妊娠八か月、弟に頭を打ちつけられ、実家を追い出された
妊娠八か月のとき、夫が急きょヨーロッパへ出張することになり、私は一週間だけ実家で過ごすことになった。
ところが帰ったその日の夜、婚姻届を出したばかりの弟の妻が食卓をひっくり返し、私の鼻先に指を突きつけた。
「結婚したくせに実家へ戻って、ただ飯を食べるなんて。もうこの家の人間でもないのに」
母は彼女の頬を叩き、父は出ていけと怒鳴った。弟も私をかばい、妻に謝れと迫った。
けれど翌日、私が弟の買ってきた白桃を一つ食べただけで、彼女は再び罵声を浴びせてきた。
今度は、弟の態度が違った。
「姉ちゃんのほうが年上なんだから、玲奈のことを少しくらい大目に見てやれないの?」
あのときの私は、まだ知らなかった。
弟を失うのに必要だったのは、たった一つの白桃だった。
1
妊娠三十一週に入った頃から、足のむくみがひどくなり、夜中にふくらはぎがつって目を覚ますことも増えていた。そんな時期に、怜司が担当している海外投資案件で問題が起き、取引条件を再確認するため、本人がヨーロッパまで出向かなければならなくなった。
最低でも一週間は日本を離れる。私を一人で残すことが不安だった怜司は、出発前に月丘市の実家まで送ると言って譲らなかった。
月丘市は、都心から電車で一時間ほどのベッドタウンだ。両親は新しく造成された住宅街にある、庭付きの二階建て一戸建てで暮らしていた。
家の前に車を止めても、怜司はシートベルトを外そうとしなかった。ハンドルを握る指先が白くなり、視線は何度も私のお腹へ落ちている。
「洗面用具と着替え、スキンケア用品は分けて入れてある。薬と母子健康手帳は、いちばん外側のポケットだ」
「夜、足がつらくなったら、お義母さんに温めてもらって。無理に歩かなくていいし、階段もなるべく使わないで」
私は助手席にもたれたまま、呆れて彼を見た。同じ注意を、ここへ来るまでにもう三回は聞いている。
「実家に数日泊まるだけよ。無人島へ行くわけじゃないんだから」
「やっぱり、出張を取りやめようかな」
「高城社長。この案件、もう半年もかかってるんでしょう? 今さら行かなかったら、社員まで巻き添えにして残業させることになるわよ」
ドアを開けてから、もう一度だけ振り返った。怜司の表情はまだ硬く、目を離した瞬間に私が消えてしまうとでも思っているようだった。
「ちゃんと仕事してきて。帰ってくる頃にも、赤ちゃんはまだ私のお腹の中にいるから」
「毎日、ビデオ通話する」
「わかった」
「朝と昼と夜に一回ずつ」
「そんなことを言ってたら、飛行機に乗り遅れるわよ」
わざと険しい顔をすると、怜司はようやく車を発進させた。それでも少し先で一度停車し、私が手を振るまで動かなかった。
両親は私が帰ると聞いて、朝から準備をしていた。母はまるでお祭りでも始まるような声で電話をかけてきて、父は馴染みの精肉店へ牛肉を買いに行ったらしい。
「お父さんは澪の好きなものを買いに行ったわ。私も野菜を用意しておくから。布団も昨日干しておいたし、何も持ってこなくていいのよ」
玄関のスマートロックに暗証番号を入力し、庭へ入る。アジサイの盛りは過ぎていたが、父が新しく植えたバラはちょうど見頃で、花台の横にはハーブの鉢が並んでいた。
新しく咲いた一輪を見ようと腰をかがめかけたとき、背後から甲高い声が飛んできた。
「人の家の前で、何してるんですか?」
2
振り返ると、庭の入口に若い女が立っていた。きれいに化粧をし、身体の線が出る赤いワンピースを着ている。手にはデパートの紙袋を下げ、私の顔からお腹までを遠慮なく見回していた。
「あなた、誰?」
「それはこっちの台詞です」
女は顎を上げ、玄関のスマートロックへ視線を向けた。両親から、家に誰かが住み始めたとは聞いていない。
「ここ、森川家ですよね。どうして見ず知らずの妊婦が、暗証番号を知ってるんですか?」
彼女は私のお腹をじっと見つめ、次第に表情を険しくしていった。何かを思いついたらしく、声に露骨な嫌悪が混じる。
「まさか、悠人が外で作った女? もうすぐ子供が生まれるから、責任を取らせに来たとか?」
悠人は私の弟だ。二か月ほど前、家族のグループLINEで恋人ができたとは聞いていたが、その相手がここで暮らしているとは思わなかった。
「悠人の姉よ」
「姉?」
警戒が解けるどころか、彼女の目には軽蔑が浮かんだ。ゆったりしたマタニティーウェアを見てから、鼻で笑う。
「結婚してるのに、大きなお腹で実家に戻ってきたんですか?」
「何か問題でも?」
「あるに決まってるでしょ。結婚したなら、自分の家庭を大事にするものじゃないんですか。三十にもなって親の世話になりに戻ってくるなんて、恥ずかしくないんですか?」
彼女が持っているのは、母がよく利用する商業施設の紙袋だった。スーパーだけでなく、私が契約している会員制エステサロンも入っている。
「ここは私の両親が暮らしている家よ。いつ帰ってくるかを、あなたに許可してもらう必要はないわ」
女は腕を組み、冷たく笑った。
「数日泊まるくらいなら構いませんけど、我が物顔はやめてくださいね」
その直後、門の外から父の明るい声が聞こえてきた。
「澪! お父さんが何を買ってきたか、見てみろ!」
3
父は両手に買い物袋を提げ、母は果物の箱を抱えていた。庭に立つ私を見つけると、二人とも急いで近づいてくる。
「どうして外にいるの? こんなに暑いのに」
母は私のバッグを受け取り、腕に触れて体調を確かめた。父は待ちきれない様子で袋を開き、中の食材を見せてくる。
「もう八か月でしょう? 最近、お腹は張らない?」
「先生には問題ないって言われてる」
「澪の好きな和牛を買ってきたぞ。今夜はすき焼きにして、あとは薄味の汁物も作ろう」
二人はそこで、ようやく隣にいる女へ目を向けた。母は私たちの間に流れる空気を確かめるように見回した。
「もう会ったの?」
母は彼女を自分のそばへ呼び、笑顔で紹介した。
「玲奈よ。悠人のお嫁さん。少し前に婚姻届を出したばかりで、式はまだなの」
妻?
