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Unknown  作者:
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#002:Light

 洗面台を流れていくのは、真っ赤な血。


 自分が死ぬ――なんて、そう本心から思う人間は無いに等しいはず。いずれは死ぬのだ、と頭では常にそれを肯定していても、どこかで必ず自分は大丈夫と逃げている。

 決して悪いことではない。

 保守的になることで人間の精神は世間一般に言うところの正常を保っていられるのだ。

 葵もまたそうやって、己の命と精神を守っている。でないと――壊れてしまうだろうから。


「葵ィー、まーだー?」

 急かすその声に若干の苛立ちを覚えるがしかし、こちらの方が年上なのだと自身に言い聞かせる。とは言っても、声の主とはたった一つしか違わないのだが。

「早く戻んねば便所長ェって思われんだろ? マジに早く出すもん出しちまえよ」

「ゲホッ……何よその言い種ァよー。親友が血反吐吐いてっときになんて辛辣な言葉! 俺泣き……うぉえっ」

「あーもー分かったはんで出るもん出して楽になれ。便所塞いでんのも楽じゃねー……あ、今バカが使用中なんで掃除後にしといて」

 遠退く足音を聞いて、本当にもうこいつは余計なことをと思う。

 なんか誤解されたような気がするのは自分だけか。

 何かを言おうにも吐き気によって口が塞がれてしまい、声を出すに出せない。出るのは血ばっかりだ。

「報告書もまだ半端だはんでや。……ああ、くそダリー」

 扉一枚隔てた向こう、心底嫌がるように聞こえたのは最後だけだった。

 既に捻ってある蛇口からは勢い良く水が溢れ、洗面台にこびりついていた血を洗い流してはその都度排水口へ吸い込まれていく。

 もう驚きもしなくなった光景に、あまり吐きたいとは思わない溜め息を吐いた。

 その際にまた、口の端から血が漏れてしまい、更に葵の機嫌を損ねていく。だからといって他に牙を向けたくないから笑顔でカバーするのだが。

 下がる口端を無理矢理上げた。

「燈斗ちゃん、悪いんだけどタオル持ってきてくんね? 血だらけで顔も上げられんからさ」

「言うと思った。親友に感謝せや。ついでにワイシャツとネクタイなんかもあったりする」

「お前、絶対良い嫁になるよ……うん、男だけどね。嫁さん。俺父親設定でお前娘?」

「安心しとけ、今はどこさも嫁ぐ気は……て、健全に生きろ!」

 屈んでいる姿勢であったがため、燈斗の投げてきた真っ白なタオルは背に乗った。

 口を二、三度ゆすいで洗い、ついでに顔にも水をかけて視界の端で揺れるタオルを掴む。

 四つに折ってまず口元を拭い、そして裏を返して顔を拭く。

 顔中に張り付くような水滴が全て柔らかいタオルに染み込んだ時にはもう、鏡に映る己の顔は普段の色を取り戻しつつあった。

 当然、タオルは真っ赤。

「何言ってんの。冗談に決まってんでしょーが」

 確か血液はぬるま湯に浸けると取れるのだったか。跡が残るようであれば漂白剤でも使えば大丈夫であろう。

 最近一人暮らしをするようになって、ずいぶんと家庭的になったものだと思う。

 タオルを洗面台の端にかけ、燈斗から洗剤の匂いにまみれるワイシャツとネクタイを受け取った。

 糊のおかげでしわ一つないワイシャツに袖を通して大した柄もないネクタイを締める。かなり緩くして。

 スーツの上着に関してはさすがに替えが効かない。ので、裾の長いコートとシャツごと腕にかけてまとめ上げる。

 壁に寄りかかって佇む大刀を手にしたところで、完璧とは言わずともそれなりに身なりは整えられた。

「出るもん出したー……お待た?」

 扉を開いて顔を覗かせれば、包帯に巻かれる見慣れた手が葵の鼻面を軽くではあるがひっぱたく。

 思わず大袈裟に仰け反ってしまい、二次被害として背後で閉まりかけた扉に後頭部をぶつけてしまった。

「何すんだっミイラ!」

 デコピンも喰らった。

「だから何……あ、ミイラって言ってゴメンナサイ。スミマセンっした」

 何やら物凄い殺気を感じたがために謝っておいた。

 一応手を出してきたのは向こうなのだが、怒ると怖いのだ――否、その右腕に額、そして右側に限り腕と足に包帯を施すその姿について馬鹿にされた時、か。

 下手をすれば踵落としが落ちてくる。

 最初出会った時に、心に決めた。

「たく……検査行けっちゃーべ? なして行かねーんだよ」

 燈斗・タカツキに《ミイラ》はタブー。「あ、何? 心配してくれちゃってんの燈斗君。やー、お兄さん嬉しっ」

「腰くねらせてんじゃねぇよキモい。つーかはぐらかすなって言っちゃんだねな、いつもいつもよォ? それで? 一度病院……」

「意味ねーよ」

 トイレに繋がる扉を閉めて先を歩けば燈斗もついてくる。

 廊下を歩いて振り向くのは、一般にある捜査課、安全課の連中だ。彼等は怯えるように葵と燈斗を避けていく。

 当然と言えば当然――自身があの未知のウイルス《アンノーン》に感染し、発症するのを恐れているのだ。誰もあのような醜い化け物になどなりなくないのは至極当然。

 腹が立つと言えば立つけれど。

 怒る気力だって削がれてしまっている。「どうせもう死ぬって。死が近いと分かりゃ退職、早ェ老後はベッドん中でモルモット。死ぬなら悔いが残んねーように生きるまで……悪いな、俺のデータ残してやれんくて――もう少し優しいやつだったら、喜んで実験材料にもなってやれたんだけど」

