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ウェザーリポート

作者: 川辺凪


「卓くん、私、大丈夫だよね?」

『大丈夫だ、安心して。君なら大丈夫』


 濃い闇のなかに、高速バスのバス停はあった。灯台のような、微かな街灯。雛子はそこに、スーツケースを押しながら近づいていく。箱のような待合室のベンチに座ると、思わず両手を息であたためた。三月ももう終わろうとしているのに、田舎町の夜は冷え込む。高速道路の脇に設けられたバス停は風が通ることもあって、道中よりもずっと寒かった。

 背負っていたアコースティックギターのケースをそっと下ろし、隣に置くと、指先でかるく撫でた。

 雛子は足を組んで空を見上げる。曇天によって殆どの星が見えなかったが、朧月だけが暖かい光を地上へと照らしていた。

 雛子は一週間前に音楽の専門学校を卒業したばかりだ。ボーカル科に所属していて、高校卒業後の二年間は歌うことばかり考えていたと言ってもいいほどに打ち込んでいた。入学した時には、ここまでのめり込むとは思えなかったと、雛子は思う。流されるような気持ちで参加した最初のボーカルレッスンで、雛子は褒められた。褒められたと言っても、生やさしいものじゃない。その通る声はギフトだと。もっと君の歌うバラードが聞きたいと、講師である金髪の女性は雛子に力説した。

 その瞬間、雛子のなかに何かが生まれたのだ。抗いがたい衝動のような何かが。

 バスは十分遅れでやってきた。無愛想な運転手にチケットを見せて、スーツケースをトランクに入れたのち、アコギだけを背負って乗りこみ、一番奥の席に座る。東京行きのなかでも一番安いバスなので、薄紫色のシートはろくにリクライニングしないし、お手洗いもない。それでも雛子はまったく気にならなかった。それこそ、小さな自分を都会まで運んでくれる魔法の乗り物、くらいに思っていた。

 ポケットからウォークマンを出す。アデルの「21」の再生ボタンを押した。

 雛子はヘアゴムを抜き取り、髪をひろげて座席にもたれかかった。

 来る途中に買った缶ジュースのプルタブを起こす。トンネルに入ったために、窓の外は暗闇が流れるばかりだが、雛子はじっと、窓に映る自分の顔を見つめた。口元がややこわばっていて、目が心なしかぎょろっとしている。

「ねぇ、卓くん。こんな夜中だけど、起きてる?」

『起きてるよ。君が寝ているときはずっと寝てる。君が起きている時はずっと起きてる』

「率直に言うけどさ、私、大丈夫かな? 本当に、これで良かったのかな?」

『当たり前じゃないか。何よりも、君が心の底から望んだんじゃないか』

 卓くんの口調は優しい。

「それは……そうだけどさ。何ていうか、その……」

『煮え切らないな』卓くんが強く遮る。『そういう曖昧さが苦手なのは、君自身だろう? 今の君に出来ることは、ただ腹をくくるだけだ。考えても無駄なことは無駄だ。早く寝なさい』

 そう言うと、卓くんはもう語りかけてこない。

 身体は熱のような緊張を帯びたまま、アルバムの最後の曲まで眠ることは出来なかった。その代わり、頭のなかで過去と未来がぐるぐる渦を巻いて動き続けていた。

 アデルになるまで、実家には帰らない。

 雛子は小さい頃から内気で、そのくせ妙に衝動的な側面もあった。感情を表に出したくても出来なくて、人から認められることもできない。それを同時に解決してくれるのが歌だった。

 今の自分には、と雛子は考える。アコギとストラトと喉しかない。

 高速バスが止まった。トイレのために降りると、深海の底のように静かで暗い。建物の入り口の上に大きく表示された地名は全く知らないものだった。雛子は眠い目を擦りながら伸びをして、新鮮な空気を吸いこむ。

 ふと、トイレの横にある、指名手配犯のポスターに目がとまった。

「彩も、こんな感じでポスターを貼ったら誰かが見つけてくれるかな」

『さっさと行け。ここに貼って見つけてくれるのは犯罪者だけだ』卓くんが軽蔑するように言う。『うっかり乗り遅れたらどうするんだ』

 バスに戻り、サービスエリアの電灯を眺めながら考える。

 雛子には、上京してすぐにしたいことがあった。それは、連絡のつかない友人に会いに行くことだった。

 雛子の通っていた専門学校からは、過去に二組、メジャーデビューを果たしたバンドが存在する。新藤彩がボーカルだった「Lasys」はその三組目として期待された存在だった。特に彩の歌唱力と音楽知識は圧倒的で、手売りチケットは一時間も経たずに完売し、在学中から大手レコード会社の育成枠に選ばれ、五人揃ってあと二カ月だった卒業を待たずに上京していった。

