10 甘い夢
俺、藤崎拓海は、今日もバイト先の「カフェ・オブ・レスト」に出勤する。
いつもなら店長の真中さんや、こはるんが「たくみん〜♪」と元気に迎えてくれるのに、今日はやけに静かだ。
「おはようございまーす…?」
カラン、とドアベルが鳴ったが、返事はない。
店内には一般のお客さんが一人だけ、厨房の奥には黒崎さんが見える。
「黒崎さん、今日は店長もこはるんもいないんですか?」
「……ああ、店長は“仕入れ”、こはるんは“おつかい”だ」
黒崎さんは無表情のまま、キャベツを「シャキーン!」と切っている。
包丁から黒い煙が出てるのは見なかったことにしよう。
「お客さん、いらっしゃってますよね?」
「……対応した」
ホールの隅のテーブルを見ると、OL風のお客さんが硬直したままメニューを見つめていた。
カップに入った水は半分こぼれ、スプーンはテーブルに突き刺さっている。
「何をしたんですか!?」
「……“暗黒のシチュー”をおすすめしただけだ」
「普通のカレーって言わないとダメですよ!」
お客さんがビクッと肩を震わせ、恐る恐る手を挙げる。
「あ、あの…注文、いいですか…?」
「はい! どうぞ!」
「えっと…この“絶望のエスプレッソ”って…」
「……深淵を覗く一杯です」
「違います! 普通の苦めのコーヒーです!」
お客さんはちょっと引き気味でメニューを閉じた。
黒崎さんが「深淵を覗く」とか言うと、冗談に聞こえないんだよな…。
「カレーと…その…普通のコーヒーでお願いします…」
「……了解した」
黒崎さんがキャベツを片手で握り潰したとき、厨房の奥から艶やかな声が響いた。
「はーい、オーダー入りました〜♪」
「……誰!?」
声のした方を見ると、見知らぬ女性がにこやかに立っていた。
エプロン姿だけれど、どこか優雅で、カフェというよりも高級レストランのマダムみたいな雰囲気だ。
「初めまして。私、百瀬よ。よろしくね、ボウヤ♪」
「ぼ、ボウヤ!?」
いきなりの呼び方に、思わず変な声が出た。
「ふふ、可愛い反応ね。あなたが拓海くんでしょ? 店長から聞いてるわよ〜」
「いや、店長、どんな情報流してるんですか…」
「細かいことは気にしないの♪ それより、ボウヤ、甘いものは好きかしら?」
「え、まあ、甘いものは好きですけど…」
「ふふ、よかった♪ 今日は特別に、百瀬お姉さんがご馳走してあげるわね」
百瀬さんはくるりとキッチンに入り、手際よく材料を取り出していく。
ホイップクリームにイチゴ、チョコソースにクッキー…何を作るんだろう?
「さあ、特製スイーツ、召し上がれ♪」
目の前に出されたのは、巨大なパフェだった。
クリームが雲海のように盛られ、イチゴやフルーツが宝石箱のように散りばめられている。
「うわっ、すごいボリューム…!」
「さあ、遠慮しないで♪ ほら、あ〜んして?」
「え、あ、あ〜んって…!」
「どうしたの、ボウヤ? お姉さんが食べさせてあげるわよ?」
「いや、自分で食べます!」
「ダメよ、甘いものは愛情と一緒に食べるから美味しいの♪」
百瀬さんはキラキラした目で、スプーンを俺の口元に差し出してくる。
視線が甘くて、なんだか目が回りそうだ。
「は、はい…あ、あ〜ん…」
俺は促されるままにスプーンを口に入れた。
クリームとイチゴ、そしてチョコソースが絡み合い、口の中に甘さが広がる。
「……甘っ!?」
「ふふ、どうかしら? 甘美な世界に浸れるでしょ?」
「え、なんですかこれ…砂糖の塊ですか!?」
「そんなことないわよ〜。お砂糖は控えめにしたの。小瓶に3本分だけ♪」
「全然控えめじゃないです!!」
「でも、ほら、ボウヤのために特別に作ったんだから、全部食べてくれないと♪」
百瀬さんは危険な笑顔で、俺にパフェを差し出してくる。
このままじゃ、糖分の海に沈んでしまう…!
「ほら、もう一口。あ〜ん♪」
「いや、ちょっと待っ――」
クリームまみれのスプーンが、俺の口に強制的に押し込まれる。
「んぐっ、あ、あまああああああい!!」
「ふふ、もっと甘いのが好き? じゃあ次はこれもどうぞ♪」
今度はマカロンを差し出してくる。
しかも、見た目は普通なのに、ネーミングがどうかしている。
「“恋するベリーのキス”味よ♪」
「味がもう危ないですよね!? 普通にイチゴ味とかでいいんですけど!?」
「ボウヤはまだまだね〜。甘いものには名前から始まる魔法があるのよ?」
「その魔法、絶対変な効果がありますよね…」
「ふふ、信じないの? じゃあ、はい、あ〜ん♪」
「またあ〜ん!?」
口の中に放り込まれたマカロンは、確かに美味しいけど…甘さが脳を直撃する。
「ど、どうしよう…目の前がピンク色に…」
「大丈夫よ、甘さに身を委ねればいいの。ほら、こっちのお水もどうぞ♪」
「す、すみません…」
百瀬さんから渡されたグラスを一気に飲み干す。
「……これも甘い!?」
「ふふ、特製シロップウォーターよ♪ 体の中から甘くなれるわよ?」
「ならなくていいです!! もうこれ以上甘さが入る余地ないです!!」
「……甘美の呪詛だ」
黒崎さんがキャベツを握り潰しながら、謎の言葉を呟いた。
「ねえ、ボウヤ。もっと甘いもの、欲しい?」
「欲しくないです! もう満腹です! 甘さで頭が溶けます!」
「ふふ、甘い夢に堕ちちゃいなさい♪」
「いや、怖いこと言ってるーーー!?」
糖分の波に飲み込まれ、俺はいつの間にかパフェに顔を突っ込んでいた。
口の中も、心の中も、甘さに満たされて…ああ、俺の理性、さようなら。