9.散髪
時刻は12時を回り、閑静な街に大音量のサイレンが響き渡った。防災無線の点検を兼ねた時報である。
「そろそろ行きますか?」
「そうします」
太宰府の問いに北川辺は栞紐を挟んで本を閉じ、立ち上がった。手ぶらの北川辺に対して、太宰府は小さな鞄と紙袋を持っている。
部屋を後にした2人は通り側の門を抜け、左手の遠くに見えるバス停に向かって歩き出した。朝の寒さはどこへ行ったのか、街をやんわり照らす日差しとそよ風が暖かい。ぽかぽか陽気というやつだ。
バス停に着いてから程なくしてバスがやってきた。時刻表を見る限りだと前後のバスの発着時刻の中間あたりの時刻である。バスが遅れるのはいつでもどこでも変わらないようだ。
バスに乗って整理券を引き抜くと、適当な吊り革に捕まった。車内は老人が席を埋め、各々世間話をしている。きっと市の公園へ花見にでも行くのだろう。今はアジサイやハナショウブが見頃だ。
バスは瑠璃蝶々荘前の通りに沿って走り続けた。川を渡り、車がまばらなスーパーの駐車場を見下ろしてバスは進む。北川辺にとっては昨日車内で見た光景の逆再生だ。
「次は――。次、停まります」
車内アナウンスに被さるように降車ボタンが押され、次のアナウンスが割り込んだ。なんてことのない日常的な光景である。しかしそこにある暖かい活気が、北川辺にはとても新鮮に感じられた。
間もなくしてバスは駅の近くで停車した。後方に見えるこじんまりとした駅舎はこの市の冠するものとは思えないほどに古く感じられる。かつての記憶との変化のなさに、北川辺は懐かしさで胸がいっぱいになった。
そこから更に1駅を過ぎ、2人はバスから降りた。目の前に広がるのは「商店街」の文字が浮き出た高い門と、その奥に連なるシャッター通りだ。黄ばんだアーケードのせいで中は夕暮れ時のような色合いになっている。その上通行人が誰1人いないせいで、何故か生活感が残る廃墟のようだ。誰もいないはずなのに誰かに会ってしまう。そんな恐怖が北川辺の奥底に湧き出している。
「こっちです」
商店街に足を踏み入れた2人は、完全に夕暮れの世界に囚われた。この商店街は緩やかにカーブしているため、片方の入り口からでは果てが見えない。残念ながら最奥に見えるのもシャッターなのだ。
異世界に放り込まれたような感じがして、北川辺は後ろを振り返った。外はまだ明るい。彼女はホッとして胸を撫で下ろした。
何度もここへ足を運んでいる太宰府は、ずんずん奥へ進んでいく。一方で北川辺は彼女の左後ろに立ち、その背中を不安そうに追いかけている。辺りを伺うように頭を低くし、絶えずキョロキョロしながら。その様子はまるで乗り気でない肝試しに連れて行かれたようだ。
商店街に入ってから少しして、奥に横道が見えてきた。さらにその奥に、ようやく通行人が現れた。40代ぐらいのおばちゃんのような風体の彼女はそのまま横道へと消えていった。
さっきおばちゃんが見えた所に立ってみると、その先にはシャッターの上がった店が並んでいた。八百屋や魚屋、本屋など、この区画だけ店が立ち並び、活気づいている。
太宰府はその中を進み、1つの店の前で向きを変えた。店先に立てられたサインポールが示す通り、ここは床屋である。
太宰府が扉を開けると、金属の鈴の音が店員を呼び出した。電球特有の黄色がかった店内で、奥から茶髪の女性店員がやってきた。
「昨日ご予約いただきました大宰府様でお間違いないでしょうか?」
「はい。今日は彼女の散髪をお願いします」
そう言って太宰府が1歩横に移動すると、伸びきった髪の北川辺が店員の目に入る。そのあまりの毛量に、店員は顎を引いて固唾を吞んだ。
直ぐに北川辺は奥のバーバーチェアに通され、太宰府は待合室のソファーに腰かける。太宰府がバッグから本を取り出して読んでいると、気が付けばチョキチョキと鋏が髪を断つ小気味良い音が聞こえていた。
「散髪終わりました」
理容師の声に、太宰府は1時間ぶりに本から顔を上げた。目の前には髪が短くなった北川辺がいた。昨日と同じように、左目が髪で覆われた彼女が。
「前髪は切らないんですね」
太宰府は不思議そうに言う。
「はい。おばあちゃんに教わったおまじないなんです。利き手側の目を隠すと良いことが起きやすいとか」
「そんなおまじないもあるんですね……」
髪型に対しては、北川辺の説明を聞いてもどうも釈然としない太宰府だった。