 だけど、と雛子は思う。それから急に、彩はあらゆる連絡を絶った。

 上京して一ヶ月ほど経った頃から、あらゆるSNSで更新が止まり、メールもメッセージも電話も繋がらなくなった。もちろん、音楽に集中するために全て止めたのかもしれない。そう思っていた矢先、彩の母親から電話があった。

「何度かけても繋がらず、今住んでいる場所も分からない」という。

 そして重ねて、警察には電話したくないとも言った。ただ音楽に没頭しているだけなら、それを邪魔したくはない、と。そこで雛子に白羽の矢が立ったわけだ。

 厄介なことに、彩のバンドメンバーも一緒に連絡がつかなくなっていた。だから、彼らの間に何らかの事態が起きたことは間違いないと雛子は踏んでいた。

 座席にも慣れてきたのか、徐々に睡魔が湧きだしてきて、眠りの底へ攫っていく。

 次に目覚めたとき、すでにバスは東京都心のビルの中を縫うように走っていた。夜は明けていた。

 意気揚々とコンクリートに降り立ち、東京駅前にある八重洲バスターミナルをぐるりと見まわす。雛子は急に眩暈を感じて、近くの柱にもたれかかった。雛子は驚いた。自分はこの東京に、一人で立っている。その事実が明らかに違和感を生んでいる。

 ビルの上にある電光掲示板の音や、選挙カーの声や、雑踏の音が生々しく迫ってくる。雛子はウォークマンをポケットから出し、イヤホンを耳に指す。騒音が何となく耳について嫌だったのだ。

 スマートフォンで地図を見ながら中央線と京王線を乗り継ぎ、目的の駅までたどり着く。アパートに着いたときには八時をまわっていた。

「ただいま」

 アパートの扉を開けながら言ってみる。すでに引っ越してあるので、荷物はすぐにでも生活できるように整っている。とはいってもCD以外の物は殆どない。八畳のフローリングの大部分が見えている。簡素な部屋で、少ない物をつかって生活するのが雛子の好みだった。

