8 一人暮らし感
俺、藤崎拓海は玄関のドアを開け、目の前でニコニコと手を振る妹、藤崎 遥香と対面した。
「やっほー、お兄ちゃん! 久しぶり〜!」
「お、おう、久しぶり…」
制服姿の遥香は、高校2年生になったばかり。少しだけ背が伸びたような気もするけど、子どもの頃から変わらない無邪気な笑顔に、俺はなんだかホッとしてしまう。遥香は片手でキャリーバッグをガラガラと転がし、もう片方の手には大きなリュックを背負っている。キーホルダーやアニメキャラのストラップがやたらとじゃらじゃらしていて、リュックというよりもはや移動型オタク展示会だ。
「ねぇ、早く入れてよ〜!荷物重くて腕ちぎれそうなんだけど!」
「あ、わりぃ!」
俺は急いで靴をどけ、狭い玄関を少しでも広げる。とはいえ、玄関には脱ぎっぱなしのスニーカーや、放置されたAmazonの段ボール、カピカピになった靴下(なぜか床にぴったり貼り付いている)まで転がっていて、どう見ても“おもてなしの心”は感じられない。
「お兄ちゃん…これ、なに?」
遥香は恐る恐る靴下を摘んで、まるで毒物でも触ったかのように指先だけで持ち上げる。
「いや、それは…その…」
「もしかして、これが“お兄ちゃんの新しいペット”?」
「ペットなわけあるか!」
「だよね〜、あ、もしかしてカフェ・オブ・レストの新メニューとか?」
「どんなカフェだと思ってんだよ!」
遥香はケラケラと笑いながら、カピカピ靴下をゴミ箱に放り投げた。「それより、中入るね〜!」と元気よくズカズカと部屋に上がり込む。俺は慌てて散らかった靴を片付けつつ、「もう少し控えめに…」と呟いたが、もちろん彼女に届くわけもなかった。
部屋に入った遥香は、さっそくあちこちを見回している。小さなワンルーム、家具は最低限、窓際には乾ききってシワシワになった洗濯物、そしてキッチンには洗いかけの食器がシンクの中で水に浸かったままだ。「お兄ちゃん、一人暮らしって感じだね〜!」と嬉しそうに言うが、その視線は明らかにキッチンの奥、インスタント麺のカップがタワーのように積み上がった“人類の文明遺跡”に向けられている。
「ねぇ、これ、何日分のカップ麺?」
「…3日?」
「ほんとに?」
「…1週間…かな?」
「え〜! じゃあ、もしかして冷蔵庫もすごいことになってるんじゃ…」
遥香は興味津々で冷蔵庫を開け、すぐに「うわぁ」と引きつった笑顔を見せた。中には、しなびたキャベツの切れ端、賞味期限が読めない卵、そしてペットボトルのお茶だけがぽつんと入っている。
「…これ、もしや“断食チャレンジ”でもしてる?」
「いや、違うし! 昨日、バイト先でまかない食べたから…つい買い物サボっちゃって…」
「ふ〜ん。じゃあ、このキャベツはいつのやつ?」
「えっと…3日前…?」
「ほんとに?」
「…1週間…かな?」
「また1週間! もう、お兄ちゃんってば全然変わってないね〜!」
遥香は呆れたような、それでいて少し安心したような顔をして、冷蔵庫をパタンと閉じた。「でも、私が来たからには、こんな食生活はもうダメだよ?」と、まるでお母さんみたいな口調で言う。
実家の両親が急遽シンガポールに転勤することになり、遥香は俺の家に居候することになったのだ。親父の転勤は数ヶ月だと聞いていたのに、蓋を開けてみれば「1年以上になるかも」という話になって、俺にとってはまさに寝耳に水。遥香を海外に連れて行くのは生活環境的に難しいとかで、急に「お兄ちゃんとこにお願いね〜♪」と軽いノリで押し付けられたのだ。
「よし、じゃあ今日の夕ご飯は私が作ってあげる!」
「え、いいのか?」
「もちろん! なんだかんだお兄ちゃんも頼りないし、私がしっかりしないとね〜!」
「頼りないって…」
「ほら、スーパー行くよ! 食材買い出し!」
遥香はズンズンと玄関に向かい、俺のスニーカーの上に自分の靴を容赦なく乗せて履いている。
俺は小さく溜息をつきつつも、彼女の明るさに救われているのを感じた。
「エコバッグ、持ってあげるよ。」
「ほんと? じゃあこれお願い!」
遥香が渡してきたエコバッグは、軽くて持ちやすい。
中には財布、エコバッグの予備、エコバッグのたたみ方ガイドブックが入っていた。
「…エコバッグ、どんだけ準備万端なんだよ」と呆れる俺に、遥香は「エコバッグをエコに使うのが真のエコだよ!」とよくわからないことを言ってる。
「いや、そんなエコ道の探求者みたいな顔されても…」
「大丈夫大丈夫、お兄ちゃんは“ちょっとレジ袋ください”とか言わないでね?」
俺は心の中でそっとレジ袋派を謝罪しつつ、遥香の元気な声に引っ張られるように家を出た。
彼女の無邪気な笑顔に、これから始まる同居生活がきっと楽しくなるという予感がして、思わず口元が緩んだ。
「さあ、買い物行こー!」
遥香の声に背中を押され、俺はエコバッグ(予備付き)を握りしめながら、春の日差しの中へと一歩踏み出した。