第二話:結界
白い天井、白い壁、白いカーテン、白いベッド、白い掛け布団。
小さな窓から月の光がベッドを照らしている。
その光で細かな塵が雪のように踊り回る。
雪の降らないこの町の雪の降る病室、まるで夢を見ているようだ。
「ふわぁ!」
「お!起きたのか」
重田が身を乗り出して神山の顔を覗き込んだ。
暑苦しい重田の顔はこの美しい光景を壊すには充分だった。
「一時はダメかと思ったぞ」
ふうと重田は安堵の声を漏らす。
神山は記憶を辿ってみた。自分がいったいなぜ病室にいて、重田がなぜ泣きながらため息をついているのか、さっぱり理解できなかった。
「何があったか説明してよ」
「あ、ああそうだったな」
重田の説明はひどく支離滅裂であった。
もとからあまり話が上手くない上に、あまりに日常からかけ離れ過ぎた現実
重田が混乱するのも無理はなかった。
それでもそんな重田の説明を理解できたのは、16年の付き合いが伊達でないことを証明していた。
「で、剛のその傷は?」
「ああこれもドガンと…」
「そ、そうなんだ。わかったよ」
自分を襲った男が重田にも危害を加えた、ということらしい。
「ふわあ」
思わず神山は欠伸をもらした。
さっきまで気絶していたというのに眠くなるとは人体とは不思議なものだ。
「ふわああ!」
重田もそれに答えるように欠伸をする。
神山の意識が戻るまで不安でしょうがなかったが、安心して緊張が途切れたようだ。
「剛、もう帰っていいよ」
「そうさせてもらいたいとこだが、まだ裕介の親父さん来てないだろ」
「親父は来ないよ。仕事が忙しいから」
そう言って、神山は無理に微笑んだ。
彼のたった一人の肉親、父は単身赴任で年末年始以外には帰って来ない。
それは小さな頃から変わらず、運動会や学芸会、卒業式、主要な行事には一切出席してくれなかった。
そんな父だ、こんな時もきっと来ないに違いない。
「そうか。じゃあ俺はここで寝る」
「は!?」
有無を言わさず、重田はベッドの柱に身を預けると、神山の抗議の声を子守歌に目を閉じる。
長い1日だった。改めて振り返ると平和な日常が嘘のようだ。
明日はまた平和な日に戻るだろうか、それとも今日のように…そこで面倒になり、重田は考えるのをやめた。
「はあ」
神山は呆れるようにまたため息をついた。
なるべくなら夜は一人にして欲しいものだ。
ふと神山は思い立ち、体を捻らせた。
そこで不思議なことに気づく、たしか重田の話によると、自分はかなりの勢いで壁に打ちつけられたのではなかったか。
ならばなぜ痛みがまったくないのだろう。
あの衝撃で骨の一本や二本、いや数本折れていないわけがない。
急いで頭に巻きつけられた包帯を確認する。
(傷が塞がっている…)
考えられないことだった。生きるか死ぬかの大怪我をしたはずなのに、もう傷が塞がっているとはどういうことなのだろう。
(まさか自分は…)
神山はベッドから立ち上がると、窓の方へと近づいて行った。
窓からさす月の光が段々と近づいてくる。
今宵は満月、殺風景な片田舎の街を満足気に照らしている。
そんな月を掴むように神山は窓の外に手を伸ばした。
自分が不死身であるのを確かめる方法はそれしか思いつかなかった。
それはかなりリスクのある物であったが、なんとなく確信があった。
「裕介ぇ!」
ゴンッ
「はぐあっ!」
重田に足を引かれ、神山はコンクリートの床に叩きつけられた。
打ちつけた顎がじんわりと熱くなる。
それはたしかに痛みを感じた。
「なぜこんなことをしようとした!自殺がどういうことかわかってんのか」
めんどうなことになった、と神山は思った。
自分が不死身だからそれを試すためと言っても決して普通の人は理解してくれない、であったら頭の堅い重田なら尚更だ。
神山は諦め、適当な理由を探すため思考を巡らせた。
