第一章<10> 淡く輝く鉱山【剣雄】
あいつら、逃げろと言ったのに何をやっているんだ。
焦燥とは裏腹に、時間が止まったかのような感覚。不気味なほどに静寂。僕の聴覚は音を追うことを止めたかのようだ。それは僕への審判の時までの猶予のようなものだった。次第に静寂を破る耳鳴り。それは声だ。審判が始まったのだ。
――お前は結局失うんだよ。
うるさい黙れ。
――友を死なせ、師を見捨て、最愛の者まで殺したお前が何かを得ようなどおこがましいの一言だな。
そんなことは解っている。いいから黙れ。人の耳元で囁くな。
――酷い言い種だな。俺はお前だぞ。解るだろう? お前なら。
一緒にするな。お前なんかと。
――一緒だよ。俺は《剣雄》だったお前だ。たとえ過去のお前の記憶から生まれた産物だとしてもな。
だったら消えろ。頼むから。消えてくれ。
――消えろ? 何を言っている。お前は決めたんだろう? あの娘たちを守るために戻ることを。中途半端にぶら下がっているのはお前じゃないか。
僕は……。
何も言い返せなかった。自責の思いから生まれた僕自身にさえ言い負けた。間抜けもいいとこだ。何を決意したんだ僕は。宙ぶらりんにぶら下がるだけの決意で守れるものがあるわけがない。
その結果が今だ。
金狼はすでに三人娘に目を向けている。低くなった体勢は動き出す合図。奴が本気で走れば追いつけるかは解らない。どう足掻いても身体能力において“人間”は金狼に劣る。
また失うのか。自分自身の招いた失敗で。彼女らに逃げる暇をしっかりと作れなかった僕の責任。それがこの状況だ。そしてまた失う。何もかもを。結局、僕はやり直すことも罪滅ぼしをすることも出来ないのだ。エゴを通すことすら、出来ない。
どうしようもない人間なのだ。
――お前はいつまで人間でいるつもりだ?
また聞こえてくる。
こいつは呪いだ。審判なんかじゃない。僕が僕自信にかけた呪いだ。一言一言が僕を苛む呪詛だ。だけどその原因だって僕自信にあるのだ。
《剣雄》など人が外面だけを見て勝手に付けた称号。あの頃の僕にとってはそんな名前はどうでもよかった。そんな名前はあってもなくても同じだ。ただ守人として与えられた肉を断つ。
人斬りの称号。それが《剣雄》。
目の前の敵を斬って斬り続けた結果。血塗れの化け物。それが僕だ。
――人のフリは楽しかったか?
嘲笑うかのような物言いだ。楽しいわけがない。それで守れたものなど、今まで一度もなかったのだから。
これが呪いか。僕が人であろうとし続ける限り、この呪いからは解かれないのか。
金狼が地面を蹴った。地面が爆ぜる瞬間までもがゆっくりに見える。だが時間はない。呪いが再びこの身を蝕むまでの刻限。それはすでに手の届く距離にある。
また守れないのか。抗ったところで、結局奪われるのか。
そんなこと、認められるか……!
――ならいい加減覚悟を決めろよ、《剣雄》。同じ過ちを繰り返したくないなら、
「人間なんて辞めてしまえッ……!」
《剣雄》。剣の鬼。化け物は大地を蹴った。
「お前の相手は俺だァァァァァ……!」
雄叫びとともに飛び上がる。足の先まで弾けるような感覚が脳を刺激する。寝不足など関係ない。もう覚醒したさ。
金狼が背後からの接近を察知した。振り向こうとする。だが遅い。すでに右肩の上だ。ユキトは刀を突き立てた。深々と肉を突き破る。とてもよい気分だ。刃と肉の間から吹き出る赤い水がまるで美酒のようだ。
グオアアアアアアアア!
野太い悲鳴が洞窟に響き渡る。上空の光虫が放つ光が揺れた。
痛みに身体を振る。左の腕でユキトを叩き落とそうとした。ユキトはすぐに刀を引き抜き飛び降りる。回転の勢いを使って肩を切り裂く。浅かったか、切り落とすことは出来なかった。まだ鈍っている。もっとだ。もっと感覚を研ぎ澄ませろ。
着地と同時に飛びのく。地面が金狼の拳に砕かれた。その目は怒りに燃えている。それでいい。怒りは判断を鈍らせる。
ユキトは一気に踏み込んで刀を一閃。しかし金狼はそれを躱す。動体視力のいいことだが、躱しきれなかったようだ。脇腹が裂ける。しかし致命傷ではない。
だがそれが余計に怒りを煽ったらしい、怒気のこもった連撃が襲い掛かる。しかしどれほど強力だろうと単調な攻撃ほど読みやすいものもない。ユキトはそれらすべてを避けてみせた。
「畜生風情が……俺に勝てるとでも思っているのか!」
攻撃の止んだ瞬間、ユキトは反撃に乗り出す。金狼が苦し紛れの拳を突き出した。それを避けて、腕に手を掛ける。そのまま自分の身体を引き上げて腕に乗った。
唇を吊り上げる。金狼は慌てて腕を引こうとしたが、ユキトはそれよりも早く刀を突き立てた。金狼腕から真っ赤に染まった刀身が生える。
ガアアアアアアアアァァァッ……!?
