6.厨房
一方その頃、太宰府は広間横のキッチンで夕食の支度をしていた。傷だらけのステンレス製のシンクや、焦げや油で黒くなったガスコンロのある、一昔前に製造された広めのものだ。そこに立っている彼女の髪は一つ結びにされ、その先がばらけないようにさらに数か所が結ばれている。そんな彼女が包丁で玉ねぎを切っている傍らで、ひときわ長身の男がジャガイモを細かめの角切りにしている。彼はやたらと自分を隠しているような薄暗い雰囲気を感じさせるが、意外にも目元がくっきりと見えるほどに前髪は短く切られている。
彼の身長は北川辺のそれをも超えるほどに高いということを、太宰府は顔を見て話すために見上げる角度から分かっていた。彼の左手の指には包丁用指ガードがはめられ、右手には素早く動く包丁が握られていた。
「そういえば、新しい住人が来たそうです。北川辺さんでしたっけ?」
その男は太宰府に言った。若干暗く、不安を感じさせる声だった。
「はい、そうです。その方は私が連れてきたんです。危ない人ではなさそうですよ」
「そうだと良いですが……。一宮から聞いた限りだと、背景が明るいとは思えません」
「そうですよね……」
この男――鹿沼善影――はやたらと北川辺のことを危険視している。それもそのはず、彼は非常に臆病なのだ。少なくとも尿路結石のリスクを減らすために大好きな緑茶をやめて麦茶を飲むことにしたり、非常用持ち出し袋の中身の塩梅を数日かけて吟味する程には。
「もし借金取りや裏社会の人間に絡まれたらと思うと、怖くて夜も眠れません」
「それは少し誇張してませんか?」
「嫌な想像をして夜寝付けなくなることはよくあります」
「……私はないです」
ここ瑠璃蝶々荘では住人たちの取り決めで、住人の中でも料理がまともにできる太宰府と鹿沼が夕食を作ることになっている。その代わり、彼らは食費の一部が免除されるというシステムだ。最初の1ヶ月は太宰府が単独で行っていたが、負担が大きすぎるということで鹿沼も途中参戦し、今に至る。ちなみに鹿沼はなにかの手違いで食中毒が出るんじゃないかと毎日ヒヤヒヤしている。
「そういえば、その方の食費はどうなるんでしょうか?」
「それは私が払うつもりです」
「わざわざそこまですることは理解できません」
鹿沼は包丁を動かす手を止め、太宰府に目を向けて呟いた。太宰府は切ったタマネギを焼くために、フライパンを火にかけている。
「ですよね。私もそう思います。でも、彼女は放っておけなかったんです」
「そうですか……。でも、親切もほどほどにした方がいいですよ。それを利用しようとする人はいくらでもいますから」
鹿沼は敢えて、放っておけなかった理由は訊かなかった。経験則で、彼女が隠したいことだと分かったからだ。元より、彼女は自分を多く語る人間ではない。そういう人間の事情をほじくり返しても大抵良いことにはならないから。
「そうですよね。でも、私が人に親切にするのは贖罪なんです。だから止められません。止めたら私が私でなくなるんです」
張り詰めた声で大宰府は言った。感情の籠った、叫びにも似たそれは瑠璃蝶々荘の住人の前で発したことはない。制御しきれなかった自分の言葉は、彼女自身を呆然とさせた。
「なにものにも臆病で、それに従い続けてきた身だからこそ言います。自分の持つ強迫観念を妄信して生きていると、突然自分が何故生きているのか分からなくなってきます。そういうときは、後先考えないで一時の楽しさに身を委ねるのもまたいいものでしたよ」
「駄目です。私には贖罪がないと、生きる意味がないから……」
呆然している様が感じとれるぎこちなさがある言葉の中に、今度は気持ちが沈んだような、縋るような感情が見え隠れしていた。
「……1つ、酷いことを言っていいですか?」
「はい、どうぞ」
「贖罪とは、許されるために行うことです。贖罪だけが生きる意味なら、罪が許されたとき、それからの生きる意味はなにになりますか?」
返事はない。いつしか、彼女の手は止まっていた。暫く、炊飯器の湯気とガスコンロの火の音だけがキッチンに充満する。
その静寂を破ろうと鹿沼が上唇を浮かせた瞬間、俯いた太宰府の声が遮った。
「ありません。人生はそういうものですから」
「確かに」
鹿沼は再び包丁を動かし始めた。
それからしばらくして、順調に料理は出来上がった。キッチンには湯気を上げる炊飯器、フライパンに山を作るキーマカレー、マヨネーズで汚れた巨大なボウル、そして高く積まれた盛り付け用の皿がある。時刻は7時15分。夕食には丁度いい時間だ。
太宰府は広間にコップとスプーンを並べに来ていた。そこは白い壁に灰色の床のだだっ広い空間だ。2階からでも入ることができるように、扉の前には壁伝いに灰色の廊下が中二階のように存在している。昇降用の階段は建物の奥に2つ、向かい合わせに設置されている。
真ん中にポツンと置かれた巨大なダイニングテーブルや壁際に置かれたテレビとソファーなど、リビングを思わせる家具が散り散りに配置されている部屋だ。彼女はテーブルの向かい合う2辺に、コップとスプーンを4つずつ並べた。その帰りに、彼女はキッチン横のスイッチを入れた。すると、広間のスピーカーが電子音声で「夕食の準備が整いました」と2度叫んだ。これが瑠璃蝶々荘における夕食の合図である。
音声が止んだタイミングで、スイッチを切った太宰府はキッチンに入る。鹿沼はもう、皿に白米を盛っていた。彼女の仕事はキーマカレーを盛ること。こぼさないように、確実に盛り付けていく。完成品はお盆に載せ、待機している皿を手に取ること8度、皿はなくなった。
2人は4枚ずつ皿が乗ったお盆を手に広間に向かう。そこには既に3人が座っていた。
「なにか手伝うか?」
「大丈夫です。今日は皿が少ないので」
一宮に鹿沼が答えた。2人はお盆をテーブルに置いて立ち去った。
次は冷蔵庫からポテトサラダを取り出す。これもお盆に載せ、太宰府が運び出した。少し遅れて鹿沼も追ってくる。お盆の上にはタマゴとボトルがあった。片方には水、もう片方には麦茶が満たされている。