「月を見ていたんだ。そしたら危うく手を滑らせそうになってね」
「…そう、なのか。たしかに裕介が自殺を考えるとは思えないが」
うーんと重田は筋肉が八割を占める脳味噌で考えた。
常人であれば考えるにも到らない嘘を彼はまるでヒエログリフを解読するような勢いで思考する。
「剛は僕を信じてくれないんだね…所詮僕達の16年間なんて在ってないようなもんなんだ…ああ!」
「違う!違う!違う!そんなことはない!俺達は親友だ!」
重田は神山を慰めるというよりは、自分に言い聞かすように叫んだ。
「そう言うのって、口だけなら何とでも言えるよね」
ふふっと神山は寂しげに笑う。
自分を自嘲するように、とても寂しげに。
もちろんそれは演技であるが。
「……わかった。俺を殴れ!少しでも裕介を疑った俺を殴れ!殴って殴って殴って気の済むまで殴ってくれ!」
神山を不安にさせたことは重田にとって在ってはならないことだった。
だから彼は筋肉が八割を占める脳味噌を何とか絞り出し、殴って解決という、彼にしては名案を編み出したのである。
もちろん現実では殴って信頼を回復するシステムはない。
「メロスかよっ!」
夜の病棟に神山のツッコミと一発のビンタがこだました。
「ここね」
一人の少女がまるで城壁のようにそびえ立つ病棟を見上げている。
彼女の名は神島ほのか、今が盛りの女子高生である。
綺麗に纏められたポニテールにキリっと締まった目、どちらかと言うと凛々しい感じの美人だが
巫女装束に身を包み、街を徘徊するその姿はまさに絵に描いた変人であった。
今が真夜中でなければ確実に好奇の目に晒されていたに違いない。
(あれはどう考えても異能者の仕業、やっぱり間違いはなかったわ)
ほのかは夜風の吹く病院内の庭へと足を踏み入れた。
真夜中二時過ぎ、病院の敷地内は無音であった。自分自身の足音さえ大きくなることに眉をしかめた。
しばらく歩き、ようやく病院の建物に入る扉の前までやって来た。その扉に手を掛ける。
その瞬間だった。
「君」
「何?」
ほのかが後ろを振り返えると、初老の警備員が彼女を不審な目で見ていた。
たしかに巫女装束で病院に入り込もうとしている者はあまりに怪しい。
「公務執行妨害!」
ほのかはそれだけを言い放つと、札を一枚警備員の額にくっつけた。
「説明するのも面倒だわ。朝までゆっくりおやすみなさい」
警備員は二、三歩前へ後ろへフラフラ歩くと、地面に突っ伏した。
月は神山を照らし、重田を照らし、そしてほのかを照らしていた。
今日は一体何なんだ、重田は頭を抱えたくなる。なぜこうもわけのわからない奴がやってくるのだ。
一人目はスーツ姿の優男、二人目は初詣の時に見るアレの格好をした変態女。段々レベルが上がっている気さえする。
「何の用?」
神山がほのかに聞いた。
「喜びなさい。神山裕介、あなたの護衛に来たのよ」
「護衛?」
重田は訝しげにほのかを見た。
護衛にしてはその姿はあまりに頼りが無さ過ぎた。細い二の腕に小さな背中、どう見ても服装以外は普通の女だ。
しかし、と重田はさっきまでの戦闘を思い出した。あの優男は一撃でコンクリートの壁を破壊するほどの異常な力を持っていた。
そう考えれば、この女もあるいは。
「そこの脳筋は何か不満の様ね」
重田の視線に気づき、ほのかは重田を睨みつける。
「言葉遣いには気をつけような、コスプレ女」
「…言ってくれるわね。相手が誰かわかってるのかしら?」
「まあまあ二人とも」
二人のピリピリした空気を宥めるように神山が割って入る。
その神山の姿を見てほのかは目を大きく見開いた。
「何で歩けるのよ?」
ほのかの聞いた情報、それによると神山は意識不明の重体のはずである。
そんな状態の人間がなぜか平然に立ち歩いている、ほのかは驚きを隠し切れなかった。
「何でって言われても…ねぇ」
協力を求めるように神山は重田を見る。
