第3話 ブリュッケへ
ゼートアの桟橋を出たのは水門が開く少し前だった。
小型の川船だった。
帆もなく屋根もない、平底の地味な船だ。
荷物を積んだ商船に混じれば目立たない。
ゲオルグが船縁に腰かけてカナルを眺めていると、ヒルデが船底の荷物袋に寄りかかって書物を開いた。
「揺れるぞ」
「慣れてる」
やがて遠くから重い音がした。
ギィィ、という低い響きが水面を伝ってきた。
水門が開く音だった。
一つ、また一つと順番に開いていく。
それに合わせて水面がゆっくりと動き始めた。
周囲の船が一斉に動き出した。
「毎朝これか」ゲオルグが呟いた。
「カナルの朝はいつもこうよ」ヒルデは書物から目を上げずに答えた。「水門が開いたら動く。閉じたら止まる。大陸中がこのリズムで動いてる」
「国をまたいで同じリズムで」
「だからヴァッサーブリュダーが怖いのよ」ヒルデが欠伸をした。「あいつら夜になったら空を飛んで帰るんだって噂がある」
「本当か」
「馬で移動すれば計算上は可能よ。でもそう言わない方が夢があるでしょ」
ゲオルグは珍しくヒルデに同意した。
船が曳舟道の馬に引かれてゆっくり動き始めた。
ゼートアの港が遠ざかっていった。
大水門の巨大な石組みが朝の光を受けて光っていた。
カナルの風景は飽きなかった。
両岸の景色が少しずつ変わっていった。
ゼートア周辺の整備された石畳の曳舟道が、やがて土の踏み固めた道に変わった。
岸辺の建物が減り、葦原が増えた。水鳥が船の波紋を避けて飛び立った。
行き交う船の種類も変わってきた。
大型の商船が減り、平底の荷船が増えた。積み荷は穀物・薪・陶器。カナル沿いの農村と町を結ぶ生活の船だった。
昼過ぎ、前方の水門の手前で船が詰まり始めた。
ゲオルグたちの船も速度を落として列に加わった。
前を見ると大型の丸底商船が水門番と言い争っている。
「頼む、今日中に通してくれ。荷主が待っているんだ」
「待て。今日の大型水門の通過枠は埋まった。水位が戻るまで通せない」
「いつ戻る」
「明朝には上がる。それまで岸で待て」
「明朝じゃ間に合わないんだよ」
「ならヴァッサーブリュダーの特別許可状を持ってこい」
「そんなもの今から取れるか」
後ろに並んでいた船頭が怒鳴った。「早くしろ、日が暮れる」
水門番が腕を組んで動かなかった。
その脇を平底の小型荷船が悠々と通り抜けていった。
別の小型水門を使っていた。
商船の船長がそれを見て余計に苛立った。
「なぜあの船は通れる」
「喫水が浅い船は小型水門で通れる。あんたの丸底船は水位が足りない」
ヒルデが書物を閉じてゲオルグに小声で言った。
「丸底船は船底が丸くて深く沈む。積み荷が多いほど喫水が深くなる。通過するには水深が必要」
「平底船は」
「底が平らで喫水が浅い。小型水門で十分。水の消費も少ない」ヒルデが少し間を置いた。「カナルの水位が下がれば大型船はもっと動けなくなる。平底の小型船だけが自由に動ける」
ゲオルグは黙ってその言葉を飲み込んだ。
まさか、メーレスブルクに小型平底船が集まっていたのは……。
そこまで考えて止めた。テレジアのことだ。とっくに計算の上だろう。
ヒルデはすでに書物を開き直していた。
ゲオルグたちの平底船は小型水門を抜けて先に進んだ。
後ろで商船の船長がまだ怒鳴っていた。
夕暮れ時、カナルの両岸に船が増え始めた。
商船・漁船・荷船が次々と岸に舫っていく。曳舟の馬が岸の杭につながれた。どこかで飯の匂いがした。焚き火が点り始めた。
ゲオルグたちの船も岸に舫った。板を渡して岸に降りた。
「こんな所で夜明かしするのか」ゲオルグが言った。「泊地がもう少し先にあるのに」
「泊地は高いのよ。関所もあるし」ヒルデが答えた。「岸で野営する方が安い。みんなそうしてる」
隣に大きな商船が停泊した。乗組員が慌ただしく荷を動かし始める。
「あの商船、荷降ろし始めたぞ」
「この辺に客がいるんでしょ。夜のうちに届けるの」
「夜間は危険じゃないのか」
「陸の話でしょ。カナル沿いは夜でも人が動く」
近くに停泊した船の船乗りたちが焚き火を囲んでいた。酒を回し飲みしながら話している。
「最近ドラグがあまり動いていないらしいな」