玲奈を見ると、先ほどとは別人のような顔をしていた。母から果物の箱を受け取り、素直で感じのいい笑みを浮かべている。
「本当にお義姉さんだったんですね。悠人が写真を見せてくれたことがなかったから、不審な人が入ってきたのかと思って」
「数日泊まるくらい、もちろん構いません。さっきは勘違いしてしまって、すみませんでした」
両親は何も気づいていなかった。私もその場で彼女を問い詰めることはしなかった。
母はもともと丈夫ではなく、父も血圧が高い。たった一週間の滞在で、帰った初日から心配をかけたくなかった。
玄関へ入る直前、振り返る。玲奈は両親の後ろで果物の箱を抱え、口元には笑みを残したまま、氷のような目で私を見ていた。
4
私の部屋は、結婚前とほとんど変わっていなかった。本棚の本も、クローゼットに残した服もそのままで、窓辺の小さな机には高校時代に買ったガラスの花瓶まで置かれていた。
母が新しく洗ったシーツを敷いてくれていた。布団からは、日に干したあとの懐かしい匂いがする。
「悠人が結婚したこと、私たちも最近まで知らなかったのよ」
「玲奈さんが妊娠したから、これ以上は待てないって。落ち着いたら、改めて式を挙げるつもりらしいわ」
「付き合ってどれくらい?」
「二か月くらいかしら」
私はスマートフォンを取り出し、そのまま悠人に電話した。受話口から歓声と、ボールを蹴る音が響いてくる。
「姉ちゃん? どうしたの、急に」
「悠人。今すぐ帰ってきなさい」
「えっ、姉ちゃん帰ってきたの?」
一瞬静かになり、すぐに慌ただしい音が聞こえ始めた。荷物をまとめながら、コートの外へ走っているらしい。
「先に連絡してくれたら、家の前に横断幕でも出したのに」
「横断幕はいらない。いつ結婚したのか、帰って説明して」
「ちょっと事情があってさ」
「一時間以内に帰ってきて」
悠人は慌てて仲間へ声をかけた。電話の向こうから、からかうような笑い声が上がる。
「姉ちゃんが帰ってきたから、今日は上がる! また今度な!」
通話が切れると、母は苦笑した。ベッド脇のテーブルへ水を置きながら、当然のように口にする。
「小さい頃から、あの子が素直に言うことを聞くのは澪だけね」
そのときの私は、それがこれからも変わらないと思っていた。
5
一時間も経たないうちに、悠人は立派な果物箱を抱えて帰ってきた。中には岡山県産の高級白桃が六つ、一つずつ緩衝材に包まれて並んでいる。
「姉ちゃんの好きな白桃」
悠人は昔と変わらない笑顔で、箱を私の前へ差し出した。
「デパートで買ってきたんだ。これなら機嫌直るだろ?」
私は手を伸ばし、弟の耳を引っ張った。悠人は慣れた様子で首を傾け、情けない声を上げる。
「機嫌取りはあと。どうして結婚したことを黙ってたの?」
「痛い、痛いって! 俺、もう二十六だぞ。いつまでこれやるんだよ」
「二十六にもなって、知り合って二か月の相手と結婚するほうが問題でしょ」
悠人は耳を押さえ、テーブルの向こうへ逃げた。笑みが少し消え、言いにくそうに視線をそらす。
「玲奈が妊娠したんだ。責任を取らないわけにいかないだろ」
「避妊はしてたんじゃないの?」
「事故みたいなものだよ。医者だって、確率がゼロじゃないって言ってた」
悠人は勢いで行動することはあっても、責任から逃げるような人間ではない。子供ができたのなら結婚すると決めるのも、彼らしいと言えば彼らしかった。
ただ、玲奈について何も知らなさすぎる。
「今日、あの人は私をあなたの浮気相手だと思ったみたい。姉だとわかったら、今度は結婚したくせに実家へ転がり込んで親の世話になるなんて恥ずかしいって言われたわ」
悠人の笑顔が消えた。椅子を引き、すぐに二階へ向かう。
「本当にそんなこと言ったの?」
「一言も付け足してない」
「玲奈と話してくる」
数歩進んでから、悠人は振り返った。私が腹を立てていることを心配したのか、声が少し和らぐ。
「姉ちゃん、あまり怒るなよ。玲奈もこの家に来たばかりで、不安なのかもしれない。でも、そんな言い方は駄目だ」
その背中を見送りながら、胸の中の苛立ちがわずかに薄れた。
少なくとも、このときはまだ、どちらが悪いのか理解していた。
6
悠人は子供の頃から、決して手のかからない弟ではなかった。中学二年の頃には、学校の外で知り合った連中と授業をさぼり、改造バイクにまで乗るようになった。
両親が叱れば叱るほど反発した。最後に私が彼を連れ戻し、交通事故の遺族が開いた安全講習へ無理やり参加させた。
事故車両や遺族の写真を見たあと、悠人は三日間、バイクに触れようとしなかった。
高校では、成績が急に落ちた時期があった。父は遊びすぎだと責め、担任からも何度も家に連絡が来たが、私は悠人が怠けているのではないことに気づいていた。
眠れない日が続き、試験会場に入ること自体が怖くなっていたのだ。
私は心療内科へ連れていき、一緒に勉強の予定を組み直した。休みの日には大学のオープンキャンパスにも付き添った。
その結果、悠人は関東にある私立大学へ進学した。入学祝いにノートパソコンとタブレットを買い、サッカーに夢中になってからは一緒にヨーロッパまで試合を見に行った。
ユニフォームとスパイクで、クローゼットの半分が埋まるほどだった。
悠人は私を怖がる一方で、誰よりも頼っていた。就職したばかりで給料も多くなかったのに、少しずつ貯金して、私の結婚祝いにネックレスを贈ってくれた。
結婚式ではマイクを握り、まともに話せないほど泣いた。
「姉ちゃんがいなくなったら、俺、困ったとき誰に相談すればいいんだよ」
招待客は笑っていたが、私まで目頭が熱くなった。
あの頃は想像もしなかった。
知り合って二か月の女のために、二十年以上の姉弟関係を否定される日が来るなんて。
7
翌朝、私が一階へ下りたのは十時近くだった。両親はすでに外出しており、食卓には朝食が用意されていた。
妊娠してから、ご飯と焼き魚の匂いが駄目になった。味噌汁を少し口にしたものの、食欲は湧かなかった。
居間に置かれた白桃の箱を見つけ、一つだけ洗って食べる。ちょうど種を捨てようとしたところで、玲奈が二階から下りてきた。
空になった緩衝材を見た瞬間、彼女の顔色が変わった。
「白桃、食べたんですか?」
「ええ」
「誰に断って食べたんですか?」
聞き間違いかと思って顔を上げた。玲奈は桃の種をつまみ、乱暴にゴミ箱へ投げ入れる。
「昨日、悠人が私に買ってきたものよ」
「悠人は私の夫です。夫が買ったものなら、私への贈り物でしょう?」