「俺もわからないっての」
「ああ、あなたも神懸りなのね」
ほのかは一人納得したように頷く。
「神懸り?」
重田と神山は同時に声をあげる。
二人にとってまったく聞き覚えのない言葉であった。何かの専門用語なのだろうか。
「あ…え?」
絶句した。神懸りの意味を知らない神懸り。
まるでそれは自分のことを人間だと思っていた、むなしい飼い犬のようだ、とほのかは思った。
そして同時に、自分の周りにはいない人間だと思った。
もちろん、自分の能力に気づかずして一生を終える神懸りは少なくはない。
しかし、それはホントにちっぽけな能力しか持ち合わせていない神懸りだけのものであって、
脅威的な回復力を持つというとても大きな能力を持ち合わせた神懸りにありえることではなかった。
それでも、説明してやらなければならない、わからないのならば。
「神懸り、異能者、とも言うわね。生まれつき特殊な能力を持ち合わせた人間、簡単に言うとホンモノの超能力者ってやつよ」
神山と重田は顔を見合わせる。
目でこいつはイってる、ああ、おそろしいなと会話をした。
「本当よ、試してみる?」
ばっちり視線だけの会話を読み取ったほのかは、少し頬を引き攣らせもう一度ふたりを交互に見た。
普通の高校生、ではなかった。一人、神懸りであると思われる人間はまさに偏差値50の普通の高校生であったが、
もう一人、体格のいい脳筋は現代に生きる武人、とでも言うのか妙な雰囲気を醸し出していた。
「ああ試」
頷こうとして重田は言葉を途中で飲み込んだ。
再び先ほどの戦闘が頭を過る。言葉に滲む自信の表れ、
認めたくは無いが、彼女もまた先ほどの優男と同じに違いない。
予想は確信に変わった。
「やめとこう」
そんな言葉を吐いた重田を神山は不思議そうな目で見た。
重田なら絶対食って掛かると思っていた。
なぜか?重田の戦闘を見ていない神山にはわかるはずがなかった。
「認めたってことかしら?」
「まあそういうことだ。ここに来る前お前の言ってるソレらしき人物に会ったからな。お前の話もあながち嘘ではないんだろ」
「あながち?全部ホントよ」
まだ完全に認めていない重田に対してほのかは口を尖らせる。
「剛、ソレらしき人物ってのは僕を襲った…」
「そうアイツだ。裕介も何となくわかっただろ、普通ではないって」
「でも、なんかの格闘技とかじゃないの?」
「馬鹿、三船十段だってんな技できねぇよ!」
重田は声を荒げて言った。
正確に言えば出来て欲しくなかった。
重田は自分の力にかなりの自信があった、どんなやつでも倒せるまでとは言わないが
武器さえ持っていれば、ほとんどの人間は倒せるつもりだった。
もし倒せなくてもあんな負け方になるはずはなかった。
少なくとも親友を守ってやるだけの力があると自負していた。
それが、この様だ。
だから言い訳が欲しかった。
自分のプライドを守るための言い訳。
人一人を守ることもできない自分への言い訳。
相手は神懸りだから。その一言で片付けたかった。
だから負けた、仕方がないと自分を慰めてやりたかった。
「ってことで、今日からあたしはここに泊まることになったから」
少し重くなった空気を解消すべく、勤めて明るくほのかは言った。
無神経そうに見えても意外に空気を読むことができるらしい。
「は?」
いやもはや何も言うまい。
無力な自分一人じゃ神山を守ることはできないのだから。
そんな半人前な自分が決めるようなことじゃない。
「待ってよ。そんな三人も泊まれないよ」
神山はほのかの提案に対し、抗議をする。
「なんとかなるわよ、むしろせっかくの一人部屋よ?友達呼ばないで何するのよ」
「いやそもそも君とは友達じゃないし…」
「じゃガールフレンド」
「意味同じでしょ」
はあ、と本日何度もかの溜息をつく。
そしてすがるような目で神山は重田を見た。
