第一章<15> 懊悩は死神を家に帰す
陰欝な気分の朝だった。酒に酔ったわけでもないのに、頭が痛い。ぐわんぐわんした。くそ。最低だ。
原因は一つだ。昨夜に聞いたアルグの話。
騎士団。《死薔薇の園》。救出部隊の編成。どれもこれもが、頭の中をむやみやたらに殴打する。
結局一睡も出来ていない。
鏡の前に立つと、盛大に目に隈を作った馬鹿の顔が映った。
酷い有様だ。死人のほうがよほどいい面してる。死人以下の僕は一体なんなんだろう。自嘲の笑みが零れた。
「最悪だ……」
口にすると、気分は更に落ち込んだ。
ホント、最悪だ。
◇◆◇◆◇
階下に降りると、ティエリッタさんが素晴らしい笑顔で迎えてくれた。「おはようございますご主人様」などと小意気なジョーク付きだ。家賃を早めに払った報酬か。ありがたいね。涙が出てくる。
「おはようございます」
「お食事はどうなさいますか?」
「いつまで続けるんですかそれ……逆にプレッシャーなんですけど」
さすがに普段のティエリッタの態度を知る身としては、ある種の恐怖すら覚える。これから死ぬみたいだ。僕が。
「失礼ね。昨日久々に落ち込んでいたから慰めてあげようとしただけよ」
「そですか……」
気を遣わせていたのに罪悪感を覚える一方で、その慰め方なら有難迷惑だなーと胸中で呟く。勘が鋭いティエリッタに睨まれたので、さっと目を逸らした。おお怖い。
小さな溜め息が聞こえて、逸らした目線を元に戻すと、ティエリッタは腰に手を当てて言った。
「それで、今日はどこか行くの?」
「いえ、基本的に探索帰りは休養日って決めてますから。今日は……まあ、野暮用ですよ」
「そ。朝ご飯は?」
「あー……すいません。ちょっと食欲ないです」
厨房からは魅力的な匂いが鼻孔をくすぐるものの、正直食事という気分じゃない。食べたら吐きそうだ。
「食べないと死ぬわよ」
「死ぬ!? いや、さすがに朝抜いたくらいで死ぬことは……」
「あたしがせっかく作った料理を食べない、その時点で死ぬわ」
「……それは横暴過ぎませんか」
そしてそれは「殺す」の間違いだ。貴方が自発的に僕を死に追いやろうとしているだけだ。
とは言え、宿主に逆らうべからず。ユキトは嘆息しつつも、椅子に腰掛けた。ティエリッタが料理を運んで来る。
白飯、みそ汁、豆腐とサラダ。焼き魚があれば完璧だ。見ただけで解る。めちゃくちゃ気を遣ってもらっていた。ユキトの好物で揃えられていた。ヤバい。マジで泣きそう。
ぐっと堪えて、小さく「いただきます」と言って、箸を握る。炊きたてかやけに白く輝く白米を摘んで、口に運ぶ。それが引き金だった。食欲ないなどと言っていた自分が嘘であるがごとく、ガツガツ食べた。
エンツェリア王国は食料の大半は輸入で賄う。それゆえ新鮮な食材は特に手に入りにくい。米も野菜も広大だがそれほど農作に適した場所も少なく、そもそも都市内に直接農業に携わる者すらいないので、ほとんどが輸入。王都は内陸にあるため魚なんてのはすべて輸入だ。
おそらく都市の外で暮らさない限りは新鮮な食材にありつくことは難しいだろう。金があれば話は別だが。
ティエリッタの料理は新鮮な食材ばかりだった。どういう伝手で手に入れているのかは知らないけど、そんなのはどうでもよかった。とても美味しかった。
ものの五分かそこらで完食。ユキトは箸を置いて、手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さま」
せめて盆くらいは持って行こうとユキトは立ち上がろうとしたが、「それくらいやるわ」とティエリッタに制止された。無理に押し通す必要も感じられなかったので、言葉に甘えて座り直す。
といってもこちらにも理由ありきの行動だったので、どうするか考え直す。まあ、言うまでもなくお礼のことなんだが。
