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第2話 ゼートア

 メーレスブルクの港を出たのは夜明け前だった。


 カナルに入った瞬間、風が変わった。海の塩気が消えて、水草と泥の混じった独特の匂いが漂ってきた。川とも海とも違う、カナル特有の空気だった。


 両岸に曳舟道が続いていた。馬が縄を引いて船を曳いていく。御者が朝靄の中で欠伸をしていた。商船・荷船・漁船が思い思いの速度で行き交っていた。


「広いな」

 ゲオルグが思わず呟いた。


「フライエルカナルよ」ヒルデは船縁に腰かけて書物を広げていた。「全長約千キロ。大陸を縦断する人工水路。古代アルタ帝国が五百年かけて掘った」


「五百年」


「神が杖を落とした跡だという伝承もある」


 ゲオルグは水面を見た。穏やかな流れだった。これが大陸の大動脈か、とぼんやり思った。


 ゼートアに着いたのは翌日の夕暮れ時だった。


 カナルが海に開ける手前、巨大な水門がそびえていた。大水門だった。古代アルタ帝国の技術で建造されたというそれは、周囲の建物と比べて明らかに異質な存在感を放っていた。石の色が違う。積み方が違う。何より大きさが違いすぎた。


「でかいな」


「現代の職人には再現できないそうよ」ヒルデが欠伸をしながら言った。「ヴァッサーブリュダーがメンテナンス方法だけを代々継承している。原理は誰も分かっていない」


「それで動いているのか」


「動いているから不思議なのよ」


 水門を抜けると港が広がった。商船・漁船が所狭しと並ぶ中に、明らかに異質な船団があった。軍船だった。船体が大きく、甲板に武装した兵が見えた。


「ドラグの駐留艦隊か」


「そう。ゼートアはストラントライヒ王国の港よ。でもドラグが海軍を駐留させている」


「なぜストラントライヒが許す」


「許すしかないの」ヒルデは書物を閉じた。「ストラントライヒの最大顧客はドラグ。カナルの通行税の大半がドラグからの収入。逆らえば干上がる」


 ゲオルグは港を眺めた。ドラグの兵が岸壁を歩いていた。ストラントライヒの衛兵と並んで巡回している。表向きは平和だった。しかし空気が重かった。


 宿に荷物を置いて一息ついた頃、ゲオルグは立ち上がった。

「少し見てくる」


「待って」

 ヒルデに腕を掴まれた。


「何だ」


「あんた騎士の匂いが強すぎる」


「匂いとは何だ」


「歩き方・目線・立ち方。全部騎士だって言ってる」ヒルデは腕を離してゲオルグを上から下まで見た。眼鏡の奥の目が呆れていた。「ドラグの兵に職業を当てられたいの」


「……」


「まず酒を飲みなさい。平民の色をつけてから動く。基本でしょ」

 ゲオルグは反論しかけて止めた。正しかった。



 ゼートアの街は賑やかだった。

 カナルの中継港として栄えているだけあって、大陸各地からの商人・船乗り・旅人が行き交っていた。看板の文字が三種類の言語で書かれている店があった。路地の奥から知らない香辛料の匂いがした。

 ドラグの兵の姿はそこかしこにあった。二人・三人と連れ立って歩いている。武装しているが剣は収めていた。街の住民と揉める様子はない。しかし住民の方が微妙に距離を取っていた。挨拶はする。しかし目が笑っていない。


 港に出ると駐留艦隊がよく見えた。

 ゲオルグは何気ない風を装いながら船を観た。数は十二隻。全て同じ形をしていた。船体は大きいが艦首の構造が妙だった。尖っていない。ラムアタック用の艦首ではない。そして舷側に大きな跳ね上げ式の扉がついていた。


 ヒルデが隣に来た。いつの間にか並んでいた。

「見えた?」


「ああ。艦首ランプ(傾斜路)がない」


「舷側ランプだけよ。あの船は戦わない。兵を降ろすためだけの船」


 ゲオルグは黙ってもう一度船を見た。十二隻。全部同じ構造。つまりこの艦隊は全て兵員展開に特化している。どこにでも兵を降ろせる。カナルの側道に横付けして一気に展開できる。

 背筋が寒くなった。


 酒場に入ったのはヒルデの提案だった。

「情報収集には酒場が一番」


「お前が言うか」


「当然でしょ」


 カウンターに並んで座った。ヒルデが二杯頼んだ。ゲオルグの分も勝手に。

 隣のテーブルでは船乗りらしい男たちが話していた。


「最近ドラグの船が増えたよな」

「ああ。半月前から倍になった。補給の荷も多い」

「冬前に何かするつもりじゃないか」

「まさか。カナルで戦はできないだろ」

「カナルじゃなくてもいいんだよ。兵を降ろして陸で動けばいい。ドラグのやり口だ」

 男たちは声を潜めた。


 ゲオルグはゆっくり酒を飲んだ。ヒルデも飲んでいた。


「やはり、そうなのか?」


「先の戦では、ドラグ兵は神出鬼没と言われたわ。これが種明かしね」


 二杯目を頼んだ。ヒルデが自分でカウンターに向かって注文した。慣れた様子だった。


「ブリュッケはどうだ」ゲオルグが聞いた。「あそこも物騒か」


「もっと物騒よ」ヒルデは新しい杯を受け取りながら言った。「各国の諜報員が入り乱れてる。ドラグのチームも来てる。みんなポンス・アルタエを狙ってる」


「ポンス・アルタエ」

「橋の本当の名前。それを見つけた者が橋の管理権を得る」ヒルデが杯を傾けた。「神話で神が杖を落とした跡がカナルなら、その杖が最初に触れた場所がブリュッケという話もある。だから橋の名前には特別な意味がある」


「つまり」


「橋を制する者がカナルを制する。ドラグが欲しいのはそこよ」


 三杯目の頃からヒルデの呂律が怪しくなってきた。

「あんた……ゲオルグ、さ」


「何だ」


「テレジア様ってどんな人?」


「分からん……」


「……そう」ヒルデは杯を置いた。「でも、私をここに送り込んだのはあの人でしょ。マルクハイム王国の依頼という形になってるけど、本当は……ね」


 ゲオルグは答えなかった。


「怖い人ね」ヒルデが繰り返した。「でも、嫌いじゃない」


 四杯目を飲み干したところでヒルデが静かに突っ伏した。

 ゲオルグは溜め息をついた。勘定を払って立ち上がった。小柄な体は思ったより軽かった。担ぎ上げると書物が床に落ちた。拾って脇に抱えた。

 宿に向かって歩きながら、ゲオルグはもう一度港の方向を見た。

 ドラグの艦隊が暗い水面に並んでいた。どれも舷側ランプだけの船だった。

 冬前に動く。テレジアはそう言った。

 そこまでは進めませんよ、とも。

 夜風が冷たかった。


 宿の扉を開けると番頭が振り返った。メーレスブルクの紋章入りの看板が掛かった建物だった。辺境伯領の駐在事務所を兼ねた宿屋。ゲオルグの顔を確認した番頭が小声で言った。


「お帰りなさいませ。……そちらの方は」


「同行者だ」ゲオルグはヒルデを担いだまま答えた。「部屋はあるか」


「ご用意しております」


「頼む」

 階段を上がりながら、ゲオルグはヒルデが呟くのを聞いた。

「……文献によると、アルタ帝国時代の酒は甘かったそうよ」


「寝ていろ」


 返事はなかった。

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