「好きにしろよ、裕介。これはお前の問題だ」
はあ、さらに溜息。
何だか今日の重田は酷く自己主張が少ない気がする。
「でも君女の子でしょ?」
「そうよ。見てわかんない?」
「君はいいの?こんな今が盛りの男二人の部屋に一緒で」
言いながら神山は重田を指差す。
「特に剛なんか、みんな母親の違う子供をもう三人も作ってるんだよ」
「なっ!!」
さすがにこれには重田は反応した。
その姿を見て神山もそっと肩を撫で下ろす。
「待て待て!そんなわれあるはずがないだろ。やめろ!そんな目で見るな」
バッタの足をもぎ取る子供を見るような目でほのかは重田を見ている。
その目が重田には恐ろしかった。
どうすれば、誤解が解けるだろう…
「しかも思春期の男女3人、何が起こるかわからないよ?」
脅すような笑顔で神山はほのかに迫っていく。
もちろん本当に夜這いをしかけるつもりもないし、そんな度胸もない。
「…結界張っとくわ」
そう言ってほのかはベッドの支柱四本に順々に札を貼っていく。
札は無地の薄い紙で、見たこともない象形文字が描かれている。
そして目を瞑り、一言二言呟くとそのままベッドに入っていった。
巫女の服のまま。
「あれ僕のベッドだったのに」
神山はうなだれ、仕方なしと壁へ身を預けた。
重田も呆れながらもその光景を見ていたが、我慢できなくなったのかベッドへと近づいていった。
「お、さすが三児の父は違うねぇ〜」
「頼むからその冗談やめてくれ」
重田はベッドの前で立ち止まる。
そしてベッドの上のほのかへと手を
バリンッ!!
「あだあっ!」
強い静電気のような痛みが重田の指先を襲った。
「大丈夫?」
「痛ぇ、とはいっても特に外傷はないみたいだ…」
結界を作った張本人はもうスースーとリズムよく寝息を立てている。
「おーい!起きろ!お前裕介が怪我人って知らないわけじゃないだろ」
そんな掛け声に気づいたのか、ほのかは眠そうに目を擦りながら身を起こした。
そして髪の後ろに手をやり、束ねていた髪をほどいた。
ふぁさっと髪のほどける音と、石鹸のような柔らかい匂いが鼻をつく。
そのままゴムを枕の脇に置くと、また布団の中に身を沈めていった。
「…音も遮断される見たいだね」
「便利なこった」
重田は諦めたようにベッドから離れ、窓に身を寄せた。
窓の外には点のように小さな光が遥か遠くに見える。
波のように連なる住宅街を貫くその光はまるで灯台のようだ。
あの光が灯台ならば、自分らはさ迷う船ってとこか。
皮肉っぽく重田は笑う、だが窓に映る笑い顔があまりに不気味ですぐに笑みを崩した。
やがてそれが朝日だと気づき、重田は絶望した。
結局その日重田はほとんど寝ずに学校に行き、すべての時間を寝て過ごした。
その理由はこうだ。
「いい?今日は決戦よ。今日の朝刊で生死を確認して人の居ない夜を狙って、奴は今度こそ殺しに来るわ。だからあんたもちゃんと寝ときなさいよ」
看護婦の巡回前に、目を覚ましたほのかは朝一番、ようやく寝入った重田を揺り動かし、わざわざその一言だけを言った。
あんたも?聞き間違いではないかと重田は思った。
自分はあの優男に手も足も出なかったのに、なぜまだ駒としての価値を信じてくれるのだろうか。
重田だってわかっていた、自分は一般人だってことも、そしてたった三年の努力でいい気になっていた自分の甘さも。
努力したのが三年ならば、プライドも自信も三年分で良かったのだ。
それなのに自分といえば下手に全国に出、半端にいい成績を残したことだけを頭に残し、親友を守れるものだといい気になっていた。
「俺は手も足も出なかったんだぞ…それを知ってるのか?」
「そうなの?」
特に興味も無さそうにほのかは言った。
「ま、何となくそうだとは思ってたわ」
「ならどうして俺を…」
「怖いの?」
真顔になりほのかは聞いた。
その目はジッと重田を見据えている。
