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第7話 ポンス・アルタエ

 朝、ヒルデの姿がなかった。


 ゲオルグが起きたとき部屋はすでに空だった。蝋板と紙だけが消えていた。


 イボンヌの酒場に降りると朝の仕込みをしていたイボンヌが顎でカウンターの奥を指した。


「窓際に座ってずっとやってるよ。触らないであげな」


 ゲオルグは黙って席についた。イボンヌがパンと温かいスープを置いた。


 エーリックがしばらくして降りてきた。ヒルデを見た。声をかけようとした。ゲオルグが首を振った。エーリックが椅子を引いて座った。


 オットーは朝から来ていた。イボンヌのカウンターの前に陣取っていた。


「イボンヌちゃん、今日も美しいのぉ」


「はいはい」


「わしが王様になったら毎日花を贈るぞぃ」


「いらないよ。邪魔になる」


「ニヒヒヒ」


 ゲオルグはスープを飲みながら窓際のヒルデを見た。背中しか見えなかった。羽根ペンが動いていた。止まった。また動いた。


 誰も声をかけなかった。


────────────────────────────────────


 昼前にヒルデが立ち上がった。


 紙を持ってテーブルに来た。椅子を引いて座った。眼鏡を外して目を押さえた。しばらくそのままでいた。


 ゲオルグは待った。


 ヒルデが眼鏡をかけ直した。


「読めました」


 エーリックが顔を上げた。オットーがイボンヌへの求愛を中断した。イボンヌもカウンターから顔を出した。


「碑文は三行です」ヒルデが紙を広げた。「一行目と三行目は摩耗が激しくて判読できなかった。建造年か建造者の名前だと思います。二行目だけが読めた」


「何と書いてあった」ゲオルグが聞いた。


 ヒルデが紙を見た。


「ポンス・アルタエ」


 テーブルが静かになった。


 エーリックが息を吐いた。「本当だったんだな」


「ああ」ゲオルグが言った。


 オットーを見た。老人は何も言わなかった。ただ水面を見るような目をしていた。それだけだった。


「四十年間、誰も信じなかったじゃろ」ゲオルグが言った。


「信じない周囲が嫌いかと言えば、そうでもないわい」オットーが言った。「ニヒヒヒ。誰も信じないから、わしだけが知っておれた」


 イボンヌがオットーの杯に酒を注いだ。何も言わなかった。オットーが受け取った。


────────────────────────────────────


「この碑文でどうなる」エーリックが聞いた。


「今すぐ何かが決まるわけではない」ヒルデが答えた。「碑文の写しだけでは各国が認めるかどうか分からない。条約の改定・法的な手続き・各国の合意が必要になる。それには時間がかかる」


「では意味がないのか」


「意味はある」ヒルデが紙を指で叩いた。「交渉の材料になる。この写しを持っている者が主導権を持てる。どの国より先に橋の真名を知っているという事実は大きい」


 ゲオルグは紙を見た。ヒルデの細かい字でポンス・アルタエと書かれていた。


「テレジア様に届ける」


「ええ」ヒルデが答えた。「あの方ならこれで何ができるか分かる。私には交渉まではできない。でもメーレスブルクに持ち帰れば――」


「あとはあの人がやる」ゲオルグが言った。


 ヒルデが頷いた。


 エーリックが腕を組んだ。「メーレスブルクか。俺も行くことになるな」


「約束しましたから」ヒルデが言った。「メーレスブルクに着くまでは保証します」


「縛り首は免除されないんだろ」


「証言次第では考慮される可能性はあると言いました」


「同じことじゃないか」


「違います」


 エーリックが溜め息をついた。


 オットーがイボンヌの方を向いた。「イボンヌちゃん、わしはやはり王様になれそうじゃ。王妃の準備をしておいてくれ」


「いらないって言ってるでしょ」


「ニヒヒヒ」


 ゲオルグは蝋板を手に取った。凹凸を指でなぞった。暗い水の底で触れた文字だった。石が四十年間、ここに刻まれたままでいた。


「出発はいつにする」エーリックが聞いた。


「明朝」ゲオルグが答えた。「今日中に準備を終わらせる。ドラグの連中に気づかれる前に出る」


「荷運びと薪割りはどうする」イボンヌが言った。


「今日中にやる」ゲオルグが立ち上がった。


 イボンヌが小さく笑った。


────────────────────────────────────


 夜、ゲオルグは荷物をまとめながらエルザのことを考えた。


 どのくらい経ったか。思ったより時間がかかった。帰ったら何を話すか。たいした話はない。ブリュッケに来て、水に潜って、石の文字を写してきた。それだけだ。


 エルザは何も聞かないだろう。ただ静かに迎えるだけだろう。


 それでいい、とゲオルグは思った。


 隣の部屋からヒルデの気配がした。まだ起きていた。まだ何かを書いていた。


 ゲオルグは荷物を縛り終えた。


 明日、メーレスブルクに向かう。蝋板と紙の写しを持って。エーリックを連れて。


 あとはテレジアがやる。


 それだけのことだった。


────────────────────────────────────


 翌朝、桟橋に出るとオットーがいた。


 どこから聞いたのか。よぼよぼの体で路地の角に立っていた。手に何かを持っていた。布に包んだ食料だった。


「道中の分じゃ」オットーがヒルデに押しつけた。「イボンヌが持たせた」


「イボンヌさんは」


「来ないよ。仕込みがある」


 ヒルデが布包みを受け取った。オットーがその手を握った。


 ヒルデが蹴った。


「年寄りを大事に――」


「最後まで懲りないんですね」


「ニヒヒヒ」オットーが笑った。「またおいで。ブリュッケはいつでも歓迎じゃ」


 ゲオルグがオットーを見た。


「世話になった」


「礼はいらんよ」オットーが首を振った。「わしの話を本気で聞いてくれた。それだけで十分じゃ」


 船が動き出した。


 桟橋にオットーが立っていた。手を振っていた。小さくなっていった。橋の影に消えた。


 ヒルデが前を向いたまま言った。


「変な爺さんだった」


 ゲオルグが答えた。


「ああ」


 カナルの水面が朝の光を受けて光っていた。


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