「本人に聞いてみたら?」
「この白桃、一ついくらするか知ってます? デパートで四千円以上するんですよ。こんな時間まで寝て、家のことは何もしないのに、高いものだけは迷わず食べるんですね」
「悠人に確認すればいいでしょう」
「昔、少し物を買ってあげたからって、一生あの人にたかるつもりですか?」
玲奈は私の部屋着に目を落とした。京都の工房で仕立ててもらった草木染めの服で、あの白桃の箱より高いが、説明する気にはならなかった。
「どこの安物かわからない服を着てるくせに、高い果物には手を出すんですね。旦那さんにも愛想を尽かされて、実家へ押しつけられたんじゃないですか?」
「ここは私の両親が暮らしている家よ。白桃も、弟が私に買ってきたもの。あなたに追い出される筋合いはないわ」
玲奈は唇を歪め、箱を抱え上げた。
「実家?」
「結婚した時点で、お義姉さんは高城家の人間でしょう。ここは将来、悠人と私たちの子供が住む家です。何度も戻ってきて部屋を占領されたら、迷惑なんですよ」
残りの五つをすべて二階へ運び、玲奈は身支度をして出ていった。
8
その直後、スマートフォンに会員制エステサロンから通知が届いた。私はそこへ八十万円を前払いし、年間コースを契約していた。
妊娠後はほとんど通えなくなったため、残っている施術回数を母も使えるよう、家族利用者として登録していた。ところが母は、半年間で一度しか利用していない。
最近一か月の予約履歴には、若い女性向けの施術が十回以上並んでいた。その日の午後にも、二名分のコースが予約されている。
先ほど玲奈が持っていたのは、そのサロンが入る商業施設の紙袋だった。
私は店へ電話し、本人確認を済ませたうえで、家族利用登録を停止してもらった。残っているプリペイド残高も、一時的に凍結する。
契約者は私だ。
実家へ戻って親にたかっていると罵る一方で、私のお金を使って友人をもてなす人間を、これ以上甘やかすつもりはなかった。
午後は、予約していたマタニティーヨガへ行った。レッスンの途中で、悠人から電話がかかってきた。
問いかけというより、責めるような声だった。
「姉ちゃん、どうしてエステの予約を止めたんだよ」
「私が契約しているコースよ。止めたらいけないの?」
「玲奈と友達は、もう店まで行ってたんだぞ。二人の前で利用できませんって言われて、すごく恥をかいたんだ」
「それで?」
悠人はしばらく黙った。怒りを抑えながら、玲奈をかばう理由を探しているようだった。
「昨日の言い方は悪かったって、本人も反省してる。玲奈は俺のことが好きすぎて、姉ちゃんと俺が仲いいから嫉妬しただけなんだ」
「私が実家に転がり込んで親にたかっていると言ったのも、嫉妬なの?」
電話の向こうが静かになる。悠人は答えず、玲奈の妊娠を持ち出した。
「玲奈も妊娠してるから、気持ちが不安定なんだよ。姉ちゃんのほうが年上なんだから、少しくらい大目に見てやれないの?」
「今朝は、白桃を一つ食べただけで罵られたわ」
「あれは姉ちゃんに買ってきた。でも玲奈は、自分への贈り物だと思ったらしいんだ。少しくらい譲ってやってもいいだろ」
「私が食べたのは一つだけよ」
再び沈黙が落ちる。悠人自身も、玲奈の言い分が通らないことはわかっているはずだった。
「姉ちゃんだって、こんなことで友達の前で恥をかかせなくてもいいだろ。利用できるように戻して、それから一言謝れば終わる話じゃないか」
「嫌よ」
通話を切り、悠人の番号を着信拒否にした。
知り合って二か月で妊娠し、避妊もしていた。それにしては、あまりにも都合がよすぎる。
これまで弟の交際へ口を出すつもりはなかったが、さすがに見過ごせなかった。
会社の顧問弁護士へ連絡し、公安委員会へ届出済みの、信頼できる探偵事務所を紹介してほしいと頼んだ。
「森川玲奈、旧姓は川島。過去数年間の交際関係を調べてほしいの。合法的に確認できる範囲だけでいいわ。医療記録には手を出さないで」
手配を終え、私はレッスンへ戻った。
9
休憩時間が終わる前に、スタジオの扉が勢いよく開いた。姿勢を調整してくれていたインストラクターが驚き、すぐに私の腰を支える。
入口には、息を切らした悠人が立っていた。走ってきたらしい。
「どうして着信拒否にしたんだよ」
「ここ、レッスン中よ」
上着と水筒を持ち、インストラクターへ謝ってから廊下へ出た。悠人も後ろからついてきて、口を開くなり玲奈が受けた屈辱を並べ始めた。
「玲奈、午後ずっと泣いてたんだ。初めて友達をああいう店へ連れていったのに、二人そろって利用を断られて、これからどうやって顔を合わせるんだよ」
「玲奈の契約じゃないでしょう」
「母さんが家族利用を許したんだろ。玲奈は俺の妻なんだ。急に止めるなんて、嫌がらせとしか思えない」
足を止めて振り返った。悠人の顔は赤くなっていたが、その怒りは今日一日のものには見えなかった。
「私の契約を勝手に使っていたから、利用を止めただけよ。何が問題なの?」
「姉ちゃんは昔からそうだ。姉ちゃんが言ったことには、俺が従って当然だと思ってる。パソコンを買ったり、スパイクを買ったり、旅行に連れていったりしたのも、ずっと自分の味方をさせるためだったんだろ」
胸の奥へ、突然針を刺されたようだった。目の前にいるのは、よく知っているはずなのに知らない人間だった。
「玲奈にそう言われたの?」
「誰が言ったかなんて関係ない」
悠人は私の前へ回り込み、行く手を塞いだ。
「俺はもう結婚したんだ。自分の家庭を守るのが当然だろ。玲奈に謝ってくれ」
「独立した家庭だと言うなら、二人で家を借りて暮らしなさい」
悠人の表情が固まった。目の奥に浮かんだ気まずさが、すぐに激しい怒りへ変わる。
「今住んでる家に、姉ちゃんはいくら出したんだよ」
「金、金って。それ以外に姉ちゃんに何があるんだ?」
一歩近づき、声を荒らげた。
「義兄さんは金持ちなのに、もうすぐ出産の姉ちゃんを実家へ押しつけたんだろ。あの人だって、姉ちゃんの支配に耐えられなくなったんじゃないのか」
手を上げかけたが、途中で止めた。その手首を、悠人が強くつかむ。
「いつまでも子供扱いするなよ。昔は力でかなわなかっただけで、今まで姉ちゃんに手を出さなかったのは、俺が我慢してたからだ」
見上げた顔から、私の後ろをついて歩いていた少年の面影が消えていた。
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手を振りほどこうとしたが、悠人はすぐには放さなかった。感情が高ぶるほど、指に力がこもっていく。