怖くない、というのは嘘だ。
だが、それ以上に戦う気力が無かった。
所詮、自分の独りよがりだったのだ。
プライドなど無ければ良かった。初めから傷つくのがわかっていれば、プライドなどもたなかったのに。
「傷ついたんでしょ?自分が強いと思ってたから」
見透かしたようにほのかは呟く。
まさかそれがこの女の力なのだろうか。
「違う?」
悪戯っぽくほのかは微笑む。
まるでこういう事例は慣れているかのように。
ズルイと重田は思った。
わかりきっているのに確認を取るだなんて。
だから静かに頷いた。
「でも嬉しいんでしょ?まだ自分は力になれることが」
「ああ。でもそれが本当ならな」
「なら頑張るだけよ。お世辞抜きで今回あなたなしじゃ勝ち目無いんだから」
「ありがとう」
お世辞であっても救われた。
ほのかの言うとおり、頑張るだけだ、全力を尽くすのだ。
「そういえば、あなたの名前は?」
思い出したようにほのかは聞いた。
「重田剛。お前は?」
「神島ほのか」
遅すぎる自己紹介。
「あとこいつは神山裕介」
幸せそうに寝入ってる神山を指差し重田は言う。
よろしく、とほのかは自分に言い聞かすほどに小さな声でいった。
月は雲に隠れ、星が照らす僅かな光が手入れの行き届いていない不恰好な芝生に降り注いでいる。
病院内の植え込みに隠れながら、重田とほのかはこの病院の唯一の出入り口である門を見張っている。
出入り口が一つと言うのは幸運だったと思う。見張るとこが少ない分、二人という少ない戦力を分断せずに済むからだ。
「なあ、前から疑問に思ってたことなんだが」
「何?」
顔を出入り口の方向に向けたままほのかはめんどくさそうに答えた。
「お前何者なんだ?何で裕介を助けようとしてるんだ?」
「警察よ。犯罪者を捕まえに来たの」
「なら何でお前一人なんだ?人数が多ければ多いほど捕まえやすいだろうに」
「あたし一人で充分だから」
「その割には、俺がいなきゃどうとか言ってなかったか?」
「念のためよ念のため」
それが嘘だと重田でも気付けた。
さっきまでとは明らかに違う、痛いところを突かれたそんな気持ちが滲み出ていた。
「こう言いたくは無いが、それ嘘だろ」
しばらくの沈黙。
虫のいない冬、車の通りの少ない病院前の道。
音、一つしない、居心地の悪い空間だ。
「今巨大な結界が張られてるの。この神前市には」
堪忍したようにほのかは口を開いた。
とても寂しげに、今宵の冬の空のように。
「それは昨日の神山がやられる7、8時間前だったかしら。神前市に行った人間が帰ってこないって
通報があったの。しかもそれが何件もね。それで警察は二週間前から続く連続殺人と関連づけて
神懸りの仕業って結論づけたの」
「つまりそれで派遣されたのが神島ってことか?」
「そう、言ってみれば捨て駒よ。様子がわからないからとりあえずお前行けってね」
ふふっと悲しげにほのかは笑う。
おかしくなどはない、ただ笑ってしまえば何もかも冗談で済まされる、そんな気がしたのだ。
「警察は唯一のあたしの居場所だった。家でも学校でも虐げられてきたあたしが唯一必要とされる場所だったの。
まあそれでもこれが必要とされる結果、と言ってしまえばそれまでよね」
何故だか言葉がぽろぽろと毀れ出た。
ずっと溜まっていたのかもしれない。
自分を取り囲む不安や、悲しみ。そのすべてを聞いてもらえればすべて消えていく気がした。
「それでもあの男を倒せば戻れるんだろ」
「おそらくね。でもあたしが捨て駒であることは変わらない」
ほのかの顔を電灯が照らす。
光と影、両方がその美しい顔を幻想的に写し出していた。
重田がもうほとんど感じることの出来なくなった現実感はついに完全に失われてしまったのかもしれない。
「でもそれって、捨て駒ってほどなのか。ここに派遣されるってことは?」
慰めるつもりで重田は言った。
