4.管理人室へ
座布団の上で正座している北川辺は、取り敢えずカップラーメンをご馳走されることになった。1杯目をノンストップでスープまで飲み干した彼女に、太宰府はもう1杯食べるかを訊いた。北川辺の腹は遠慮したのだが、体は正直なもので直後に腹が鳴る。誤魔化せず、恥ずかしそうにもう1杯頂くことにした。
2杯目も凄い勢いで食べきり、スープにも手をつけたため、太宰府はそれを慌てて止める。一刻も早く止めなければ飲み干され、過剰な塩分が彼女の体を蝕みかねないからだ。
こうしてスープが中途半端に残ったカップラーメンと箸を処理した太宰府がキッチンから戻ってきた。
「一息ついたらここの管理人さんに挨拶に行きませんか?」
「いいですね。今からでも行きましょう」
2人は玄関に向かった。太宰府は玄関にしゃがんで靴に足を突っ込み、北川辺は後ろでそれを見下ろして待っている。太宰府は端に置かれたサンダルを足の横に揃えてから立ち上がった。
「これ使ってください。足が汚れますから」
「ありがとうございます」
太宰府の貸したサンダルは北川辺の足には少々小さかったが、かかと部がないおかげで履くことができた。かかとがはみ出ていることは気にするほどのことではない。
北川辺が立ったのを見てから、太宰府は体をこの敷地の入り口の方に向けた。そして玄関のドアに鍵をかけることもせずに歩き出した。そして廊下を進み、階段を降り、階段脇でUターンした。そしてそのまま道なりに進み、ちょうど自室の玄関の真下で足を止めた。
太宰府がドア横のスイッチを押すと、ピーンポーンいう音が向こうから響く。そして程なくして、ドア越しに人の気配が近づいてきた。その気配は躊躇いもなくドアを開け、太宰府と北川辺の前に姿を見せた。彼女の背は太宰府よりも低く、淡い肌色が混じった白い肌を黒いロリィタ系のワンピースが包む。腰までに達する長い髪を縛らずに綺麗に下しているのとは対照的に、彼女の前髪は綺麗に切り揃えられている。所謂ぱっつんという髪型だ。その上には脇に黒いミニハット、濃い紫のバラの花、小さなベールがついたヘッドドレスが乗っていた。そのような彼女の風貌は、初見だと西洋人形に見違えるほどに美しく整っている。北川辺は自分の身長との大きな差も相まって、見て数秒は本当に動く人形だと感じられた。
「どうされましたか?」
彼女の声は高音ながらも落ち着いている、聞きやすい声だ。声の中にはクールさのような、男声に似た成分が入っているわけではない。しかしながら声量を大きくしても耳を痛めつけて脳に響き渡ることはない。不思議で、落ち着く、心地良い声だ。
「私の部屋に人を泊めたいのですが、大丈夫ですか? 長期間になるかもしれないのですが」
「大丈夫ですよ」
管理人は北川辺が泊まることをあっさり承諾してくれた。太宰府の見立てでは他にもなにか聞かれるのではないかと思っていたが、トントン拍子でことが進んで喜ばしかった。
「その泊まる人というのが彼女です」
太宰府は自分の斜め後ろに立っている北川辺の前から退いた。
「わたくしは瑠璃蝶々荘の管理人の『度会絵美里』です。以後、お見知り置きをお願いしますわ」
度会は目を伏せた白い顔を北川辺に向けて言い、小さくお辞儀をした。
「私の名前は『北川辺玲』といいます。よろしくお願いします」
北川辺もお辞儀を返し、太宰府の後ろに戻った。
「それで、度会さんに1つ頼んでもいいですか?」
申し訳なさそうに太宰府が尋ねる。決して断り辛くする意図はなく、本心から迷惑でないかを憂いているのだ。しかしその飾らない申し訳なさがより一層断り辛くさせている。
「わたくしにできることなら」
度会は即答した。
「食事の準備の間、北川辺さんを預かってくれませんか?」
「ええ、いいですよ。今からですか?」
「はい。食材を買い漏らしてしまったので」
こうしてあっさりと野暮用の間の引き取り手が決まり、北川辺は度会の部屋にお邪魔することになった。
「どうぞ入ってください」
「お邪魔します」
度会は北川辺が玄関の扉に手を掛けたことを確認すると、一歩下がってひらりと半回転する。その遠心力の働きで、両耳にそれぞれ下げられている鍵と南京錠のピアスが、黒髪から少しだけ銀色の煌めきを覗かせた。
青々としたコバンソウが生けられた玄関から北川辺は中へ入り、度会の後を追ってリビングに通された。物が大分少ない、太宰府の質素な部屋とは対照的に、度会の部屋にはインテリアは多い。椅子に座らされた小さなテディベアや机上の香炉が部屋を彩り、棚に乗せられた青いトルコランプが部屋を照らす。北川辺はそれらのインテリアを見回していた。壁沿いにも色々なものがあり、数週見回してもまだ飽きがこない