反対の手で肩を押し、距離を取ろうとした。
「離して」
「離しなさい!」
悠人が勢いよく腕を振り払った。その力が強すぎて、私は二歩ほどよろめき、廊下脇の収納棚に後頭部をぶつけた。
鈍い痛みが頭の奥で弾ける。反射的にお腹をかばい、棚へもたれることで転倒だけは免れた。
悠人の顔から血の気が引いた。一歩近づきかけたが、私に触れることをためらっている。
「姉ちゃん……」
後頭部に手を当てると、指先に血がついた。照明が揺れて見え、悠人の輪郭さえぼやけていた。
「ごめん。わざとじゃない」
「病院へ連れていく」
「来ないで」
廊下を通る人々が、こちらへ視線を向けていた。悠人は拳を握り、それから力を抜く。
結局、彼は本当に背を向け、階段のほうへ消えていった。
私は棚に背を預けたまま、ゆっくりとその場に座り込んだ。
人間関係が壊れるとき、必ずしも大きな音がするわけではない。
ただ誰かが背を向けた瞬間、もう二度と元には戻らなくなる。
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廊下の椅子に座っていると、スマートフォンが鳴った。母の明るい声が聞こえ、家はまだ昔のままなのだと錯覚しそうになった。
「澪、レッスンは終わった? お父さんがもう迎えに向かってるわ。今夜は何が食べたい?」
その声を聞いた瞬間、張りつめていたものが緩んだ。
ここ二日間に起きたことを、すべて話した。電話の向こうが数秒間、静まり返る。
「今、どこにいるの?」
「教室の外の廊下」
「そこから動かないで。すぐ行くから」
父が隣で怒鳴る声が聞こえた。母は私を怖がらせないよう、落ち着いた声に戻る。
「姉に手を上げるなんて、あの馬鹿が!」
「まず病院へ行きましょう。お腹に赤ちゃんがいるんだから、ほかの話は帰ってからよ」
三十分ほどして、父がヨガ教室へ到着した。
病院では傷の処置だけでなく、NSTで胎児心拍とお腹の張りも確認された。数時間経過を見た結果、頭の傷は浅く、張りも強くなっていなかったため、自宅で安静にするよう指示された。
帰りの車内で、父はずっと険しい顔をしていた。後部座席では、母が私の手を握ってくれていた。
「安心して。今度こそ、お父さんとお母さんがきちんと話をつけるから」
あのときはまだ信じていた。
少なくとも両親だけは、いつまでも私の味方でいてくれると。
12
帰宅すると、夕食が食卓へ並んでいた。エプロン姿の悠人が台所の前に立ち、私たちを見るなり椅子を引いた。
私は彼の横を通り過ぎ、別の席に座った。
玲奈はうつむいたまま食卓についていた。目元が赤く、泣いた形跡がある。だが私を見た瞬間、哀れげな表情が消え、むき出しの敵意が浮かんだ。
父が車の鍵を強くテーブルへ置いた。
「悠人。妊娠中の姉を突き飛ばしたのか」
「突き飛ばすつもりはなかった」
「怪我をさせておいて、まだわざとじゃなかったと言うのか」
父の指が怒りで震えている。まるで、自分が育てた息子を初めて見るような目だった。
「中学生のとき、外で揉め事を起こして路地裏へ連れ込まれたおまえを、誰がかばった? 相手は刃物まで持っていた。澪の腕に残った傷を忘れたのか」
あのときの傷跡は、今も左腕に残っている。
悠人はうつむき、何も答えなかった。代わりに、玲奈が箸を置いた。
「それが何なんですか?」
食卓の空気が凍りついた。玲奈はまだ目立たない腹部へ手を当て、悪びれる様子もなく続けた。
「昔、お義姉さんが悠人を助けたことは認めます。でも、何度か助けたからって、一生言うことを聞かせる権利があるんですか?」
「今日だって、先に手を上げようとしたのはお義姉さんでしょう。悠人は自分を守ろうとして、手を振り払っただけです。どうして息子ばかり責めるんですか?」
悠人が顔を上げ、玲奈へ感動したような目を向けた。
玲奈は私へ向き直り、まるで譲歩してやるとでも言いたげに口にした。
「今日、エステで友達の前で恥をかかされました。今度は私名義で年間コースを契約して、きちんと謝ってくれるなら、もう追及しません」
「あなたが追及するの?」
怒りを通り越し、笑いそうになった。
「何の権利があって?」
13
玲奈は椅子の背にもたれ、ますます当然のような顔になった。私の首元を指さし、自分が不当に扱われてきた証拠でも見つけたように言う。
「お義父さんたちは、ずっとお義姉さんばかり優遇してきたんでしょう」
「結婚するとき、三百万円も持たせてもらって、悠人からも何十万円もするネックレスをもらったって聞きました。もう裕福な家へ嫁いだのに、まだ親や弟から受け取るなんて、欲張りすぎじゃないですか?」
ネックレスは、悠人が社会人一年目の給料から少しずつ貯めて贈ってくれたものだった。大切にしていたのは、値段のためではない。
「この家の息子は悠人です。私のお腹にいるのは森川家の跡取り。老後の面倒を見るのも私たちなんだから、財産を受け継ぐのも私たちでしょう」
父の顔が険しくなった。両手を食卓へつき、怒鳴らないよう必死に抑えている。
「うちに、男の子だから女の子より大事だという考えはない」
「だったら、よく考えてください」
玲奈は腹部へ手を添え、ゆっくり立ち上がった。母が何を一番恐れているのか、よく理解している。
「これからもお義姉さんが好きなときに戻ってくるなら、私と悠人は出ていきます。この子にも会わせません」
母の唇が動いたが、すぐには言葉が出なかった。その迷いを見逃さず、玲奈はスマートフォンを取り出した。
画面には、産婦人科の中絶相談予約が表示されていた。
「もう病院へ相談の予約を入れてあります。そこまで私たちを追い詰めるなら、明日にでも産まないと決めます」
母は反射的に玲奈のお腹へ目を向け、顔を青ざめさせた。
私は母を見た。
子供を使って人を脅すなと、たった一言言ってくれればよかった。
しかし母はエプロンを強く握り、私から目をそらした。
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胸の上へ、重いものがゆっくりのしかかってくるようだった。私は箸を置いた。
玲奈は立ったまま、腹の子によって、この家の決定権まで手に入れたつもりでいる。
「悠人から、この家が誰のものか聞いてないの?」
玲奈は一瞬きょとんとしたあと、当然のように答えた。
「お義父さんとお義母さんの家でしょう」
「土地も建物も、登記名義は私よ」