『ここが君の部屋か。君はすぐ散らかすからな。不用意に物を買わないことだ』

「うるさいなぁ。そんなお金もないっての」

 言いながらカーテンをひらく。ベランダの向こうは小学校の校庭になっていて、子供たちが草野球で遊んでいた。

「もしボールが窓ガラスを突きやぶってきたら、コラー! って怒ればいいのかな?」

『それより大家に電話する方が先だろう』

「それは確かに」

 座布団にどっかと座り、テレビを点ける。討論番組をやっていて、大人たちが感情剥き出しで話しあっていたので、すぐに消す。

「普段なら私、まだ起きてもいないわ」

『それでいて朝起きられないとかぬかすんだからな。噴飯ものだな』

 連絡しなければならない人が何人かいたが、それにしては時間が早すぎる。雛子はいったん眠ることにした。布団に入ると、電池が切れたかのように寝入った。

 雛子を起こしたのは、スマートフォンの着信音だった。時刻はすでに二時をまわったところだ。

「あっ、もしもし?」

 と慌てて口に出す。言った瞬間、着信に表示された名前が何だったのか見ていなかったことに気づく。

「あの、北上雛子さんでお間違いないですか?」

「はい、そうです」

「ライブハウス空音の佐藤と申します」

 雛子は飛びあがった。そのままベッドからずり落ち、フローリングに身体を打ちつけた。「痛い!」

「あの、雛子さん?」

「すみません。驚いてしまって。……ということは、ライブの件、ですよね?」

「そうです。四月十日に決まりました」

 思わず生唾を飲む。そっと胸に手をあてた。

「はい。スタッフ全員の即決で、雛子さんにお願いしようということで。良ければ、打ち合わせの日時を決定したいのですが……」

 やり取りが終わり、手帳をテーブルに投げ置いて、雛子は放心したままフローリングに大の字になった。

 まだアマチュアの身でライブが出来るかどうかは、縁故によるものが大きかった。それか、選考を設けているライブハウスに音源や映像を送って聞いてもらうしかない。

 四月中に一度でもライブが出来れば幸せだと思っていた雛子にとっては望外のことであったのだ。

駅前にあるハンバーガーショップで昼食を取った後、高揚感に背中を押されて、紙とボールペンを用意し、作詞に取りかかった。

 しかし、勢いが続いたのはそこまでだった。

 高揚感とは裏腹に、詩の一文も出て来なかったのだ。

 記したときは輝いて見えた表現も、十五分も経てば陳腐に見えてしまう。

 雛子はペンを放り出し、再び床に横になった。アイデアはどこから生まれるのだろうと、雛子は考える。神が与えてくれるものなのか、自分で切り開くものなのか。天井の些細な汚れが目についたころ、不安な感情がじわじわ染みだしてくるのが分かり、雛子はため息をつく。

『そんなことしてると風邪を引くぞ。暗くなっているんだからカーテンを閉めて、夕飯でも食え』

「分かってるよ、そんなこと。起きあがれるならすぐにでも起きあがってる」

 自分は困ったとき、いつも何をしていただろうと思う。一階の書斎へ行って、父と話すことが多かった。けれど、と雛子は自制する。上京したその初日から誰かを頼るのは、あまりにも格好悪い。

 何のために来たんだと考えて、ゆっくりと起きあがる。

 壁の時計は五時半ちょうどであった。

 レトルトカレーを用意してテーブルの前に座ったとき、また着信があった。太田という先輩で、ライブハウス空音を紹介してくれた張本人だ。そこで月に二回ライブをしているバンドのベースのサポートメンバーとして時々参加しているという。

「北上さんなら受かってもおかしくないと思ったけど、まさか一発だなんてね。おめでとう」

「ありがとうございます。先輩の口添えが無かったらこんなにスムーズに行かなかったですし」

 辛口のカレーを口に運んでから、「順調すぎて怖いくらいです」と冗談めかした口調で言った。

「いやいや。近々予定あわせて飲みに行こうよ。デビュー記念にさ」

「あっ、いいですね。ところで、先輩は近況どうですか?」

「ぼちぼちって感じ。彼氏のバンドがもうそろそろやばそうってくらい」

 太田先輩の声の向こうで救急車のサイレンが過ぎていくのが聞きとれた。外にいるんだろうか。

「何か、ドラムとボーカルが裏でくっついてたってことが発覚して、もう会うたび怒鳴りあいらしいよ」

 聞きながら、雛子の頭には彩の面影が浮んで、ゆっくり消えていった。

「どーしてこう、音楽やってる奴らってみんな面倒くさいんだろうね。もっと大人しくしときゃ、チャンスもあるだろうに」

「あっ、そうだ。新藤さんの件ってどう?」

「まだ、今日上京したばかりなので。明日でも、彩のアカウントの最後の投稿にあった喫茶店には行こうと思ってます」

「そうなんだ。私も心配だから、もし何か発見があったら教えてね」

「分かってます」

「Lasysなんだけどさ、聞くところによると、もう育成バンドの所に名前ないっぽいよ」

 雛子は目を丸くした。

「それはつまり……」

「分かんないよ。解散したとも言い切れないし。正直、東京だと他人の噂話はつきないからね。バンド内のトラブルなんて掃いて捨てるほどあるし」

 太田先輩のため息が聞える。

「雛子は真面目だからさ、この件に深入りしたいのも分かるけど、自分の活動も疎かにしちゃだめよ。口やかましいことを承知で言うけれど、雛子が自分の時間を割きすぎることは、新藤さんも迷惑に感じるかもしれないわ。あくまでバランスを取ってね」

 雛子が何も言えずにいると、「ごめん、夜勤あるから切るわ。また電話しましょ」と言って、電話は切れた。すぐに水を飲み干して、勢いよくカレーにがっついた。


 入り口のガラス扉を押し開けると、小さな店内は空っぽだった。

「あっ、いらっしゃい」という声が上から降ってくる。藍色のエプロンをつけたショートカットの女性が階段を降りてきた。雛子はすぐに、この女性がマスターであることと、寝ていたであろうことに気づいた。女性は目が赤く、少しアイシャドウが崩れていたのだ。