「端っから期待してねっつの。好きなように長生きしゃー良いんでね? つーか死んだら仕事のしわ寄せ来っから、死んだら殺す」

「え? それ酷くね?」

 何やらとても無情な言葉を言われたような気がしないでもない。

 しかし今更気にしたところで何かがどうなるとか、変わるわけでもないから、葵はそれ以上の追及をやめて扉を開ける。

 と、爽やかな青色が目に飛び込むと同時、鼻を中心に鈍い痛みが顔中に広がった。

 一体なんだと見てみれば――床に落ちたのは空のファイル。

「もう、遅いんですよ二人共! 班全員報告書書いたら帰って良いんです、早く帰って買い物行かなきゃ!」

 浬々・レンジョウ。

 葵や燈斗と同じ駆逐課四班の彼女は今、スーツスカートの下に黒ジャージを履いて膝まで捲っている。

 高校生ではあるまいし――と口にすれば、今度はボールペンの一本でも刺さりそうなのでやめておく。

「あ、悪い悪い。ところで……みんな出払っちゃってんの? 忙しいにゃぐぼ!」

「邪魔。入んなら入りゃー良いべよ。突っ立ってんな」

 背中を蹴られて仰け反った。

「全くよ、うちの子達はなんでこうも暴力的なんだか……ん? 早く帰って良い、ってどういうことよ、浬々」

「なんかさっき、ヒノモトさんが来まして。報告書が出来上がり次第提出、帰宅。けど葵さんと燈斗さんは呼ばれてました」

 葵と燈斗で顔を見合わせ、二人同時に何やったんだお前、との台詞を吐いた。

「……あ!」

 ノートパソコンの電源を入れる。

 それと時を同じくして、ようやっと思い出したかのように葵が声を上げた。

「やっぱオメーか!」

「いやいやいや、まさか聖の野郎がなァ……実はな、この間、燈斗の名前を聖のデスクに彫っといた」

 補足。聖とは聖・ヒノモト――警察庁総務課。

 駆逐課や処理課などの指揮を担当する課に所属し、事実上で言えば葵等の上司だ。

「面白いことしてますね! 今度一緒にやりましょう葵さん!」

「良い子は真似するんじゃありません!」

「堅いこと言うない、燈斗ちゃん」

「テメーが一番の元凶じゃねーの!? ちゅーか小学校気分かあぁあ!?」

 四班の三人がいるだけで広い部屋は一気に煩くなる。

 一番騒がしく破壊的、命令違反もなんのその――だから聖に呼ばれたわけでもないだろう。

 今日は被害自体最小限であるし、一番壊したのは浬々だ。彼女、キレたらしく、中学校だかを半壊滅状態にしたらしい。

「しかしな、それ以外に思いつかねーわ。ああ、そういや聖から借りた一万、返してねェ……あったかな。ないな」

「明日給料日ですし、抜かれるんじゃないですか?」

 それは最悪だが致し方あるまい。

 とにかく――葵には燈斗と共に呼ばれる覚えは全くと言って良い程になかった。個人ならばともかく。

「ところで葵さん、燈斗さんもトイレ長かったですよね。大丈夫ですか?」

「ああ、ちょっと燈斗が腫れててな」

「オメー、マジ死ねよ」

 必死で弁解に回る燈斗からシャープペンシルが飛んだ。


「あ、腫れたら良い泌尿器科、紹介しますよ。葵さん」

「多分お前が一番セクハラだよ?」

 楽しかった。

 家族というもの憧れていたからこそ、これ以上ないくらいに、燈斗と浬々が好きだった。


 けれど、もうすぐ終わる。

 命が尽きると同時、内臓が《アンノーン》に侵されきると同じに。

 葵の人生は――終わる。


「それじゃ、私はお先に失礼しますね。出しといて下さい」

 はた、と瞬く間に現実に引き戻され、ジャージを履いたまま出て行く浬々に笑顔で手を振った。

「あんま買いすぎんなよー、給料日前だから」

「葵さんじゃないですから心配は不要ですよー」

「最もだな」

 燈斗の容赦ない言葉に苦笑いをしている間に扉は閉まり、駆逐課全班――総勢十二名という人数を入れるだだっ広い部屋には、葵と燈斗のみになってしまった。