得意げだった表情が固まった。すぐに首を振り、自分が間違っている可能性を拒絶する。
「嘘をつかないでください」
「六年前、私がこの土地を買って、住宅会社に家を建ててもらったの。庭と内装を含めて、総額六千八百万円」
悠人は目を伏せ、玲奈を見ようとしなかった。父はため息をつきながらも、声には隠しきれない誇らしさがあった。
「澪は大学時代に起業したんだ。卒業後に会社が軌道へ乗って、まず俺たちが住んでいたマンションのローンを完済してくれた。それから、この家を建ててくれた」
母もようやく顔を上げ、玲奈が知らなかった事実を伝えた。
「悠人が乗っている車も、お姉ちゃんが買ってくれたものよ。大学で使ったパソコンも、ヨーロッパへサッカーを見に行った費用も、澪が自分で稼いだお金なの」
玲奈は最後の望みをかけるように悠人を見た。
「本当なの?」
「本当だよ」
「父さんと母さんは、前は古い三LDKのマンションに住んでた。この家は姉ちゃんが建てたんだ」
玲奈の顔色が何度も変わった。だが、自分の誤解を恥じる代わりに、すぐ別の理屈へ切り替えた。
「だとしても、何年も両親を住まわせてきた家でしょう。今さら追い出すなんてできません」
「両親を追い出すとは言ってないわ」
「だったら、私たちを追い出すのもおかしいです。私たちとお義父さんたちは家族です。お義姉さんは、たまに戻ってくるだけの人でしょう」
父が食卓を叩き、食器が音を立てた。
「この家に、よそ者なんていない!」
玲奈は突然お腹を押さえ、苦しそうに顔を歪めた。悠人はすぐに身体を支え、母も慌てて立ち上がる。
「痛い……」
表情は強張っているものの、本当に痛がっているようには見えなかった。私の中には、怒りより疲労だけが残っていた。
「演技はやめて」
母の動きが一瞬止まった。
玲奈と私を見比べたあと、結局、母は私に譲歩を求めた。
「澪、今は少し黙っていて。家の中がこんな状態では、誰にとってもよくないでしょう」
母はまた、私と目を合わせなかった。
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悠人は玲奈を支えたまま、怒りをすべて私へ向けた。自分が一人前になったことを証明する機会を、ようやく得たとでも思っているようだった。
「姉ちゃんが帰ってきてから、この家はずっと揉めてる」
「本当に、私が帰ってきたせい?」
「玲奈の言うとおりだ。姉ちゃんはずっと、俺を自分の付属品だと思ってた。金を出したんだから、言うことを聞いて当然だって」
悠人は玲奈の手を握った。二人は、自分たちを長年苦しめてきた敵と対峙するように並んでいた。
「もう姉ちゃんからは、一円も受け取らない。俺たちは、これで終わりだ」
「わかった」
あまりに静かな返事に、悠人のほうが戸惑った。
「独立するなら、明日には出ていって」
悠人は言葉に詰まり、数秒黙り込んだ。私が引き止めるとでも思っていたのだろう。
「出ていくよ」
「これから義兄さんとうまくいかなくなっても、俺に泣きつくなよ」
「その心配は必要ないわ」
悠人は玲奈を支え、二階へ上がっていった。父は何度も首を振り、母は椅子へ座り直して小さくため息をついた。
「どうして、こんなことになったのかしら」
母は悠人を責めず、私を慰めることもなかった。
その目にはわずかな非難さえあった。私さえ頭を下げれば、家族はここまで壊れなかったと言いたげだった。
16
部屋へ戻り、扉へ背を預けたまま長い間立っていた。妊娠中の身体は普段より疲れやすく、感情も何倍にも膨らんでいた。
弟の裏切りには怒りを感じた。
だが、母の沈黙は、身体の芯まで冷えさせた。
子供の頃から、両親は悠人が男だからといって、私より大切にすることはないと言ってきた。おもちゃも、お菓子も、塾の費用も、小遣いも、ほとんど同じだった。
弟のために我慢させられている女の子の話を聞くたび、自分は理解のある家に生まれたのだと安心していた。
それなのに玲奈が孫を盾にした瞬間、母は迷った。
ベッドへ横になり、枕へ静かに涙が染み込んだ。いつ眠ったのか、自分でもわからなかった。
翌朝、目を覚ますと家の中は不自然なほど静かだった。
父からは、悠人たちの荷物を運んでいるとメッセージが来ていた。二人は当面、両親が以前住んでいたマンションへ移るらしい。母も手伝いについていったという。
栄養バランスの取れた弁当を注文し、食後は庭をゆっくり歩いた。朝の涼しさはすでに消え、日差しが強くなり始めていた。
散歩を終え、玄関のスマートロックへ指を当てる。認証エラーの音が鳴り、暗証番号を入れても結果は同じだった。
二階のバルコニーから笑い声がした。
玲奈が手すりにもたれ、スマートフォンを振っていた。
「無駄ですよ。お義姉さんの指紋と暗証番号、私が削除しましたから」
「誰の許可を得て、玄関の設定を変えたの?」
「ここはこれから、私と悠人が暮らす家です。出ていくのはお義姉さんでしょう」
母は玲奈へスマートロックの管理者用暗証番号を教えていたらしい。強い日差しに目を細め、額へ手をかざした。
「あなたたちは、もう引っ越したんじゃないの?」
「一時的に荷物を移しただけです」
玲奈は腹部を撫で、勝ち誇った声を出した。
「今朝、お義母さんが約束してくれました。お義姉さんが東京へ帰ったら、私たちをまたこの家に住まわせてくれるって」
「自分名義の預金と、前に住んでいたマンションも、将来は悠人へ残すそうですよ」
「母が本当にそう言ったの?」
「中絶相談の予約画面を見せたら、すぐに折れました」
玲奈はバルコニーから私を見下ろし、嬉しそうに笑った。
「親にあれだけお金を使っても、結局、私のお腹の子には勝てなかったんですね」
これ以上言い争う気はなかった。
散歩に出ただけだったため、バッグも持たず、スマートフォンも玄関の棚へ置いたままだった。
「私のスマートフォンを持ってきて」
「何でもできるお義姉さんが、私に頼むんですか?」
玲奈は室内へ戻り、ガラス戸の向こうから声だけを投げてきた。
「自分で東京まで帰ったらどうです?」
17
その日の午前中、探偵事務所から顧問弁護士へ初期調査の報告が届いていた。
玲奈は悠人と知り合う前、既婚男性と交際していた。相手の妻に発覚し、弁護士を通じて示談書を交わしている。
玲奈は関係を終わらせると約束し、妊娠中絶と療養の費用という名目で、別途百二十万円を受け取っていた。相手の妻へ送った産婦人科の検査資料と予約記録も残っている。