 雛子は一番奥のカウンターに腰かけ、壁のブラックボードにチョークで書かれたメニュー表を見ながら、自分が来た場所が正しいことを確信した。

 彩のSNSの最後の投稿にあった、「BLUEPRINT」という喫茶店に雛子は来たのだった。

「カフェラテひとつください」彩の最後の投稿写真に映っていたものと同じ物を頼む。十分も経たずに差しだされたものは、薄青のカップすらも写真と同じだった。

「あのっ」カップを吹いているマスターの背中に声を掛ける。

「この人に見覚えないですか?」雛子は彩の写真をマスターに見せた。マスターはそれを見て、ぷぷっと馬鹿にしたように笑ってみせた。

「ちょっと、あの……」

「いやね、ごめんなさい。そんな映画みたいなことする人始めて見たと思って」

 ニヤニヤしながら続ける。「うん、覚えてるよ。その人」

「もしかして、友達?」

「ええ。専門学校の時の友達で。……今、彼女に連絡を取りたいんですけど、連絡できなくて」

「じゃあさ」とマスターは言った。「友達だってこと、証明してもらおうかな」

 雛子はぽかんとマスターの顔を見つめた。

「その人の中の、世界三大バンドはなんでしょう? 答えられたらコーヒーもう一杯サービスしてあげる」

「ビートルズ、ゴリラズ、そしてレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン」

「正解。その人……新藤さんはね、ここに通ってる人。だから、会おうと思えば会えるわ」

「マスターはご存知なんですか?」

「あ、新藤さんのこと? まぁ、うん、話は聞いたよ。だけど、ここでは答えないよ」

 マスターが振り返った。

「それは……どうして」

「友達なんでしょう?」マスターが優しく言う。「私がここで告げ口するより、直接話を聞いた方が良いと思うわ」

 雛子の中に何かが引っかかった。

「でも……」

「ごめんなさい、説教がましいことを言うけど、友達だからって、何でもかんでも腹の中を洗いざらい喋るわけじゃないわ。墓まで隠しておきたいことだってあるものよ。……友達だってことは信用してあげるから」雛子の目の前に新しいコーヒーカップが差しだされる。

 雛子はカップに口をつけ、しばらく黙っていた。言いたいことはあるのに、どうしても口から出て来なかった。マスターは雛子に背中を向けたままカップを拭いている。

 そのとき、カウンターに置いてあったマスターのスマートフォンが鳴った。

「ちょっとごめんなさい」と言ってお店の中を抜けていき、店の外の歩道へと出て電話を取ったようだった。

 雛子はふと、彩はどうやってこの店を見つけたんだろうと思案する。飯田橋の繁華街から早稲田方面に少し離れた住宅地の中にあるため、たまたま入ったとは思えない。そもそも、店内は少し暗く、入り口のガラス扉から見て誰もいないと、営業しているかどうかも分からない。

 十分ほどして、マスターが慌てるように戻ってきて、手を洗った。ちょうどお代わりのコーヒーまで飲み干したところだった。

「ごめんなさい、手が離れなくて」

「いえ。……このお店って、どうやって宣伝しているんですか?」

「それはね……実は全然宣伝してないの」えっ、と雛子は目を擦る。

「フェイスブックには一応場所と営業時間だけ書いてあるけれど、それ以外は一切宣伝してないわ」

「なら、どうして」

「いえね、私も、お恥ずかしいけれど、かなり怠けて経営しているの。道楽みたいなものでね。だけどこうしてお店を開けて待っていると、時々誰かがふっと迷い込んでくるの。それがお客なの」

 マスターが頬に手をあて、恥ずかしそうに笑った。

「実は、ここが本業じゃないの。本業は輸入雑貨店の経営をしているの。でも、そっちはほとんどパートナーに任せてるわ。だから、ここで油を売ってられるの」

 狐につままれたような気分で、雛子はマスターの顔を見つめる。とんでもない人に会ってしまった。雛子は思った。

 お会計を済ませるとき、マスターが付け加えるように言った。

「新藤さんは、毎週木曜日のお昼過ぎくらいに来るわ。だから、8日には会えるかもしれないわ」

「ありがとうございます」雛子は頭を下げる。

「そんな、そこまでしなくても」

「再会できると良いわね」

「ええ」

 雛子は店を出た。

「いい人だったね」卓くんに言う。

『お前は人を信用するのが早すぎるぜ。ともかく、良かったな』

「うん」

 春風がふわりと身体を包む。街路樹の桜の花片が、風にくるくる舞っていた。

 そして8日。ガラス扉を押し開けると、カウンター席に彩がいた。髪がかなり伸びているようだった。

 

