女の子を食べちゃうんだって
柄本先輩は、私が新卒で入社した会社で一番、印象に残る顔をしている先輩だった。
ハンサムな顔つきではあるのだが、ファンのようにキャーキャー言っている女性社員がいるというわけでもないのであるが、どこか忘れられないというような顔をしていた。おそらくは、妙に目が吊り上がり、狐を彷彿とさせる顔つきをしているからであろうか。
同期の明子や雅恵はそんな風に話す私に対して、妙な訳知り顔でははーんと、私が柄本先輩へ好意を抱いていると思った様子であるが、決してそのような事はないと思う。
「でも、気をつけなー。柄本先輩、お気に入りの女子社員を食べてしまうんだって」
飲み会で向かいに座る明子が、カルパッチョをフォークに差しながらそんな風に話し出した。
「何その話」
雅恵がそう興味津々というようにグラスを持ったままに明子へと顔を向ける。すっかりと、雅恵は出来上がっており、顔はしっかりと赤ら顔というような状況である。グラスの中で、サングリアのフルーツが底にかたまって沈んでいる。
「私の部署の先輩がね。その柄本先輩と同じタイミングくらいで入社したんだけど、柄本先輩の事が好きってなった女子社員がどんどん姿を消していくんだって」
「よくある話じゃない。ほら、転職なんていっぱいあるじゃない」
「だったら送別会とかあっても良い物じゃあない? あんただって、自分の部署の人が転職していくなら送別会くらい開くじゃあない?」
「確かに」
私は、少し前に送別会を開いた後輩を思い出して言った。
「でも、そういう送別会もなく、退職していくのよ。だから、柄本先輩は、気に入った女子社員を食っているんだって噂」
「それでどうして柄本先輩が出てくるのよ」
雅恵が指を二つ立ててこちらを見る。
「理由は二つあって、さっきも言ったけど、一つは柄本先輩の事が好きな女子社員ばかりだから。そして、もう一つは、柄本先輩の家に実際にお呼ばれした事がある女子社員ばかりだってこと。つまり、家に呼び込んで、そのまま……」
「なにそれ」
「わかるでしょ? そのまま、柄本先輩に乱暴されちゃってるのよ。で、言えないままに退職しているってわけ」
「えー、なにそれひどーい」
明子がカルパッチョを食べていった。
私はにわかには信じられない気持ちであった。柄本先輩は、確かに少しばかり取っつきにくいというか親しみにくい雰囲気を纏っているのは事実である。しかし、かと言って、女性に暴力を振るうようなタイプでもないとも思っていた。いや、それは私の偏見というか先入観でしかない。
私は半ば笑い話の冗談だ、と思いながら少しお手洗いへと立ちあがる。
鍵のかかっていた居酒屋のトイレを見ながら先ほどの話を考えていた。
そういえば、少し前にイケメン俳優が居酒屋のトイレに女性を連れ込んでよろしくない事をしていたと聞いたことがある。つまりは人の外見からはその本性と言うか、素質というかを見抜くことは難しいのだ。
ただその噂がどうであるか、真偽の程はともかく職場で柄本先輩と接しなくてはいけない。明子と雅恵は部署が違うので良いが、私の部署は柄本先輩とある程度、頻繁に顔を合わせ接する事になるので変に意識をしてしまうのだった。
「あの、どうかした?」
そんな私の意識が通じたのか、休憩時間中に柄本先輩からそう声をかけられた。私は噂について隠し通すことも出来たが、かと言って、それを告げずにずるずると避けるような、つまり、変な意識を持ったままに過ごすというのも避けたかったので、仕事終わりに通勤途中の公園で、実際の心境を伝えた。
ベンチに座った柄本先輩は、私が言う噂話に対して、えぇっと途中の驚きの表情を見せて、話し終わった頃になると、ぷっと噴き出した。
「ありえない、ありえない」
「ですよねー」
片手で仰ぐように否定する柄本先輩を見ながら、私はそう安心を含めた言葉を口にした。
それはそうだ。あり得ない。
「だいたい、悪い噂が立つような事すると思う?」
「確かにそうですね。普通はそうしないですよね」
「そうそう。でも、困ったな」
柄本先輩は、顎に手を当てて考えるような体勢を取った。
「このまま、僕の悪い噂が広まるのを放っておくのも良くないな」
「確かにそれはそうですね。先輩の評価にも差し支えますし」
「だろ? だから、一度、僕の部屋に来てみないか?」
私は眉を顰めた。
体よく部屋に連れ込もうとしているような気がしたからだ。
それが先輩にも伝わったのか、ぶんぶんと首を振る。
「違う違う、そうじゃなくて、そういう意味はなくて」
と、必死に否定する先輩の姿は、どこか新鮮に見えた。それが魅了的にうつった。だから、私は少しだけ意地悪をするように迷ったふりをすると、柄本先輩の腕を掴んだ。それは了承の意味を見せていた。だから、柄本先輩は私の腕を引くようにマンションの部屋へと案内してくれた。
柄本先輩は、かなり高級そうなマンションの一室を借りていた。エレベーターに乗ってかなり上階へと向かう。
柄本先輩の部屋に入ると、かなり高級そうな家具があるのが目に入った。やはりエリート先輩というのは、日常生活においてもエリートなのだろう。リビングの椅子に座ってぼんやりとそう眺めていた時、私の前のテーブルに、ワイングラスが置かれた。
「少し飲んだら?」
「ありがとうございます」
私はそうお礼を述べてから、ワイングラスを手に取り、中に注がれた赤いワインへと口をつけた。
気が付くと天井が見えた。
何が起きているのか。
理解するよりも先に、私の目の前に包丁のギラリとした鋼が見える。
悲鳴。
出せない。
口に何かタオルのようなものを放り込まれているようだった。
「あららららららら」
柄本先輩の声が聞こえる。
気の抜けたような、それでいて、いつもの声色だ。
「起きた? あぁ、起きたよね。うぅん、しかし、噂っていうのは面白いね」
包丁の冷たい鋼が、私の頬に触れる。
「女の子を食べちゃう、か。うん、なかなかに面白い、ある意味、確信をついている。だけどね、僕はね。実際に、食べちゃうのが好きなんだよね。とくに君は太ももとが、かなり美味しそうだ」
すっと、包丁が私の頬を離れ、太ももに熱い痛みが走った。
「噂は真実なんだよ。噂になるだけはあるんだよ。ま、今度から気を付けないといけないね」
柄本先輩の明るい声が、ずっと私の頭の中で響いていた。