第5話 真名の石
※キーストーンとは建築用語でアーチの頂点に置かれる要となる石のことで、それがなければアーチ全体が崩れる重要なパーツです。本作でのキーストーンはその建築学的な意味とは別の用法です。
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イボンヌが扉に鍵をかけた。
常連客が不思議そうな顔をしたが、イボンヌが「今夜は貸し切りだよ」と言うと大人しく出ていった。文句を言いかけた男には酒を一杯持たせた。男が満足そうに出ていった。
扉が閉まった。
テーブルに残ったのはゲオルグ・ヒルデ・エーリック・オットーの四人だった。イボンヌがカウンターに戻った。
「さて」オットーが杯を置いた。「人払いができたところで話すかの」
ヒルデが書物を取り出した。羽根ペンを用意した。
「全部記録します」
「構わんよ」オットーが言った。「わしが死んだら誰も知らなくなる。記録してくれた方がありがたい」
ゲオルグはオットーを見た。さっきまでのニヒヒヒという笑いが消えていた。
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「橋の要石の話をせねばならん」オットーが杯を両手で包んだ。「橋を建てるとき、最も大事な石に真名を刻む。アルタ帝国の慣わしじゃ」
「キーストーンですね」ヒルデが言った。「真名が刻まれた石」
「そうじゃ。その石を示した者が橋の正当な支配者になる。それがアルタの法じゃ」
「なぜ真名を示すことが支配権になるのですか」ゲオルグが聞いた。
「アルタ帝国の根本原理です」ヒルデが答えた。「名前を知る者が支配者になる。神話に由来する考え方で――」
「神が作った大地の名前を人間が言い当てた」オットーが引き取った。「驚いた神が杖を落とした。その跡がカナルじゃ。名前を言い当てた者が大地を得た。これがアルタ帝国の始まりの話じゃよ」
テーブルが静かだった。イボンヌがグラスを拭く音だけがしていた。
「帝国が滅んでから、碑文の場所を知る者がいなくなった」オットーが続けた。「橋は残った。慣習も残った。しかし証明できる者がいなくなった。だから何百年も誰も支配権を主張できないまま今に至っとる」
「あなたは本当に見たのですか」ヒルデが静かに聞いた。「碑文を」
オットーの目が遠くなった。
「四十年ほど前のことじゃ。若い頃にここで溺れてな。水底まで引きずり込まれた。そこで見た。確かに見たんじゃ」
老人が杯を置いた。
「暗い水の中で、石に刻まれた文字が見えた。橋脚の根元じゃ。何が書いてあるかは読めなかった。しかし確かにそこにあった。わしはそれだけを四十年間覚えておった」
誰も笑わなかった。
「四十年間か」エーリックが呟いた。
「わしが若く見えるということじゃろ」オットーがニヒヒヒと笑った。しかしすぐに真剣な顔に戻った。
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「場所を教えてください」ヒルデが言った。
「橋脚の基部じゃ。かなり深い」オットーが答えた。「普通ではあそこまで潜るのは無理じゃ。わしが四十年前に見たのも、渦に巻かれて水底まで引きずり込まれたからこそじゃ。自分から潜ろうとしても、流れと深さに阻まれてまず届かない」
「今年は」ゲオルグが言った。
「ドラグが水門をいじっているせいだ」エーリックが言った。「南の方で水門の開閉が増えている。そのせいで水が異常に抜けている」
「今年は水が異常に少ない」オットーが続けた。「普通ではあそこまで潜るのは無理じゃが……今年ばかりは、どうじゃろうな」
老人が首を傾げた。
「ギリギリ、届くかもしれん。届かんかもしれん」
テーブルが沈黙した。
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「記録の方法も考えなければ」ヒルデが言った。「碑文を目で見るだけでは証明にならない。写しが必要です」
「水の中で写しを取るのか」エーリックが眉を上げた。
「蝋板を使います」ヒルデが答えた。「水中での記録には蝋板を使います。水中でも蝋は溶けない。碑文に押し当てれば輪郭が取れる」
「そんな方法があるのか」エーリックが言った。
「確実ではありません」
テーブルが沈黙した。
イボンヌが新しい酒を持ってきた。誰も頼んでいなかったが誰も断らなかった。
ゲオルグは天井を見た。橋の石組みが頭上に続いていた。その下にカナルが流れていた。さらにその下に橋脚の基部があった。水の底に四十年間待ち続けている碑文があった。
「碑文に刻まれているのは文字だけですか」ヒルデが聞いた。「図や記号は」
「文字だけじゃ。しかし古代アルタ語じゃ。読める者は少ない」
「読めます」ヒルデが言った。
オットーがヒルデを見た。それからゲオルグを見た。
「ニヒヒヒ」老人が笑った。「やはりお前さんたちは面白い」
橋の下でカナルが流れていた。水音が床の隙間から絶えず聞こえていた。
「結局」ゲオルグが言った。「潜るしかないな」
誰も否定しなかった。
オットーだけがニヒヒヒと笑った。




