プロローグ
「……え? まさか、冗談ですよね?」
「いえ、本当です」
「だって、この新聞広告……求人が出たの、たったの五日前ですよ!?」
黒髪の少女は腰まである墨色の髪と同系色の濃い藍色の瞳に強い不満の光をたぎらせて、男に詰め寄っていた。相手は鈍い銀色の甲冑に身を包んだ衛士で、立派な槍をその手に持ち、表情を変えることなく彼女に「いいえ、間違いありません」、そう返事をしていた。
「そんなあ……これを見てわざわざあの――」
少女は視界の隅にきらきらと輝く、湖を指差す。
「あの、シャイゼル湖を三日もかけて渡ってきたんですよ!? わたし、泳げないんです。ついでに、船酔いもするし……ようやく、このタムトナの街に今朝ついたんですよ。その足でここまで来たのに!!」
「いえ、そうは言われましても……。ここは確かに、タムトナの領事館ですが。しかし、その求人は先日締め切ったのです。ちょうど、最適な人材が紹介されましたので」
「人材が紹介された?? なんですか、それ?」
おや? 彼女はこの街のことをなにも知らずに来たのかな。衛士は隣に立つ、同じ格好の同僚と顔を見合わせた。彼らは沈黙の門番として領事館の警護に当たらなければならない。あまりだれかれと会話を交わすことはよろしくないとされていた。
「これ、見えますか? このタムトナ。そう、城塞都市タムトナの旗です。二等の赤と黒の龍が描かれていて、それぞれの手で相手の口をふさいでいるでしょ?」
「はあ、それはそう、ですね。これがなにか?」
門番は言いづらそうに、でも仕方ないと口を開いてこたえる。
「これが私たち、沈黙の門番の旗印なんです。つまり、多く会話をすると罰を与えられるんですよ、お嬢さん」
「あっ! それは知りませんでした、ごめんなさい。じゃあ、指で示して下さい。わたしはどこに行き、この問題を話し合えばいいですか?」
あちらに。そんな感じに彼は右手をだしてある建物を指し示した。四階建ての赤いレンガ造りの建物。歴史を感じる古びた建物だった。
「あそこ?? でも何階に? 行けば分かりますか?」
にっこりと二人の門番が微笑んで見せた。指が二本立つ。「二階ね? ありがとうございます」。とりあえず二階に行けということなのだろう。少女は大理石が敷き詰められた道のうえに置いていた、帆布のバッグを取ると二人に丁寧に頭をさげて歩き出す。
「良いことがあると嬉しいのだけど‥‥‥ダメかな」
そんな彼女のつぶやきを聞いて、二人の門番は肩を落とした。タムトナの領事館――そこは田舎者には冷たい態度を取ることで有名だったからだ。
「大きな入り口。それにガラスがどの窓にもはまっていて、どれも透き通っている。こんな建物、アイゼルの街にはなかったなー」
のんびりと建物を見上げるとその贅沢さにため息が漏れる。ここで働きたかったなあ。まだわからないけど。でも、無理かもしれない。玄関のホールを抜けるとすぐに階段がある。紫のじゅうたんが敷き詰められた床はフワフワで、弾力がまだ生きていた。外は古めかしいけど、中身は新しいらしい。
ここにはわたしの知らない、世界の最先端がある。
それは新しい物好きの彼女にとって、まるで足元のじゅうたん以上に心を躍動させるものだった。
二階、二階? あら‥‥‥、声が二階に上がると出てしまう。一階のホールの上は空中庭園になっていた。宙二階の階段をのぼると来客を迎える様式になっているのだろう。春先から夏に変わろうとする季節に合わせて、色彩豊かな花が植えられていた。
「甘い香り。でもちょっとキツイ感じ。これって野生のルバイヤルの花かしら。珍しいなあ」
バラに似た植物。しかし、トゲが無く花びらの色は透き通る紫から青まで多岐にわたるその植物は、竜や天空大陸を生息地とする魔獣の好む匂いを放つ。そして、彼らの大好きなおやつのような存在でもある。人里で栽培もされることもあるが、野良竜などがやってきて畑を荒らすことも多い。いまでは、栽培には強い結界を張れる魔法使いの協力が必要な花だった。
「さすが、領事館ね。こんなあからさまに天空に香りがたつような栽培でも、ちゃんと荒らされずに育つ‥‥‥あれっ」
青いルバイヤルの花が咲き誇るその一面に、奇妙な色が見えた。
赤、いやもっと明るい赤。緋色に近い赤だ。初めはそこから緋色のルバイヤルが咲いているのかと勘違いしてしまっていた。しかし、よくよく見ると――その緋色はモコモコとした動きを始めている。胎動し、さざ波のように揺れ、緋色の大海が出現したような錯覚を覚えた。
「何っ? 生き物‥‥‥赤牛でも飼育しているわけじゃないわよね、あれ」
牛というより子豚に長い羽毛のような毛が生えたその生物は、集団で行動する。臆病でのろまでそれでいて危険な時は炎を身にまとい攻撃してくるから厄介な存在。でも、冬になると体毛が生え変わるから人間の側に寄ってくる。彼らは自分では上手に脱毛が出来ないらしい。人はその体毛を編み、炎に強い耐火性の布として重宝する。そして、赤牛はルバイヤルの根元に生える毒草が大の好物なのだ。
「でもあれは違うわ、なんだろ。まるで一枚の巨大な絨毯‥‥‥まさか!?」
思い当たることは一つだけ。
あの求人広告に掲載されていた内容だ。
『緋龍の話し相手求む。要資格:緑の位階以上の魔女』
間違いない。あれは天空の緋色の天鵞絨とも称される竜族の上位種だ。
気まぐれで、ルバイヤルの花畑に埋もれて眠るのが大好きな、天空大陸の覇者。でもその話し相手になるべき魔女はどこにも見えなかった。
緋い海はどこからか長細い二本の角と、そこから連なるこれまた長細い首をにょっきりと突き出して辺りを見渡し、花の香りにその眼をうっとりとさせると、いきなり――少女の方をぎろりとにらんで口角を上げその鋭すぎる牙を見せつけていた。
「なんだ、魔女か」
「はっ‥‥‥?」
それが彼、緋色の龍ルドゥーテと、落ちこぼれ魔女、サユキ・ハーベストの記念すべき最初の出会いだった。