46.過去からの目覚め
そんな中で、太宰府は自分について考えていた。北川辺から突き付けられた言葉は、先程までの、言いたいことが纏まる前から否定の枕詞を吐き出していた自分と昨日の安室の姿を重ねさせた。自らの思考でそこまで思い至れば、自分がおかしい筈がないという盲信を固く持ち続けることはできない。しかし同時に数か月に亘って刷り込まれ、固められた考えは、正論や気付きの1つ2つをぶつけられただけで退くことはしない。太宰府が自分の過去を否定する二者択一を迫られている中、北川辺は奥の手を使うべく口を開いた。
「さっきまでのやり取りを、実は録音していました」
北川辺は膝の上で握っていた録音機を机の上に置く。これは昨日のために太宰府が鹿沼から借りたものだ。
北川辺が再生ボタンを押すと、小さなプツプツやサーといった感じのノイズだけが流れる静寂が流れる。それが5秒程続くと、いよいよ今日の会話が流れ始めた。少々音質が悪く、くぐもったような、それでいて音割れしているような感じの声だったが、お互いの語勢も発言内容も十分に聞き取ることができる。
初っ端から鋭い声で北川辺が問うシーンも、太宰府が震える声で自分の見た夢について答えるシーンも、2人が矢継ぎ早に問答を繰り広げるシーンも、太宰府が感情的な声でひたすらに食い下がるシーンも、どれも太宰府は黙って耳を傾けていた。そして再生が進むにつれて、如何に自分が頑なに暴論を以って対抗しようとしていたかを思い知った。次の言葉は何にしようかという思案と相手の言葉に対する初見の感想が、太宰府の認知を歪めていたのだ。
朝ももうすぐ過ぎるという頃合いに急拵えの朝食を頬張り、太宰府は部屋を飛び出した。その直前に赤みがかったガーゼを取り換えた時にはもう、首の傷の流血は止まっていた。
開かれた扉の奥では、布団を虹井洋服店で丸洗いする任務を請け負った北川辺が彼女を見送る。北川辺がそれを提案した時は、太宰府は自分の粗相の始末は自分がしなくてはならないといってそれを突っぱねた。しかし根気強く自分に任せるべき理由を述べて説得を試みると、太宰府は信頼を以って事を任せてくれた。そんな信頼を肌を貰うことのできた彼女の顔もまた、晴れやかなものだった。
外階段を下りて速足で駅を目指していると、道路の前方に見覚えのある後ろ姿が3つ見えてきた。1つはフリルの付いた黒い日傘と風に靡く黒いスカート。もう1つはやたらとショートボブが絶えず揺らぐ程に身振り手振りの大きい、ベージュの半袖ジャケットと白い長ズボン。そして残った1つは黒いズボンと薄手の青いカーディガンから生える短髪だ。
「あっ、だーさんおはよー!」
太宰府がゆっくりと距離を縮め、あと3mぐらいまで接近したところで、美唄は唐突に振り返って大声で挨拶した。お互いの距離に対して過剰に感じる声量だ。
「おはようございます……」
「ごきげんよう」
「おはようさん」
それに太宰府が少し顔を上げて細々とした声で挨拶を返すと、残る2人も口々に挨拶の言葉を投げ返した。そして太宰府は並んで歩く美唄と印西の一歩後ろに佇む度会の隣へと、そそくさと歩み寄った。
「だーさん何かいいことあった?」
再び歩き出してすぐ、唐突に振り返った美唄は太宰府の顔を覗き込んで訊いた。その時の彼女の目は真っ直ぐに太宰府の目を捉え、その眼窩の奥まで知ろうとしているような圧を感じさせる。後ろ向きで歩き続けているというのに、その瞳は全く動いていない。
「あー、別に特別なことはないです」
「そっか」
太宰府は顔を逸らしながら、白々しくしらばっくれる。自分でもバレバレだと思ってしまう嘘の出来なのに、美唄はそれ以上追及することはなかった。しかし一瞬だけ見えた、ひらりと再び前を向く彼女の顔は、何かを察しているように感じられた。
「……」
太宰府は惨めそうな表情を浮かべたまま押し黙って、自らの愚かさを噛み締めていた。そして北川辺はそれを、綻んだ顔で静かに眺めている。その様は顔のみならず、纏う雰囲気も安らかなものになっていた。
「気持ちの整理はつきましたか?」
「……はい」
北川辺の確認に、太宰府は少し考えた後に潰れた声でゆっくりと肯定を返した。しかし苦しんでいるとか、悩んでいるとかといった雰囲気ではなく、本当に肩の荷が下りたのかを疑っている感じである。いざ自分に刷り込まれたものが抜けても、長らく共に生きたそれの面影は、実感だけを揮発させて自分の傍に居座るものだから。
北川辺はそれから何も問わなかった。太宰府が過去の呪縛を解き放つことができたということは、初めて会った時から絶えず付き纏っていた暗い雰囲気の消えた彼女を前にすれば明らかなことだったのだ。
「花引き千切ってくる!」
「わたくしは飲み物を買いに行きますわ」
駅について時刻表を確認した美唄と度会は、ゆらりと元の集団から離れていった。
「引き千切るってどういうこっちゃ……?」
「多分難産です……」
「嫌な出産ですね」
華やかさを失った通学集団は、美唄の残した頓智気なトイレ報告についての話題しか残っていない。構内の端っこのベンチに座ってお互いまでしか聞こえないぐらいの声で独り言のように呟き合った。
美唄のウンコの話題が場を繋ぐのに十分はものの筈もなく、2人がすぐに口を閉じることとなった。しかし黙って考えていると、太宰府は印西に言っておくべきことを思い出した。
「そういえば、漸く終わりました」
あまり深堀りされたくも、思い出したくもないからこそ、太宰府は具体性を省いて罪悪感からの解放を報告した。元はといえば、太宰府が夢を通して自分の過去と向き合うようになったきっかけは彼との通学中の会話に端を発していた。
彼女の唐突に成された安らかな語調の報告の意味に、印西は暫し思考を巡らす。そして彼女の顔を眺めると、彼女に今日感じた違和感の正体と共に、彼女の言葉が指すものに気付いた。
「それは良かったです。心なしか、今日の太宰府さんは明るく見えます。目の隈は相変わらずですけど」
「今日はかなり早く目が覚めてしまって……。でも、それも今日までです」
太宰府は不当な罪悪感のない、本来の感覚をしみじみと堪能しながら答える。これからの人生をこんな感覚で生きていけるのかと思うと、顔も自然と前を向いていた。印西は彼女がちゃんと前を向いて話す所を初めて見て、驚き半分、微笑ましさ半分といった具合である。
「お待たせ~」
「お待ち遠様」
速足で駆け寄る美唄と、改札の近くで佇んで待つ度会。その2人と合流して、皆改札の奥へと消えていった