#004:Hope
向かう目的は、あの赤黒く変色した少年の頭。
いつからか怖いものなど何もない錯覚に陥って、全てを守れるような気がしていた。
けれど錯覚は夢。夢は叶わない。
世界なんてそんなもの。
人はいつの時代も、弱過ぎた。
「遠いよな。ホント遠いよなァーもー……今頃燈斗と浬々、急ぎでこっち向かってるかな」
だからといって彼等を待つ時間はない。
その一分一秒でさえ、きっと《アンノーン》に支配された体は侵食をとめることはないはずだ。
太い肉の根に覆われていく北地区――ところどころで人の各部位が埋まっており、飲み込まれた彼等は根に更に栄養を与えている。
気味が悪い。
ここまで爆発的に成長する例は、今まで見たこともなかった。おそらく過去の資料にも載っていないことだろう。
「街一つ、呑み込むつもりか」
放っておけば街一つでは済まない、日本全土のみならず星一つを壊滅させることだって有り得るのだ。
それを大事に至る前に完全駆逐する。
発症源から確実に殺し、《アンノーン》細胞の分裂を本体の生命活動からとめなければならない。
そして、これ以上の感染は危険。
上の命令次第では、爆撃等も有り得るのだ。そうなると後々の処理に困るのは目を閉じていても目に見えている。
「た、助、け……はぎ!」
まだ自我を保っていた初老の男は、葵に届かない手を伸ばしたところで全てを肉の中に閉じ込められた。
中で生きたまま消化でもさせられているのか、それとも無理矢理の形状変化を余儀なくさせられているのだろうか――どちらにしろ、くぐもった声は地獄を見ているようである。
ああなるのは御免である――ので、とっとと己の仕事を済ませて、今日は署の方に泊めて貰うことにしよう。
非番は一班だが気にしない。
ひたすらに駆けていけば、本拠地であろう家が見えてくる。
入り口などもうどこにもない箱を壊すには、見える頭を飛ばす他方法はないようだ。
核が脳であるならば問題ないが、心臓等下に埋まった部位であったり、核自身が移動してしまえば困難である。
舌打ちを一つ、葵は足元に勢い良く生えた肉の刺を斬り払い、走った。
斬った際にズボンの裾と靴にこびり付いた血が肌にまで浸透して巻き付く。
気持ち悪さに立ち止まりたくなったがそうも言っていられない――止まれば取り込まれる。
「ダルい」
同一にはならないと《彼》が判断した場合、絞め殺されるのは火を見るより明らか。
「ダルいダルい、ダルいダルいダルい! なんで俺が、こんな、人殺さなきゃなんねェよ!」
人殺しは――嫌いだ。
彼等は感染し、発症後の治療法がないとは言え、生存権を奪われたが人間である。
それを――家畜以下、害虫同等に殺さなければならないなど――ふざけ過ぎだ。
何度、己は悪くないと自らに言い聞かせ、その度に壊れかけたか知る者は同じ課の連中だけ。
そしてそれから目を逸らせないのは――葵だけ。
いつでも、殺した感覚を思い出す。
「おう、ガキ」
止まる。
厚めの靴底を突き破り、刺が葵の足を貫いた。
痛みに顔を歪めることはなく、葵の目は少年の頭の隣で顔だけを残す女性を捉えた。
――母親か。
自身の子供が施設送りになってしまい離れ離れになってしまうことを恐れ、非合法に売買される対用ワクチンを少年に使っていたのだろう。
が、しかしそれは所詮紛い物。
どんなに値が張えど、効果は合法的なものには程遠い。
「親子愛は美しいってか? ――ここまでくりゃ、醜いだけだ」
上を向いた少年の眉間に鞘から抜いた白刃のそれを垂直に叩きつけるべく、葵は太刀を下ろす――が。
背後に気配。
風を切る音が響き、振り向く暇も与えず電柱並みに太い刺は葵に襲い掛かる。