慰めるのは、別に重田はほのかに好意があるとかそういうことはない、ただ重田は他人が悲しんでいるならばそれを慰めてやろうとする
当たり前の道徳は身につけているだけだ。
それに借りがあった。沈んでいた自分を慰めてくれたという。
「この結界はその原因の何かを解決するまで破れないのよ。極端な話二度とそこから出られないかもしれない。
そんなとこに向かわせて捨て駒以外に何だって言うの?」
慰めるのは失敗だった。重田は話下手な自分自身を呪った。
重田は頭を巡らせ、慰めの言葉を探す。
「でもよ、入ってこれたなら出られるんじゃね?」
あまりに短絡的な言葉にほのかはずっこけそうになる。
そんなことだったら初めから苦労しない。それ以前に捨て駒ですらない。
「結界には3種類あるの。出入りを遮るもの、入るのを遮るもの、出ていくのを遮るもの。
で、今回のケースは三番目。入れるけど出れないのよ。その証拠にテレビやラジオは見ることが出来るでしょ?」
重田は三日前のテレビ放送を思い出した。
ほのかの話によると、その頃にはもう結界が張られていたことになる、その時たしかにテレビ放送を見た。
「たしかに見れたな」
「ていうかあなた、学校行ったんでしょ?その時みんな話題にしてなかったの?」
「ずっと寝てろって言ってたからさ」
言葉で答える変わりにほのかは溜息で答えた。
「溜息つくなよ、お前が言ったんだろ」
「たしかに言ったわよ。でも誰も最初から最後まで寝てるだなんて思わないわよ」
「でもよ…んっ…」
重田の反論しようとする口をほのかは手で塞ぐと、もう片方の手で人差し指を立てた。
静かにしろ、と言いたいようだ。
それを察し、重田は門の方に目を向ける。
そこには忘れもしない三日前の男が一人歩いている姿があった。
「おいでなすったわ」
重田にもほとんど聞こえないような声でほのかは呟いた。
「後は打ち合わせ通り、わかったわね」
ほのかのその問いに、重田は小さく頷いた。
空気の違いを感じた。
初めは病院の前、そしてそれは中に入っていくほど強くなり始め、病院の庭の中に入ったところでピークを向かえた。
何かいる、しかも自分に敵意を持った何かが。
そこで神柳は脚を止めた。
そして
バコッ
受け止めた。
特殊警棒を持った三日前の青年の一撃を。
「懲りない人ですね」
「お前もな」
そのまま神柳は受け止めた両手で警棒ごと重田を吹き飛ばし、追い討ちをかけようと走り出した。
だが、神柳の目の前に突然炎の壁がせり出した。
ほのかの一撃である。
「くっ…」
そうして神柳はそれを交わすように重田に接近しようとした。
が、炎の壁はそのまま留まるような悠長なことはせず、そのまま神柳に覆いかぶさった。
ボウッ!
「…そう簡単には終わらないみたいね」
ほのかの視線の先、そこにはまともに食らったはずの神柳が何食わぬ顔で立っていた。
スーツの方は少しばかり煤けている以外は、ほとんど何も変わりなく無傷である。
「何で無傷なんだよ…」
すぐ隣の木の上のほのかに向かって話しかけた。
この作戦上、敵に見つかってはいけないということでほのかは木の上にいたのだが、それはもう無駄になってしまっている。
「おそらく結界ね」
「結界って神懸りなら誰でも作れるものなのか?」
「いえ、まず普通は結界の札、それに詠唱もできなければいけないし。出来る者は限られるわ」
でも、と諦めたようにほのかは笑って、付け足した。
「上位の神懸りであれば、元から結界が付いている者もいるわ」
「ってことは…」
「とてつもなく強いわ」
そう言い終わらないうちにほのかは木から飛び降りる。
そして重田を振り返ると、二コリと不気味に微笑んだ。
「打ち合わせ、全部覚えてるわよね?」
あの男がまた挑んでくるのは予想がついた。
だがあの新手は、まったく予想が出来なかった。
(何者なんでしょう?)
