第一章<9> 淡く輝く鉱山【闘争】
「わあああああああああああっ! 出たあああぁぁぁっ!」
という四人分の悲鳴が洞窟内に轟いた。お化けでも出たかのような悲鳴だが、お化けの方が幾分マシだったかもしれない。見たことないからまず恐れようがない、というのが本音だが。
交戦は避けたいといって計画を練っていたところに忽然と現れた金狼。もしかしたらふらっと散歩してたのかもしれないが、それならそれでいい迷惑だ。もっと奥行けや。
「やっべ笑えねー……」
「ど……どうしようユキト君……」
「どうするったって……どうにかしないとダメだろ……」
シエルの不安げな言葉にユキトはそう返すしかなかった。こっちも考えがまとまらないのだ。事態が唐突すぎる。この状況下で考えつく策などユキトには一つしかない。
「逃げるしかないよなあ……」
「どこに逃げるってのよ!」
「それは――」
どこに?
アニエの言葉に即答出来ない自分がいる。
そりゃあ単純に外だ。出来るだけ安全な場所へ。それが第一だ。だけどここは洞穴。背後は壁。目の前は広いホール状の空間。通路までは少し離れている。距離にして目測五十メートル。全速力で約六秒。金狼相手には心許ない数字。要するに逃げ道がない。
それに外に出られたとして、果たして安全かと言えばそんなことはない。土竜人は紫外線に弱いから単純に鉱山から出られないが、金狼は普通に外に出ても行動できる。単純にここに餌があったから居着いているだけだ。
なら、どこに逃げればいい。金狼に見つかった今、僕らはどこに逃げればいい。
「はわわ……こっち来たよ」
はわわなんて言う子がいるとは思わなかった。いろいろと規格外な娘だな。さすがリュカだ。
そんなことはどうでもいい。くそ。頭が回っていない。
金狼がこちらにゆっくりと足を踏み出した。ぎらつく眼光がユキトたちを貫く。
ユキトたちに逃げ道がないことが解っているかのようなゆっくりな歩み。強者の余裕だ。弱肉強食の世界においての強者。人間など向こうからすれば肉の塊でしかなく、ただの餌なのだろう。
腹の立つ話だ。
人の世で全てを奪われてきた僕をここでも弱者として扱うのだ。あの畜生風情は。他の全てを奪われても、命だけは奪わせてなるものか。
どす黒いものが沸き上がってくるのが自分でも解った。
この感情に名を付けるとしたらどんな言葉で表せるのだろう。憎しみではない。怒りでもない。ではなんだ。思い付かない。
「た、戦うしか……ないのかな」
「……そうね。やるしかないと思うわ……」
「そう、だよね……うん、やろう……!」
逃げ場のない現状。シエルとアニエは果敢にも戦う意志を示した。
リュカが不安げな声をあげる。
「や、やれるかなあ」
「やるのよ……それしかないわ」
そう言い放ち、アニエは剣を抜いた。銀光りする剣。美しい刀身が煌めく。それに続いてシエルが槍を、「うへぇ~……」と漏らしながらもリュカも弓矢を手に取った。
「――あんたはどうすんのよ」
「え?」
突然声をかけられ、ユキトは知らぬ間に俯いていた頭を持ち上げた。
「え? じゃないわよ。こうなった以上あたしらは戦うけど、あんたはどうすんのって聞いてんの」
「僕は……」
ふと気付く。アニエの身体は震えていた。
怖いのだ。だがそうしなければ生き残る道はない。三人はだから覚悟を決めた。あの絶対的強者に立ち向かうことを。
「べ、別にあんたが逃げる時間くらいあたしらでも稼げるわけだし? そもそもあんたはもともと他人なんだし……あんたが逃げるっていうならそれで……」
強い子たちだ。
そんな少女らに、そんなこと言わせている僕はどうだ。僕はもう覚悟したのではなかったのか。《剣雄》として再び剣を取ると。それで守れるものがあるなら、いくらでも汚れられると。
鎧殻蟲と戦うときだって、そのために振るったのではなかったのか。この子たちの未来を守るために。たとえそれがエゴだと解っていても、それでも剣を手に取ったのはどこのどいつだ。