 制限時間は十五分。

 その間に三曲を唄い、宣伝をしゃべって、自分を売る。

 雛子の役目はインディーズロックバンドの前座だった。路上ライブで下積みを続けてきたバンドだけに、一〇〇人規模のキャパが八割ほど埋まっている。ガラガラになることも珍しくない小さなイベントでしかライブをしてこなかった雛子は、その事実に激しく動揺していた。

 けれど、と雛子は思う。チューニングを済ませ、楽屋の天井を見つめる。始まってしまえば、大概なんとかなるものだ。専門学校時代の経験則が強力な心の支えになっていた。

 スタッフが、「北上さん、出番です」と言って楽屋の扉をひらく。

 雛子は頬を激しくばちばちと打って気合いを入れ、ステージの上へ出た。

 彩はきっと来ている。彩のためにも、唄わなければ。

 エフェクターを繋ぎ、マイクチェックをして、客席を一瞥する。前の方の二十人ほどは聞いてくれそうな雰囲気だったが、その奥では壁にもたれかかって話をしている人や、バーカウンターで文句を言っている人など、雑然としている。

 椅子に座り、唄える状態を整えて、ひと息つく。それから雛子は告げる。

「聞いてください。―――-――スタンダード」

 最初のコードが鳴った。

 

 彩は化粧をしていないようだった。ショートカットだった髪も伸びていた。意図的に伸ばしているのではなく、明らかに切るのを怠っているように見えた。

「解散したの」

 彩は、雛子が問うまえに答えた。

「どうして。あともう少しでメジャーデビューだって、あんなにはしゃいでたじゃない……」

「井の中の蛙だったの」

 コーヒーを一口飲んでから続ける。

「私たちに才能は無かった。それが分かっただけで十分よ」

「だから、どうして……」

「色々あったのよ」彩がかぶりを振る。「メジャー行きが決まった人達と対バンしたの。でも、全然だめ。演奏技術も、曲のクオリティも、マーケティングも、もう桁違いだった」

「だったら、真似すればいいじゃない。欠けてるものを勉強するために上京したんでしょう?」

「実のところ、私もそう思う。でも、私の周囲はそうじゃなかった。ベースの池上くんと、ドラムの真。クラスは違うけど、雛子なら分かるでしょう?」

「まさか」

「強姦だそうだわ。腹いせに歌舞伎町のクラブへ行って、そこで口説いた女の子とトラブルになったの。もう、本当にお馬鹿でしょう?」

 彩はコーヒーを一気に飲み干して、頬に手をあてる。

「もう、なんか全部馬鹿らしくなっちゃった。ねぇ、私、どうしたらいいと思う?」

 

 一曲目を唄い終わると、拍手はまばらだった。前の方の観客の反応はそれなりに上等だったけれど、大半の観客は無関心を決めこむらしかった。雛子の内心に、澱のようなものが溜まる。嫌な思考が浮んできそうで、必死に押しとどめる。彩の顔もここからでは分からなかった。