これで礼も言えなければ僕は本当に最低な奴だ。礼も過ぎれば無礼になるとは言うが、礼がなさ過ぎても無礼だ。特に、普段からお礼の一言も言えない僕だ。今ですら言えないなら犬畜生以下だ。
盆を回収しようと近付いてきたティエリッタ。言うなら今しかない。ユキトはぎゅっと手を握り締め、俯きかけていた頭を上げた。
「あ――あの!」
「何よ?」
「えー……と、あの、ありがとう……ございます」
時が止まったかのように静寂が訪れる。ティエリッタは目を瞬かせて、ユキトを凝視していた。
ユキトはティエリッタから目が放せなかった。自分の顔が赤くなるのが解る。なんなんだ、この静寂は。気まず過ぎる。
なんの拷問だと叫びたいのを我慢し、じっとしていると、ふっという小さな笑いがユキトの耳に届いた。ティエリッタは笑っていた。
「及第点ね。もう少しスムーズに言えるようになるべきね」
「精進します……」
ありがとうの一言に、精進なんてのもおかしな話だ。自分で言った言葉に笑った。
もちろん、呆れて。
◇◆◇◆◇
<芙蓉亭>を後にしたユキトは、市場の方に足を伸ばした。せっかくの休日だが、昨日のことがちらついて消えない。ティエリッタのお陰で楽にはなったものの、根本は全く解決していないのだ。
空は、今日は晴れていた。世界は本当に優しくない。晴れていたら気分も晴れるとでも思っているのだろうか。逆だ。鬱陶しい。
適当に売店でお菓子の袋詰めなどを買う。
それを腕に担いで、ぶらぶらと歩く。朝から押しかけても迷惑だろう。昼過ぎまで時間を潰す必要がある。消耗品の買い出しは終えているし、特に要るものもない。適当に見て回ることにした。
N・Nストリートの南側、要するに第五区歓楽街と反対に位置するのは工業地帯の第八区。第三区の商業区とほぼ同じ面積を持つこの場所は機巧師や錬金術師。鍛冶職人などの職人も多々いる。
まあ、そんなことをここで言う理由は、第三区は第八区で製造された物品を売り捌く店が多くあるということだ。直売もあるにはあるが、あの区画はうるさいから嫌いだ。
というわけで、武器屋にいるユキト。
愛刀と呼ぶべきか憎刀と呼ぶべきかは迷うが、自分には白夜があるため、他の刀剣は別に必要ではない。だが職業柄というか、そもそもの性質というか性格というか、どうにも刀剣を眺めるのが好きな質なようだ。殺しの道具を眺めて悦に入る自分のことは大嫌いだが。
瑠璃天竺に比べてあまりよい剣はない。そもそも銘付きなんていうのはそうそう店では売っていないし。そういうのは鍛冶職人に頼むのが一番早い。造ってくれるかはその人次第だが。
「あ……」
その中に実用一辺倒に造られたと思われる装飾の欠片もない剣が目に入る。無銘の剣。あいつが使ってたのと同じ剣。いや、よく見たら違うか。この手の装飾のない剣はどれも似てるから見間違えたようだ。
単に変な感傷に浸っているのかもしれない。馬鹿馬鹿しいことだ。忘れることはない。でも、それに浸る権利も資格も僕にはない。
「兄ちゃん、気に入ったのはあったかい?」
じっとそれを見詰めていたせいか、店の主が声をかけてきた。人好きする笑顔だ。営業用なんだろうが、こういうのは本人の気質も少なからず表れる。どこか、以前にメトス鉱山(の途中)まで送ってもらったモーノフを思い浮かべる。
「まー兄ちゃんの剣は細っちいな。刀か? 男ならやっぱ大剣だろうよ!」
豪快に笑う。これはアルグの要素もあるかもな。
要するに鬱陶しい。
「その剣も確かにいいが、こっちもいいぞ?」
向こうも営業だからうざいとは言えない。ユキトは黙っていることにする。あわよくば空気を読んでくれることを願ったが、そううまくはいかないらしい。店主は店の奥から大剣を取り出してきた。どんだけ好きなんだ大剣。
