「ショーシャンクの空に」 感想
「ショーシャンクの空に」の感想を書こうと思います。先月に見ました。見るのは4、5回目だと思います。
正面からの批評に関しては年間読書人さんがされているので、私は断片的な感想を書いていこうと思います。作品のストーリーに関しては、みんな見ている映画なので、それほどの説明もいらないかと思います。簡単に言えば、無実の罪で捉えられた銀行員が、過酷な牢獄生活を経て、脱獄し、外の世界で幸福を得るという話です。
私は「ショーシャンクの空に」を何度か見ています。いい作品というのは年齢によって、見えてくるものが変わってきますが、今回、私は牢獄に囚われた主人公のアンディをまるで自分自身であるかのように見ました。
アンディを自分自身のように感じたというのは、私も、牢獄に繋がれた存在だと心底感じたからです。(全く同じだ)と思いました。今や、私はこの世界、つまりアンディにとっては牢獄の外の世界を、全く牢獄の内部だとみなしているという事です。
私も最初、この作品を見た時にはそんな風には思いませんでした。今までに何度か見ていますが、そんな風に感じたのは今回がはじめてです。つまり、それまでの私は(なんだかんだ言って、アンディの物語は他人事だ)とみなしていたわけです。
それが今や、全然他人事でないとわかりました。最も、わかった気になっているだけなのかもしれません。多分、この世界、現実という名の牢獄はもっと深く、まだ私はこの牢獄の深層にたどり着いていないのだろうと思われます。
アンディが無実の罪で囚われ、牢獄に入り、過酷な生活を強いられ、同性愛の囚人に無理やり犯されたり、それに抗ったりするーーこうしたシーンを人はあくまでも「平和で健康な生活を送っている自分達」とは違うものだと思って作品を鑑賞するのでしょう。私も以前はそう見ていました。
しかし大人になり、この世界がどんな風に構成されているか、また、「常識人」というものが一体どんな存在なのかおぼろげにわかってきていて、世界観が変わってきました。テレビのニュース番組に代表されるような、「市民の潔白で、健全な世界」というものが嘘であるとわかって、私は自分がアンディと異なっている世界を生きているのではないというのがわかってきました。今までは他人事のように見ていた牢獄の世界が、(ああ、これは自分の事だ。自分の話だ)と素直に感じるようになりました。
私は、『知る』という事は自らを知る事だと考えています。人は最初、様々な事を他人事だと感じます。ですが、それが他人事でないと徐々に思い知ってきます。例えば、北朝鮮の暴政のような事柄は、頭のおかしな人達のやっている事だ、と他人事で見ているうちは『知る』という状態からは程遠い。『知る』とは、ある日、自分が当事者だと知る事でしょう。自分が鞭を振るい、また、鞭を振られ、痛みの中、無実で死んでいく存在だと知る事なのだと思います。
ドストエフスキーの小説にはそういう感覚が溢れています。「カラマーゾフの兄弟」で、イワンは徐々に自分の罪に気づいていきます。「罪と罰」で、ラスコーリニコフは自分がナポレオンでもなんでもない、ただの人間だと気づいていきます。
一言で言えば『知る』という事が人生なのだと思います。小説というのは『知らない状態』から『知る』ようになるまでの過程を描いた物語だと思います。その為には何よりも、作者が人生を『知って』いなければなりません。文章がどれほどうまかろうが、知識がどれほどあろうが、私にとってはどうでもいい事です。人生というもの、世界というものを一番深く『知って』いる作者が、一番優れた作家なのだと思います。
※
話を戻します。この世界が牢獄だと感じた、象徴的なシーンが私にはありました。
アンディがレッドという調達係の友人にハーモニカを渡すシーンがあります。レッドはもと、ハーモニカを吹くのを趣味としていたのですが、牢獄に入ってからその趣味はやめてしまっていました。アンディは「心を失っちゃいけない」と言って、ハーモニカを渡します。
私はそのシーンを見て、これもまた他人事ではないと思いました。
この現実社会を見渡すと、くだらないものが溢れています。インフルエンサーやユーチューバーといった人が華形で、政治家は選挙に勝つ事だけが問題となっています。スポーツやお笑いといった、瞬間的な熱狂、興奮、ストレス発散のコンテンツが喜ばれています。大衆には芸術は必要ではなく、エンターテイメントがあれば十分です。
私が知っているとある純文学作家も、デビュー後すぐ、世の中の流れに沿うように、通俗小説を書いていました。こういう世界において「心を失わず」にいるのはいかに難しい事だろうか、と我が身を振り返らずにはいられませんでした。