「あいつらはいつもそれだ。じっとしていて動き出したら一気に攻める」
「くわばらくわばら。冬前にまた何かあるんじゃないか」
男たちが声を落とした。
ヒルデがゲオルグの袖を引いた。
「ドラグの小型平底輸送船、ゼートアの港で見た?」
ゲオルグは少し考えた。「そういえば……あったな。何隻か」
「輸送船だったわね……けど、兵や馬を運ぶには小さすぎる」ヒルデが静かに言った。「今度は違うかも」
「何が」
「いつものドラグのやり口じゃないわ。今回は違う……いえ、そうさせられたの?」
ゲオルグはヒルデを見た。眼鏡の奥の目が真剣だった。
それ以上ヒルデは何も言わなかった。
ゲオルグも聞かなかった。
焚き火の向こうで船乗りたちがまだ話していた。カナルの両岸に焚き火が点々と続いていた。各国の船が入り混じって、国籍も関係なく同じ岸で夜を明かしていた。
テレジアがカナルを大陸の大動脈と呼ぶ理由が、少しだけ分かった気がした。
夜、ゲオルグは岸壁に座って暗い水面を見ていた。
対岸の焚き火が水に映っていた。舫った船がゆっくりと揺れていた。
ヒルデが隣に来て腰を下ろした。
「眠れないの」
「少し考えていた」
「ブリュッケのこと」
「ああ」
しばらく二人とも黙っていた。遠くから音楽が聞こえてきた。
聞いたことのないリズムだった。
「あそこは面白い場所よ」ヒルデが言った。
珍しく静かな声だった。「どの国にも属さない。王の命令が届かない。武力が使えない。それでいて大陸で最も重要な場所の一つ」
「そこにキーストーンがあるのか?」
「ええ、キーストーンがある」ヒルデが繰り返した。
「橋の本当の名前が刻まれた石が。ずっと誰かに見つけられるのを待っている」
ゲオルグは水面を見た。
「必ず見つけるのか」
「見つける」ヒルデの声に迷いはなかった。「それが私の仕事だから」
舫った船が波に揺れて、軋む音を立てた。
ミッテルブリュッケが見えてきたのは翌日の昼過ぎだった。
船の上からでも、それが異様な存在だと分かった。
最初は霞の中の影だと思った。しかし近づくにつれてそれが橋だと分かった。
大きかった。いや、大きいという言葉では足りなかった。カナルを完全に跨いでいた。
橋桁が太く、何本もの石柱が水中から生えていた。橋の上に建物が並んでいた。
橋の構造の隙間にも家が作られていた。足場が外に張り出して、さらにその上に何かが建っていた。
「あれが全部橋か」
「ミッテルブリュッケ」ヒルデが船縁から身を乗り出すようにして言った。書物はいつの間にか仕舞われていた。「住民はブリュッケと呼んでいる。古代アルタ帝国の土木技術の極致よ。ガレー船が二隻並んで通れる幅がある」
「あの上に人が住んでいるのか」
「橋の上だけじゃない。構造の隙間という隙間に家が作られている。足場を拡張してどんどん外に広がっている」ヒルデが少し嬉しそうに言った。「ほぼ迷宮よ」
船がゆっくりと橋の桟橋に近づいた。
橋の影に入った瞬間、空気が変わった。
涼しいというより湿っていた。
橋の石が水分を含んでいた。
上からは生活の音が聞こえてきた。誰かが言い争っている声。子供の笑い声。鍋を叩く音。
桟橋に船を着けて岸に上がると関所の兵が近づいてきた。ストラントライヒの制服だった。
「通行料を」
ゲオルグが財布を取り出そうとした。
兵がヒルデを見た。
「お子さんは半額になりますよ」
一瞬の沈黙があった。
ゲオルグは前を向いたまま動かなかった。
「……ありがとうございます」
ヒルデが静かに答えた。声が低かった。
通行料を払って関所を抜けた。
橋の入り口の路地に入った瞬間、ヒルデが足を止めた。
「怒っているか」ゲオルグが聞いた。
「半額だった」ヒルデが答えた。歯を食いしばっているのが分かった。
「節約できた。合理的な判断よ。私は怒っていない」
「そうか」
「全然怒っていない」
「分かった」
しばらくしてヒルデが歩き出した。
ゲオルグは黙ってついていった。
路地が曲がって、また曲がった。上を見上げると空が狭かった。建物が覆いかぶさるように続いていた。どこかで魚を焼いている匂いがした。子供が走り抜けていった。老人が路地の端で居眠りをしていた。
これが迷宮か、とゲオルグは思った。
ヒルデは迷わず歩いていた。




