#003:Nautical
街中。波をかき分けて走る、葵の車。
慣れ、イコール、麻痺。
その等式を理解したのは昔々、薄れる記憶の奥底で、しかも片隅だ。
針のムシロのようにじわじわと痛めつけては血で流していくこの居場所、もう慣れたものだと言ったのは理解したその瞬間。
痛みに傷みを重ねて抉ってしまえば――何も感じなくて済む、と。思っている。
人が邪魔だ。
車だからこそ、人の波に抗いきることができず、進むことが困難でしかたがない。
乗り捨てるか――否か。
これ以上進んでも車では進み辛い路地を通らなくてはならない――ので、波が途切れた瞬間を見計らって、葵は車を留める。
愛刀その二を持ち、鍵を掛けて出てみれば、視界に飛び込んだのは至って普通の光景だった。
けれどその先に――何かはある。
何かは、確かに人間の気配を追ってこちらに向かい、侵食を果たしている。
「……俺のアパート……多分もう駄目だぁよなー……や、何もなかったけどさ」
置いてあったものと言えば、せいぜい布団くらいのもの。あのような安物に未練はないのだが、意味もなく払ってきた家賃が憎々しい。
走り出し、葵は跳躍をする。
それは常人では有り得ない高さの跳躍で、いとも容易く高めに作られた一軒家の屋根に飛び乗った。
高さが変われば見える範囲も違ってくる――その光景を見て、思わず笑みが浮かんでしまった。
一体どうすればこれほどになるまで放っておけるのか。おそらくは非合法でのワクチン摂取であろうが――詳しくは調べてみなければ分かるまい。
今は殺す。
それだけ。
あの化け物と化した子供を殺さなければならない。
最早頭しか残っていない彼は失った唇により声も吐けず、家の住人ごと取り込んだであろう家を手足としていた。 侵食はまだ進んでアスファルトに根を生やしているではないか。
「およ」
その先――まだ細い根の先は、黒い装甲のバイクを捕らえて真っ二つにせんと巻き付いていた。
予想にはできないような怪力にて締め上げれば、バイクはシートから割れて燃料を撒き散らす。
ガソリンは――追い詰められた少年の、漆黒色で染め上げた髪を濡らした。
「生存者、一名。とりあえず確認だな」
まだ彼は感染していない。助けるなら今だけだ。
根がバイクに満足するまで、一分。
少年を襲うにまで、十秒。
もし彼が感染したとして発症までは、短くてこれまた十秒とない。
そして。
葵が彼の目の前に立つまでには、たったの――
「ヨ、ユー」
どちらが上か。
見せてやる。
◆◆◆
「遅ェんだいな! あいつマジにどこ行っちゃんずや、ええコラァ!」
あれから何分経ったのか――なんて、葵が出た時刻など覚えていない。
コンビニに行くなどそう時間が掛かるわけでもないのに、葵はまだ帰らない。
最初こそレジが混んでいるのだろう、と思っていたのだが、遅筆の燈斗が報告書を終えるまで来ないのだ。
「逃げたな、逃げやがったなあの野郎! 俺、食いモン楽しみにしてたっちゃーんに、アイツ死ねば良いのに! あ、やっぱ今の嘘! 生きて苦しめば良いのにな!」 怒りでデスクを叩くその様は幼い子供に等しい。が、燈斗は十分に大人の扱いを受けて良い年である。
と、目の前に設置された電話が甲高い悲鳴を上げて燈斗を呼びつけたので、不機嫌さを露わにし、受話器を取った。
「はい、《駆逐課》ですけどっ」
『《駆逐課》燈斗・タカツキと確認。エリアN五十、E二十三地区にて《アンノーン》発生。早急に四班は向かえ』
「――了解」
受話器を置いて溜め息を吐き、周囲を見渡した。
おそらく浬々には携帯電話に《情報課》から連絡は行ったであろうが、問題は葵。
つい先程の任務にて壊れてしまった彼の携帯電話、彼は今連絡が完全につかない状態である。
「行っちゃーべか」
彼が帰ってこないところを見ると、いち早く現場に着いているかも知れなかった。
というか、その確率が高い。
葵のデスクの脇で佇む長すぎる長刀――鞘を握って持てば、変わらず有り得ない重量を誇っていた。
嫌な、予感がした。
◆◆◆
長年、無理矢理乗ってきた黒いバイク――は、真ん中から二つにひしゃげてしまい、燃料をダラダラと流している。
先程目の前で勢い良く散っていた薄汚れるガソリンは、汀の髪を濡らし、異様な臭いを放つ。たった少量であろうとも臭いはきつい。
「――は、クソ、どうしろってんだよ」
背には壁、横も壁。前には――《アンノーン》に犯された少年の体だったもの。
汀のバイクに絡み付く少年の根は、その矛先を変えようと細いながらも本数を増やしつつある。
全く、化け物だった。
しかし、ここで空いた通路など頭上に広がる空くらいのもの。
だが周りは全て高さを揃えられた建物のみ、逃げることのできるような道はどこにもなかった。
「日頃の行い、悪かったからなー……人殺し以外はやった気分だわ」
ふとこちらを向いた根の先端が、大口を開けるがごとく二つに割れていく。
気持ち悪いながらも目が離せない――植物にしては柔軟な動き、それはまるで太ったミミズのようでもあった。