そこに記載された妊娠週数は、悠人と出会うより一か月以上前のものだった。
つまり悠人は、最初から代わりの父親として選ばれたのだ。
両親が一戸建てに住み、悠人が安くない車に乗っていたため、玲奈は森川家を資産家だと思い込んだ。
「玲奈」
バルコニーを見上げると、玲奈はガラス戸のそばに立ったままだった。
「あなたが以前、既婚者と付き合っていたことは知ってるわ」
玲奈は手すりを強くつかみ、笑顔を消した。
「私を調べたんですか?」
「お腹の子が誰の子か、自分が一番わかっているでしょう」
顔が一瞬歪んだが、すぐに強気な態度へ戻った。
「だったら、悠人に言えばいいじゃないですか。妻の私と、お義姉さんのどっちを信じるか、試してみれば?」
日差しがさらに強くなり、空気が蒸してきた。汗が流れ、お腹にもわずかな張りを感じる。
住宅街を抜けた先にコンビニがある。そこで電話を借り、タクシーを呼んでもらうつもりだった。鍵の件は、その後で警察と業者へ相談すればいい。
数歩進んだところで、背後からガラスの割れる音がした。
バルコニーから落ちてきたコップが、私のすぐ前の敷石へぶつかり、粉々に砕ける。
反射的に後ろへ下がった。
靴底が転がった破片を踏み、身体のバランスが崩れた。
そのまま、地面へ激しく倒れ込んだ。
18
腹部に鋭い痛みが走った。手のひらを地面で擦り、温かい液体が太ももを伝って、スカートを濡らしていく。
「お腹……」
痛みは間隔を置かず強くなった。どうにか振り返ると、玲奈が一階から庭へ飛び出してきていた。
地面の血を見た瞬間、唇まで真っ青になる。
「どうして……こんな……」
「救急車を呼んで」
「119番……」
玲奈は震える手でスマートフォンを取り出し、番号を押した。
通話がつながったのに、何も話さない。
胸の奥に強い恐怖が湧き上がった。私は声を張り、電話の向こうへ助けを求めようとした。
「助けて……」
二言目を口にする前に、玲奈がしゃがみ込み、私の口を手で塞いだ。呼吸は乱れ、目には常軌を逸した光が浮かんでいる。
「私がコップを落としたって知られたら、全部終わる」
電話の向こうでは、通信指令員が何度も状況を確認していた。玲奈は広がっていく血を見下ろし、ゆっくり立ち上がる。
「すみません。間違えて押しました」
通話を切り、スマートフォンをバッグへ戻した。
私は残った力で、玲奈のスカートをつかんだ。
「今、救急車を呼んだら、私は終わるの。あなたが本当に死んでも、事故だと思われれば、私がやったなんて証明できない」
玲奈は裾を強く引いて私の手を外し、庭から出ていった。
足音が遠ざかり、やがてタクシーのドアが閉まる音がした。
真夏の日差しが肌を焼き、地面から伝わる熱で息ができない。叫ぶ力さえ、急速に失われていく。
意識が暗闇へ沈む直前、見慣れた車が道路脇へ止まった気がした。
誰かが車から飛び出し、転びそうになりながらこちらへ走ってきた。
19
目を覚ましたとき、窓の外はすでに暗かった。病室の照明は柔らかく、消毒薬の匂いがする。
怜司がベッド脇に座り、両手で私の手を握っていた。
顎には無精ひげが生え、シャツはしわだらけだった。いつも整っている髪も乱れている。
私が目を開けると、怜司はうつむき、額を手の甲へ押し当てた。
「目が覚めた……」
喉が焼けるように乾いていた。怜司はすぐにぬるい水を用意し、ストローで少しずつ飲ませてくれた。
「常位胎盤早期剝離の疑いと、胎児心拍の低下があって、緊急帝王切開になった。出血は多かったけど、今は落ち着いてる」
「赤ちゃんは?」
「NICUにいる。医師は、今のところ状態は安定していると言っていた」
返事は早かったが、怜司の視線はずっと私の顔から離れなかった。いつも冷静で感情を表に出さない目が、真っ赤に充血している。
「仕事を早く切り上げて帰ってきたんだ。驚かせようと思ってた」
「家の前まで来たら、澪が倒れてた。周りが血だらけで……」
指先はまだ震えていた。少し強く握れば私が壊れるとでも思っているように、触れ方がひどく慎重だった。
「俺が悪い。出張なんか行くべきじゃなかった」
「あなたのせいじゃない」
「もう出張はしない」
「会社はどうするの?」
「いらない」
「馬鹿なことを言わないで」
手を伸ばし、乱れた髪に触れた。怜司は私の手首をそっと支え、布団の上へ戻す。
「もう子供は作らない。澪が回復したら、パイプカットについて病院で相談する」
疲れて目を閉じた。
予定より三日早く帰るため、怜司は何日も続けて仕事を処理し、日本へ戻ってからも手術室と病室の前で待ち続けていた。まともに眠っていないらしい。
「先にシャワーを浴びて、少し寝てきて。今は私よりあなたのほうが病人みたい」
怜司はなかなか離れようとしなかった。
私が目を覚ましたらすぐに連絡すると約束して、ようやく病院近くのホテルへ向かった。
20
怜司が出ていってしばらくすると、病室の扉が開いた。両親と悠人が入り、その最後に玲奈が続いた。
父は目を赤くし、たった一日で何年も老けたように見えた。母は枕の位置を直し、点滴の管が身体の下に入っていないかを何度も確かめる。
悠人はベッドの足元に立ち、今にも泣きそうな顔をしていた。
「姉ちゃん、ごめん」
「これからは、姉ちゃんの言うことなら何でも聞く。ずっと姉ちゃんの使い走りでもいい」
悠人は玲奈の腕を軽く引いた。
玲奈はうつむいたまま、両手で腹部をかばい、私と目を合わせようとしない。
「玲奈も心配してたんだ。ここへ来る途中も、姉ちゃんは助かったのかって何度も聞いてた」
私は玲奈を見た。彼女の指は、スカートの生地を強く握りしめていた。
「この人が心配しているのは、私がどうして死ななかったのかよ」
病室の動きがすべて止まった。
母は無理に笑顔を作り、私が手術直後で感情的になっていることにしようとした。
「澪、手術を受けたばかりなんだから、そんなことを言わないで」
「玲奈は私の指紋と暗証番号を消して、家の外へ締め出した」
「バルコニーからコップを落とし、私が転んで出血したあと、119番へかけた電話をわざと切った。助けを呼べないように、私の口まで塞いだの」
父は勢いよく玲奈を振り返った。悠人の顔にも、信じられないという色しか残っていない。
玲奈は一歩後ろへ下がり、次の瞬間には涙を浮かべていた。
「私は朝から仕事へ行っていました。家にはいませんでした」
「お義姉さんが私を嫌っているのはわかります。でも、自分が早産した責任まで押しつけるんですか。証拠はあるんですか?」