神柳は神懸りのリストをすべて姉から教えてもらっていた。
だが、そこに書いてあるリストは三日前の神山で最後だったはずなのだ。
一つ心当たりがあった。
この神前市以外にいる神懸り、警視庁他、中央に集められし神懸り。
「天つ神ですか。わたしも派手にやり過ぎたようですね」
「天つ神とは古い言い方ね。今じゃただの警察の犬よ」
今にも殴りかかりそうな重田を宥め、ほのかは努めて平静に言った。
とは言っても、目は神柳の動き、すべてを見逃すまいと見据えている。
「そうですか」
「あんまり興味ないみたいね」
「ええ。わたしの目的には何一つ関係ないことなので」
空気が刺すように痛む。
たたでさえ音の無い世界が、一切の音を遮断する。
三日前と同じ、いやそれ以上の殺気を重田は感じた。
「行くわよ!」
「おう!」
重田は真っ直ぐ神柳に向かって突進していく。
神柳はそれを片手を向け触れることなく受け止めると、吹き飛ばした。
「近寄ることもできないわけっ!」
「うっせーな」
重田は10mばかり離れた芝生の上に着地すると、再び突進する。
構えは下段、勢いはさっき以上だ。
しかし、それを神柳は同じように片手を向け、迎え撃とうとする。
だが重田も馬鹿ではなかった。
バアッ
相手を失った衝撃波は、空しく夜の闇へと消えていく。
重田が直前で衝撃波から身を交わしたのだ。
「頼むぜ!」
左脇腹へ向けての重田の一撃にほのかの炎が重なる。
「終わりだぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
コォン
鈍い金属音が辺りに響く。
結界に弾かれたのだ。
「惜しかったですね」
「…何でよ、何で利かないのよ」
信じられないというような顔で二人は神柳を見た。
相変わらず、表情一つ変えずに優男は立っていた。
「力が足りないからですよ」
「わかってるよ、んなこと…」
重田は吐き出すように言った。
二人して合わせた渾身の攻撃はこの男に傷一つ与えられなかったのだ。
力の差は圧倒的で、地球がひっくり返っても勝てる気がしない。
だが、今更自分の弱さを悔いたところで仕方が無い。
そうは言っても、それで割り切れるほど重田は馬鹿ではなかった。
しかも勝たなければいけないのだ、神山のため、そして自分のためにも。
「落ち込む必要はありません」
まるで見透かしたように神柳は言う。
「わたしの負けなのですから」
二人は顔を見合わせ、首を傾げる。
言っている意味がわからない。
どうして負けなのか、だから何がどうなるのか、まったくもってわからない。
顔を見合わせたままの二人が動かないでいると、周りの張り詰めた空気がスッと軽くなった。
神柳が戦闘状態を解除しのだ。
「まず何から聞けばいいんだ?どうして負けなのか、理由は何なのか」
殺気が無くなったことを察し、重田が口を開いた。
「ではなぜ負けか、ですか。あなた方がわたしの思っていた以上に強いからです。理由も同じようなものですね」
「思ってた以上?それは皮肉で言ってるのかしら?」
馬鹿馬鹿しいというように、ニヒルな笑みをほのかは浮かべる。
「そう思うのでしたら、謝罪します」
俗に言ういけ好かない奴だと重田は思った。
本人にその気はないのだが、言うこと言うこと鼻にかかる、不幸な人種でもある。
「で、お前の目的は何だ?」
何か言おうとするほのかを遮りながら重田は神柳に聞いた。
彼はその言葉に少し考えるように押し黙ると、ゆっくりと口を開いた。
「一言で言うと協力です」
神山を殺そうとした人間の吐く台詞か、と重田は驚きよりも、むしろ呆れを感じた。
協力とはそんな人間から一番かけ離れた言葉ではないか。
「信じていない、ですか」
「当たり前だ」
「困りましたね」
たいして困って無さそうに神山は言った。
実際困ってなどいない、初めから信頼されるなどと夢にも思っちゃいない。
もし、彼らが自分の思うより強かった場合の協力してもらうための手段はすでに考えてあった。
迷いに迷い、どうにか決断した手段。なるべくならば、避けたかった。いや決断した今でさえ、避けることを願う手段。
「三日前の女の子を覚えていますか?」
「ん、ああ、あのちっこいの?」
何の脈絡のない質問に重田は戸惑ったがどうにか言葉を探し出し、答えた。