目的にまで辿り着いた。その油断が仇となったよう。
「チッ……趣味悪りィんだよ!」
体を倒して避ければ今度はもう一本、屋根から生えたそれが向かってくる。
足はもちろんのこと動くはずがなく、避けきれない刺を斬り裂いた。
元が人間ということもあって、吹き出る液は真っ赤な――血。
決して感触の良くないそれを顔面に浴び、足を引き抜いた。倒れる体を支え、走る激痛に足は耐える。
――が。
「っうああぁああ!」
赤い目。
先程見た、というかもう焼き付いて離れないくらいの見慣れたその、葵自身を映す目を葵は視界に入れた。
名前は聞いていない。
逃げなかったのか、との一瞬の思考の隙を突かれた葵。その左足は、ばくり、と肉で広がる地面が喰いちぎった。
左足の膝から下――は、既にどこにもなく、傷口からはおびただしい量の鮮血が溢れ出る。
支える足の片方が失われたことにより、体は当たり前のように左肩から崩れ落ちた。
それを待っていたかのように、細い刺が何本も葵の体を串刺しにしていく。
首を刺が貫通したとき、口からは逆流した血がこぼれた。
「……あ」
だからと言って。
まだ、死んだわけでは――ない。
「いてェ」
右に持つ刀を数ミリしか空いていない地面と体の間に入れ、刀を引いた。
刺はいとも容易く切れ、葵の体は完璧とはいわずとも自由を取り戻す。
次が来る前に――と、応急処置など何もせず残った足で人の体にて作り上げた地を蹴った。
先程の赤い瞳を無意識に探す。
根に埋もれる彼の瞳を捉えたのは、足を持っていかれる前のこと。
何があって――なんて、逃げ切れなかっただけであろうし、どの道最早感染していることはわかりきっているのだ。
発症しているはずであろうことも。
だが――あの、深紅の瞳。
力を失わず、まだ己の自我を保っていたように見えた。
三分がタイムリミット。
それを越せば、一縷の望みとて消え失せる。
手首に巻くデジタル時計を見、赤い瞳の彼が《アンノーン》に感染し一分経過した状態を予測する。
「――け……」
限界まで研ぎ澄ました耳が声を捉える。
予想以上にかかる体重の重さにぐらつく体の反対側、刀を突き立て、葵は声のした方向に目をやった。
雲を掴むかのようにさ迷う手。手首を纏うのは、シルバーのブレスレット。
肘から上こそ埋まっているが、彼は足掻くように柔らかい地面へ爪を突き立ててこれ以上の吸収を許さない。
すると反対側の腕も姿を現して、彼はとうとう頭を出した。
「……ぶっはァ! 野郎、俺を殺す気かよ!? いや、殺すためにんなふざけたことしやがったんだよな! ……あ! 葵・アマハラ!」
二軒、家を挟んだ向こう――垂直に建てられた壁から斜めに生えるがごとく、汀は見つけた葵の名を呼ぶ。
「よー、生きてっか、少年」
「死ぬ寸前!」
「じゃ、平気だな。まだ生きてる」
だが、その二軒のうち汀に近い方が本体であり、そうやすやすと近付くことはできない。
かと言って核を先に退治している間にも、汀は発症する恐れがあった。
それに片足を失ったこともある。
黙っておけば、細胞の急激な分裂やら何やらで生えてくることもあるが、それは一カ月以上後の話だ。
今、移動器官の足がない。
だが、速く助けに行かなければならない。
「少年ー、名前は?」
「は? んなもん聞いてる暇があったらって言いてェけどね、言わなきゃ助けてくれなさそだし!?」
おそらく自分も逆の立場だったらやりかねない。
「汀だ、汀・ミナヅキ」
「俺、葵・アマハラね。よろ」
「知っとんわい」
クスクス、いやに余裕の笑みを浮かべて、葵はまた片足だけの跳躍を開始する。