「次の曲です。―――-――Beside you」

 せめて、彩にだけは、彩にだけは聞いてほしい。


「今は何をしているの?」

「何もしてないわ。寝てるだけ」

「だったら、帰れば……」

「あんたも帰れっていうの?」ずっと俯いていた彩が、雛子のことをぎゅっと睨んだ。雛子は虚をつかれて、必死に言葉を探す。

「………………ごめん。冷静じゃなかった」彩は両手で顔を覆う。

「私もごめん。単刀直入すぎた」

「ううん、いいの。それが正しい。帰って、一度頭でも冷やせば、音楽やりたいなんて、もう言いださないでしょう」

「そんな……」

 卓くんが言う。『一時の感情に振り回されすぎだ。なぜやるかやらないか、二択しかないんだ?』

「あんたはちょっと黙ってて」雛子が言い返す。

 沈黙が続く。店内ではジムノペディがごく小さな音量で流れているばかりだった。

「そういえば、生活は」雛子が口をひらく。

「バイトは続けてるの?」

「うん。まだ。でも、休んでばかり。行きたくないの。どこにも」鼻声だった。鼻をかんで、

「来月の家賃は、まだ払えるわ。でも、その先は分からない。バイトももう、クビになる寸前だと思う」

「なら、決断は今月ね」

 彩は何か言いかけて口をつぐんだ。雛子も考える。

「もし、今のバイトをクビになったとして、次のバイトは考えてる?」

「まだ。……将来のことは考えられないわ」

「そう……」

「やっぱり、申し訳ないけど、一度実家に帰った方が良いと思う」

「でも……」

「でもじゃないの。こういう時に一人で抱えこむのが一番良くない」

「それはさ、その、正論としては分かるの。それが正しいってことくらいは。でも、雛子は理解してくれると思うけど、ああやって威勢良く出て来た手前、何を言われるか分かったもんじゃないわ! 専門学校の卒業を待たずに出て来てしまったのだって、相当に止められた。それなのに、一ヶ月も経たずに帰ってきて、どんな顔してればいいか分からないの」

「それでもだよ」雛子はきっぱり言った。

「私たちはさ、まだ二十歳なんだよ。この社会の酸いも甘いも何も知らない。みんな等しく世間知らずなんだ。大人だって、そのくらい分かってるよ」

「でも」

「いいじゃない、実家へ帰ったって。実家に帰ることと音楽を辞めることは全く別のことじゃない? 音楽やるのだって、東京じゃなくても出来る。東京でやりたいなら、またここに戻ってきてやればいい。そうじゃない?」

 いつの間にかマスターが側にいて、お代わりのコーヒーをそっと置いた。

「お取り込み中ごめんなさい。これ、サービスだから」

「マスターは聞いてましたか? どう思います?」

「私?」と白々しく驚いてみせてから、

「青春って眩しいなって……嘘よ。まあ、私がどうこう言うより、北上さんのアドバイスに従った方がいいと思うわ。新藤さんのこともよく理解しているでしょうし。私はただ見てるだけよ」

 とだけ言って階段を上り、二階の事務所へ消えていった。

 彩は頬杖をついて、コーヒーの上をすべるミルクの白い影を見つめている。完全に黙ってしまって、ぐるぐると思考の渦に飲み込まれているようである。

「彩」顔をあげる。「スマホ出して」そっと差しだされたそれを、指先ですっと奪う。

「電話しよう」

「ちょっと待って」「ちょっとじゃなくて」信じられない、とでも言いたげな目で彩は雛子を見つめ、すぐに目を逸らした。

「今それをしなかったら、アパートでするの? 取り返しのつかないことになってから後悔しても遅いでしょ」

「いい加減にして。返してよ」

「返さない。今すぐ、ここで両親へ電話して。思いたったが吉日よ」

「電話するのが重要だってことは分かったから。ともかく、自分のペースで」

「今すぐじゃないと駄目。スマホは返すから、ここで電話して」

 スマホを受けとると、机に置いて俯く。

「……メールでもいい?」

「いいよ。私が見てるから。そんなに酷い言葉は返ってこないと思うよ」

 

 二曲目も唄い終わる。もう、周囲を気にしている余裕はなかった。歌詞を飛ばしかけ、もしかすると演奏的なミスもあったかもしれない。しかし、一曲目よりは拍手が多かった。エフェクターを繋ぎ直し、チューニングも少し弄る。

 歌える。自分に言い聞かせたとき、最前列の端の方にいた観客が通話しはじめたのが見えた。声もここまで聞える。私の歌で塗り消してやる。とにかくやるんだ。

 雛子は歯を食いしばった。


 雛子がメールの送信ボタンを押して十分ほどして、彩がトイレから戻ってきた。

「押してくれた?」

「送信したよ」

 良かった、と言って彩が席にすわる。壁掛け時計が午後三時の鐘を鳴らした。

「そういえばさ、雛子にとって、卓くんって誰なの?」

 コーヒーを含んでいたときだってので、雛子は盛大にむせて、コーヒーを軽くぶちまけた。

 ナプキンで口を拭いてから、「観察者みたいなものよ」と返した。

「例えばこう、自分が何か行動しようとするとき、起きる可能性のあるリスクとか、これから自分がどうなるのかを教えてくれる存在」

「何かこう、守護霊みたいなものなの?」

「そうそう、それと似たような感じ。……あ、でも、どっちかというとリポーターの方が近いかな」

「リポーター?」

「そう、あの、天気予報とかしてくれる、ウェザーリポーター。それが明日何をしたら良いとか、何をするべきだとか話をしてくれる。もちろん、外れることとか、当てにならないことも多いけどね」

