表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/11

第6話 水の底へ

 作業は夜中に行うことにした。


 昼間は人目がある。ドラグの連中もどこかで見張っているかもしれない。橋脚の真下に人が潜っていれば目立つ。夜の方が安全だった。


 日が落ちてから、一行は橋の下へ向かった。


 オットーが先頭に立った。迷宮のような路地を躊躇なく進んだ。曲がって、潜って、また曲がった。やがて橋の構造の隙間から水面が見えた。石段が水際まで続いていた。人気がなかった。水の音だけがしていた。


「ここじゃ」オットーが言った。「あの橋脚の根元じゃ」


 ゲオルグは水面を見た。暗くて底が見えなかった。水面に橋の灯りが揺れていた。流れがあった。緩やかに見えたが、橋脚の周囲では渦を巻いているはずだった。


「深さはどのくらいだ」


「今の水位なら……」オットーが首を傾げた。「四、五尋といったところかの。普通なら六尋はある」


 ヒルデが横で計算していた。「四尋で約七メートル。五尋で九メートル弱」


「潜れるか」エーリックがゲオルグを見た。


「やってみないと分からない」


────────────────────────────────────


 準備を始めた。


 エーリックが太い縄を橋脚に結んだ。命綱だった。ゲオルグの腰に結んで、引けば引き上げられる長さを確認した。


 ヒルデが蝋板を用意した。平らな板に蝋を均一に塗ったものだった。碑文に押し当てれば輪郭が蝋に残る。それを水面に持ち帰る。


「これを腰に縛り付けてください」ヒルデがゲオルグに渡した。「両手が使えるように」


「重りはどうする」ゲオルグが言った。「流れがある。潜ってもすぐ押し流される」


「それじゃ」オットーが路地の端から石を転がしてきた。「重りじゃ。ロープを結んで沈めれば、それを伝って潜れる」


 エーリックが石にロープを結んだ。ゲオルグが確認した。石の重さを持ち上げて確かめた。十分な重さだった。


「順番としては」ヒルデが言った。「まず重りの石を沈める。ロープを伝って潜る。橋脚の根元に到達したら蝋板を押し当てる。輪郭が取れたら命綱を二回引く。エーリックが引き上げる」


「簡単に言う」エーリックが呟いた。


「簡単ではないわ」ヒルデが答えた。「でも他に方法がない」


 オットーがニヒヒヒと笑った。「兄さんならできるわい」


 ゲオルグは上着を脱いだ。


────────────────────────────────────


 まず重りの石を水に沈めた。


 ロープがゆっくり引き込まれていった。石が橋脚の根元に向かって沈んでいく。ロープが張った。固定された。


 ゲオルグは水際に立った。水面を見た。暗かった。流れが足元を撫でていた。


 深く息を吸った。もう一度。もう一度。肺に空気を溜めた。


 水に入った。


 冷たかった。しかし慣れていた。全身が水に包まれた。ロープを掴んで引き手繰りながら沈んでいった。


 流れが強かった。橋脚に近づくにつれて渦が体を引いた。ロープがなければ流されていた。手を滑らせないように握り締めた。


 暗かった。


 水面の灯りが遠くなった。耳に圧力がかかった。下に、下に。ロープを手繰った。腕が痛かった。


 何かに触れた。


 橋脚の石だった。苔が生えていた。ぬるぬるしていた。手で探った。石の面を確認した。下に向かった。さらに下に。


 肺が痛くなってきた。


 焦らずに。テレジアのことを考えた。エルザのことを考えた。


 指先に何かが触れた。


 凹凸だった。


 石に刻まれた文字だった。


 ゲオルグは蝋板を取り出した。暗くて見えなかった。見えなくていい。押し当てるだけでいい。凹凸を確認しながら蝋板を石に当てた。手のひらで押した。全体に圧力をかけた。


 肺が限界に近かった。


 もう少し。もう少しだけ。


 蝋板を引き剥がした。命綱を二回引いた。


 上から力が来た。


────────────────────────────────────


 水面に出た瞬間、空気が体に入ってきた。


 ゲオルグは石段に手をかけて体を引き上げた。エーリックが腕を掴んで引っ張った。石段に倒れ込んだ。


「大丈夫か」エーリックが言った。


 答える前に息をした。何度も息をした。


「取れた」ゲオルグが蝋板を差し出した。


 ヒルデが受け取った。ランプを近づけた。蝋板に刻まれた輪郭を確認した。


 沈黙があった。


「ある」ヒルデが言った。声が少し震えていた。「文字がある。全部ではないかもしれないけど……ある」


「読めるか」


「今は無理。ランプの光では足りない。でも……」ヒルデが蝋板を胸に抱えた。「明日、光の下でちゃんと見ます」


 オットーがゲオルグを見た。


「ニヒヒヒ」老人が笑った。「やるのぉ、兄さん」


 エーリックが黙ってゲオルグの背中に上着をかけた。


 ヒルデはすでに蝋板の横で紙を広げていた。ランプを手に持って、蝋の凹凸を斜めから照らしながら羽根ペンを走らせていた。蝋板の写しと紙への書き写し。二重の記録だった。


 ゲオルグは石段に座ったまま、しばらく水面を見ていた。


 橋の下でカナルが流れていた。暗い水の底に、四十年間誰かを待ち続けていた石があった。


 オットーが隣に座った。


「怖かったか」老人が聞いた。


「少しな」ゲオルグが答えた。


「わしも怖かったわい。四十年前」オットーが水面を見た。「渦に巻かれて、もう終わりだと思った。そこで見えたんじゃ。暗い水の中で、文字が光っているように見えた」


「光っていたか」


「そう見えた」オットーが笑った。「今度はどう見えた」


 ゲオルグは少し考えた。


「暗かった」


「ニヒヒヒ」オットーが笑った。「正直じゃのぉ」


 ヒルデが紙から目を上げずに言った。「写し終わったらイボンヌの店に戻ります。温かいものを食べてください」


 エーリックが縄を巻きながら言った。「イボンヌが待ってるな」


「オットーじいさんの王妃候補が」ヒルデが呟いた。


「失礼な」オットーが言った。「正式な王妃候補じゃ。ニヒヒヒ」


 水の音がしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