7 異世界手当
俺は店長の真中。
普段は「のんびりカフェ店長」なんて呼ばれているけど、今はそんな余裕はまったくない。
なぜなら、目の前の光景が——あまりにも異常だからだ。
「……なんで、スライムとゴブリンがいるんだ?」
スライムはカチコチに凍ったまま「ぷるぷる〜♪」と無邪気に鳴いているし、ゴブリンはカウンターの下から「マオウサマ〜♪」と元気に手を振っている。
でも、今ここに“異世界の住人”がいるはずがない。
「こはるちゃん…まさか、やったの?」
俺はカップを握りしめたまま、こはるちゃんを見つめる。
こはるちゃんは、はっとしたように目を見開いた。
「え、えっと…それは…」
「やっぱり、あの木箱を開けたんだね?」
俺の静かな声に、こはるちゃんは俯く。
「ごめんなさい…」
その小さな声は、まるで消えてしまいそうだった。
「俺、『絶対に触っちゃいけない』って言ったよね?」
「うん…でも、お弁当箱かと思って…」
「お弁当箱…」
俺は一度、目を閉じた。
「……異世界ゲートが開いちゃったんだね。」
「……はい。」
こはるちゃんは、しゅんとした顔で小さく頷く。
影が足元でほんの一瞬、揺れる。
「このままだと、俺たちの“普通の生活”は終わりだ。」
冷たい空気が、店内を覆う。
「て、店長…?」
こはるちゃんが震えた声を出す。
「俺たちが異世界に帰るか…」
影がカウンターの下のゴブリンへと伸びかける。
「あるいは、拓海くんを“消す”しかないかもね。」
「……非推奨です。」
黒崎さんが、無表情のままエアコンのリモコンを握りしめていた。
「た、拓海くんは優しいです! きっと、なんとか…!」
「……代替案を。」
黒崎さんは、リモコンの温度設定を上げ下げしながら小さく頷く。
「そ、そうだよ! まだ間に合うよ!」
こはるちゃんが必死に首を振る。
俺は影を静かに収め、ふっと笑みを作った。
「じゃあ、言い訳するしかないね。」
俺がそう言うと、こはるちゃんと黒崎さんが小さく息を飲んだ。
「え、言い訳って…何を?」
拓海くんが困惑した顔で見つめる。
「た、たくみん!」
こはるちゃんは勢いよく振り返り、無理やり笑顔を作った。
「これはね、そう! 新しい…“次世代ペット”なんだよ!」
「次世代ペット!?」
「そ、そう! スライム型のね、癒やしペット! 名前は…えっと、“ぷるんぷるん・トモダチDX”!」
「いや、長いし、商品名が絶望的にダサい!」
「それに、ほら、最近の癒やし系グッズって、インタラクティブが主流だから!」
「インタラクティブって、ペットに“凍結モード”いらないでしょ!」
「……省エネ対応です。」
黒崎さんは無表情のまま、エアコンのリモコンを操作している。
「いや、省エネ!? もうこれ家電じゃん!」
「ぷるぷる〜♪」
スライムは凍ったまま、愛らしく揺れている。
「じゃ、じゃあ、このゴブリンは!? なんで『マオウサマ〜♪』って言ってんの!?」
「え、えっと…それはね!」
こはるんは一瞬、店長の顔をチラッと見る。
俺は静かに頷いた。
「これは…新しい、ほら、地域おこしプロジェクトのキャラクターなんだよ!」
「地域おこし!?」
「そ、そう! 例えば、ほら、ゆるキャラみたいな…あの、なんだっけ? ご当地マスコット!」
「いや、リアルすぎるでしょ! どっかの自治体攻めすぎじゃない!?」
「う、うん、だから、えっと…異世界村のね…」
「異世界村!? いや、名前からしてアウトじゃん!」
「でも、挨拶もちゃんとしてるでしょ?」
「マオウサマ〜♪」
ゴブリンが元気に手を振る。
「いや、挨拶『こんにちは』でいいだろ!」
「……ツッコミ、鈍ってる。」
黒崎さんがぽつりと呟いた。
「え、俺のツッコミ!?」
「うん、普段のたくみん、もっとキレがあるのに…今ちょっと甘いよ?」
「いや、こんな状況でツッコミの精度求めるな!」
拓海くんの声が店内に響く。
俺はカップを持ったまま、じっとそのやり取りを見ていた。
こはるちゃんは必死に笑顔を作っているし、黒崎さんは無表情のままエアコンのリモコンを握りしめている。
スライムは「ぷるぷる〜♪」と凍ったまま鳴き、ゴブリンは「マオウサマ〜♪」と元気に手を振っている。
それを見つめる拓海くんの顔は、混乱と不安でいっぱいだった。
静かな店内に、カップが小さな音を立ててテーブルに置かれる。
「……拓海くん、聞いてくれ。」
俺は、覚悟を決めて、拓海くんに向き直った。
「え?」
「実は…うちは、異世界とコラボしてるんだ。」
「……は?」
拓海くんの顔に、完全に訳がわからないという色が浮かぶ。
「新しい試みなんだ。異世界の住民にも、現実世界のカフェ体験を提供するっていうね。」
「異世界の…カフェ体験?」
「そう! スライムくんも、ゴブリンくんも、みんな大事なお客様なんだ。」
「ぷるぷる〜♪」
「マオウサマ〜♪」
スライムとゴブリンが、息ぴったりに可愛く鳴く。
「え、じゃあ…これ、現実?」
「もちろん! ほら、拓海くん、バイト代はちゃんと出るから大丈夫だよ。」
「……時給、変わります?」
「え?」
「異世界コラボなら、時給上がったり…まかない増えたり…?」
拓海くんは、おそるおそる聞いてくる。
「あ、ああ、もちろん! 異世界手当もつけちゃおうかな〜。」
「本当ですか!?」
拓海くんの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、俺…異世界でもなんでも、頑張ります!」
「そ、そうだよね! うんうん、頼もしいな〜!」
俺は安心したように笑い、こはるんもホッと胸を撫で下ろしている。
「ぷるぷる〜♪」
「マオウサマ〜♪」
スライムとゴブリンも、満足げに鳴いている。
……え、これでいいの?
俺たちの不安をよそに、拓海くんはやる気に満ちた顔で、ゴブリンに「いらっしゃいませ!」と声をかけ始めた。
「俺、絶対ここで稼いで学費払います!」
異世界手当の力は偉大だ——そんなことを思いながら、俺は今度こそ、本当にのんびりとした笑顔を浮かべた。