20.突発性嘘松
2人は改札を抜け、朝日を前面に受けながら電車を待つ。中高生や労働者として鉄道を利用する時間には些か遅く、自分たちの横も向い合わせのホームも適度に混んでいた。その間、朝日を避けるように線路の石の群れを眺めて、太宰府は朝からの会話を回想していた。自分にこびりついた思想のこと、肯定を求めてした質問のこと、印西と自分に奇妙な縁があると打ち明けたこと、出会い頭に挨拶を交わしたこと。気を逸らすためにもそれらを頭の中で機械的にグルグルと繰り返している。そうしている内に1つ気になる点が現れた。それを訊こうと顔を上げた瞬間、プラットホームにアナウンスが響いた。向こう側のホームの時計を見ると、丁度到着予定時刻の1分前だ。
朝日を遮ってやってきた車両に2人は乗り込み、少ない中で目についた車内の2人掛けの座席に座った。嬉しいことに東側の席だ。
「印西さ――」
「おいそこの!」
太宰府が印西に、さっきの気になったことを訊こうと口を開いた途端、割り込むように怒号が飛んできた。
予想外の声量に2人とも、一瞬体が強張った。同時に車内も水を打ったように静まりかえる。そして2人で顔を見合わせると、窓側の印西にはこちらを向く男の顔が見えた。茶色く日に焼けた、皺の入ったおじさんだ。
「穏やかじゃないですね」
溜息混じりに言う太宰府を、その男は見下ろす。眉間に皺を寄せ、むすっとした口の奥にくすんだ薄いクリーム色の前歯をちらつかせながら。
「お前だよ! そこの女!」
さっきよりも大きく、明らかに近づいた声に、太宰府は自分が標的にされていることを理解した。
「……な、なんですか?」
図上に聳える怒りの形相に、太宰府は思わず文字通り恐縮した。つい最近ガラの悪い連中に怪我を負わされたこともあって、腰が引けてしまうのは自然なことだ。
「そんなことも分からんのか! 全く最近も若いのは!」
男は弱気な太宰府に気が大きくなったのか、顔を突き出して怒鳴りつけた。それに伴って飛び散る唾に、太宰府は反射的に体を反らし、顔を逸らして目を瞑る。
「待っ、止めっ」
太宰府が半ばパニックになりながら反応するのを見て、男はさらに付け上がったのか癪に障ったのか、さらに怒号の勢いを増した。
「なんだその態度は! 年長者をなんだと思っているんだ!」
ほんの僅かにざわめきを取り戻した車内は彼の独壇場かに思われた。誰もが彼の言動に気圧され、忌避し、関わることができない。
そんな中でただ1人、動いた者がいた。
「とりあえず落ち着いてください」
立ち上がりながら語気を強めてそう言い、印西は太宰府に被さるように上体を突き出して男と向き合った。
「なんじゃその言い草は! 敬語使えや敬語!」
印西が割って入れど、男の勢いは依然落ちる素振りを見せない。話が通じそうにない相手で嫌気が差し、印西は溜息をついてから声を張る。
「とにかく要件をお話ください!」
「おう……、こいつが席譲らねぇんだよ!」
予想外の反応に男は戸惑ったものの、すぐに盛り返して言葉を続けた。
「なにか急を要することがありましたか? そうは見えませんが」
「んなもんあるか! 若者は立て! だいたいこんな不健康な身なりなら、立っている方がいいだろ!」
自分勝手な理論で、男は座っている太宰府を糾弾した。
「例えそうだとしても、それとこれとは別問題でしょうが」
理解不能な相手の主張を前に、印西は説得は不可能であることを悟った。しかしやり過ごすためにここで席を譲るのも、それはそれで相手の主張を認めたようで癪だ。そうであるなら、乗務員に介入してもらう他ない。とりあえず、相手に吞まれないためにも自分に言い聞かせるように言い返した。
「こんな風にずっと下向いて黙って、人に迷惑をかけるな! とっとと立って席を譲れ!」
印西に反抗されたせいか、男は苛立ちを増しながら矛先を太宰府に移した。この言葉が太宰府のなにかに触れたのか、急に彼女は座席の肘掛けに手を乗せた。
「立たないでいいですよ」
太宰府の手を制しながら印西は言った。
「でもこのままだと他の人の迷惑にもなりますし、私がここをどいた方が……」
「それだとあの人が隣になるので嫌です。目的地で降ろしてくれなさそうですし」
できるだけ男の耳に内容が届かないよう、潰れたような低い声で印西は太宰府を説得した。その間だけ、束の間の静けさを取り戻した車内では、同様にヒソヒソとした声がそこかしこから聞こえる。そのコソコソとした様子が男の逆鱗に触れたようで、彼の怒気は一層高まった。
