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第1話 密命

※作者注:メーレスブルクはアルタエ海峡を挟んでストラントライヒ王国と対峙するマルクハイム王国の辺境伯領です。辺境伯はほぼ公爵と同格の高位貴族であり、国境防衛の全権を持ちます。本作はこの辺境の地を舞台とした物語です。

 メーレスブルク辺境伯領において、領内の漂流物は全て領主の財産である。それを密かに持ち去ることは重大な罪とされる。身分の高い者も例外ではない。いや、身分が高ければ高いほど、罪は重くなる。

 その法を破った者がいた。

 騎士団長の地位にありながら。

 男の名はゲオルグ。元騎士団長。現在は騎士号を剥奪された身である。なぜ彼がその罪を犯したのか。なぜ辺境伯夫人は、そんな男を自室に呼んだのか。

 理由は単純だった。

 罪人は切り捨てやすい。


 扉を開けた瞬間、ゲオルグは部屋の広さに意表を突かれた。

 城の奥まった一室だと聞いていた。しかし窓が二つあり、どちらからもアルタエ海峡が見渡せた。対岸のゼートアの大水門が、晴れた午後の光の中にはっきりと見えた。窓辺には望遠鏡が置かれていた。

 部屋の中央には大きな地図が広げられていた。フライエルカナル全域を描いたものだ。その周囲に書類が積み重なっていた。

 これは応接室ではない。

 ゲオルグがそう気づいたとき、奥の椅子から声がした。

「ゲオルグ殿。わざわざお越しいただいてありがとうございます」

 立ち上がったのは小柄な黒髪の女性だった。テレジア・フォン・メーレスブルク。辺境伯夫人。年齢は三十とのことだが、穏やかな笑顔のせいか実際より若く見えた。

「お呼びとのことで参りました」

 ゲオルグは頭を下げた。騎士号を剥奪されて三日。城を出るつもりでいたところに呼び出しが来た。断る理由もなかった。

「どうぞお座りください。アンナ、お茶を」

「はい奥様」

 控えていた侍女が一礼して下がった。

 テレジアは地図の前に立ち、カナルの一点を指でなぞった。

「ゼートアとミッテルブリュッケの間。ここ最近、ドラグの船の往来が増えています。荷物の量に対して船が多すぎる」

 ゲオルグは思わず地図を覗き込んだ。確かに異常な数だった。

「輸送ではなく……」

「兵の移動ですね。おそらく」テレジアは微笑んだままだった。「ゼーブルクへの増強かと思っています。冬前に動くつもりでしょう」

「冬前、ですか」

「ええ。できればブリュッケまで制圧したいのだと思います」

 ゲオルグは地図を見た。ミッテルブリュッケの位置を確認した。カナルの中間点。そこまで押さえられれば南北の通行を完全に掌握される。

「それはまずい。そこまで許せば、カナル全体が――」

「そこまでは進めませんよ」

 テレジアが微笑んだ。穏やかな、いつもと変わらない笑顔だった。

 ゲオルグは何か言いかけて止めた。この女性がそう言うなら、何か手があるということだ。しかしその手が何かは教えてくれない。それもいつものことだった。三日前に初めて会ったばかりなのに、なぜそう思うのか自分でも分からなかった。

「単刀直入に申し上げます」テレジアは椅子に戻り、書類を一枚取り上げた。「ゲオルグ殿にブリュッケまで行っていただきたいのです」

「ブリュッケに」

「ええ。それと」彼女は書類から目を上げた。「一人お連れする方がいます。マルクハイム王国から派遣された学者の方です。先日到着されました。明日ご紹介しますね」

「どのような方ですか」

「優秀な方です」

 それだけだった。ゲオルグは何か聞き落としている気がしたが、テレジアはすでに次の書類に目を移していた。

 侍女が戻ってきてお茶を置いた。テレジアが礼を言った。その間もゲオルグは地図から目が離せなかった。

「奥様」

「はい」

「この情報は……どこから」

 テレジアはお茶を一口飲んだ。窓の外のゼートアを見た。それからゲオルグを見た。

「アルタエ海峡はよく見えますので」

 ゲオルグの背筋に何かが走った。

 帰り道、ゲオルグは思い出した。今朝エルザに「どこへ行くの」と聞かれて「城へ」とだけ答えた。妻は何も言わなかった。ただ静かに見送った。慢性の病を抱えた体で、それでも黙って送り出してくれた。

 次に会えるのはいつになるか、まだ分からなかった。


翌日。中庭。


 待ち合わせの刻限より早く来たつもりだったが、石段の上にすでに人影があった。

 子供だと思った。

 荷物袋を背負って石段に腰かけ、分厚い書物を膝に広げている。茶色の髪を後ろで束ねた、小柄な……子供。

 迷子か、とゲオルグは思った。城の中に子供が一人でいるのは珍しい。声をかけようとした。

「ゲオルグ殿ですね」

 書物から目を上げずに言われた。

「……そうだが」

「ヒルデです。よろしく」

 ようやく顔を上げた。眼鏡をかけていた。その目がゲオルグをまっすぐ見た。二十代後半の、落ち着いた目だった。

 子供ではなかった。

「失礼した。てっきり――」

「子供だと思った」ヒルデは書物を閉じて立ち上がった。肩までしかなかった。「みんなそう言う。慣れてる」

「いや、その……」

「ブリュッケまでの道中、私の邪魔をしないでください。調査中に話しかけないでください。護衛は不要です」

「護衛は必要だ」

「なぜ」

「危険だからだ」

 ヒルデはゲオルグを見上げた。一瞬だけ何かを考える顔をした。

「……まあ、いいです」

 それだけ言って歩き出した。

 ゲオルグは慌てて後を追いながら、昨日のテレジアの言葉を思い出した。

 優秀な方です。

 確かにそれだけしか言わなかった。

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