 部屋にはパソコンを起動させる、機械の音しか響かない。

 静寂が耳を麻痺させ、それを知ってか知らずか、燈斗は何も喋ろうとはしないでいる。

 葵よりも先に起動させていたのか、彼は声を発する代わりにキーボードを忙しなく打ち鳴らし始めた。

「燈斗ちゃーん。俺、ちょいその辺のコンビニまで煙草買いに行って良いですか」

「逃げる気だべ」

「逃げない逃げない。逃げたところで逃げれない」

「俺、小腹空いた」

「了解」

 適当にパンか何かを買ってこい。要はそういうことらしい。

 画面から目を離すことなくキーボードを打つ燈斗をそのまま、葵は今だ起動しきらないパソコンを放って、コンビニまで出向くことにした。

 煙草こそ、箱にまだ二、三本残ってはいるものの、世に言うヘビースモーカーの葵には足りないくらいである。

 増築もせず改築もせず――ただ廃れていくやたら高い建物から出、コンビニにまで至る道を歩き出した。

 少々遠い場所ではあるが車を使えば余裕、扉を開けて乗り込み、葵はキーを差し込んだ――ところに。


「あ、俺んちの方向じゃんか」

 煩い煩い街の中。

 廃れてきた――などと言ったところで信じて貰えないであろう都心、北側の地区で。

 いつもと違うものを立ち並ぶ建物の隙間から、たった一瞬だけ視界に捉える。

 それは自らに巣くう《アンノーン》ウイルスのおかげかどうかはともかく――とにかく、見えた。


 赤い、血の飛沫。


 車は走り出す。



◆◆◆




 バイクは北側へ、成人前の少年を乗せて走る。

 ヘルメットのことで見回り中の警官等に注意を受けたが、汀はそれをたった今撒いて細い路地裏をマイペースに走っている。

 もう追ってきていないことを再度確認して、一度バイクを路地の端にとめた。

 住所確認のためである。

 バイクに跨ったまま、エンジンは入れたまま――手紙を見て住所を覚え、地図を広げて場所と示し合わせる。

「……かなり奥か……住んでんのかよ」

 全く怪しい場所に住んでいる人間だ、と思い、男か女か思案する。

 《葵》であれば女の比率が多いが、男に使われていても何ら不思議でない、中性的な名だ。

 願わくば――美人な女性であって欲しいものだが、あくまでそれは汀の願望にしか過ぎない。

 バイクを再び走らせ、目的地へと向かうためにスピードを上げた。


 こう奥まで来ると見掛ける人の数は少なくなってくる。たまに見ても孤児やら何やらで、中級階級の家庭が主だった日本の面影はどこにもない。

 眉を顰めるがしかし、目を合わせては後が厄介だ。

 こんなスラム街に宛先人が住んでいる――どうやらかなり酔狂な人物であることに間違いはないらしい。

 それ以上考えるのは止めた。

 関係ない。

「関係ない、関係ない。あ、ダルい」

 最後の台詞が前半とどう関係したかはわからないが、そこで汀の思考回路は運転にのみ集中する。


 ――はずが。

「き、ああぁあああがぎゃ、うぐェ!」

 ――奇声。

 何事か、とバイクをとめて見れば、先に上を見上げていた初老の男は叫び声を上げて逃げて行った。

 嫌な予感に流れる冷や汗を無視し、上を、ゆっくりと、見上げてみた――そこには。


「――《アンノーン》」


 ぐちゃり、と音を立てて肋骨を生やし、そして腸を垂れ流す細い小さな少年と。

 巻き込まれたのか、彼の母親と。

 発症してから一体どれくらい経ったのか、植物のようにアパート一帯に根を張った彼は今、ようやっと姿を現した。

 呻く母親をその腸で締め潰し、血しぶきを上げて、既に自我を失った彼は他をも取り込んでしまおうと茎と根に変わり果てた下半身に命を下す。

 その口元は、笑った気がした。

 新しい玩具を与えられた、子供のように。


「マジか、よ」


 にたり――と。

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