言葉だけで叶う夢などこの世にはない。それは承知していたことではないのか。
この少女たちを守るために僕に出来ることはなんだ。
「いや――僕が戦う。あんたらは先に逃げろ」
「はあ? あれ超強いんでしょ!? あんた一人で――」
「やれる。心配するな」
臆している暇はない。《剣雄》に立ち止まることは赦されない。剣の雄士。血に塗れ戦う姿に付けられた忌まわしい名前。どれほど讃えられようとも結局は人斬り。
何が《剣雄》だ。
だけど、それで彼女らを救うことが出来るなら。
「僕が金狼を仕留めるから、その間に鉱山を出るんだ。他人がいると戦いにくい」
「な……」
「早く行け」
刀に手を掛ける。
にじり寄るようにこちらに歩みを進める金狼の眼を見据えて、ユキトは前に踏み出した。
金狼に対するこのどす黒い感情。名前を付けてやろう。こいつは――ただの『八つ当たり』だ。
「白夜に染めてやる」
ユキトは唇を濡らして笑んだ。
◇◆◇◆◇
「ど、どうするアニエ……?」
「どうするって……」
シエルの言葉に言い淀む。とは言え、答えは二つに一つだ。共に戦うのか、それとも置いて逃げるのか。
アニエはゆっくりと金狼に向かって歩くユキトの後ろ姿を見る。
「あの格好つけ……」
置いて行けるわけるないではないか。
初めて出会ったあの瞬間から腹の立つ男だった。妙に落ち着いていて、でもどこか子どもっぽくもあって、変な男だった。兎のような姿をしていると思った。油断ならない。まさに兎の皮を被った狼だ。
鎧殻蟲だったか。悪臭放つあの巨大な生物を倒したのはユキトだという。接触禁忌と定められているらしい、危険な化け物。それを一人で倒す男。
聞きそびれていたけれど、あの男はランクはどれくらいなのだろう。
あの不遜な態度からしてそれなりなのだろう。
金狼。美しくも残虐なこの場においての最強。
すごく強いらしいギルドのメンバーでさえ辛うじてでしか勝てなかったという。昨夜もその一端を見た。あの時あたしはあいつに……。
「どうしたの? 顔赤いけど……」
「な……なんでもないわっ」
シエルは怪訝そうな表情だったけど、追及はしてこなかった。なぜか心苦しい。変な気分だ。あの男のせいなのか。よく解らない。
「一端見守りましょ……。それからでも遅くないわ」
ユキトがシエルやリュカと喋っていると苛立つ。まだ長くいたわけではないけれど、これまで三人でやってきた。あたしは二人を守らなきゃいけないのだ。
そしてあの男はそれを脅かそうとしている。
なんとなく、あいつがシエルと話すときの目が妙に……なんというか……ええと、そう、やらしいのだ。気を引こうとでもしているのだろうか。浅はかだ。まったくもって浅はか。
それでまた格好つけて。
何が一人でやれる、なのだろう。格好つけて死んだら馬鹿だ。
――やれる。心配するな。
言葉が反芻する。やれる? だったらなんで逃げようなんて言うのか。最初から戦えばいいじゃない。心配するな? そんな器用には生きれない。もう、なんだかんだで仲間なんだから。
ユキトと金狼の距離が五メートルくらいになった。一人と一匹は立ち止まった。時が止まったかのように動かなくなった。ほんの数秒だけ。
グオオオオオオン……! という咆哮が唐突に鼓膜を叩いた。
「ひゃ……」
誰かの小さな悲鳴。もしかしたら自分自身かもしれない。震えが身体の奥底から沸き上がってくる。これが恐怖。
それを最も近い距離で受けたのはユキトだ。
ユキトは動じていなかった。怖くて動けないのではとも思ったが、そんなのは次の瞬間には吹き飛んだ。
ガリッという音と一緒に金狼の姿が一瞬で少し大きくなった。正確には距離を詰めたのだ。ほんの一瞬で五メートルという間隔をゼロにしたのだ。ハンマーでも振り下ろしたかのような金狼の一撃が地面を叩いた。
「ユキト君……!」
シエルの悲鳴混じりの声。