「あの子はわたしの大事な家族です」
「で、なんなんだよ」
脈絡のない会話はまだ続く、いったいどこへ向かっていくのか。
まさかこのまま青春ドラマのように人生を語りだすのではないか、と重田は少し不安になった。
「つまりその子を人質にってわけね」
「察しが早いですね」
ほのかの答えにたいした驚きも見せずに神柳は答えた。
ああ、そういうことか。重田も遅れながら理解した。
人質。昔、戦国時代に国と国との外交に用いられた方法である。
簡単に言うと、人質を渡す代わりに同盟を結び、そしてもし同盟を破棄した場合、人質は殺されるというものだ。
古い方法ではあるが、とりあえずの信頼を繕うには悪くない手段であった。
「でも、その子があなたにとってどの程度の存在かわからないわ。少なくともあたしにはね。
取るに足らないものを押し付けられ、その末にわたしらは裏切られ全滅だなんて、絶対嫌だし」
「たしかにそればっかりは証明することはできません。しかし一つわたしがその気になれば
あなた方をいつでも殺せるという事実があります。ならばわかりますね?わたしがそんなに
遠回りしてあなた方を殺すメリットがないことが」
しばらくの沈黙。正直、遠まわしにも雑魚と呼ばれたことを反論する気はほのかにはおきなかった。
それに相手との力量の差を測れないほど愚かではない。
「待てよ。それでもお前が裕介を傷つけた事実は変わらないんだぞ」
相手との力量の差を測れぬ、愚か者、利害関係のわからない愚か者がやはりそこにいた。
いや、それは人としては当然なのだろう。しかしその感情はこの状況において非常に邪魔なものでしかなかった。
「すみません」
「前にも言ったよな。俺はダチがやられて、はいそうですかですませるほど、人間できちゃいねぇってよ!」
再び重田は特殊警棒を持ち構えをとった。
神柳は自分は負けたと言った。しかし、それでは気がすまない。
負けとは言っても現実的には神柳は負けていない。
妥協した、少なくとも重田はそう思ったのだった。
「重田、やめなさいよ!せっかく話がまとまりそうだったのに」
「うるさい、黙っとけ」
重田は一喝するともう一度神柳を見据える。
めんどくさいことになった。そんな重田の姿を見た神柳はそう思わずにいられなかった。
しかしそれと同時に、勝算の皆無な相手に自らの危険は省みず、友のため立ち向かう姿に感動もした。
ならばやることは一つだった。
「いいでしょう。あなたの気が晴れるまで相手をしましょう」
「上等!」
「で、こてんぱんにやられたわけだね」
神山は楽しそうに笑みを浮かべながら言った。
いったい誰のために戦ったのか、と食ってかかりそうになったが、
結局あの戦いは自分の自己満足でしかなかったことを思い出し言葉を飲み込んだ。
「神山はともかく、何であなたもそんな回復が早いのよ」
顔に僅かに残る絆創膏を除いて、ぼぼすべての怪我が三日で完治した重田を眺め、ほのかは思わず疑問を漏らす。
「根性だよ根性」
あまり上手くない作り笑いを浮かべながら重田は答えた。
重田もわかっていた。
神柳が手加減をして自分と戦ったことを、そしてそうでなければ今頃よくて植物人間、悪くて火葬場であったことも。
「根性ね。実に体育会系っぽい考えね」
「まあな、そういえば裕介、明日退院だよな」
「うん、そうだね。ようやくまた学校に通えるよ」
ようやく、とはいっても結局たったの一週間弱の入院であった。
「神島はどうするの?」
思い出したかのように神山は聞いた。
ついつい忘れそうになっていたが、ほのかも同じように高校生なのだ。
「大丈夫、転校届はもう出してあるわ」
「お前、学校通うのかよ」
「悪かったわね」
「悪かねぇけど。勉強わからなかったら教えてやるよ」
「あなたに教わるようじゃ人間失格よ」
「俺はこう見えてもな」
たいして自慢にならない、むしろ自分を自分で貶すほどの成績を声を大にして重田は言った。
そんな二人のやり取りを見るのにも飽き、神山は窓の外に目をやった。
夏の日差しのように、強い日差しが冬の町を照らしている。そして窓から吹かれる風には微かに春の匂いがした。
もうすぐ春がくるのだ、つまり冬が終わる。そして退屈な日常も終わったのだ。
「ふああ!」
春の風はまどろみも運んできたらしい。二人には悪いが、神山は寝ることにした。