母の表情が目に見えて緩んだ。
すべてが誤解であれば、家族は元に戻れる。そう願っているようだった。
「何か勘違いしてるんじゃない? 玲奈さんもわがままなところはあるけど、さすがにそんなことまではしないでしょう」
「勘違いじゃない」
「お母さんは、澪が嘘をついてると言ってるんじゃないの。ただ、みんな家族なんだから、まずは落ち着いて――」
「家族なのは、そっちだけでしょう」
言葉を遮った。
母の顔が真っ白になる。私はベッド脇のスマートフォンを取り上げ、もう母を見なかった。
「私は違う」
「玲奈。証拠が欲しいなら、見せてあげる」
21
家を建てたとき、年を取った両親が家の中で倒れた場合に備え、玄関と庭、共用廊下へ防犯カメラを設置した。寝室などの私的な場所は映らない。
玄関のスマートロックと防犯カメラは、別々のシステムだった。
スマートロックの管理は日頃両親へ任せていたが、ホームセキュリティーの契約者とクラウド録画の管理者は、今も私のままだった。
玲奈が玄関の登録を変更しても、クラウド上の映像までは削除できない。
そこへ怜司が戻ってきた。事情を聞くと、タブレットをベッドの前へ置き、保存されている映像を再生した。
画面の中で、玲奈はバルコニーに立ち、私の指紋と暗証番号を削除したと自分で認めていた。
母が二人を再び住まわせると約束したことも、私が両親へいくら金を使っても、自分のお腹の子には勝てないと嘲笑したことも、すべて録音されている。
やがてコップが落ち、私はガラス片を踏んで転倒した。
出血した私のそばで玲奈が119番へかけ、間違えて押したと嘘をついて通話を切る。助けを求める私を置き去りにし、その場から立ち去るまでが鮮明に残っていた。
映像が終わると、病室は完全に静まり返った。
父はベッド脇の椅子へ手をつき、背中を急に丸めた。
「どうして、こんなことができるんだ」
悠人は玲奈へ向かって一歩踏み出したが、途中で止まった。拳を強く握りしめ、声から力が抜けていく。
「本当に、姉ちゃんを殺そうとしたのか?」
玲奈は足から力が抜け、ベッドの前へ膝をついた。シーツをつかみ、ようやくその場にいたことを否定するのをやめた。
「ごめんなさい」
「怖かっただけなんです。殺すつもりなんてなかった。近所の人がすぐ見つけてくれると思って……」
「あなたは救急要請を取り消した」
「間違ってました。もう二度としません」
玲奈は私を見上げた。顔に浮かんでいるのは、初めて見る本物の恐怖だった。
それでも恐れているのは、私の命を奪いかけたことではなく、自分の将来を失うことだった。
「お義姉さん、私、市役所の一般事務職の採用試験に受かったばかりなんです。来年四月から働けるはずだった。逮捕されたり、前科がついたりしたら困るんです」
「私はあなたのお義姉さんじゃない」
悠人が勢いよく顔を上げた。子供の頃、突然置き去りにされたときのような表情だった。
「姉ちゃん……」
「縁を切ると言ったのは、あなたでしょう」
悠人を見ずに告げた。
「口にした言葉は、なかったことにはできない」
22
玲奈は腹部へ手を当て、よろめきながら母のほうへ向き直った。
「お義母さん。私のお腹には、悠人の子がいるんです」
「この子の母親が犯罪者になったら、この子はどうなるんですか。お義姉さんに、訴えないよう頼んでください」
母は玲奈のお腹を見て、それから私へ目を向けた。
映像をすべて見たあとでさえ、誰も今の位置から動かずに済む方法を探している。
「澪……」
「玲奈さんがあなたを死なせかけたことを、何もなかったことにしろとは言わない。でも、お腹の子に罪はないでしょう。まず弁護士を入れて、話し合える余地がないか――」
「示談にするつもりはありません」
怜司が静かに言った。
着替えを済ませていたが、疲れはまだ顔に残っている。視線だけは、触れれば凍りつきそうなほど冷たかった。
「防犯カメラの映像は、すでに警察へ提出した。弁護士にも連絡してある」
怜司はベッドのそばへ来て、私の状態を確認してから、玲奈との間へ立った。
「今後は警察と検察が判断する」
玲奈は怜司の顔を凝視し、突然動きを止めた。
怜司は投資会社の代表として、ときどき経済番組やビジネス誌に登場している。玲奈も見覚えがあったのだろう。
「そういうことだったんですね……」
玲奈は立ち上がり、突然、狂ったような笑みを浮かべた。私を攻撃できる秘密を見つけたと思ったらしい。
「家を買えて、こんな特別個室に入れる理由がわかりました。有名な経営者の愛人だったんですね」
「この人、妻の顔も名前も公表してないじゃないですか。妊娠してから本当の奥さんに見つかって、実家へ逃げてきたんでしょう?」
病室にいた全員が言葉を失った。
最初に我に返った父が、鋭く怒鳴った。
「黙れ!」
「どうして黙らなきゃいけないんですか? 向こうが私を調べるなら、私だってこの女のことをネットに流します!」
悠人は顔を覆い、疲れきった声を出した。
「その人は義兄さんだ」
玲奈の声が止まった。
「え?」
「姉ちゃんと、もう三年前に結婚してる」
玲奈はその場で固まった。
自分が最初から、すべてを見誤っていたことに、ようやく気づいた。
23
私と怜司は結婚後、私生活を積極的に公表してこなかった。世間は怜司が既婚者であることを知っていたが、妻の名前や顔までは知らない。
別に神秘性を演出していたわけではない。結婚生活を会社の宣伝に利用したくなかっただけだ。
私はスマートフォンに保存していた調査資料を開いた。
悠人が充血した目を上げる。玲奈は、これから何を言われるか察したのか、瞬く間に顔を青ざめさせた。
「もう一つあるわ」
「玲奈のお腹の子は、あなたの子ではない可能性が高い」
玲奈は勢いよく後ずさり、声を裏返した。
「嘘です!」
「あなたは悠人と知り合う前、既婚男性と交際していた。相手の妻と、弁護士を通じて示談書も交わしている」
資料を怜司へ渡し、父と悠人へ見せてもらった。
悠人の手が震える。LINEの履歴と振込記録を、一枚ずつめくっていった。
「あなたは中絶と療養の費用として百二十万円を受け取り、相手の妻へ検査結果も送っている。記載された妊娠週数から計算すると、悠人と出会った時点で、すでに妊娠一か月を過ぎていた」
玲奈は資料を奪おうと飛びかかった。
怜司が腕で遮り、書類を悠人へ戻す。
「これはコピーだ。原本は弁護士と警察が保管している」
私は母を見た。
母はこの子を唯一の孫だと信じ、そのために、私を自分の家から追い出そうとした。
