3.北川辺と服
「荷物は下ろしておきます。太宰府さんは忙しいでしょ」
車を駐車場に停めてすぐ、首を回した一宮は言った。太宰府の顔を見ながら喋っていたが、途中で少し右に向けた。
「はい。ありがとうございます」
太宰府は北川辺に降車を促しながら外に出た。
「私のせいで手間が増えてしまってすみません」
「別に気にすることでもないよ」
北川辺は一宮とこんな会話を交わして車を降りた。
「ついてきてもらえますか?」
太宰府は北川辺を先導して駐車場を抜け、小さなカタツムリの殻によってまばらに彩られているブロック塀の横を歩く。
ブロック塀で囲まれた向こうに建物の2階から上が見える。豆腐のような、白に近いクリーム色の四角い建物の外周に、2階の扉にはいるための通路がついている。この閑静な住宅街には不相応すぎる、いかにも怪しい建物に向かっていることに、北川辺は今日感じたものとは比較にならないほどの強い不安を感じた。希望を潰される不安ではなく、希望を餌に絶望を与えられる不安だ。
2人は通りに面する塀の門を抜け、大きな観音開きの玄関の前で右に曲がる。正面に見える塗装が剥げかかった金属の階段を登り、通路を曲がった先の焦げ茶色のドアに太宰府が鍵を差し込んだ。そしてドアの向こうの薄暗い玄関の電気を点けた。
玄関と廊下の見える範囲には全く物がない。玄関の右側に置かれた靴置きには、1本だけビニール傘が引っ掛けられているだけで、他にはなにもない。
そしてとても異質なことに短い廊下を挟んで正面にあるのは、今太宰府がいるのとまったく同じ構造の玄関がある。この建物は部屋のさらに内側にも施設があるようだ。扉に向けられた一足のスリッパがそれを教えてくれる。
「どうぞ入ってください」
北川辺の方に振り返って太宰府が言った。北川辺は汚いまま人の家に上がることには少し躊躇ったが、自分を眺め続けている太宰府に無言の圧を感じた。
「お邪魔します」
自分の良心と太宰府の圧との板挟みのせいで、立ったまま靴を脱ぎフローリングの床に両足を置くまでの動作は妙にぎこちなかった。そんな彼女に対して、もっと遠慮なく振る舞ってくれて構わないと太宰府は思っていた。
「まずは体を洗いますか?」
「はい。そうしたいです」
太宰府は壁のスイッチで薄い闇を払いながら、北川辺を風呂場に案内した。
「衣類は洗濯して大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「替えの服は出しておきますからゆっくり入ってください」
「はい。ありがとうございます」
太宰府は洗濯機の横に置いてある白いプラスチック製の洗濯かごを北川辺の前に置き、脱衣所の若干建付けの悪い引き戸を閉めて出て行った。
その足でリビングに向かった太宰府は、明かりをつけてクローゼットの下の引き出しを開けた。中には綺麗に畳まれた下着と黒いシャツが収納されている。彼女はその中から比較的新しいものを1つ選んだ。北川辺と自分には大きな身長の差があるが、ヨレヨレのものよりはいいだろう。そう思いながら、彼女は下着とシャツを取り出した。
続いて太宰府はクローゼットを開いた。中にはハンガーに吊るされたYシャツとスカートが並んでいる。そこから1つずつ取り出した。
それらを持って太宰府は脱衣所に向かった。持ってきた替えの衣類を蓋の空いた洗濯機に掛け、脱衣所内の洗面台で洗濯かごの中の下着を洗い始めた。元は白かったであろう泥色の下着は、透明な水道水ですすぐだけで濃い泥水を垂れ流した。湯桶に貯めた水の揉み洗いでも同様で、色は微塵も落ちなかった。泥だらけの布を泥水で洗うのと同じ結果だった。
第一工程が無意味に終わった時点で薄々気づいていたが、洗剤を使っても大した成果は上げられなかった。瞬く間に泡の根本は泥色に染まり、少しだけ下着の色が薄まっただけだ。あとは洗濯機でどれぐらいマシになるかに懸かっている。
そして次は本命のワンピースである。こっちに関しては洗濯機で洗って問題ない代物かどうかがわからないため、すすぎなどで軽く泥を落とす程度に留めておくことにした。その工程が終わったら、明日顔なじみの女性が営む店にクリーニングを依頼する予定だ。
こちらは下着と比べて固形の汚れが目立った。それらをひとつひとつ剥いでいく途中、太宰府はこのワンピースが破れていることに気がついた。腹側に3か所、背中側に1か所大きく亀裂が走っている。それらの繕い方を考えながら、太宰府はワンピースの汚れをできるだけ落とすよう努めた。
数分後、ワンピースの汚れ落としは完了した。やはり泥は濃く残ったが、これが限界だった。比較的汚損の酷くない衣類を入れた洗濯機を稼働させる最中、シャワーの音が止んだ。そろそろシャワーが終わると察した太宰府はタオルハンガーに掛けてあるバスタオルを引っこ抜き、洗濯機に上の重なった衣類の上に乗せ、洗面台の小物置き場に髪を留めるためのピンとゴムを乗せた。そしてそれらの旨を扉越しに伝えると、ワンピースを掛けておいたハンガーを持って脱衣所を後にした。
それからまた数分して、リビングで本を読んでいた太宰府の耳にガラガラガラという音が聞こえてきた。きっと北川辺のものだろう。湿った足が床に引っ付き、剥がれる音がリビングに向かってくる。そして随分と高い体を屈ませて、廊下からリビングへ入った。
「シャワー気持ちよかったです。ありがとうございました」
「それはよかったです」
その様子に太宰府は衝撃を受け、返事の声は揺らいでいた。初めて会った時から、彼女の背が高いことは重々承知しているつもりだ。同時に、これは最初に見上げた印象の強さから生じた過剰な評価だとも思っていた。だからせいぜい身長は165cm程度だろうだなんて考えは甘かった。誰がどれほど低く見積もっても、彼女の身長は170cmを下回りえない。彼女は、太宰府が今まで見てきた女性の中でひときわ背が高かった。
そうとなればもちろん太宰府の服も北川辺には小さい。Yシャツの袖からは腕に浮き上がった橈骨と白い手が姿を見せ、スカートからは細い太ももがはみ出ている。
そしてもう1つ、北川辺の容姿に特筆すべき点があった。それは髪型だ。切られることもなく伸び続けた髪は縛らないと鬱陶しいことこの上ないだろうが、一番毛量が多い後ろ髪は縛ることも編むこともしていない。それに対して耳の前の伸びた髪を前髪とまとめて二つ結びのように束ねている。そしてなぜか、左側の前髪だけ目が隠れるように調整されている。これは髪を結ぶゴムの高さが左右で異なることから意図的なものであることは間違いない。太宰府の記憶の中では、北川辺の左目やその周りに目立った特徴はなかった。切り傷や火傷のような怪我の跡もなければ、目つきが悪いわけでもない。太宰府の目には、明るい雰囲気の北川辺の中で隠された左目だけが暗く映った。