悲痛な悲鳴が心地いい。勘が戻ってきた。ただ斬り刻む。その感覚。嫌悪し続けた感覚が、今はとても懐かしく思えた。
刀を引き抜いて飛び降りる。血で描かれた線が宙を舞った。血振りをして刀を収めた。
怒り頂点の金狼。もういいだろう。頃合いだ。
左手は鞘に。右手は逆手で柄を握る。
飛燕流神速剣術。
その真髄は居合。抜刀から斬撃、そして納刀までの過程を一つとして編み出された一撃必殺の剣術。刀の形状が最も適した剣術だ。その中でも最高峰とされたのが飛燕流。
刀を持つ手を逆手にする構えは飛燕流の第參之構“枝垂”。
正直居合の構えなんてどの流派もほとんど違いはない。それでも飛燕流が構えにも名前を付けているのは、それが受け継がれていくものであるがゆえなのだろう。
枝垂は特殊な構えだ。居合の構えとしてはイレギュラーと言える。ゆえにそこから繰り出される技の数は最も少ない。しかしこの構えは四つある飛燕流の中で最も速い。
それは剣速ではない。総じて速いのだ。
金狼の雄叫びが淡く光るこの鉱山を揺らした。雷鳴の如く轟くそれは、生物の本能的な恐怖を呼び起こすほどだった。怒りに燃える双眸。地面が震えるほどの勢いで疾駆する。
獰猛で狂暴。金狼が知性という細いながらもその身を絡めていた鎖を挽き千切った姿がこれだ。
とはいえ、だ。
「鬼には勝てんだろうよ?」
ユキトも駆ける。はためく外套。体勢は低く。燕の如く。
飛燕。
殺人剣を極めた者に与えられる称号。僕には与えられなかったものだけど、それでもこの剣技の修業を始めてから十数年。動きは嫌というほど身体に染み付いた。それはこの身体にそれだけの血が染み付いているのと同義。誇れるものなど何もない。構うものか。守れるものがあるのなら。
いくらでも僕は人間を辞めてやる。
「ユキト君!」「ユキト……!」「うひゃあ……!?」
金狼は目前。感覚器が鋭敏になっているのか、悲鳴混じりのそんな三人娘の声を拾った。注意散漫だ。やっぱり寝不足か。だが身体は自然に動くあたり、僕は動物と同じ本能で動く生き物なんだろう。
刀を鞘から抜く。銀の鈍い光りが覗く。この光りは目の前の犬畜生を死へと誘う焔の光りだ。
あれは画用紙だ。あとは好き勝手に好きな絵を描けばいい。何も考える必要はない。金の紙に赤で絵を描くのだ。実際は芸術方面の才能はないんだがな。
さあ、引導くらいは渡してやろう。
ユキトは白銀に光る絵筆を振るった。
◇◆◇◆◇
一瞬の出来事だった。
現実味がなかった。
達人にでもなれば見えるのかもしれないけれど、シエルには剣を抜いたところまでしか見えなかった。銀色の線がまるで流れ星か何かのように駆け巡ったのだけは見えたので、それが斬閃だったのかもしれない。
すでにユキトと金狼は背を向けあっていた。
ユキトは左手に鞘を、右は刀を逆手で握ったまま、腕をだらんと提げていた。
「――飛燕流神速剣術……燕尾」
小さく何かを呟いたけれど、この位置からは聞き取れなかった。だけどその呟きとほぼ同時に、金狼が崩れ落ちた。言葉通りに。
ずり、っと肉擦れの音とともに、まず金狼の腕が地面に落ちて、それが引き金にでもなったのか、足、腰、胸、そして首とジグソーパズルが崩れるように落ちた。
「う……」
思わず口許を抑える。敵とはいえ元は生ある者だ。その生々しくも非現実的な死に様にただ吐き気だけがシエルを現実に留めていた。
ユキトの俯きながらも上目遣いで姿を見つめる。
あれが彼の実力。
目では追えない猛攻。しかも金狼の攻撃は一度も受けていない。人間は強靭な筋肉の鎧を持つわけではないし、ましてや盾も鎧兜も身につけていないユキトの絶対的な勝利条件なのだろう。
それを本当に実現したあの青年は凄まじいの一言に尽きた。
ユキトは刀を八の次に振って血を払って刀身を鞘に収めた。
しばらく動く気配がなかったので、どうしたものかと思ったが、ゆっくりとこちらに振り返った。
「帰ろうか」
そう言った彼の笑顔は、とても痛々しいほどに辛そうだった。
◇◆◇◆◇
「……で、なんでそんなもんぶら提げてんの? アクセサリー?」
「……あーそうアクセサリー」
「面倒臭がんじゃないわよ!」
アニエは非常に嫌そうな顔だった。というかもうそれでいいよ感たっぷりの返事に激昂した。本当に沸点低いなこいつ。だが他二名も口には出さないが表情が物語っていた。
現在来た道を逆行中。そしてユキトの手には金狼の生首が提げられていた。血が滴っているので、なんだか猟奇的な絵面になっている。というか生首に腕も吊してるからすでに猟奇だ。まあ、したくてしている訳ではないが。
