、すぐにまた気を張った。お腹に力を込める。親指で靴の底をつかんだ。
「ふぅ。少し気分悪いみたいだけど、それだけだよ。でもタバコ吸いたい。」
「ここではダメだろ。…本当に大丈夫か?電車乗った後は一人だろ?」
「余裕だよ。」
幸い冷や汗だとか、脂汗だとかはかいてないみたいだし、症状は軽い。夏柏のおかげだ。嘔吐感やだるさはあるけど、目に見えて気分が悪いということが分かるものではないはず。だから、ここは、はぐらかすに限る。
「余裕って、でもな…」
夏柏の手が伸びてくる。その手首をつかんで下ろさせた。
「大丈夫なんだよ。」
きっと大丈夫ではないかもしれないけど、大丈夫じゃないとはっきりした証拠がないうちは、それこそ私にとっての私にも、夏柏にとっての私にも、まだ、『大丈夫』だ。心配は無いに越したことはない。
夏柏の笑顔が悲しそうに見える。でも、きっと夏柏の笑顔はいつも少し悲しそうに見えるものだと思うから、絶対に今の私を憐れむそれじゃないはずだ。夏柏は、今日の散歩の最初からずっとそんな顔をしていたはずだ。記憶を掘り起こせばすべて鮮明に思い出せる。だから、夏柏が今の私を見て、苦しんでいるわけじゃないんだ。
アナウンスがなっている。もうすぐ電車が来る時間だった。
気を抜くとまた妄想が見えるような嫌な予感があったので、電車の中でも気を抜けない。少なくとも、自室に帰るまでは、気を抜けない。シートに座ってしまうと、気を張り続けるのは難しいだろうと思って、出入り口のドアに背を預けるようにして立つことにする。ふと、お腹に力が入っていないことに気が付いて慌てて力を入れ直した。何度か、車内のトイレに行って吐きたいとも思ったけど、トイレは別車両にしかなく、そこまでいく気力が残っていなかった。それに、吐いたら気持ちが楽になってしまいそうで、やっぱり行けない。電車に乗る時間はたったの15分弱だけど、一つ、駅に着くと注意力がごっそり削られて絶望的だった。親指と人差し指の爪をお互いにすり合わせると、たまに力の具合で爪が互いの指に食い込む。私がいる車両には乗客は13人しか乗っていない。そう言うふうに周りの状況を分析して何とか理性を保つ。
死ぬ思いをして自宅の最寄り駅にたどり着く。駅のトイレでまた吐きたいと思ったけど、個室でたばこを吸うのに留めておいた。トイレの中は禁煙だけど、それを気にする余裕はない。短い時間で一気に吸い切り、トイレを出る。自転車の鍵を開け、ペダルに足をかけようとして寸前でやめる。どうにも、アパートまで無事に乗って行ける気がしない。押していくのに方針を変更。ふらりと、ゆらりと道を歩く。この時間帯は歩道も車道もすいている。だから多少白線を越えたところで問題はなかった。向こうから勝手に避けてくれる。都合がいい。ゆるやかな坂を上って、住宅街の中心から少し外れたところにある、それでもなかなかに立地のいい、マイアパートまでたどり着くまで、自転車を6回倒した。くだりだとあっという間につくのに、その3倍は時間がかかった、と思う。よくわからない。ケータイの時計見てないし。
やっとのことで自分の部屋の前まで体を引きずってくると鍵を開け、ドアを開け、制服のまま上半身だけベッドに倒れこんだ。靴は履いたままだけど、それに注意を割いている時間は許されない。ベッドに倒れた瞬間に、また周りのモノが騒ぎ始めた。でも、今は目をつむっているので、音が聞こえるだけだ。だけど、点いてない照明が何度も点滅する気配がしている。すぐにでも気を失いたかったけど、たぶんそれは無理で、私はこのうるさい音たちが消え去ってくれるまで、ずっとこの姿勢でいなければならない。それが最善だ。気持ちを落ち着けよう。もう、ここは私の家で、私しかいない。リラックスする。音のスピードが増した。
何を言ってるんだ、お前たちは。あ、笑っているのか。何を笑っているんだ。あ、私をか。
音の輪郭がはっきりしてくる。舌がピリピリしてきた。からい苦みが口の中を占領した。不味い。おいしくない音だ。体はすでに球体になって、ベッドから転げ落ちている。眼球は球体の中におさまっているので、気に入らない点滅を繰り返す電灯は見なくて済んだ。だけどゼリー状の脳味噌が、頼りなく鼻水を球体内に押し込めているのが不安だ。こぼして床が汚くなるのは勘弁だ。掃除は得意じゃない。次第に部屋が揺れだして、完全に球となった私は縦に横にバウンドを始めた。その揺れのせいでさっきの吐き気がひどくなってきたけど、どうやら口も球の中心まで押しやられてしまったらしい。さっきからひざ裏の匂いが鼻につく。数え切れないほどの感覚麻痺が、数えられるほどの私の尋常な部分をどんどん舐めとっていく。気が遠くなるほどに嫌気がさした。だけど、その嫌悪感を感じることすら面倒になってきたとき、ゆがんだ私は消えていた。
気がつけば勉強机の椅子にお尻から突っ込んでいる。どうにも恰好がつかない様子だった。部屋はそれほど荒れていない。妄想しか見えていない状態の私にしては、被害が少なくて済んだようだった。椅子から体を出して、立ち上がる。数分ボーっとして、靴を脱いだ。玄関に持って行って、それから制服から寝巻きに着替える。寝巻きというか中学の頃のジャージだ。半袖と短パン。シャワーを浴びたかったけど、疲れ切っていたので明日の朝に回す。掃除をしなきゃいけないけど、それも今日は無理そう。
そこまで考え終わるとだいぶん落ち着いた。いつもと何も変わらない状態まで回復した。ベッドに横になる前に机に向かって座る。日記を書くために、正面に置いてあるノートを開く。ノートには17と書いてある。日記帳。17冊目の。
開いてめくっていく。一番新しい書き込みから、2週間分くらいが、明日の花火についての内容だった。とはいっても、あと何日で花火大会、という短いコメントだけだけど。
白いページに、『明日、花火大会』とだけ記入して、ノートを閉じる。ベッドに倒れこむ。今度は布団をかぶった。目を閉じても眠れない。だけど、体を、目を休めるために目をつむる。疲れきって、それでも眠れない夜は、とても長いに違いない。