「兄ちゃんひょろっちいけど、これ使ってれば筋肉モリモリになれんぞ!」
いらねー。
飛燕の神髄は速さだ。神速と謳われるほどの剣速。それがユキトの剣だ。刀こそがそれを唯一体言する。大剣などという鈍重なものを振り回す気にはなれない。
そうは言うものの、正直な話、武器なら大抵は扱えるのだが。刀一本に絞ったのは飛燕流神速剣術を学ぶ時だったので、それまではいろいろ扱っていた。
ひょろっちい、と言われるのは癪だったので、それを受け取り持ち上げる。思ったより軽い。軽量の金属を使っているんだろう。量産型の大剣だろう。造りも粗い。人は斬れても鎧は斬れない。要するに、これで化け物は殺せない。
「案外……筋肉質なんだな兄ちゃん」
「そうですか?」
普通ですよと苦笑しながら大剣を返す。
困惑気味の店主だったが、はあと生返事で店の奥に品を仕舞いに行った。
居心地も悪くなってきたので、その隙に早々に店を出ることにした。
昼まで時間はまだある。別に今から行っても問題はないが。本音を言えば、僕が長居をしたくないだけの話だ。それで言うなら夕方でもいいくらいだ。
あそこは居心地が良すぎるのだ。溺れてしまいそうになる。
それが嫌で。誘惑に負けそうになる自分が嫌で。
でも完全には切り離せないでいて、何かしら繋がりを保とうとしている。それで報われているみたいな錯覚を見ている。
お笑い種だ。
結局、逃げているだけだ。
あそこは、昔の自分が帰る場所だったのに。
「本当に、いつからこうなったんだろうな……」
快晴の空を見上げ、問いかけてはみても、誰も彼もがその問いに答えてはくれなかった。冷たいことだ。
きっと答えがすでに解っているから、答えてくれないのだろう。
誰でもない。いつかなども明白だ。
すべてはユキト自身の責任で。
すべてはその手で剣を握ったその日から崩れて行ったのだ。
◇◆◇◆◇
第零区と呼ばれる区画がある。
屑街。吹き溜まり。肥溜め。いろんな呼ばれ方はある。最も解りやすく言うなれば、スラム街。第五区と第三区に挟まれ、エンツェリア王国の隅っこに宛てがわれたごみ箱。王国の汚点。騎士団ですら踏み入れない地区。
ユキトはそこを歩いていた。時間は昼過ぎ。結局それまではグースで時間を潰していた。
溝の住民たちはユキトを睨みつけているが、決して手は出してこない。出せばどうなるか、彼らはよく知っている。
ここでは法律さえ無意味だ。歓楽街以上に、無法の区画。誰を殺そうが、誰に殺されようが認知はされない。強さこそがここの絶対的な力だ。
「変わらないな……」
目だけで周囲を軽く見渡し、代わり映えのない情景を眺める。
障害は一切ない。まるで大名でも通るかのように、道行く人々は道を空けていく。触らぬ神に祟りなし。ユキトという人間がここではどんな存在か。別にここ以外と変わらない。ここでもユキトは《死神》だ。
他と違うのは、侮蔑の意味ではなく恐怖の対象として捉えられていることくらいか。
「ん……?」
表情を出さず、歩いていると、松葉杖を突いた子どもが歩いているのが見えた。怪我ではない。右足がなかった。理由はどうあれクソッタレな光景だ。
しかし子どもがこんなところを。珍しい以前に危険だ。いや、子どもはある意味ここでは最高に安全なんだが。
「あーもしかして……」
まあ、ダンジョンメイカーになってからここに直接訪れたのは一度だけだ。多分二年前ぶりくらいじゃないだろうか。孤児の行き着く終着点なんて、天国か地獄かあそこだけだ。
「ひぁ……」
ユキトが子どもの後ろ姿を見つめながら考えに耽っていると、その子どもは躓いて転んだ。手がつけるはずもなく、顔面から地面にダイブした。痛そうだ。しかし果敢にも立ち上がろうとしている。