そしてそれが済むと同時、たくさんの根はバイクを巻き上げたまま一斉に先端を汀へと向ける。
「キモー!」
まるで目があるかのような俊敏な動き。彼等は汀の方を向いたまま微動だにせず、ただ黙って汀を見ている。
――と、思いきや、ぐちぐちと粘着質な音を立てて根の先端は割れていき、ようやっと根は動き出す。
避けることなどできはしない。
口を開けて襲い掛かる根を断ち切る術も、汀は持っているわけがなかった。
「――っ!」
開いていなければならない目を強く閉じ、硬直して動かない体に激痛が走るのをただ待つ。
「少し足掻けよな、少年」
だが、それはいつまで経っても来ない。
代わりに聞き覚えのない声が聞こえ、キン、と金属が動く音が耳に届いた。
「死ぬ様は目、かっぴらいて見とくもんだろ?」
最期の瞬間だしな――と、汀の網膜に焼き付いたのは、燃えるような赤。振り向く彼の目は闇色で、まるで自らの色を交換したかのような感じだった。
一瞬にして脳裏をよぎる語は、葵・アマハラ。
警察庁《駆逐課》エース的存在、第四班所属の彼は、汀とそう変わらない年のようである。
やっと――頭の中で引っ掛かる名の答えは弾き出されたのだ。
噂に名高い大刀にて根をなぎ払い、葵は鞘に白刃のそれを収める。次が来る――と視界の端に肉を捉えれば、汀の体は宙に浮き、そのまま地面を離れていくではないか。
「うぉわっ」
「はいはい、暴れんなよー」
汀を肩に担いだ状態で跳躍した葵の体は、三階建ての四角い家の屋根にまで到達した。
人間には有り得ない高さの跳躍――やはりあの噂はどうやら核心を射ているらしい。
彼等は《アンノーン》適合者、だと。
感染し発症してただ死にいく者でもなく、発症をワクチンにて抑制する、仮初めの生を生きる者でもなく。
何が原因で発症しないのかはわからないが、そういった適合者が警察庁の特別課には存在すると、裏でも表でもまことしやかに広まっていた。
その中でも特に有名なのが、葵・アマハラ。
先程の通り、彼は《駆逐課》のエース的存在であると聞く。これこそ一部にしか伝わっていない情報である、と望実が言っていた。
ずいぶん――若い。
もっと筋肉質な男を想像していたのだが、予想以上の優男。
この外見であの《アンノーン》と対等以上にやり合えるというのだから、そこはやはり《アンノーン》ウイルスに感染しているからなのだろうか。
「少年、俺さ、アイツ殺さなならんから一人で逃げてくんね? ぶっちゃけそっちが本業でさー、人助けは苦手なんよ」
ふざけた野郎だ。
「ふうん。別に、逃げれるし」
「あいや、反抗期真っ盛りの中学生みたいなツラしてんぜェ? とにかく頑張って逃げ」
「あ、その前に」
ちょうど良い。本人が目の前にいるのだ、預かった手紙を渡してしまおう。
鞄は常に肩に掛けておいて本当に良かったと思う。
チャックを開けて中身を漁り、やっとあの青い封筒を見つけたところで再び――葵が汀を担いで跳んだ。
「何しやがんですかぉああ!?」
今まで足をつけていたコンクリートを突き破り、根が姿を現す。汀と葵を追うようにしてそれらはこちらへ勢い良く伸びてきた。
矢のような速さの先端が迫る。
「追い付かれる……!」
「っぽいね」
「悠長なやつだな!」
絶対にどうにかできるという、腹の立つ余裕。
実際その自信は確かなもので、足を狙う根に葵は飛び乗り、そこからまた今度は下へと跳ねる。
「今の世はあれだって、スローライフ。ちゅーわけで俺になんか届け物? 配達屋君」
言葉の使い方を間違えているような気がしないでもないが、敢えて何も言わないでおいた。
空中で空気抵抗を受ける中、風に煽られる掴んだ封筒に意識を向ける。
「あんた、葵・アマハラで良いんだよな?」
「あ、俺ってば有名? それとも写真かなんか出回ってたりすんか」
「有名だよ、あんたはね。まあとりあえず、差出人不明のお手紙をお届けに上がりましたぜー」
訝しげに眉を顰める葵は成功した着地の後、汀を肩から降ろして封筒を取ってロングコートの懐にしまい、背を押した。
弱い力ながらもいきなり押されたことで、汀の体は少々よろけてしまう。
「着払いじゃねーよな」
「分捕りてェな」
「安月給のお兄さんをいたわりなさいよ」
「公務員がナマ言うなよ」
――無駄に似てる。
体躯とか、性格とか。
だがしかし今はどうでも良いこと。
「縁があったらまた会うかね」
「ごめんだっつの」
それもそうだ、と笑う彼の背を見届けることもなく、汀は葵と擦れ違ってそのまま駆けた。
ここから逃げなくては。
逃げなくては――ならない。
葵は跳ねる。
汀は駆ける。
「ひうっ、あ――!」
耳に届いたのは少女の声。
「危な」
拓けた場所に出てみれば、そこで見たのは小さな少女が根に喰われようとする寸前の光景。
「い」
腰を抜かして座り込む少女を抱えるも、肉でできた根は口を開けて目の前に迫っていた。
咄嗟に少女を投げれば、かすり傷を負いながらも恐怖に脅える目で汀を見――笑えば、彼女は立ち上がって走り出す。
意味のない助けを求めて。
「最悪だ」
本当に、意味のない。