爆発音のような音に顔をしかめるアニエは、それでも目を閉じてはいけない気がしてもんもんと上がる土煙を凝視した。
普通ならあれだけでミンチになっている。普通なら。
あいつは普通じゃない。
「いない……?」
消えていた。一寸、跡形もなく粉々にされたのではと思ってしまったが、そうではない。
ユキトは――上空にいた。
逆さ向いている。それがあまりに自然なせいで、天地が逆転しているのはこっちかと思ってしまうほどだった。
だけどそれもまた一瞬。
体勢が元に戻ると流れるように銀色の線を引きながら地面に急降下した。その手には刀が握られている。銀というよりは白色の刀身だった。白銀の刀身。
その先端は赤に染まっていた。
金狼の右肩から血が吹いた。
「うそ……」
あの一筋の線は、斬撃だったのだ。急降下の勢いを使った一撃。それは金狼の肩を裂いた。
金狼は腕を横に振るい、ユキトを薙ぎ払おうとした。だがすでにユキトはそれを見越したかのように後ろに下がっていた。金狼のがむしゃらな一振りは空振りに終わった。
ユキトは距離を詰めた。腕を振りきった金狼は体勢を崩している。そこを狙うつもりなのだろう。極限まで前に屈んで駆けるユキトの姿は、まるで燕のようだった。
金狼はしかし持ち前の身体能力で無理矢理軸足を回転させ、蹴りを繰り出した。格闘家のような動きを思わせる、流れるような動きだ。
ユキトはその蹴りを飛び上がって躱した。
金狼の目の色が変わったような気がした。その足はすぐに地面を叩き、続けざまに拳が飛んできた。フェイクだったのだ。ユキトを空中に留まらせるための。
「ユキトーッ!」
はっとする。無意識に叫んでいた。顔が赤くなる。下を向きたかったけれど、その意思に反して目の前の戦闘から視線は外れなかった。
それはそれでよかったと思う。あれは見なかったら損だろう。なんだかちょっぴり癪だけど。
ユキトは金狼の腕を躱したのだ。身体を捻って。というか人はあんなに身体が曲がるのかと、悔しいが感心してしまった。
そこでユキトは止まらなかった。またもや空振りに終わった、伸びきった金狼の腕に足を掛けて、踏み台にした。再び空中に舞い上がる。そう、本当に舞っているかのようだ。流れるように金狼を切り裂き、流れる血が赤い糸となってユキトの軌跡を描く。
鳥のようだ。棚引くコートの裾が燕尾のようで、まるで白い燕みたいだ。アニエはそう思った。
「すご……ユキト君ってあんな強いんだ」
リュカが唖然とした表情で呟いた。
頷くしかなかった。
強い。あの男は強い。しかもそんじょそこらの腕じゃない。明らかに戦いが身体に染み付いている。見た目は十代後半から二十代前半ほど。剣の達人なんていうのは、髭の生えた年寄りばかりだと思っていた。偏見だけど。それでも、あんな若い奴が剣豪とは思えなかった。
とんだ思い違いだった。
一流の剣士だ。ユキトという男は。
すると疑問が生まれる。
どうして逃げるという選択をしたのだろう。あんなに強いのなら、最初から戦えばいい。逃げるしかないなんて選択肢は生まれないはずだ。
ユキトが着地したと同時にこっちを見た。その目は色々な感情が混じり合っているようだった。必死な目だ。
「お前ら! 何を呆けているんだ! 早く逃げろ!」
そうユキトが叫んだ瞬間、なんとなく理由が解った気がした。
あたしらがいたから?
巻き込むまいと逃げることを優先した。それならユキトが頑なに離脱を推した理由も解る。そもそも行きしなから一人で戦ってばかりだった。あの商人とは護衛を条件に乗ったのだ。あの男もきっと同じなはずだ。
なんだか信用をされていないようで立腹する一方で、胸の奥が変に締め付けられる。あそこにいたときには全然感じたことのない感覚。なんなんだろう、本当に。
「アニエ! 金狼が……!」
シエルの声に意識を再び戻され、アニエは焦点を合わせた。
金狼はこっちを向いていた。
その双眸はまるでいい玩具を見つけた子どものように喜悦に歪んでいるみたいだった。
「うそ……」