途中やはり目で追われ、その度に伸びる根やらに叩き落とされそうになったが――なんとか、刀を汀の横に刺してそれに乗ることができた。
「よう、お姫さま」
「お前、足――」
「なに、一カ月もすりゃ生え」
こんな九十度の地面で簡単に身動きが取れるはずもなく。
「危ない!」
「しまっ――」
片足だけの彼は、不幸中の幸いなのか葉のように広がる肉塊に地上へと叩きつけられた。
汀こそギリギリで避けて無傷ではあるものの、コンクリート剥き出しの地面に落とされた葵はただ事ではない。
汀はピクリとも動かない葵に嫌な予感を感じながら、必死に残りの下半身を壁から抜け出ようと抗いた。
「おい、葵! お前……う、わ!」
まるで自ら異物を吐き出すように、壁は汀の体を押し出す。
消化液のように粘ついた悪臭を放つそれは、全くもって気持ち悪い。
「いっつー……あ、葵、生きてっかー……」
二階だったから肩の打撲だけで済んだようだった。葵のようにあんな分厚い凶器で叩き落とされれば、普通の人間である汀など即死だろう。
しかし葵は肩で、非常に荒くではあるが呼吸を絶やさない。
「ぜ――あ、がほっ!」
「うおあ!?」
内臓でもやられたのか、葵が喉にまでせり上がっていた血を一気に吐いた。それでも意識は戻っておらず、ひたすらに血を吐いている。
おびただしい量の吐血――汀にはどうすることもできない。
ただ、葵を起こそうと必死になるだけだ。
「起きろ、起きろバカ葵! 死にてえかァア!?」
頬を叩いても、彼は真っ青な顔色のまま口端から血を流してぐったりとしている。
背負って逃げるか――と考えついた時には、時、既に遅し。
「囲まれた」
両脇には壁、頭上には赤く分厚い葉、前後には――あの、人肉で作られた根。
年貢の収め時。この言葉はこういう時に使われるのだろうか、と少し的外れな答えを思い付く。
腕には唯一の頼りである、葵。
しかし、彼は今、意識がない状態だ。
汀にはどうすることもできない。
と、根の付け根に何かが生えてくるのを汀は見た。
失った口は閉じられ、唇は一本の線と化した少年の顔は――にたり、と笑う。
「――っ」
心底愉快であるがごとく。
そして少年の頭は壁へと引っ込んでいった。
それがどうやら合図であったようで、汀の目の前で揺らいでいた根が動き出す。
――と、その時。
右半身に、違和感を感じた。
ピリピリと軽く電気を通したような痛みが走る。それこそ右側の指先から顔面、つま先に至るまで。
「あ」
そして。
皮膚と肉を剥ぐような激痛が襲った。
「あああぁあうああぁあ!」
変化し出したのは、右の皮膚。
ぼこぼこと泡立ちながら、汀の皮膚は確かに形を変えていった。
槍のように皮膚は尖り、挙げ句伸び、今まさに突き刺さらんとする根を串刺しにしていく。
それは抱いていた葵の体すらも突き刺し、喜んでいいものかどうか、葵は痛みで目を覚ました。
目覚めた葵の視界に飛び込んできたのは、汀の変わり果てた姿。とは言え右だけではあるのだが、些か異常とも言える。
「みぎ、わ」
「うあぃあぁあっ! 皮膚、皮膚が剥がれる! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いぃい!」
「発症した……!?」
「痛い痛い痛い! 嫌だ、やめろ、いだいいぃいい!」
意識も左半身も正常のまま――右だけの皮膚のみが発症し、ぼこりと泡立っては刺を作る。
腕に刺さる汀の皮膚から離れ、葵は目を丸くして汀の変わりゆく姿を唖然と見届けた。
発症すれば手の施しようがない――が、体の一部のみが発症し、残りを《アンノーン》に適合させる人間など知らないのだ。