「お前みたいに暗くてとろいような奴は人に迷惑ばっかかける! そのくせ人一倍恨みは抱えるんだからどうせ犯罪者になるんだ! 藤原だっけか、そんな風に女を殺して回ったやつがいたよな! お前だってそいつと同じように生きてて人の役に立てないんだから、少しぐらい慎ましく生きたらどうだ! みんなそう思うよなぁ!?」
男は俯いている太宰府に向かって曲げた腰を上げ、首を回しながら周りの客に問いかけるように怒鳴った。その姿は気持ち悪いほどに純真であった。自分の理論になんの疑いも持たず正しいと信じている。そう読み取るに難くない病的に無垢な振る舞いを、男はしていた。
それに伴って、車内は完全に硬直した。この空間の中にある動きは、車両の揺れによる重量感がありつつも軽快な音と震える朝日、そして小さな太宰府の嗚咽だけだ。
「酷い決めつけですね」
いつになく悲しそうな声でぼそっと印西は呟いた。俯き気味の彼の表情に悲しみが浮き出ていることは、誰も知らない。
「あ? お前には訊いちゃいねえよ!」
それが悪態に思えたようで、再び男は印西を怒鳴りつけた。
「お兄さん、アンタは正しいよ」
前の座席からゆっくりと女性が立ち上がり、印西を諭すように声を上げた。それと共に、太宰府の首も少しだけ持ち上がった。その女性の声に聞き覚えがあるからだ。
「……」
想定外の加勢に、男は黙るしかなかった。しかしそんなことはお構いなしに、女性は男に強く問う。
「一体なんの根拠があってこの娘を犯罪者予備軍だとか迷惑者だとか言ってんだい!?」
「それは……その……」
自分が信じていた味方が反旗を翻し、男は衝撃で呂律が回らなかった。それに対して女性はまるで写し鏡のように、さらに勢いを増す。
「この娘はねえ! 身寄りのない娘に服を買ってあげたり、住まわせてあげたりしてるんだよ! そんなこの娘を犯罪者呼ばわりするなんてねえ! 私が許さないよ! ほら、私に賛成する人は拍手なさい!」
女性の堂々とした演説を聞いて、真っ先に印西は拍手した。それが伝播しまた1人、また1人と拍手が増え、最終的に車内は喝采で満たされた。
「チッ!」
ようやく自分の主張が誰からも受け入れられていないことが分かったようで、男は大きく舌打ちをし、ずかずかと隣の車両へ移っていった。
「まーた嘘松みたいなことしちゃったねぇ」
女性は男の背中を見ながら、照れを含んだ声で小さく笑いながら言った。
「助けてくださりありがとうございます」
「虹井さん、ありがとう、ございます」
2人は口々に謝意を述べた。太宰府の方は未だに涙が止まらず、途切れ途切れだった。
「とりあえず、涙を拭きましょう」
印西は太宰府にポケットティッシュを手渡した。虹井は、それを用いて太宰府が涙を拭くのを見届けて、軽い口調で話し始めた。
「いいってことよ。むしろあそこまで黙っていたのが申し訳ないくらいだわ」
「あのタイミングで、誰かが出てこなければ解決しませんでした。本当にありがとうございます」
「たまたまなんだけどね」
虹井は与えられた謝辞に照れ笑いを浮かべていた。しかし急な車両の揺れによって、印西たちの視界から座席の向こうへ消えていった。それが恥ずかしかったようで、座席の隙間から赤くなった耳が見える。そして二度と彼女が話しかけてくることはなかった。
それから30分ほど電車に揺られていると、目的の駅に到着した。最後に改めて虹井に礼を言い、2人は車両を後にした。
小さな林と低木の街路樹に挟まれた道を、2人は歩いていた。青々とした自然のせいか、乾ききっていない露のせいか、吹き抜ける風からは肌寒ささえ感じられる。
さっきまでは知人もいて訊くことをためらったが、今なら問題ない。太宰府は30分前の疑問を解決しようと話しかけることにした。
「そういえば、なんで『知人を殺されたよしみ』を理由に質問したんですか?」
「単純な親切心のつもりです」
「でも、私の悩みに関係があるなんて知らなければ、わざわざそんな過去を掘り返すことはないと思います」
いつになく食い下がってくる太宰府に、印西は次の言葉を考える。しかし、どうも良いハッタリが思いつかない。
「北川辺さんが死んでいることも、知っていましたから」
「……」
印西は取り繕うのを諦めて、少しだけ真実を話した。その内容が思い出したくないことだったために、太宰府は悪いと思いながらも沈黙してしまった。