閉ざされた環境、荒んだ世界において、心を失わずにいるとはどういう事を意味しているのでしょうか。作中において、聖書というものが重要な要素が出てきます。主人公のアンディは聖書を信じていますが、他人を虫けらのように扱う刑務所の所長もまた聖書を愛好しています。シェイクスピアの言うように「悪魔もまた聖書を巧みに引用する」のです。
「心を失わずにいる」とは、聖書を愛する事自体の中にあるのではなく、聖書に対してどう向き合うか、そういう実存的な構えの中にあるのだと私は思います。聖書を読みさえすれば賢くなる、あるいは〇〇さえすれば賢くなる、ステップアップできる、といった人達は、自分自身が何であるかというものについて考えてみようとはしないでしょう。
ハーモニカを吹く事は、ただハーモニカを吹く事を意味するのではなく、それを吹いている自分自身について思惟する事を含むのだと思います。その自分が一体、何に向かっているのかを知るというのが、「心を持つ」という事なのではないかと思います。
※
私の好きなゲームで「セラフィック・ブルー」というRPGがあります。RPGツクールで作られた同人ゲームで、ある人が一人で作ったものです。
その中に、「ショーシャンクの空に」からもじったエピソードがあります。私は「セラフィック・ブルー」の取り上げ方はなかなか優れたものだと思っているので、それについても書いておこうと思います。
「セラフィック・ブルー」の主人公でヴェーネという女性がいます。彼女は世界を救う為に人工的に生育された人物で、世界を救う為の特殊な機能を背負わされ、また、世界を救うという役割だけを全うする為に、感情を殺された教育を施されています。彼女は当然、いびつな性格になってしまっています。それでも彼女は、機械的な義務として、一切愛してもいないこの世界を救おうとします。
その際に、「ショーシャンクの空に」からもじったエピソードが使われます。「ショーシャンクの空に」においては、図書係の老人のエピソードです。図書係の老人がある時、仮釈放の審査が通って、外の世界に出られるようになったのですが、彼は牢獄の中の世界に馴れすぎていて、老人になった今、外の世界に適応できず、そのまま自殺してしまいます。水の中の魚が陸地に上がったようなものです。
「セラフィック・ブルー」では、これは主人公のヴェーネが、世界を救うという機械的な義務だけを背負わされて、世界を救った後、その世界で果たして生きていけるのか?という問いとして作中では提出されていました。ヴェーネは、世界を救うという仕事だけを遂行するロボットのような育てられ方をしたので、それが成し遂げられると人生の目的を失い、生きていけないのではないか、という危惧があったわけです。
作者はこれを一応、ハッピーエンド、つまりヴェーネは死なずに生き続けるというストーリーを選択しました。「ショーシャンクの空に」と同様に。ですが、この問題は非常に根深いものなので、そう簡単には解決できないと私には思われます。
年間読書人さんも、アンディとレッドがたどり着いた、外界の美しい地「ジワタネホ」は、死後の世界、天国を象徴しているのではないか、と書いています。
この問題は、かなり難しい話なので、私もここでは答えは出しません。ただ、「ショーシャンクの空に」を簡単にハッピーエンドだと考えるのは、年間読書人さんが書いているように、たしかに早計なのだろうとは私も思います。それは同じ監督の「グリーンマイル」の苦渋に満ちたラストを見てもわかります。この問題をハッピーエンドにすると、普通の観客は喜ぶでしょうが、ハッピーエンドかバッドエンドか、観客が表面的に満足するかどうかを越えて、これをどう捉えていくかは非常に難しい事だとは言えると思います。
それは例えば、ドストエフスキーの「罪と罰」のラストを、主人公がたどり着いたのはこの世の外側ではないか?と問うのに近いかもしれません。ラスコーリニコフは、心の中のざわついた声を最後の場面では、止めてしまいます。それは、心の中、つまり小林秀雄などが問題とした人間の自己意識というもの、その問題を果たしてドストエフスキーは解決したのか、それとも最後にその問題から逃げたのか。これに関しては議論が分かれる事でしょうし、これから先も議論し、考えていかなければならない事柄だろうと私は思っています。
※
「ショーシャンクの空に」についての感想は大体以上のようなものです。あまりにも自分に引き付けて見たという感じもされるかもしれませんが、最近はそういう見方しかできなくなっています。まあ、これも感想の一つとして別にいいのではないかと、今は考えています。