どう対処すれば良いのかわからない。
殺すべきか――否か。
迷う間にも汀の右半身の皮は細胞の分裂に膨張、形状変化を否応無しに続ける。
皮膚についていけない筋肉は細胞と共に悲鳴を上げ、それが脳に伝わる度に汀の体は激痛を訴えた。
そして喉がおかしくなるまで叫ぶ――このままではショック死等もありえるかもしれない。
いつもなら放っておくものを、葵は粘った。
自らに確実に迫る死を――汀に見た。
「汀、汀! 俺が分かるか!?」
右肩だった場所に手を置けば、手の甲を刺が貫いていく。
それは物凄い速さを持ってまるで同類を喰らい尽くすかのように、この騒ぎの張本人――本体へと向かい出していくではないか。
何本もの尖った皮膚は建物を侵食し、貫いて、防御に回る彼等を引きちぎる。
「わ、わ、あ、わが、る」
葵の左手を刺していた刺は付け根を太くし、それのおかげで葵の手は親指を残して散らばった。
ふと――壁から生まれた人の顔が物凄い形相にて、首を作って伸ばし、最後の力と言わんばかりに襲い掛かる。
同時に荒ぶる根が舞い、新幹線以上のスピードを持ってその先端で汀と葵を殺そうと迫ってきた。
「あ、おい、逃げ」
「知らね」
絶え間ない細胞の変化に叫ぶ力も失せた汀は、息も絶え絶えながら逃げろと言う。
それでも見捨てることなどできず、葵は転がる刀を手にしようと体を伸ばした。
「……っ、の、間に合んねェだろうが!」
迫る。
首と刺が最後の力を振り絞り、二人を的にして突っ込んでくる。
その迫るものの背後にあるものは、死だ。死が、先にはある。
命を脅かす存在に対し、牙を向けるのはいかなる生物にも存在するというもの。
汀は、彼等を《生命を脅かす敵》であると――確かに認識した。
葵の残った手がようやっと刀の柄を握り締め、彼等を――敵を切り落とさんと動いた。
そしてそれと同じくして、汀の変化した皮膚もまた、動く。
刀は首と根の一部を落とし、皮膚の槍は根の全てを串刺しにする。
「生きてるか、みーちゃん」
「死、ぬ寸前、だ……みーちゃん、ゆな」
核である頭が落ち。
植物を象った《アンノーン》は媒体を無くした今、活動を完全に停止した。
ただ柔らかいだけで気持ち悪い地面の上、一旦落ち着いた汀の皮膚を刺の付け根から斬った。
血がぼたぼたと落ちるが、既に激痛にて気を失っている彼に痛みを感じる余裕はない。
「いやァ、人助けはするもんだねェ」
片足も欠けたこの状態で動けるわけもなく、寝かせた汀の隣で一息吐くことにした。
煙草をくわえ、ライターで火を点ける。白い煙が真っ青な空に舞い上がった。
だがそれは空に届いてしまう前に拡散して消えていく。
その儚さ――まるで人の命のようだ。
望みに触れる前に散っていく。なんて、葵自身にこれと言った望みはないのだが。
とにかく、儚い。
儚い命を手に取って、この手で生かすというのもまた、一興か。
「俺さ、ぶっちゃけた話、あと一カ月くらい生きたら死ぬんだ」
誰に言うでもなく、葵は続ける。
「見た目元気だけどさー……かなり、無理してんだわ。本当なら動けない、それを薬で無理矢理動かしてる。死ぬんならベッドの上じゃなく――なんでも良い、意味のある死に方してェ」
まだ、続ける。
「でな、汀。どうせ終わる命だ。それに俺、これ以上生きたくねェんだよ」
殺して殺して――殺して、また、殺して。
罪の重さに耐えきれる程に葵は強くない。
「俺の体、使え。皮膚の移植くらいなら、二十一世紀辺りにもう確立されてる技術で確実だし、まあ、難があるとしたら顔が変わったりとかか? あんのかな。――ま、とにかくさ」
「お前は俺のために、生きろ」