「あなたはこの子を使って、私を私名義の家から追い出そうとした。預金も以前のマンションも、全部悠人へ残すつもりだったんでしょう」
母の唇が震え、目に動揺が浮かぶ。
「本当に手術を受けるんじゃないかと思って怖かったの。誰の子かなんて、そのときは知らなかった。悠人の子だと思っていたから」
「だから、私を犠牲にしたのね」
「そういうつもりじゃ――」
「もういい」
病室の外から足音が聞こえた。
二人の警察官が入り、玲奈の身元を確認した。
「森川玲奈さんですね。高城澪さんの負傷と、救急要請が故意に中断された件について、詳しく事情を伺いたいので、署まで同行をお願いします」
玲奈は怯えたように首を振り、声を荒らげた。
「この人は生きてるじゃないですか! 私は殺してません!」
警察官は言い争わず、任意同行であることと、今後の手続きを説明した。
玲奈は両側を警察官に挟まれ、病室を出ていった。
悠人は立ち尽くし、身体から力を失ったように見えた。
「姉ちゃん、ごめん」
「一生かけて償うから」
目を閉じた。
身体の痛みと、ここ数日間の疲れが一気に押し寄せ、もうどんな約束も聞きたくなかった。
「疲れたから、休ませて」
怜司が立ち上がり、両親と悠人を病室の外へ促した。
扉が閉まる直前、廊下から悠人の声が聞こえた。
「姉ちゃんに、捨てられた……」
24
病室がようやく静かになった。
怜司はベッドのそばへ戻り、乱れていた布団を直した。しばらく黙り込んだあと、低い声を出す。
「ごめん」
「どうしてあなたまで謝るの?」
「そばにいなかった」
疲れた目を見つめた。
本当に間違えた人間は反省もせず、怜司だけが何もかも自分の責任にしようとしている。
「あなたのせいじゃないわ」
怜司は私の手を自分の頬へ当てた。掌に触れる肌は少し冷たかった。
「子供が生まれても、俺にとって一番大切なのは澪だ」
「この先も変わらないかなんて、誰にもわからないわ」
「証明する」
少しも迷わず答えた。
あとになって知ったが、怜司は大学時代から私を知っていたらしい。
当時の彼は投資会社へ入ったばかりの若手社員で、私は不完全な事業計画書を抱え、出資者を探していた。
怜司は長い間、遠くから私を見ていた。自分が私と肩を並べられるようになって、初めて私の前へ現れたのだという。
退院後、私は助産師のサポートを受けられる民間の産後ケアホテルへ滞在した。
帝王切開後の身体を回復させ、早産で生まれた娘の世話をし、警察の事情聴取にも応じなければならない。ほかのことまで考える余裕はなく、怜司と弁護士へ任せた。
警察の捜査によって、玲奈が以前から妊娠や中絶、口外しないことを理由に、複数の交際相手から金銭を受け取っていたことも判明した。
既婚男性の妻も、詐欺被害に関する資料を正式に提出した。
警察はその後、殺人未遂や詐欺などの容疑で逮捕状を請求し、玲奈を正式に逮捕した。検察も、私が大量出血していると理解しながら救急要請を中断し、助けを呼ばせずに放置した行為を重く見て起訴した。
裁判所は、玲奈に拘禁刑十年を言い渡した。
刑事裁判が始まってからも、玲奈は離婚届への署名を拒み続けた。
悠人は弁護士を通じて家庭裁判所へ離婚調停を申し立て、調停が成立しなかったため、離婚訴訟へ移行した。
両親と悠人は、ほとんど毎日のように産後ケアホテルへ来た。栄養補助食品やベビー用品、謝罪の手紙を置いていく。
父とは何度か会った。
母と悠人からの荷物はスタッフに受け取ってもらったが、二人に会うことはなかった。
25
産後ケアを終え、私は娘と一緒に東京の自宅へ戻った。
帰宅した日、マンションのエントランスに母が立っていた。一か月前よりずっと痩せ、私が子供の頃に好きだった菓子を手にしている。
「澪」
足を止めた。
母は一歩近づき、私の手を握ろうとしたが、指先へ触れただけだった。
「お母さんが間違ってた」
「澪も悠人も、どちらも私の子供よ。あのときは玲奈さんに脅されて、お腹の子を本当に傷つけるんじゃないかと思ったの」
母の手から、そっと指を抜いた。
その目に動揺が広がる。私が本当に、以前の関係へ戻らないのだと、ようやく理解したようだった。
「今まで大切に育ててもらったことは、わかってる」
母の目に、わずかな希望が浮かんだ。
私は見慣れた顔を見つめ、自分が最後にできることだけを伝えた。
「あの家には、お父さんとお母さんがそのまま住んでいい。生活費も、これまでどおり毎月振り込む」
「澪……」
「でも、私はもう帰らない」
母の顔から、ゆっくり希望が消えていった。
「育ててもらった恩は忘れないし、私がすべきことはする。でも、一度起きたことを、なかったことにはできない」
娘を抱き、マンションの中へ入った。
エレベーターの扉が閉まるまで、母は同じ場所に立ったまま、追ってはこなかった。
その後、悠人も両親の古いマンションを出た。
仕事を辞め、一人で地方へ移ったらしい。正月やお盆、娘の誕生日になると、必ず贈り物が届いた。
送り返しはしなかった。
けれど、こちらから連絡することもなかった。
怜司は壊れ物を扱うような慎重さで、娘を抱いていた。小さな顔を見つめながら、真剣な表情で私へ言う。
「名前は澪が決めて」
娘の柔らかな頬へ指を触れた。小さな手が動き、私の指先を握る。
「一花」
「高城一花?」
「うん」
この子は、誰かの付属品になる必要はない。
愛されるために、誰かへ気に入られ続ける必要もない。
「誰かにとっての一番になってほしいわけじゃないの。誰か一人だけを、自分のすべてにしてほしいわけでもない」
「一輪の花みたいに、自分一人でもきちんと咲ける人になってほしい。誰かと別れても、何かを失っても、自分自身でいられるように」
怜司は真剣にうなずき、腕の中の娘へ話しかけ始めた。
「一花、覚えておいて。ママは命がけで一花を産んだんだ。大きくなったらママを守って、絶対に悲しませないように」
私は怜司の頬を軽く叩いた。
「生まれたばかりの子に、そんなことを言わないの」
怜司は反対側の頬まで差し出した。目には、久しぶりに柔らかな笑みが浮かんでいる。
「こっちはまだだよ」
一花が腕の中で小さく動き、かすかな声を上げた。
窓から差し込む光が、居間に三人の影を重ねている。
失った関係が、元どおりに育ち直すことはない。
それでも私は、壊れた場所に自分を縛りつけることをやめた。
私には愛される権利がある。
そして、離れる権利もある。
今度こそ娘と一緒に、私たち自身の人生を歩いていく。