「卓くんって自分で生みだしたの? 私も欲しいな」

「生み出す? ……うーん、いつの間にかそこにいたって感じかな。生み出す……生み出せる?」

 なんだなんだ、と彩は戸惑う。頼りがいがありそうに見えた雛子が、急に緩んだように感じられたのだ。

「分からないけど、でも、生み出そうと思えば生み出せるものだと思うよ」

 話しが一段落したところで、帰ることにした。

 雛子が財布を出そうとして、彩が止め、払った。お礼だと言う。

「ごちそうさま」

 二人は店を出た。

 地下鉄の駅へ向かって坂を下っているとき、雛子が

「明後日の夜、予定開いてる?」

「えっ、分からないけど……バイトは確かないわ」

「もし都合がついて、行ってやってもいいって思うならさ」

 雛子は鞄からチケットを取りだした。

「ライブに来て。東京での初ライブ」


 全ての曲が終わり、楽屋へ戻ると、担当してくれたスタッフの佐藤さんが待っていてくれていた。

「お疲れさま。どれもなかなか悪くない音だったと思うよ」

「ありがとうございます」頭を下げる。

 楽屋の奥で固まって話し込んでいたインディーズバンドのメンバーの一人もこちらに来て、雛子に握手を求めた。そのまま雑談を続けていると、「雛子」という声が聞えた。雛子が顔をあげると、戸口に彩が覗いている。肩まで伸びていた髪はショートになっていて、色も茶髪になっていた。

「彩!」彩が飛び込んできて、雛子をぎゅっとハグする。

 嬉しさと恥ずかしさが同時にこみあげ、雛子の顔がほんのり赤くなった。

「すごく……すごく良かった。本当にびっくりした」

「来てくれてたんだ」

「もちろん」彩が背中にまわしていた手を外して、椅子に座る。アルコールが入っているのか、ほんのり酒臭かった。

「雛子はきっと救えるよ」彩が上気した顔で言う。

「私みたいな迷子の人間を」


 *


 東京駅の新幹線ホームで再会した彩はとても華やいでいて、これから海外旅行へでも行くかのような笑顔で待っていた。雛子が気づくよりずっと前からこちらに気づいていたようで、スーツケースの把手を持っていない方の手でぶんぶん腕を振っているのが見える。

「お待たせ」

 雛子も手をあげる。

「わざわざ来てくれてありがとう。忙しいのに」

「そんなことないよ。本当に、あの時はありがとう」

 彩の背後を、新幹線がホームへ入ってくる。発車までまだ十五分ほどあるようだった。

「雛子にああやって言ってもらえなきゃ、私、本当にどうなってたか分からないわ」

「そんな、……いいのに」

 彩が雛子の手を取った。

「すぐには出来ないかもしれない。でも、この恩は必ず返す。ここで約束するわ。雛子も、それまで元気でね」

「うん。彩も、身体に気を付けて」

「私はまだ白紙だけど、白紙じゃないと何も書けない」

 雛子ははっとした。

「――私の歌詞」

「まだまだ、私はこれからね」

 新幹線のドアの横で、彩は振り返った。雛子が言う。

「向こうに着いて、落ちついたら、また連絡してね! 待ってるから!」

「もちろん! また会おうね! また声を聞かせて!」

 ベルが鳴って、ドアが閉まる。

 新幹線がホームを完全に出て行っても、雛子はまだ立ち去る気になれず、新幹線がホームから完全に見えなくなるまで見届けて、はじめて階段を降りた。

「卓くん」

 雛子はつぶやく。しかし、返事はない。

 入場券を入れて改札を出て、丸の内線の駅へと歩く。雛子の周囲を、大勢の人々が行き交っていく。その中には夢と希望に満ちあふれた人もいれば、失望感に胸を焦がす人もいる。雛子はそのどちらでもない。

 駅の外へ出ると、空は青空なのにも関わらず、小雨が降っていた。

 雛子は地下鉄の駅へ向かう階段まで走る。

 あのライブの夜から、卓くんは何も応答してくれなくなった。


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