第9話 帰還
メーレスブルクの港が見えてきたとき、ゲオルグは思わず船足を緩め周囲を見渡した。
港が変わっていた。
大型の丸底商船が沖に並んで停泊していた。動けないでいた。その脇で平底船が忙しく行き来していた。丸底船から荷を下ろして平底船に積み直していた。荷役の男たちが怒鳴り合っていた。滑車の音がした。綱が軋んでいた。
「兵站だ」エーリックが言った。
「ああ」ゲオルグが答えた。「カナルを通るために積み直している。大型船では水位が足りない」
平底船が次々と出港していった。荷を満載にして低く沈みながら。行き先はカナルの奥だった。
港全体が落ち着かない様子だった。活気というより焦りに近かった。秋が来る前に物資を送り込もうとする切迫感があった。
「忙しそうだな。まるで戦場だ」エーリックが言った。
「戦場だよ。剣を交えていないだけだ」ゲオルグが答えた。
桟橋に船を着けた。ヒルデが先に岸に上がった。波打ち際を歩きながら足元を見た。何かが光っていた。
屈んで拾い上げた。
黒い板だった。薄くて軽かった。手のひらに収まる大きさだった。何に使うものか分からなかった。しかし捨てる気になれなかった。
「何だそれは」ゲオルグが言った。
「分からない」ヒルデが答えた。「でも捨てるには……」
「貴重な品は伯にお見せしないといけない」ゲオルグが言った。
「分かっているわよ」
ヒルデが懐にしまった。
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城に入ったのは夕暮れ前だった。
アンナが出迎えた。ゲオルグとヒルデを見た。エーリックを見た。何も聞かなかった。
「奥様がお待ちです」
テレジアの部屋の扉を開けた。
窓辺に望遠鏡があった。地図が広げられていた。書類が積み重なっていた。何も変わっていなかった。
テレジアが立ち上がった。穏やかな笑顔だった。
「お帰りなさい。ご無事で何よりです」
ゲオルグが頭を下げた。ヒルデが蝋板と紙の写しをテレジアに差し出した。
「碑文の写しです。ポンス・アルタエと刻まれていました」
テレジアが受け取った。紙に目を通した。蝋板の凹凸を指でなぞった。しばらく黙っていた。
「よくやりました」テレジアが言った。声が少し違った。「本当によくやりました」
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「もう一つ報告があります」ゲオルグが言った。「ブリュッケで保険ギルドの建物から夜間に小舟が出るのを見ました。荷物は小さな木箱一つでしたが、水面への沈み方がおかしかった。漕ぎ手の腕に力が入っていた」
「方向は」
「ドラグ方面です」
テレジアが窓の外を見た。アルタエ海峡が見えた。ゼートアの大水門が見えた。
「それから」ゲオルグが続けた。「帰路でドラグ兵に停船させられました。書類で退けましたが、その際にドラグの参謀の名前が出ました。ラドスラフと言います」
「存じています」テレジアが静かに言った。
ゲオルグはエーリックを見た。エーリックが一歩前に出た。
「エーリックと申します。元ハルトマン家騎士です。現在は……脱走兵です」
テレジアがエーリックを見た。値踏みする様子はなかった。ただ静かに見た。
「ブリュッケで保険ギルドの資金受け渡しを見ました」エーリックが続けた。「ドラグの将校と保険ギルドの者が会合を持っていた。金が動いていた。それが取引材料になるかと思い……」エーリックが姿勢を正した。「メーレスブルクに来ました。処遇はお任せします」
テレジアがアンナを見た。アンナが頷いた。
「ハルトマン家に連絡を取ります」テレジアが言った。「エーリック殿の処遇はハルトマン家と相談の上で決めましょう。それまではここに滞在してください」
エーリックが頭を下げた。「……ありがとうございます」
「ただし」テレジアが続けた。「見たことは全て話していただきます。保険ギルドのこと。ドラグ軍のこと。継承の戦役で見たこと。全部です」
「分かりました」
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「一つお聞きしたいことがあります」エーリックが言った。「ヘルムートという船長をご存知ですか。メーレスブルクのヘルムート船長と名乗った人間です。カナルの曳舟道で処刑されました。俺はその場にいました。あの人は……最後まで背筋を伸ばしていた」
部屋が静かになった。
テレジアの表情が変わった。
いつもの穏やかな笑顔ではなかった。何か別のものが一瞬だけ顔に出た。悲しみとも怒りとも違う。しかしどちらも含んでいるような表情だった。ゲオルグは今まで一度も見たことがなかった。
アンナが小さく声を上げた。「奥様」
テレジアが目を伏せた。しばらくそのままでいた。
やがて顔を上げた。いつもの表情に戻っていた。しかし完全には戻っていなかった。
「……存じています」テレジアが静かに言った。「ギュンター様の……大切な方でした」
それだけだった。
しばらく誰も口を開かなかった。
ヒルデが懐に手を入れた。
「奥様」ヒルデが言った。「港でこんなものを拾いました。貴重な品かもしれないと思いまして」
黒い板をテレジアに差し出した。
テレジアが受け取った。
その瞬間だった。
テレジアの顔から表情が消えた。
板をひっくり返した。表を見た。裏を見た。また表を見た。手が小さく震えていた。
やがてテレジアの口から言葉が漏れた。
誰も聞いたことのない言葉だった。この世界の言葉ではなかった。アンナもゲオルグも意味が分からなかった。しかしその声には、これまでのテレジアからは想像もできない感情が込められていた。
「奥様」アンナが駆け寄った。「奥様、顔色が」
テレジアが答えなかった。
黒い板を両手で持ったまま、窓の外を見た。アルタエ海峡が暮れていた。
ゲオルグはテレジアを見た。この女性がこんな顔をするとは思っていなかった。何があったのか分からなかった。しかし聞けなかった。
アンナがゲオルグたちを見た。退室を促す目だった。
ゲオルグが頭を下げた。ヒルデとエーリックを連れて部屋を出た。
扉が閉まった。
廊下でエーリックが小声で言った。「何だったんだ、あれは」
ゲオルグは答えなかった。
ヒルデが前を向いたまま言った。「大切なものだったのよ。きっと」
廊下の先に窓があった。夕暮れのアルタエ海峡が見えた。
扉の向こうから、物音一つしなかった。




