第4話 橋の住人たち
ブリュッケの中は予想より暗かった。
建物が頭上を覆い、路地が何度も折れ曲がった。石畳の隙間から水の音が聞こえた。橋の下をカナルが流れていた。どこかで子供が走り回っていた。魚を焼く匂いがした。
ヒルデは迷わず歩いていた。
「地図でも持っているのか」
「頭の中に」ヒルデが答えた。「文献に橋の構造図があった。完全ではないけど大体は分かる」
「大体、か」
「迷宮に完全な地図はないのよ」
路地が左に折れた。石段を三段上がった。また折れた。上を見上げると建物が張り出していて空が見えなかった。昼間なのに薄暗かった。
ゲオルグは歩きながら周囲を観察していた。
住民はいた。路地の端で老婆が座っていた。物干しから洗濯物が垂れていた。子供が二人、石段を駆け下りてきてヒルデにぶつかりそうになった。ヒルデが素早く避けた。子供たちは振り返りもせず走り去った。
人の目があった。
商人のような格好をした男が路地の奥から歩いてきた。すれ違いざまにゲオルグを見た。一瞬だけ。しかしその目が違った。殺気とまでは言えない。しかし明らかに警戒していた。マルクハイムから来た者と見抜いている目だった。
ゲオルグは何気ない顔で前を向いたまま、足の運びだけを変えた。
男がすれ違った。
その瞬間だった。
ゲオルグが男の腕を掴んだ。
男が反応する前に体が浮いていた。路地の脇、石橋の欄干の向こうに水面が見えた。二人まとめて落ちた。
水が冷たかった。
水中で男が暴れた。訓練を受けた動きだった。しかしゲオルグの方が速かった。腕を取って後ろに回した。水中に引き込んだまま、男の動きを封じた。
泡が上がった。
男が止まった。
ゲオルグが水面に引き上げた。男が激しく咳き込んだ。
橋の石壁に男を押しつけた。剣を首に当てた。
「誰だ」
男は咳き込みながらゲオルグを見た。諦めたような目だった。
「……エーリック」男が答えた。「元ハルトマン家騎士。現在は脱走兵だ」
水音がした。
「ニヒヒヒ」
橋の上から老人が覗き込んでいた。よぼよぼで汚い格好だった。しかし目だけが妙に鋭かった。
「兄さん、やるのぉ」老人が言った。「水の匂いがすると思っとったわい」
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イボンヌの酒場は橋の中ほどにあった。
看板も何もなかった。知っている者だけが入る店だった。扉を開けると昼間から何人かが飲んでいた。カウンターの奥から女が振り返った。
「オットー、また拾ってきたの」
「ニヒヒヒ、今度は面白い兄さんじゃ」
イボンヌはゲオルグを見た。次にヒルデを見た。濡れたエーリックを見た。溜め息をついた。
「奥を使っていいよ。エーリック、着替えてきな」
エーリックが黙って奥に消えた。
テーブルに座った。オットーが勝手に隣に座った。ヒルデの隣に。
「いい目をしとる、お前さん」オットーがヒルデの手を握った。
ヒルデが蹴った。
「年寄りを大事にせんかぁ」
「離してから言ってください」
「ニヒヒヒ」
ゲオルグはイボンヌを見た。イボンヌが「慣れてください」という顔をした。
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エーリックが戻ってきた。乾いた服に着替えていた。テーブルに座った。イボンヌが酒を置いた。エーリックが一口飲んだ。
「何を聞きたい」
「ブリュッケに来た理由だ」
エーリックが酒をもう一口飲んだ。ゲオルグを見た。値踏みするような目だった。
「知っていることはある」エーリックが言った。「しかし取引だ」
「取引」
「お前らの主はそこそこ偉い奴だろう。でなければこんな場所には来ない」エーリックが身を乗り出した。「俺をマルクハイムまで連れて帰ってくれ。それから縛り首は免除してもらいたい。それだけだ」
ゲオルグがヒルデを見た。
「図々しい」ヒルデが即座に言った。「ゲオルグ、もう一回水の中へ」
「よしておくれよ」イボンヌがカウンターから声を上げた。「洗濯代もらうよ」
エーリックがゲオルグとヒルデを交互に見た。
「お前ら血も涙もないな」
「メーレスブルクに着くまでは保証しましょう」ヒルデが眼鏡を直した。「縛り首の免除は約束できません。ただし証言次第では考慮される可能性はある。それ以上でもそれ以下でもありません」
エーリックが溜め息をついた。「……分かった」
オットーがニヒヒヒと笑った。「正直に話した方が楽じゃぞ、兄さん」
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エーリックが話し始めた。
継承の戦役で前線に出た。ハルトマン伯爵家の騎士としてマルクハイム第三王子の護衛についた。王子が死んだ。混乱の中で撤退した。そのままブリュッケまで流れ着いた。
「マルクハイムに帰っても脱走兵だ。縛り首になるだけだ」エーリックが淡々と言った。「ここで働かせてもらっている」
「ここでドラグの兵と鉢合わせしなかったか」
エーリックの目が動いた。「……いた。ドラグから派遣されてきた連中だ。キーストーンを探していた。最初は親切にしてきた。橋の構造に詳しい者を探していたらしく、俺が調べていることを知って近づいてきた」
「今はどこにいる」
「ブリュッケのどこかにいる。俺が断ってからは態度が変わった」エーリックが声を落とした。「消される前にここを出ようとも思っているが、行くあてがない」
「キーストーンの場所は分かるか」
エーリックがオットーを見た。オットーがニヒヒヒと笑った。
「オットーじいさんに頼まれて橋の構造図を引っ張り出して調べた」エーリックが続けた。「橋脚の基部だ。水の中に沈んでいる。今の時期は増水でさらに深い」
ヒルデが眼鏡を直した。「橋脚の基部、正確にどの位置ですか」
エーリックがヒルデを見た。
「文献と照合したい」ヒルデが続けた。「あなたが調べた構造図と私の持っている記録を合わせれば場所が絞れる」
エーリックがゲオルグを見た。ゲオルグが頷いた。
「……分かった」
イボンヌが新しい酒を持ってきた。テーブルに置いた。「今夜はここに泊まっていきな。部屋が二つ空いている」
「いくらだ」ゲオルグが聞いた。
「働いてもらうよ。薪割りと荷運び」
オットーがヒルデの肩に手を回した。ヒルデが肘で突いた。
「年寄りを大事に――」
「次は踏みます」
「ニヒヒヒ」
橋の下でカナルが流れていた。水音が床の隙間から聞こえていた。
ドラグの連中がブリュッケのどこかにいる。エーリックは消される前に出たいと思っている。キーストーンは水の底にある。
ゲオルグは酒を飲みながら、頭の中で整理した。
やることが多かった。