討伐したという証拠は持って帰らねばならない。どこのダンジョンメイカーでもやっていることだ。いたって正常……とは言わんが。
まあ、金狼の討伐は大きな報酬だ。というか接触禁忌指定の化け物は基本的に報酬が馬鹿でかい。鎧殻蟲だて言わずもがな。帰りに回収できるかな? 臭いからいいか。いい虫よけなんだが、あれは人まで遠ざける。考えてみれば僕みたいな奴には案外必要なのかもしれない。が、臭いで避けられるとかそれはさすがに嫌だ。安いプライドだ。ほっとけ。
「金狼の肉は旨いらしいからな」
「まさか食べる気!?」
「そーだな」
「……あんた適当に言ってるでしょう?」
「おー」
「こんの……!」
危険を察知し、ひょいと金狼の頭をアニエの目前に近付けた。
「いやあああああ!」
悲鳴を上げて尻餅を突く。痛がる間もなくこちらを睨んできた。
「この変態! 助平! ぶっ飛ばすわよ!」
「悪かったよ。つーか疲れてんだ。少しは労ってくれよ」
「あんたがそんなもん引っ提げてるからでしょ! お陰で奥にも進めないし……!」
「まあまあアニエ。ユキト君だって理由があってやってるんだし……多分」
「フォローするなら多分は付けんでくれシエル。まあ、単純に討伐の証拠物品を持って行くだけ。牙とかでもいいけど、色々査定基準があるからな討伐関係は。生首ならそれなりに報酬も出るだろ」
ひょいと肩の高さに上げてブラブラさせる。
「こっち向けんな!」
「おっと」
アニエの拳をひらりと躱して、ユキトは先頭に出た。
「遊んでないでさっさと出るぞ。土竜人に襲われたらことだし」
「あんたが悪いんじゃない……!」
悔しげに下唇を噛み締めるアニエ。すごい形相。乙女を捨てるな若人よ。短期は損気だぞ。せっかく可愛らしいんだから。ユキトは苦笑混じりにアニエを見た。
「何よその意味深な目」
「なんでもございません」
さっと視線を逸らす。いかんな。本当に女っていうのはどんな歳でも大体勘がいい。ごまかすように視線を泳がせていると、シエルと目があった。なぜか向こうがはっとして逸らした。
何かしたか……?
そんな不安を覚えつつも、身には覚えがない。聞くべきか聞かざるべきか。何かしたんなら即刻謝らないといけない。どういえば言い。「ごめん」と謝るか。間違いだったらなんかややこしくなりそうだ。なら「どうかした?」か。なんか最悪殴られそうな台詞だ。
うわあ……僕ってば語彙が貧相。自分のことながらお恥ずかしい。
「ねーユキト君」
ちょいちょいと肩を突っつかれた。振り向けばリュカの姿ありけり。これでタイミングは逃した。もう諦めよう。
「なんだ?」
「ユキト君ってランクってどれくらいなの?」
「ランク?」
「うん。ランク。ダンジョンメイカーの。すごい強かったし、気になって」
「ああ……ま、なんだ……おっ出口見えてきたぞ」
「あ、はぐらかした」
「とっとと出ようぜ」
「むう〜」
ひょいと金狼(の頭)を持ち直して出前よろしく歩いていく。
別にランクを秘密にしたことに理由はない。
というか、自分にも理由が解らなかった。どうせ後々ばれるし、それなりのランクだなんてもうすでに解ってるだろう。秘密にする意味はどこにもない。
まだ捨て切れないのかもしれない。さっき捨てた筈なのに、未練がましくポケットに掴まっているのだろう。人間の僕は。
出口が近付くにつれて昼の太陽の光りが目を眩ませる。眩しさに目を細め、少し顔を背けながらメトス鉱山を脱出した。
「うひー眩しい」
「一日中にいただけなのにね」
アニエが手で影を作りながら目を細くして空を見上げた。その隣でシエルが淡く微笑みながら同じように見上げる。
目を慣らすのも兼ねて少し休憩させたほうがいいか。時計を取り出してみたらすでに十二時だった。お昼時だ。道理で腹が空く。三人を休ませて一度索敵がてら帰路を検討したほうがいいだろう。
「とりあえず少し休憩にしようか。どうせ王都までは時間かかる――」
「動くなッ……!」
茂みから人影が飛び出してきた。
その数三人。三人とも武器を持っていた。槍を突き付けられる。
全員が白色が基調のDF/ANDANTEの女性用軽量防具。赤いラインが際立つ。肩には天使の羽を生やした赤いバラの紋章があった。ユキトは咄嗟に手を掛けていた刀から手を離して手を挙げた。
また面倒か。一波乱の予感に嫌気がさした。