強いな。僕とはえらく違う。
少し歩く速さをあげて子どもに近付く。
「手、貸そうか?」
「……っ! い、いや……いい、です……」
拒否られた。
見れば女の子だった。ますますクソッタレだ。反吐が出る。
懸命に、自力で起き上がろうとする女の子の背中を見つめ、溜め息を漏らす。見ていられない。僕にも良心くらいはある。それに、身内かもしれないのに放っておけるわけない。
菓子を地面に一端置き、女の子を起き上がらせた。ポケットから手ぬぐいを出して、顔を軽く拭く。最初は嫌がっていたが、諦めたのか、じっとしていた。
あらかた綺麗になったので、手ぬぐいをポケットに仕舞う。女の子はそれなりに端正な顔立ちだった。白い肌に蜂蜜色の髪。目は碧眼。典型的なエンツェリア的顔立ちだ。
それゆえに余計に右足の欠落というものが目立つ。片足をなくした人形とでも言うべきか。悲しいくらいに第零区に即する風体。
年はみたところ七、八歳かそこら。その目は涙目だったが、決して屈しないという強い意思を秘めていた。
「あの……わたしをどこかに売るんですか」
とはいえ第一声がそれだと少し傷付く。
「わ――わたしに手を出せば大変な目にあいますよ……す、すごく強いバックがいるんですから……」
予想が確信に変わりつつあった。バックか。それ、たぶん僕。
笑いそうなのを堪えて、女の子の頭にぽんと軽く手を乗せる。
「別に取って食うつもりはないさ。教会の子どもだろ、キミ」
「……知ってて手を出すんですか……?」
「いや出さないって……」
そこまで見境ない人間に見えるのだろうか。結構傷付く。
まあ、ここでは用心に用心を重ねるに越したことはない。彼女の用心ももっともだし。それで正解だ。あえて不正解を挙げるなら、せめてバックの容姿と特徴を覚えておくべきだ。
すっと女の子を右手で抱き上げる。そしてお菓子を回収。
「ちょ……離して! いや……!」
「随分だな……僕も教会に用があるだけだ。送っていくよ」
誤解を解くためにも善は急げだ。
◇◆◇◆◇
しばらく歩くと教会めいた建物があった。
教会だ。
なんのことはない。エンツェリアだって昔からこんな国だったわけではない。第零区だってまともな街だった時期もあった。その名残だ。
光の神エドニウを主神として祭る教会。スラム街の中に埋もれているのは、エドニウ教よりも唯一神ホーウェンを祭るホーウェン教が主流になっているからだ。
とはいえエンツェリア王国には神なんていう偶像に縋る人間はいない。ほとんど適当にいればいいんじゃない程度にしか信じない、エゴの塊ばかりだ。衰退しつつあるエドニウ教の教会とはいえ、未だ信仰を続けるここはすごい。
「ってて……やっと着いた」
顔が痛い。何発か殴られた。意外に力ある子どもだった。
女の子を地面に降ろす。松葉杖も一緒に手渡した。それを渋々受け取りはしたものの、睨むようにして言い放った。
「あの……ここには女子どもはいますが……手を出したら……」
「……まだ言うか」
僕も随分信用がない。
「心配しなくても、僕はここの人間だ」
「え……?」
怪訝そうな女の子に微笑みかけ、それから門戸の前に立った。
戸を数回叩く。
少しして戸の向こうから「はい」という女性の声が聞こえてきた。戸が引かれ、ゆっくりと空けられる。
尼僧服を見に纏う女性が顔を出した。
懐かしい顔。母とも呼べる女性の少しも変わらない姿が目に映る。
「どちらさま……あ……貴方……」
尼僧服の女性はユキトを見るなり、信じられないという表情になった。急に訪れたのだから仕方ないけれど。
苦笑を浮かべつつも、次に言う言葉はどうするべきかと考えた。
いや、一つしかないか。
ここは僕の家だった場所なんだから。
「ただいま」