「適当なところに座ってくださいね」
きょろきょろとしている北川辺の様を見兼ねた度会は椅子の上のテディベアをどかし、とりあえず彼女を座らせた。
「お気遣いありがとうございます」
部屋と彼女の雰囲気や家主よりも先に座ることへの申し訳なさから、北川辺は自然とかしこまり、クッションが乗っていないイスに座った。
「ジャスミンティーは好きかしら?」
「んー、飲んだことはないと思います」
「少し待っていてくださいね」
北川辺の返答を訊いた度会は、壁に掛けられた懐中時計を持ってリビングから出た。そして数分後、湯気を吐き出す黒い急須と逆さにした白いティーカップをお盆に載せて戻ってきた。
度会はテーブルの前に立ち、机上に並べられたティーカップに急須の中身を注いだ。ティーカップに半透明の淡い茶色が満たされていく。それに伴ってジャスミンの香りが部屋に広がった。
「どうぞ」
度会は北川辺の前にカップを移動させた。
「ありがとうございます」
北川辺は度会がカップを持ち上げたのを見て、自分の口にもカップを近づけた。そしてジャスミンティーをすするように少しだけ口に含んだ。口内を火傷したり、熱さでむせることがないようにするためだ。
「このお茶、おいしいです」
「お口に合ったようで嬉しいわ」
度会は微笑んで言葉を返した。
その後は数分の間、2人に会話はなかった。そもそもお互い積極的に人に話しかけるタイプではない。ジャスミンティーの味と香りを楽しみながら、静かなお茶会は続いた。
「まず最初に名前を教えてくれるかしら? ここに書いて頂戴」
そう言うと、度会は紫の模様の入った正方形の付箋と胴軸が螺旋状にねじれたボールペンを北川辺の前に置いた。北川辺はペンを手に取り、付箋の上で滑らせる。その軽快な音を嗜みながら、度会は茶を啜っていた。
「書けました」
北川辺は机から付箋を剥がす。そしてその音を聞いて視線を向けてきた度会と目が合い、付箋を手渡した。
「古い字を書くのね」
度会は付箋に目を落として呟く。彼女の目線は、北川辺が書いた「玲」の字に向けられていた。よく見ると、玲の旁には「、」と「マ」で構成された「令」が用いられている。所謂「教科書体」というものだ。
「丸っぽくてかわいらしいじゃないですか。だから『玲』の字はそういう風に書く拘りがあるんです」
北川辺も自分の書いた文字に目を落とし、微笑んで言った。
「そういえば、ここへ来て気になったことはあるかしら? 分かることなら答えるわ」
「ありかとうございます。そうですねぇ……ここはどんな施設だったんですか?」
「確か宿泊施設として建てられたはずよ。中央の広間は団体で集まれるように造られたわ。ビジネスホテルとしても、合宿施設としても利用できる施設を目指したの。あそこにある金庫なんかは、その名残として残されてるものよ」
そう言って、度会は壁の方を指す。そこにはこの部屋の雰囲気とマッチしていない、無骨なねずみ色の金庫がひっそりと佇んでいた。
「そういえば、太宰府さんの部屋にもありましたね。それで、どうしてここは賃貸物件になったんですか?」
「参加者を管理するのが難しい構造だったり、立地が悪かったりするせいで使う人は少なかったの。そしてある日社員研修で使われたわ。でもどうやらブラック企業だったみたいで、女性社員が首を吊ったの。それでここは閉鎖になったわ。それからは私の住居兼アパートとして再利用することになったわ」
「えっ、ここ人死んでるんですか!?」
驚きのあまり、北川辺は前のめりになって叫び気味な声を出してしまった。
「大丈夫よ。ここ2年は霊障が起きてないから。それより前は知らないわ」
何もなかった2年間のおかげか、北川辺とは対照的に度会は余裕そうであった。
「でもここに広間があるのは知らなかったです」
「玄関に入ったら目の前に扉があったでしょう。あそこから広間に出られるわ。基本的に、夕食はみんなでそこで食べるの。寮食みたいなものよ」
「ってことは、私も今日からそこで食べるんですか?」
「そうなるわね」
「住人の皆さんが私のことを快く思わないかもしれないって、少し不安です」
「きっと大丈夫よ。ここの住人は寛大な人が多いから。少なくとも新しく誰かが来たからといって目くじらを立てる人はいないわ」
不安がる北川辺をあやすかのように、度会の口調は優しかった。